Essay

エッセイ・連載

第24回 「芸術マーケット」の急速な縮小がひたひたと迫っている実感-受取価値に「顧客幸福度」が求められる時代背景が見えてきた。

2021- 「人間の家」の劇場経営をナビゲートする。

2025 年 05 月 26 日 (月)

文化政策/劇場経営アナリスト 衛 紀生

想定を超えた家計の困窮と、社会的孤立と孤独への地滑り的リスク

ゴールデン・ウィークの過ごし方のマスコミの事前調査で、宿泊をともなう旅行を計画している割合が極端に少なくなっていました。かつて「安・近・短」という言い方がありましたが、今年のGWの過ごし方は「安・近」で短期間の旅行に陰りが見えているのかな、と感じていました。可処分所得の減少と円安等による物価高と光熱費の高止まりの影響がジワリと消費者性向に出始めているとの感想を持っていました。我が家では、私が東京に戻ってから、GWに鉢植えの花木や野菜を購入するのが年中行事のようになっていて、JA直売所の三鷹緑化センターに出掛けます。その前に近隣の深大寺に立ち寄って、深大寺そばを手繰る流れになっていますが、今年は深大寺の光景が一変していました。GWのみならず夏季休暇のお盆時季にもいままでまったくなかったのですが、武蔵境通りを左折して深大寺通りに入る交差点までおよそ400メートル強、神代植物園のバス停あたりから渋滞していたのです。こんなことは初めてのことでした。歩道は原宿の竹下通りほどではないにしても、自宅の最寄り駅下北沢駅周辺の休日の混み合いでした。行き付けの蕎麦屋には砂利を引きつめた前庭を活用した駐車場が6台分あるのですが、一台分しか空いておらず、かわりに通常は見かけることのない自転車が10台以上とめてありました。そのほとんどがママチャリで、なかにはチャイルドシートを装備しているものもあって、比較的近隣からの客が多いと直感しました。「安・近・短」のうち「短」さえも計画に入らず「安・近」だけのGWが庶民の実際なのだと実感させられました。蕎麦を諦めて帰途に通った三鷹緑化センターも警備員が「満車」の案内看板を入り口で掲げていました。マスコミ報道で都市部・観光地で高騰する宿泊料金を避けて、「安・近」傾向のGWは予想していましたが、目の当たりにすると、想定を超えた変化に軽い衝撃を受けました。はからずも庶民層の家計の逼迫の度合いを知ることとなりました。「短」が選択肢から排除されてきた推移から、箱根のようにリゾート地を再開発して高級ホテルを建設するか、M&Aで既存の宿泊施設を買収して、インバウンド需要に見合った高額の宿泊料金を設定しているリゾート資本は長期的な経営の持続継続性を考えているのか。或いは、完全に富裕層対象にシフトとしたディズニーランドのようなアミューズメント資本にも同じ印象を禁じ得ません。可児に通い始めた頃には東京駅構内でも新幹線内にも、グッズを大きな袋に入れたディズニー帰りのファミリーを見かけることが普通の光景でしたが、当時はワンデーパスポートが6200円でしたが、2023年10月の1500円値上げは開園以来最も大きな値上げで、現在では10900円になっていて小人でも5600円です。実質賃金が右肩下がりになり、可処分所得の著しい減少で、ファミリーで出掛けられる層は少しずつ排除されています。つい最近、WYPのArts Development部の職員で、2002年に来日して札幌・金沢・東京でNPOが開催した「子どもたちの明日のために2002」のスクールツアリング・カンパニーのステージマネージャーを務めたイザンヌ・モートンから「ロンドンの劇場チケットの値段はとんでもない値段、まあまあの席でも150ポンド(約28500円)、劇場や芸術は贅沢なものではない」という彼女の危機感を綴ったメールが届きました。日本でも同様なことが起こっていて、「八代目菊五郎襲名興行」を観に行った妻から二階席前列の一等席の23000円の値段を聞いて驚きました。私が毎月の御社日に招待で観ていた頃は、15000円か13000円ではなかっただろうか。歌舞伎、ミュージカルは言うまでもなく、ここ数年では現代演劇のストレートプレイでも10000円を超えるものまで出て来ています。赤字を出すわけにはいかないので、価格政策はどうしてもコスト積算型になりますが、せめて公立施設である劇場音楽堂だけは税金が投入されているのだから富裕層ビジネスになることは絶対に避けてほしいと願うばかりです。

