第9回 不安と緊張のみなぎる空気が静かに覆っている社会。
2023年7月24日
可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生
【ウェブ連載のエッセイを再開するにあたって】
大学との兼務で非常勤館長として可児という町に来て、2007年5月5日に「可児に居を構えてそろそろ1ヵ月になろうとしています」という書き出しで始まった「館長エッセイ」を、館長を退く年の1月22日まで220回の長きにわたって連載して、可児を引き払って下北沢の自宅に戻って単身赴任にピリオドを打った2021年6月21日に新連載の『「人間の家」の劇場経営をナビゲートする』を気持ち新たに書き始めました。しかし、その再開した連載も、2022年5月29日の最後の脱稿から長いあいだ休止していました。その頃を前後に、90年代からの地域文化への関心と、アーラの館長を引き受けて「人間の家」と「社会機関としてのアーラ」を実現して、「全国区の劇場」とするために様々に設計した経営施策を、その都度書き留めておいたメモや走り書きを頼りに書き遺さなければとの思いに駆られて『人間の安全保障としての文化芸術-人間の家・その創造的アーツマーケティング』を構想し始め、2022年8月中旬から書き始めました。
80年代までの「演劇評論家」時代と90年代の「地域文化志向」の時代を通しての知見により、文化芸術の社会的価値と芸術的価値の好循環と、その相乗効果によって経済的価値の適正なアウトカムを導き出す「社会包摂型劇場経営」を提唱した可児市文化創造センターalaの「設計図」とか「青図」とかいう考え方のDNAを、たとえ僅かであったとしても次世代に引き継ぐことは、私がこの世に生を受けた意味であると考えました。66歳の時の軽い脳梗塞の後遺症で、歩くことが億劫になり始めていて、リハビリをしながらそれでも忍び寄る衰えを感じていて、前職が「物書き」であったことから、何かを書き遺そうと決意したのです。それが、批判的に継承されても、発展的に継承されても、演劇評論家として出発して劇場経営に辿り着いた半生を将来の芸術経営のための「叩き台」くらいにはなるだろうと考えました。
ところが、メモや走り書きが膨大で、とりあえず初稿を書き終えたのが、師走も押し迫った12月27日でした。土日もなく一心不乱に書き継いでも、4ヶ月半という時間を費やして43万字にもなっていました。年明けから推敲とページ数の制約からの大幅な削除と、説明不足の箇所の加筆を始めたのですが、推敲加筆は14回にもなり、2023年6月25日に版元の美術出版社に入稿しました。構想から1年2ヶ月、書き始めてから10ヶ月という、先の長くない後期高齢者にとって貴重な残された時間を冗費節減しなければならないのに、「何てこった」の1年2ヶ月でした。そのために新連載は長い休止期間をいただくことになりました。
上梓する『人間の安全保障としての文化芸術-人間の家・その創造的アーツマーケティング』の残す作業は、ゲラによる校正と仙台市青年文化センター時代から信頼している峯岸和男氏によるブックデザインの進行だけですので、ウェブ連載の『「人間の家」の劇場経営をナビゲートする』を再開することといたしました。「花よりも花を咲かせる土になれ」で、市民の生活を下支えする「土壌」となるための社会の変化の受け止め方やそのアンテナの張り方を書き継いでいきたいと考えています。今後とも、宜しくご愛読のほどをお願い致します。
第9回 不安と緊張のみなぎる空気が静かに覆っている社会。
「山手線“刃物騒動” 新宿駅パニック」の一報を聞いた時は、「刃物を所持している男がいる」と報道されて、それでは車内も駅構内もパニックになるだろうと納得して、それ以上は詮索することはありませんでした。その後、「通報を受けた警察官が現場に駆け付けると、6号車の座席に男性が座っていて、横に布巾に軽く包まれた状態の刃物が2本置いてあった」として、包丁の横に座っていた男性が「今日で勤め先をやめるから、包丁を持ち帰っていた」とのことで、 男性は「ちょっと寝てしまって、(包んでいた包丁を)落としてしまった」との事実が明らかになりました。ただ、パニックの最中に「刃物を振りまわしている」、「火をつけた人がいた」というパニックを煽る流言蜚語が拡散して混乱をさらに酷いものにしたという。そのパニックの様子を動画で撮影した人は「殺されるかどうかも分からないが、何が起きるか分からないので。そのまま、もし自分が死ぬってなっても、何か残したいなと思って、記録、スマホで状況だけでも、音声だけでも、残せたらなという形で、あんまり映ってはないですけど、記録を撮って残した」と証言しています。むろん、その前に小田急線と京王線での同様の事件があったことが伏線になっているとは言っても、「何があっても不思議じゃない」の社会を覆っている「漠とした不安」とその累積である「恐怖」と心を張りつめている「緊張感」の中で多くの人々が現代を生きていることに、私は違和感を強く感じました。
