第20回 「芸術経営の専門家が不在」の指摘で、35年間を振り返る―芸術系大学の「アーツマネジメント教育」の偏向について。 

2024年6月9日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー 衛 紀生

1990年3月に、政府拠出の541億円と民間からの寄付金132億円からなる673億円を原資として、その運用益によって、芸術家及び芸術団体が行う芸術の創造・普及を図るための活動等を助成する「芸術文化振興基金」が創設されました。その2週間前には、社団法人企業メセナ協議会が設立されていて、その前夜とも言える1987年にはセゾングループの総帥と言うべき堤清二氏の私財によって財団法人セゾン文化財団が設立されていました。「アートマネジメント」(当時の表記)という言辞がそのような時代環境に入ってきました。あわせて、1998年に日米構造会議が開催されて「プラザ合意以降の円高ドル安の中にあっても米国の対日赤字が膨らむ要因は、日本の市場の閉鎖性にあるとして、「輸出につながる産業分野への投資より、公共分野に投資するほうが賢明」であるとし、日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求」して、10年間で総額430兆円という内容の「公共投資基本計画」を策定した結果として、90年代の「ホール建設ラッシュ」が始まりました。起債の認可が容易となって、その設置経費は元本とも地方交付税で手当てされて自治体の負担は実質16%程度であったから、いきおい当時は教育委員会が所管していた文化にその原資が流れて、適正配置とは言い難いほどのホールが林立することになります。竣工直後のオープニングは盛りだくさんの公演が行われますが、その後の資金手当ては充分とは言えず、ましてや自主創造発信のスキルの蓄積などないわけで、人口30万程度の中核都市であっても主に東京からの買い公演を福祉配給的に並べるだけの施設となります。しかも、杮落としが終われば閑散として、マスコミを含めての「ハコモノ行政批判」に晒されるのが相場という状況でした。芸術文化と国民との距離は広がるばかりと思いました。地方公演の場所が増えると歓迎する向きもありましたが、有識者からは「ハードはあってもソフトがない」との意見が盛んに発せられていました。この発言に私は強い違和感を持っていました。決定的に欠けているのは「ヒューマンウエア」だろうと考えていました。そのころ演劇雑誌『テアトロ』に地域の文化情報を『50―50(フィフティーフィフティ)』のタイトルで連載していて、1996年に加筆してまとめた『芸術文化行政と地域社会』でも、私は「ヒューマンウエア」の決定的な欠如を訴えています。

2015年の「社会教育調査」によれば、「地方公共団体、独立行政法人又は民間が設置する劇場、音楽堂等(劇場、音楽堂、文化会館、市民会館、文化センター等)で座席数300以上のホールを有するもの」と定義されている劇場音楽堂数は1851で、そのうち公立の施設は1749館となっています。

そして、アートマネジメントの専門人材育成の目的で、昭和女子大学に日本ではじめて専門科が創設されます。千葉大学工学部建築学科教授でのちに文化経済学会の会長も務められた建築家の守屋秀夫先生、文化庁文化部長であった渡辺通弘氏など錚々たる教授陣が揃い、当時はセンセーショナルな出来事だったことを思い出します。その後、次々とアーツマネジメントが高等教育課程に導入されます。90年代の「ホール建設ラッシュ」でどの程度の劇場音楽堂が設置されたのかは不明ですが、当然ですが、人材市場の拡大は必至ですし、大学側としてもその動向とニーズを把握して動いていたと考えられます。設置自治体へのヒアリング調査をしたことは想像に難くないですし、そのうえで専門知見をそなえた人材育成をする意思決定はされたと思いますが、おそらく自治体側としては行政のローテーション人事慣行を前提として答えますから、まったく未知の芸術文化領域の専門知識を具えた職員の雇用を求めたに違いないと容易に考えられます。そのことが実学としてのアーツマネジメントよりも、研究職に近い「芸術教養型」のカリキュラムに偏るカリキュラム編成になったのではないかと思っています。