小田急線の遅延運休頻度への違和感。人身事故の自殺率は63%

東京の我が家の最寄り駅は前述したように下北沢で、小田急線と京王井の頭線が交わっています。2020年5月に14年間務めた可児市文化創造センターalaの館長を辞して下北沢に帰ってきました。緊急事態宣言が発出され、空席だらけの新幹線で東京駅に降り立ちましたが、何か駅全体によそよそしい空気があって、それが「三密回避」のせいだと即座に感じました。街には飲食店やマスクをしていない人を誹謗・中傷するいのちを人質にした「偏った正義」を他者に押し付ける「自粛警察」が頻繁に横行出没していて、嫌な空気が充満していました。国際共同製作の舞台中止の帰途、アムステルダムからの直行便がなくて、しかしトランジットで3時間を費やしたパリ・ドゴール空港の張りつめた緊張感は到着した成田空港にはなくて、いささか肩透かしを食らった時と、東京駅の空気はまったく違っていました。「コロナ禍」は日本社会の「現在」を白日の下に晒しました。いま自分たちがどのような社会に生きているのかの鳥観図が、コロナの強い光によって隅々まで照らし出されて浮き彫りになりました。そして、東京に戻った直後はあまり気にはしなかったのですが、しばらくして明らかに小田急線の「人身事故」での遅延運休の頻度が以前に比べて急増していることに次第に違和感を持つようになりました。あるいはこれは「コロナ」という変数が強く影響しているのでは、と思うようになりました。

調べてみると、首都圏ではJRを除くと小田急線と京浜急行線の「人身事故」がコロナ禍で増えていて、小田急線はコロナ終息期の2022年にいったん減少に向うのですが、2023年にはコロナ禍の数値に戻り、2024年には前年の2倍の数値になっています。今年はまだ始まったばかりだというのに既に8件を数えています。加えて、池袋を始発とする東武東上線が小田急、京急を凌駕して異常な件数となっています。小田急線の「人身事故」が目立って多いのはSNSでも多く投稿されていて「ホームドア」の設置の遅れが原因ではないかとの意見もありますが、統計をさらに精査すると発生場所は「駅構内」はゼロで、すべてが「駅間」になっています。コロナ禍の「人身事故」の遠因は、「三密回避」で全否定されていたつながり回避の息苦しさと救いのなさがあったことも考えられますが、アフター・コロナのこの数値の背景には、経済的な行き詰まりがあるように私は受け取っています。全国統計によれば、人身事故のうち自殺は63%になっています。小田急沿線は、下北沢、経堂、千歳船橋、祖師ヶ谷大蔵、成城学園前あたりまでは、戦前は田畑と武蔵野の面影のある林間のある田園でしたが、戦後は宅地開発されて多くの中間層の家屋が建てられました。60年代の小学生の頃に自転車で遠乗りすると、記憶している風景がその度に変化していいて戸惑うほど多くの中間層の家族が移入してきていました。そのような経年の変化を目にしてきた私は、小田急沿線は「中間層のまち」との先入観があります。それにしても、ここ数年の遅延運休の頻度には強い違和感と危機感を覚えています。