98年にスペインでの国際文化経済学会のあと、英国のリーズ市にあるウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)を訪れて、その多彩なコミュニティ・プログラムと、年間1,000という数と20万人がそれにアクセスしていると聞いて、当時の日本の劇場ホールの状況とのあまりのへだたりに驚愕すると同時に、「なぜ」という疑問が私の裡に湧きました。その頃、日本の劇場ホールで催行されていた「演劇体験ワークショップ」や「出前演奏会」とは異なり、WYPは半期ごとに分けているものの、通年で、しかも人件費や調査費に大きな予算をかけてそれらのコミュニティ向けのプロジェクトを実施している意味が、日本のように演劇や音楽に馴染んでもらった結果の「鑑賞者開発」を目的としてのプログラムと大きく違っていました。社会的インパクトと劇場経営とのあいだに経営的な整合性を見出せなかったのです。私の劇場経営の師である当時のWYP経営監督のマギーサクソンにその疑問をぶつけてみたところ「リーズ市に将来的な社会不安が起こらないようにする」という返答でした。ただちに腑に落ちる答えではありませんでした。それらのコミュニティ・プログラムが20年先、30年先のリーズ市民のWellbeing(幸福感と健康)に役に立つというのは、当時の私の「常識」では到底理解の及ぶ事業ミッションではありませんでした。
しかし、その前年に上梓した『芸術文化行政と地域社会-レジデントシアターへの提案』では、序章で「演劇は私的な欲求を充足させる財であると同時に、福祉、教育、保健医療、保育などの地域社会が抱える諸問題にかかわり、その解決のための媒介的役割を果たす社会的価値財でもあるとの認知を促して地域社会と行政に意識の転換を求める」と書いていて、マギーの言っている「将来的な社会不安」への対処である中長期的な展望を持った社会の「処方箋」と位置づけるコミュニティ・プログラムに通底する糸口には私も辿り着いていたと振り返ります。ただ、私も日本の公共劇場の大きな課題を解決するのは当時の日本の公共劇場の置かれていた環境から優先順位は「鑑賞者開発」と思い込んでいたので、マギーの説明がただちに腑に落ちなかったのだと思います。
「何があっても不思議じゃない」の日本の社会を覆っている空気は、四半世紀をかけて、ナノメートル(1mの10億分の1)単位の気付くにはあまりに微小な変化によって人々の心の中で醸成されたのではないだろうか。それは、「社会的な緊張」であり、わずかな刺激で不安の累積による「恐怖」に転化してパニックとなるのではないか、と先の報道をなぞって感じ取りました。あの日、車内や駅構内で起きていたことは社会への漠とした不安が醸した「マス・ヒステリア」ではなかったかと、私は思います。ちょっとした生き方の選択の誤差で貧困層に零落して再チャレンジする機会を社会構造的に得られない「新しい貧困」。高齢者と若年層、手っ取り早く金銭を手にすることが自分の将来に何をもたらすかを想像できない者たちによる「闇バイト」の横行など、先行きの不安からくる緊張を知らず知らずに強いられる社会に私たちは生きているのではないか、と私は抽象的に過ぎますが皮膚感覚で今は感じています。
「競い合い、奪い合う」社会と、その競争の敗者に容赦なく投げつけられる「自己責任」というあざけりの込められた面罵。新宿駅での一瞬で失われた平静と炎上した混乱に、私は四半世紀の長い時間の変化に晒されて劣化した社会と、その緊張感をともなう悲惨な環境で日々の営みを送らざるを得ない現代人の「惨状」とも言える姿を感じました。底の抜けた社会で、生きづらさと生きにくさを抱えながら生きていかなければならないと思った時に、マギーの言った「将来的な社会不安を回避する」がストンと腑に落ちました。それが、『芸術文化行政と地域社会-レジデントシアターへの提案』に書いた気づきだったと振り返りますし、その10年後に掲げた「社会包摂型劇場経営」には、その祈りのような未来に向かう気持ちが込められています。
そして、私が60年近くの長い時間を費やして関わってきた文化芸術が今の社会に向けて出来ることは何だろうか、との自問を館長に就任した時から10数年のあいだ繰り返して来ました。98年にWYPの活動と経営を見て、「こんな劇場とホールが日本に10か所あったら」という驚きをともなった憧憬と感慨を反芻して、そのベンチマークであるWYPに少しでも近付くことが私の生涯にわたる仕事となったのです。あの時の「こんな劇場ホールが日本に10館もあれば」という微かな希望の光は、リタイアした現在でも、いやリタイアしたからこそ輝きは私の裡で増しています。上梓する『人間の安全保障としての文化芸術-人間の家・その創造的アーツマーケティング』は、その遠い希望のほとばしりと言えます。仙台市青年文化センターで「劇都仙台」の全国発信の舞台プロデュースをしていた頃、まだ22、3歳だった才能のきらめきを感じて一緒に仕事をした若いデザイナー峯岸和男氏に、私の最後の仕事のブックデザインを依頼しました。キーワードは未来を築く豊かな「森」と、まち元気プロジェクトのイメージカラーである希望の「黄色」。アーラの仕事でも、どんなに難しい依頼も咀嚼して見事なデザインをしてくれた彼の熟達した能力に期待しています。