私は演劇界で評論を40年以上生業にしていましたから、舞台芸術一般に関する一応の知見は心得ていましたので、阪神淡路大震災での復興期にはサービス経営に関する深掘りした才智と、それを応用して現場での顧客対応(リレーション・マーケティング)の即時性が強く求められると考えていました。2009年段階で、全国でアーツマネジメントを学科コース、履修科目、選択科目として設けている大学は46にも上っていました。ただ、のちに転載する2005年の宮城大学事業構想学部・大学院研究科の教員時代に文化経済学会誌『文化経済学』(第4巻第3号通算第18号)の巻頭論文『日本のアーツマネジメント研究とその実践における課題と問題点』で指摘しているように、総じて「芸術教養型」のカリキュラムであり、産業特性・サービス特性を踏まえたうえでの「経営管理型」のアーツマネジメントの実学型教育は傍流として扱われていたと言って良いでしょう。そのことに触れた「館長エッセイ」らは、少し長くなりますが次のように記しています。「いくら文化芸術が好きでも、文化芸術の知識があっても、人間との関わりあいの中で関係づくりや問題解決のできる能力がなければ、現場職員として何の役にも立ちません。劇場・ホールは人間関係の『るつぼ』です。複雑な応用問題を瞬時に解く人間力がなければ、仕事は一歩も前に進まないのです。(中略) 大学のアーツマネジメント教育の陥穽の解決策としてはインターン制度がありますが、現行のように二週間程度の研修では何の意味もありません。どんなに短期間であっても半年程度は現場に携わって、お客様の問題解決に対応するための新しい思考回路をつくりだすことが求められます。アーツマネジメントは経営学の一分野であり、必ずしも世界の事例を学習することや、前例を踏襲することではないのです。前例の『常識』を逸脱できる創造性と革新性が求められるのです」と、経営戦力になる人材を輩出するにはインターン制度の充実と、芸術経営に欠かせない業界内での人脈は就業後にみずから築くしかないと、私は現在でも考えています。芸術機関の職員社員は「研究職」ではないのです。福祉配給型に留まるのならまだしも、経営の前線で日々マーケットと向き合って「ソリューションを売る」実務に携わることが求められているのです。

現在は文化政策の再構築の時代環境となっています。劇場音楽堂と芸術団体への財政支援は安定的に継続しているものの、将来的な展望をアウトカムする政策成果がなかなか出ていないとの現状認識の下で「自走化」とか「自律化」がその目的の俎上に上っています。だからこそ、私は文化政策部会と文化経済部会の動向にセンシティブになっているのですが、その政策目的を実現するための処方箋たる政策立案には残念ながら至っていません。それでも、「文化振興のための第一次基本方針」(2002年年閣議決定)の「文化芸術は、芸術家や文化芸術団体、また、一部の愛好者だけのものではなく、すべての国民が真にゆとりと潤いの実感できる心豊かな生活を実現していく上で不可欠なものであり、この意味において、文化芸術は国民全体の社会的財産であると言える」と、第三次基本方針(2011年閣議決定)の「従来、社会的費用として捉える向きもあった文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要性に基づく戦略的な投資と捉え直す。 そして、成熟社会における新たな成長分野として潜在力を喚起するとともに、社会関係資本の増大を図る観点から、公共政策としての位置付けを明確化する」は国の文化政策をコペルニクス的に転回させたものと評価しており、その意味で、芸術文化の「社会的価値」をマーケットのパラダイムチェンジの重要なファクターとして一目を置いている文化経済部会の議論を注視しています。加えて、マーケティング、ブランディング、ファンドレイジング、ヒューマンリソース・マネジメント、イノベーション等の劇場音楽堂及び芸術団体の経営能力と、それによって起こす業界内常識をブレイク・スルーするアウトカムとしてのソリューションに着目している点でも、私はこの部会の協議内容の推移をウォッチングする必要を強く感じています。

なかでも佐藤主光委員(経済研究センター長、一橋大学大学院経済学研究科教授・専門は財政学・地方財政)は、良い意味で急先鋒であり、しかも個人的には面識はないが、発想に柔軟性ありとうかがえる思考回路から定点観測点としています。むろん、専門外ですから、各分野毎に異なる産業特性・サービス特性という制約や個別業界の財務事情と最新情報を勘案したうえでの政策提案は難しいのは承知のうえですが、委員の「常識に囚われていない学識経験者の即応性」は注視したいと考えています。学識経験者はご自分のアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)から離れられない傾向が強いので私は強く警戒するのです。「芸術水準の向上」という政策目的の指標として観客動員数というアウトプットを設定してするような迷走や収支構造を大きく変えるために「マーケットイン」という見当はずれな産業政策用語を援用するようなミスリードはせず、未来デザインを視野に入れて、ご自身も変化できる資質の持ち主なのではと推察しています。