1998年に英国を訪れた時、サッチャー政権後の新自由主義の影響による「中間層のアンダークラス化」で、劇場、コンサートホール、美術館に来る人が著しく減少して、英国芸術評議会が旗振りをして鑑賞者開発の大キャンペーンを展開していました。いわゆるサッチャリズムの後遺症である貧困、失業、犯罪、健康阻害、家庭崩壊等による格差拡大と、それに伴なって生じた「中間層のアンダークラス化」による生活環境の劣化です。その処方箋として鑑賞者開発キャンペーンが大々的に実施されていたのです。私の先のGWの光景と小田急線の運休遅延の頻度への「強い違和感」は、日本社会の階級化がゆっくりとした地滑りを起こしているのではないか、との漠然とした考えが脳裏を過りました。あくまでも私が物事や事象を考える時の習癖なのですが、小田急線で頻繁に起きる遅延運休の裏には何が隠れているのかを探求したい気持ちが突き上げて来ます。この習癖は、大学時代に3ケ月半の長期入院を余儀なくされた折に、近くのいまにも倒れそうな木造平屋の古書店で買った松永伍一さんの『底辺の美学』を耽読したことに始まっています。早稲田大学に入り、学生劇団の雄と言われていた劇団自由舞台に入団して、ご多分に漏れずにサルトルやカミュを必読書として読み、またマルクスの科学的なロジック展開に魅かれていて、いわゆる「マルクス青年」になりかけていたときに『底辺の美学』に出会いました。松永伍一さんの子守歌や間引き、人知れず底辺に生きている人々へのまなざしから立ち上がってくる埋もれ火の強かさ、変化への情念と「レジリエンスで身を守る創造性」に強く魅かれました。静謐で科学的なマルクスのロジックより、体温のある、埋もれ火のような情念に変化の可能性を感じたということだといまでは思っています。

「エンゲル係数」は28.3%、43年ぶりの高水準が意味する社会

そのようなとりとめのない妄想を巡らせているうちに、先日読んだ「2023年度の引き取り手がいなくて自治体が火葬した遺体は42000になった」との記事が脳裏をよぎりました。に浮上してきました。小田急線で頻発する鉄道自殺者は誰か引き取り手はいるのだろうかと考えました。この記事は「孤独死」に関するデータで、「つながり」が全否定されたコロナ禍で社会課題視されましたが、「孤独死」自体は1996年の「労働者派遣法」の改正で対象職種を段階的に拡大した以降、90年代後半から問題視されていました。解決しなければならない社会課題は「貧困」です。この「貧困」は経済的な事情に限らず、「つながり」の中で人間の生きる意欲に関わる課題です。言うまでもなく、経済的困窮が背景にあるのは確かです。エンゲル係数が1981年以来、28.3%の高水準となったことは異常気候と物流費と人件費の価格への転化による食料品の急激な値上げによるものが大きく影響しています。43年前の1981年は、当時の政府による「労働経済の分析」によると、民間主要企業の賃上げ率は81年が7.7%、82年も7.0%でした。3年後に米国の貿易赤字を削減するためにG5の協調介入でドル高是正のための「プラザ合意」があり、日本車がハンマーで叩き壊されるニュース映像がたびたび流れた頃です。日本の経済事情は順風満帆で、賃上げも、当然ですが高率になされて消費意欲もそれにつれて高まった結果のエンゲル係数の上昇でした。しかしながら、昨今のエンゲル係数の上昇は、食料品費と外食費の支出額の割合が2005年に23.7で底を打った後、一貫して上昇傾向を示していて、すでに「20年間」、真綿で首を絞められるように食事にかけられる家計の金銭はゆっくりと絞らざるを得なくなっています。現下の「貧困と困窮」の正体は此処にあると私は考えています。家賃と光熱費の支払いに窮し始めて、食費を切り詰めなければならなくなり、とりわけ高齢者世帯は住宅の確保と家賃支払いからの窮乏圧力が強迫的にあります。窮迫は短期間にまたは瞬間的に梯子を外されるのではなく、まさしく真綿で首を絞められるように時間をかけて生活を窮地に追い込んでいます。

それは勘ぐり過ぎだろうとの意見はあろうかと思いますが、私のような組織経営の最適性と持続継続性を最重要と考えている者には、日常に身を委ねていては到底務まらないとの持論があります。日常に身を没していては些細な変化を気にとめることが出来ないからです。ましてや「社会包摂型劇場経営」を掲げている文化施設の経営責任者にとって、地域社会に生じたわずかな波紋にも、風のそよぎにも、その裏に隠れている社会的な要因や人の心の揺らぎを感受して経営戦略と戦術に結実させることが求められます。「芸術監督」は東京に居住せず当該地域に住まなければならないとの持説を私が90年代から頑なに言い続けているのには、そのような微細な市民の生活感の変化にこそ経営戦略立案の糸口と、それを実現するための戦術策定のキモがあると思い続けているからです。芸術監督の能力を活かして「一流の演奏」と「秀逸な舞台成果」の鑑賞機会を供給してさえいれば公立文化施設の社会的価値の十分条件を充たせるとは私は思っていません。

「貧困の定義」を検索すると「貧困とは単純にお金がある、ないという経済的な側面だけでなく、人間として享受すべき教育や医療などの社会サービスが受けられない状況も含めて多角的に測られるべきものです」とあります。いわば「社会的な貧困」こそが人間から希望や夢を根こそぎ収奪してしまうのだと、私は思っています。最近上梓した書籍のタイトルにある「人間の安全保障」とは、WHOの「健康の定義」にある他者とのつながりを含めて「社会的にもすべてが満たされた状態」を指しています。近年の言葉であらわせば「社会的孤立と孤独」こそ私たちが何としても回避すべき生活環境なのです。

上記の「貧困」の総合的な定義に沿うと、私は戦後すぐの1947年(昭和22年)生まれですが、近年ほど「貧困」がリアリティを持っている社会はなかったのではないかと感じています。50年代から60年代初めまではほとんどの人が困窮していましたが、「みんなが貧困」「誰もが貧困」の時代でしたが、それは経済的な意味での貧しさであって、社会的にはコミュニティは網の目のように張り巡らされていて共助社会は機能しており、大変豊かな時代だったと今にして感じていますし、回想します。現在の社会は格差社会というより、その多様な格差が固定化してしまい、まぎれもなく階級社会に移行しているいると、私は考えています。所得の偏在を意味する「相続階級」という言葉が生まれてきた背景には、格差の固定化があると思っています。最近ではあまり話題になりませんが、累進課税の利他的民主志向が機能していないことを物語っています。日本の累進課税 制度が適用されるのは、「所得税」「相続税」「贈与税」の三種ですが、「相続階級」はそれらが機能していない非民主的社会への地滑りが起きていることだと私は受け止めています。

日本も「階級社会」に踏み込んでいるのでは?アーツの本質的な価値に触れた

にもかかわらず、コロナ禍以降にすっかり多くなった給付金、あるいは教育無償化、高額療養費等の制度では「所得制限」を設定する政治がまかり通っています。「所得制限」は総合的な格差を拡大して国民の「幸福追求権」を定める憲法13条に明らかに齟齬をきたすと、私は考えます。政治とは、もっとも脆弱で弱い立場の国民に寄り添う制度でなければならないと常々考えています。政治家は目線をもっと下げなければ国民の大多数に寄り添った施策を立案発出することは出来ないと強く思っています。たとえば、給与所得控除額の上限は850万円で、国の定める高額所得額は「850万円」ということになります。2025年の国民負担率は45.8%ですから、可処分所得額は460万7000円でしかありません。これで「高額所得者」でしょうか。また、家計金融資産における高齢者の保有が、2024年年6月末時点の家計金融資産(2212兆円)のうち、6割にあたる約1400兆円を占める状況を指摘して現役世代との分断を結果する論調がいかにも公正な正論のように無神経に拡散されています。これはごくごく一部の超富裕層の莫大な金融資産が総額を押し上げているだけで、圧倒的多数の高齢者は働くことで年金を補填しなければ生活が成り立たない状況に追い込まれています。前述したように、最近では「相続階級」という新語まで登場しました。これは、日本の階級社会化が加速度を増して進んで、しかも固定化に向かっていることを意味しています。

私はサッチャー政権後に起きた「中間層のアンダークラス化」と同じ現象が20年間という時間を経て、日本でもゆっくりと進んできて、いま坂道を転がるように加速度を少しずつ増していると感じています。その加速に眩暈を覚える前に、国を挙げて対処しないととんでもない事態になってしまうとの危機感を持っています。年金生活者が主食の米を買えない社会というのはどう考えても健全とは言えません。孤独死、自殺というと、どうしても高齢者にフォーカスされますが、15~39歳の各年代の死因は自殺が最多で、がんなどの病気や不慮の事故を上回っています。世界保健機関(WHO)の資料によれば、15~34歳で先進国の死因1位が自殺なのは日本だけです。私たちが社会の微細な変化を等閑視していた20年のあいだに事態はすでに深刻化しているのだはないだろうか。「中間層のアンダークラス化」は、自覚するとしないにかかわらず、雪崩のように加速度を上げて私たちの日常生活を覆いはじめています。