5月9日に初会合のあった第4期文化経済部会に文化庁から提出された「令和5年度報告及び令和6年度の検討の方向性」には、「文化芸術活動が活性化するための活動基盤 ・マネジメント等の専門人材が文化芸術領域に参入する仕組み」、「運営マネジメント専門家による長期的な運営の視点を含め多角的・客観的評価の充実」、「地域経済、行政、開発等における文化芸術の主流化」等の経営知見に長けた専門人材の不在に関わる問題意識と、その課題解決を図ろうとする姿勢が透けて見えるものとなっています。これらの課題解決の見通しを何としても見出したいとの政策意志は、「自走化」や「自律化」を実現したいからなのは間違いないところです。稿を進めるうえで最初に断っておかなければならないのだが、昨年の文化経済部会第2回文化芸術カウンシル機能検討ワーキンググループの議論内で、委員からの補助は赤字補填かの確認質問らに対して事務方が「赤字補填です」と返していましたが、「赤字補填」の考え方は2012年度から経営努力による「自己収入の増加等のインセンティブが働かないとの問題」等により抜本的な見直しがなされています。簡略に申せば、稽古期間や準備期間の出費を対象として補助して、公演期間の売り上げは自己収入になるという見直しです。それだけに、マーケティング、ブランディング、ファンドレイジング、ヒューマンリソース・マネジメント、業界のソリューションを実現するようなイノベーティブな発想等の経営スキルの錬磨が求められるのだが、劇場音楽堂、芸術団体ともにその知見の深さに驚くことはまずない。第三次基本方針以降のスキームに従えば、補助金はいわばシードマネーであり、それをもとにしてコミットした事業成果をアウトカムする経営能力が厳しく問われるのです。たとえば、大手劇団であっても、俳優に支払われる労働の対償として劇団が俳優に支払う対価は、出演料のみです。昨年度佐藤委員の提出した「今後の文化芸術組織への支援の在り方について」という意見書には、「自治体と連携して『ふるさと納税』の制度を使った寄付金の獲得」との提案がありますが、財政制度等審議会財政制度分科会(2023年10月4日)の配布資料によれば、ふるさと納税の一般財源化検討が提案されています。現実として分野を指定しない寄附の割合も約4割を占めることから、ふるさと納税の一般財源化は普通に行われていると自治体の財政文法から推察すれば考えています。また、「成果の上がった団体には補助額の上乗せ(ボーナス)、成果が低い団体には補助金の減額・事業の見直し要請」といったインセンティブが必要」とのもっともと思う文言があります。実際、これで良いのだろうかと思える総合支援館と複数年採択の芸術団体は相当数あるのですが、とりわけ減額や見直しの勧告を誰がするのかと問われると、咄嗟には可能な人材と制度は思い浮かびません。経営における齟齬の説得力のあるエビデンスを示せるか、またアーツカウンシルにも専門委員にも、個的な信頼感はあるだろうが、対象となる機関との社会化された信頼関係があるのかと言われれば、いささか心許ない。

そのような政策立案と補助金の適正化が協議されているにも関わらず、劇場音楽堂や芸術団体で、産業特性とサービス特性という制約を踏まえながら「経営」を深掘りするような学習をしている人物、あるいはそのような学習の場と機会を設けている芸術機関にはほとんど出会ったことはありません。みずからの所属する芸術機関の経営課題への違和感や気付きはかならずあるものであり、学習の機会ロスをしてると私は思っています。あるいは、アーツマネジメント教育が高等機関で始まった頃の認識から30年を経ても、囚われたままなのだろうか。または、指定管理者制度以前の委託管理時代の「運営」のままの意識にとどまっているのだろうか。

下記に転載する『日本のアーツマネジメント研究とその実践における課題と問題点』は、宮城大学事業構想学部・大学院研究科に籍を置いて3年目のいまから20年前に、それまで持ち続けていた違和感を学会誌『文化経済学』に僭越ながら巻頭論文として書いたものです。文化経済部会の議論を精査しているうちに、思い出していま一度多くの皆さんから厳しい批評を得て、そのうえでさらなる「アーツマネジメントの再構築」へ向かいたいと考えた上での転載であることをお断りして、ご容赦いただきたいと考えています。宮城大学・大学院研究科での週8コマのゼミは、この論文を踏まえた上での経営管理型の内容であったことは言うまでもありません。