サッチャー政権のサッチャリズムによる「中間層のアンダークラス化」が、WYPを初訪問した時の英国芸術評議会主導の鑑賞者開発の大キャンペーンの対処策であることは即座に理解しましたが、インタビューをした劇場のエグゼクティブの職員が異口同音に「将来の社会不安を回避する」「将来社会の治安への危惧」との発言をかならずしていたのですが、社会データを分析してエビデンスに基づいたコミュニティ・プログラムを年間1000回も、連日アウトリーチしているアーチストやスタッフに目と心を奪われて、そのエグゼクティブの言葉がすぐには腑に落ちませんでした。劇場、音楽ホール、美術館の鑑賞顧客の基数が大幅に減少したのはサッチャリズムによる所得減少に依るものであることは即座に理解できたのですが、年間1000回もの高齢者・子ども・障がい者、ドロップアウトした若者、移民集落等を対象とするコミュニティ・プログラムを実施して、約20万人の市民がアクセスしていることには驚嘆し、耳目を奪われていました。しかし、「将来の社会不安と治安不安」のリスクヘッジとして盛んにエグゼクティブ職員から発せられる社会的使命感には実感は持てずにいました。なぜ直ちに腑に落ちなかったのかを、いまになって振り返ると、成果として上演されている舞台の品質の高さと、当時のアーツディベロップメント部が展開していた年間1000のプログラムとの関係に考えが及んでいなかったからだと考えます。時代を追ってソフィスティケート(洗練・巧緻)された実演芸術の質にどうしても目が行ってしまうが、「アーツの本質的価値」とは、アルタミラ洞窟や盆踊りや神事芸能である神楽のように、宗教的、信仰的なコミュニティの一体感や身を守るための地縁・血縁・利縁の紐帯を維持強固なものとするため招魂や鎮魂によりその箍のゆるみを補強する、社会的役割を指すのではないか、と私は思っています。

サッチャリズムは確かに規制緩和による自由競争の経済が活性化して短期的には「英国病」を克服したと評価できるとしても、資本主義の利己的な解釈による歪みにより、その代償として失ったものはあまりに大きかったと言わざるを得ません。自由競争に付いていけない人々は貧困に陥って、実力主義のため、持てる者と持たざる者の格差が広がり、何よりも健全な社会を担保する社会保障費を激減させたため閉塞感が社会に蔓延します。サッチャーの当時の雑誌での発言である「社会なんてものは存在しない(there is no such thing as society)」が物語るように、英国の社会福祉政策を全否定して、さらに自己以外の人たちとのつながりあう「社会」をも彼女はここで全否定しています。これは人間の孤立を是認することを意味します。GDPの観点からは「英国病」は克服されたかもしれませんが、自死者のみならず、「拡大自殺」とも言われる通り魔的に他者をまきこむ犯罪が多くなることは必然となります。GDP信仰は経済至上主義を拡散して、自己中心的な考えが社会通念となり、倫理観や道徳観は著しく後退して閉塞的で息苦しく、生きにくい社会が現出してしまいます。WYPのスタッフが異口同音のように言っていたことは、体験的にこのことを言っていたのだと私が気付いたのは非正規労働者が急増した2000年代に入ってからでした。

近著『人間の安全保障としての文化芸術』は、その危機感と憤りが推進力となって、利他的な社会を構築するために、愛好者の趣味・嗜好だけに過依存している劇場音楽堂と芸術団体のマーケットをトランスフォーメーションすることを企図して、宇沢弘文先生が提唱した社会的共通資本としての、すなわち「コモンズとしての公立劇場」を戦略目標として、それを現前化させるための戦術を書き綴ったものです。私はサッチャリズムの政治経済政策を勇往邁進させたサッチャーの「社会なんてものは存在しない」という発言よりも、パンデミックへの対処を誤った世界を俯瞰して、次のパンデミックに備えるための社会構築を提言したジャック・アタリの「ポジティブな社会の実現の鍵になるのは利他主義である」という、『命の経済』での記述の側に立つ人間です。『人間の安全保障としての文化芸術』は「公共」の意味と意義を踏まえながら、文化芸術の内包する社会を進化させる多様な価値と効用への確信と信奉を心柱として書き下ろしています。新自由主義経済による「競い合い、奪い合う」ことで生じてしまった「弱肉強食社会」、優勝劣敗の「社会的ダーヴィニズム」という生きづらさと生きにくさを生じさせている社会の歪みと病理の処方箋として書き下ろした一冊です。利他的な生活姿勢は、循環して自己利益になり、究極では自分自身を守る価値観や生活信条となります。究極においては合理的利己主義に結び付く行動です。私が14年間のアーラ館長時代に人間として成長できた経験値です。私自身の成長と軌跡をいつにしてアーラも少しずつ進化したと、私は回想します。ジャック・アタリがコロナ禍で発したメッセージです。日本語にも、「相見互い」、「お互いさま」という生命の維持に連なる「つながりの作法」をあらわす言葉や、互助でつながってコミュニティと人々の生命維持をはかる利益の共同分配を意味する方言が「もやい」のように死語とならずに言い伝えられています。その意味にもっと分け入るべきではないでしょうか。私は館長を務めている時に職員研修は、何千語、何万語を費やすより現場で彼らが何を受け取るか、受け取ってどのように咀嚼して血肉にするかの方が実効性はあると言い続けていました。近著は「タイパ・コスパ」のような利便性や即時性に価値を見出す社会ではなく、手間も時間もかかるが「つながりの構築」、すなわち利他的な生活姿勢に向かうことこそ「人間の安全保障」なのではないか、との私からの社会への問いかけです。社会的互助性の再評価であり、価値の見直しと言っても良いでしょう。

「顧客満足」から「顧客幸福」への受取価値の転換は時代的必然を意味している

「競い合う・奪い合う」という利己的な価値観が社会に敷衍して人間の意識を覆いつくしてすでに半世紀もの時間が経っています。世界を席巻し尽くしたと言っても良いでしょう。それによって起きている社会の歪みに対して、これを是正しようとする動きもようやく始まっています。国際連合が提唱したSDGs、近年企業が積極的に取り組んでいるパーパス経営(社会的存在価値経営)やESG経営等がそれです。それらの動きは、地球規模の生命維持活動や企業組織の持続継続性を担保する理念・哲学としてコンプライアンスやセキュリティの意味合いを持っており、今日の企業組織の経営では非常に重視視されています。メディアの宣伝広告を見ても、常識化していると言っても過言ではありません。これまで書いてきたような時代環境の変化の中で、マーケティングで想定される受取価値の指標も大きく変わろうとしています。高度成長期が終わって80年代に入ると、価値観の多様化が盛んに言い募られてすべての顧客を同質とみなした「大衆=MASS」を前提として川上から川下に一方向的に大量に情報を流す広報販売手法への疑義が示されて、博報堂のシンクタンクが「分衆」という概念を提示したと記憶しています。自動車の販売においても、購入するオーナーが好みでパーツを選択して「カスタマイズ」する手法がとられるようになります。

米国のマーケット事情でも日本と同様な課題を抱えていて、それをブレイクスルーする概念提示として、無名のマーケティング・コンサルだったドン・ペパーズと若き研究者マーシャ・ロジャースの共著『THE ONE TO ONE FUTURE』が93年に出版され、大ベストセラーとなります。この種の書籍では珍しく、わずか2年後には日本でも『ONE to ONE マーケティング』の書名で刊行されています。この監訳を務めたのは、私が私淑していた当時慶応義塾大学教授の井関利明先生でした。井関先生が関わっていたということは「ONE to ONE」のマーケティング概念は、リレーションシップ・マーケティング(関係づくりマーケティング)のコンピュータがコモディティ化した時代を想定した関係づくりの発展形です。『ONE to ONE マーケティング』は95年に出版されました。Windows95と同年ですが、PCが一般化(コモディティ化)するのは、その3年後のWindows98が発売されてですから、館長エッセイに「インターネットを活用する三次元的・双方向性を持った生産者と消費者の関係を変えてしまう概念が登場し、まさに予言の書とでも言うべきリレーションシップマーケティング理論の登場」と書いたくらい想像を絶するマーケティング理論でした。さらに『ONE to ONE マーケティング』で強調されていたのは、シェア(占有率)を特定の地域やエリアでの社会概念ではなく、その顧客の生涯価値である「個人が一生の間にある分野に使うお金を分母にした占有率」に転換したことでした。そのために顧客の、個人属性に関する客観的で具体的な情報であるデモグラフィックデータ(年齢、性別、収入、学歴、職業)と、個人の価値観、興味、趣味嗜好、ライフスタイル、生活態度、性格など、より主観的で心理的な属性に関する情報であるサイコグラフィックデータをデータベース化して、必要に応じていつでも抽出できるようにしなければなりません。これは95年段階の日本ではSF小説の範疇でした。仮にこのデータベース・マーケティングの考え方とコンピュータ技術の開発が10年早ければ、むろん購入履歴もデータ化できるわけで、93年を嚆矢とする「チケットぴあ」は莫大な無形経営資源を持つことになっただろうと夢想してます。

時代環境と、それに連動した経営環境の変化は数次の「産業革命」のように大きな転換期を社会にもたらします。ここまで記してきた時代環境の大きな変化は、商品サービスを受け取った顧客の充足度を量る指標にも大きな転換をもたらしつつあります。消費者や顧客の価値観の多様化で、その実像が捉えどころなく明瞭に結ばなくなった時代背景が個客の「顧客満足度」という指標への訴求が高まった経営の転換点です。80年代に入って、消費者を同質的なMASS(集合体・かたまり)として捉える販売促進を大きく変えざるを得なくなったのです。その時機に、博報堂のシンクタンクの発した「大衆から分衆へ」の提言が一時は盛んに言われました。顧客の価値観の多様化に対して、強い説得力のある提言だったからです。

また、コロナ禍直前あたりからクローズアップされてきたパーパス経営(社会的存在価値経営)やESG経営が一般的な経営理念となった社会の大きな変化のプロセスで、「顧客幸福度」という指標が時代的な必然として登場してきます。顧客満足度は趣味嗜好・好感度等に依存して、それを顧客がどれだけ達成したかの商品サービスの供給指標ですが、「顧客幸福度」は人間としての生き方、社会との関わり方、他者との関わりに依拠する、とりわけWell-beingへの顧客の期待度達成プロセスの弁証法的進化の道程にどれほど踏み込めたかを意味しています。「他者を助けることに関心がある人たちは幸福度が高い傾向にある」(Individuals who report a greater interest in helping others are more likely to rate themselves as happy.)というアーラで開催された国際会議でのWYPのニッキー・テーラーの報告にあった、英国・ニューエコノミクス財団の2008年の報告書の一節です。利他的な姿勢が幸福感をもたらすという経済心理学(行動経済学)の「自己イメージ仮説」(自己肯定感を醸成するポジティブ心理学の知見でもある)に基づく知見の実証例です。ニューエコノミクス財団は、「私たちの地域を取り戻す」をウェブの1ページ目のバナーに掲げて、「私たちの仕事は、3つの中心的な使命を果たすことに専念しています」として「新しい社会的居住地」、「グリーン・ニューディール」、「民主経済」をミッションとして、ウェルビーイングに強い関心を持つ記事を掲載しています。サッチャー後の英国の社会を俯瞰した様々なキャンペーンと提言をしていて、好感の持てる団体です。最近では「地球幸福度」という概念までを提唱しています。ジャック・アタリの「ポジティブな社会の実現の鍵になるのは利他主義である」と期せずして通底していると思っています。

「いのちのプラットフォーム」としての文化芸術の社会的価値

「競い合う・奪い合う」という利己的な価値観がいかにも人間の欲望を全肯定して、常識的な生活姿勢のようになってしまった現在は、倫理的な価値観が著しく後退して、「良心なき欲望」と「倫理なき利己心」と「道徳なき蓄財」が世界を覆い尽くす病理に蝕まれています。「つながりの貧困」がはびこった結果、心の晴れるニュースはすっかり影をひそめる世の中になってしまいました。「つながりの貧困」は、利他的な心の働きが倫理観の後退とともに衰弱してしまったからだと私は考えています。「社会包摂経営」についての講演依頼で東北地方の文化会館にうかがった時に、Q&Aの時間になって、フロアの若い職員から「いまの自分さえままならないのに、どうして他人のために動かなければならないのか」との質問が出ました。非正規雇用の職員であることは容易に想像できたのですが、指定管理者制度施行以来の劇場音楽堂の雇用が急速に非正規化している制度の問題点を詳しく話すよりも、私自身の利他的な行動が、実は自分の仕事の使命の輪郭が明確になって、反作用として包摂型経営の職場で生きている意味が自覚できたことを話しました。加えて、生きづらさで苦しくなったら誰かに「助けて」と言えばよいと助言しました。それは決して恥ずかしいことではなく、「つながり」を創ることこそがWell-beingを担保する意味ですと伝えました。ジャック・アタリがNHKのインタビューで話していた「利他主義は最善の合理的利己主義」の私自身の体験談です。大阪大学の労働経済学・行動経済学の教授である大竹文雄氏も、コロナ禍での行動変容に関するオンライン調査を20歳~69歳の4241人にした際にも、「人間は本来利他的な性質を持っている」という従来からの学説に概ねそった集計結果であり、一部の利己的な回答は「自分は感染しない」という楽観バイアスによるものだろうとしています。

利他的であるということは、人間には「つながり」への信頼と希求が根底にあって、それこそが対自然災害であれ、対社会的圧力であれ、自分の生命を侵害阻害するものから自身を守るという、もともと人間のDNAによる生命力の根源にあるのではないか、と私は考えています。「つながり」とは相互依存関係の情理的発露であり、その体温のある「きずな」に私は真実味と真理性と普遍性を感じます。世界と時代が劣化した資本主義により変質している現代は、その不幸な世界と社会の現実へのアンチテーゼとして、企業と組織はより人間的で普遍的な真実と真理を取り戻そうとします。それがパーパス経営(社会的存在価値経営)やESG経営への傾斜と言っても良いでしょう。それは同時に、消費者の中にもそれを希求する姿勢が存在し、あるいはその胎動が現在進行形として無視できないものとなっていることを物語っています。人間的な成熟と成長と利他的であることの幸福感、つまり自身が社会に関わることからくる日々の生活の充実感こそが、「顧客満足度」から「顧客幸福度」への転換過渡期を形成していると私は考えています。まさしく「いのちの経済」です。経済の仕組みこそが社会を変革させるとするクリティカル・ビジネスのパラダイムチェンジの根幹です。米国型の資本主義の発展とマーケットの拡張プロセスは、カナダ出身の制度派経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの『豊かな社会』を分析すれば輪郭が見えてきます。むろんそこには原点として「欲望」や「希求」があるのですが、それを増幅して加速度的に拡張充実させるのは制度派経済学者ソースティン・ウエブレンの「ウェブレン効果」、それも微弱な「ウェブレン効果」を嚆矢として、その消費行動を観察した他者が変化させる「デモンストレーション効果」や「バンドワゴン効果」がさらなる拡張を生んで、「ネットワーク外部性」がそれを生きる術として心頼みにするように変化します。マーケットの構造とはそういう進化と進捗に依っています。これを私はかつて慶応義塾大学商学部教授だったサービス経済学の研究者井原哲夫氏の「身内意識」と「親密圏の概念から考えています。井原先生は「人間は身内意識を持てる相手を求めているようだ」と共感と共創による共有価値に触れて、「人間には『自己愛』の範囲を広げるところがある。(中略)『わがこと』のように喜んだり、胸が痛んだりする範囲が自己が広がった部分であり、これを『身内』と呼ぶ」として、別の著書には「愛は人間社会を形づくるうえできわめて重要な役割を演じていることが分かる。しかも、枝葉末節の影響ではなく、社会の骨格に強くかかわっているのだ」と言い切っています。私は社会が「つながりの貧困」を克服して、「つながり」を取り戻すために親密圏としてのマーケットを形成して、その「いのちのプラットフォーム」がすべての人々の生命維持のための懸け橋となることを夢想しています。むろんその社会的役割を担いやすい商品サービスは多々あるでしょうが、そもそも「つながり機能を社会的価値として先験的に持っている文化芸術は、その最右翼にあると私は認識しています。「いのちのプラットフォーム」、まさに「人間の家」としての親密圏たる集合体です。

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