日本のアーツマネジメント研究とその実践における課題と問題点。

『文化経済学』第4巻第3号(通算第18号)、2005年刊行

                     衛 紀生

最初に断っておくが、ここでいうアーツマネジメントは、概ね私の専門分野であるパフォーミング・アーツにおける経営を対象としている。しかし、美術館のような施設経営にも演繹できる考え方でもあると思っている。ここでは、日本のアーツマネジメント研究が、日本のアーツ現場の実態とその特殊性に即した研究がなされ、「実学」としての発展をしてきたのかを検証しながら、今後の研究指針と実際の経営現場とのコラボレーションの可能性について述べたい。

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日本のアーツマネジメント研究とその現場での実践には、重大な誤りがある。

アーツマネジメントとは、言うまでもなく経営学の一分野であり、学際的な実学であり、アーツの現場においては、アーチストの創造環境の整備による良質な作品のアウトプットとその社会化が究極の目的である。

したがって、アーツマネジメントには、創造環境の整備と活動の継続性の担保というミッションがなければならない。また、アーツマネジメントは、実学である以上、理念や考え方にとどまることは決して許されない。目標を達成するための外部環境の変化に適応した技術的習練が強く要請されるものである。しかるに、日本におけるアーツマネジメント研究とその実践は、経営管理型の技術集積とその研究にはフォーカスされずに、専ら現場の空疎な「意識改革」と「アーツの社会化という概念」の周辺を徘徊するにとどまっている。アーツマネジメントとは、認識の困難性をともない、共感性と共創性と非自存性という特徴をもつというアーツの商品特性と、収入の最大化に限界性をもつ装置型産業であり、きわめて非効率な労働集約型サービス産業であるという産業特性を前提として成立せざるを得ない環境を前提として、そのなかでいかに経営目標の達成と、それによる創造環境の整備と創造行為の継続性の担保、その結果としてのクォリティの高い作品のアウトプット、その社会化、さらには顧客ロイヤルティの醸成を企図する経営管理技術にほかならないのである。

日本のアーツマネジメント研究とそのアーツの現場での実践が誤った傾向にあるのは、伊藤祐夫氏(静岡文化芸術大学教授)が1996年に『地方自治JOURNAL』に紹介したウイリアム・バーンズの『MANEGEMENT&ARTS』でのアーツマネジメントの定義「芸術と社会の出会いをアレンジする」に、多くの研究者とアーツ運営の現場に携わる者が飛びついたことに起因している。いわゆる「社会との架け橋」論である。この定義が誤っているわけではない。が、しかし、この定義に過剰に反応したために、肝心のそのために集積しなければならないアーツマネジメントのミッション達成へのプロセスとその技術的詳細が見過ごされてしまったと言える。結果としての成果が「芸術と社会の出会い」を生むのであって、ここを誤解したために、芸術をむやみに社会に向かわせることを自己目的化してしまい、肝心のアーチストの創造環境整備や活動のサステイナビリティがどのように担保されるのかの、日本のアートの現状分析をもとにした検証と、その対処についてはほとんど省みられなかったのである。また、「芸術と社会の出会いをアレンジ」するということは、顧客創造やその進化(私が96年から提唱している「集客から創客へ」へのスキーム転換)や、多様な経営資源を活用して社会支援をする事業(このコーズ・リレイテッド・マーケティング、あるいはブランディングについては後述する)によって、ロイヤルティの高い顧客や支持者をはじめとする良好なステークホルダーとの関係づくりをする、ということであり、目的を手段化してむやみにアーツを社会化することで創造環境の整備や活動のサステイナビリティが実現できるとは到底考えられない。

「日本のアートの現状分析をもとにした検証と、その対処」と述べたが、芸術文化の研究者や現場に携わる人々が「芸術と社会の架け橋」論に過剰に反応して飛びついたのには、それなりの背景がある。それは、日本におけるアーツの社会的認知の問題と無縁ではない。つまり、アーツマネジメントのきわめて実践的な活動が進捗した欧米とは異なり、日本では一部を除いてアーツが社会的認知をいまだ受けていないという現状に起因する。アーツマネジメントという意識さえ導入すれば、アーツの社会的必要性が広く認められて、現状をブレイクスルーすることができると考えたのである。ここで注意してほしいのは、「意識」である。従来の芸術創造団体の、あるいは劇場・ホールの制作部や営業部・事業部の仕事のスキームと、アーツマネジメントのそれは、似ても似つかぬ内容と質をもち、「意識」を変えたくらいでは何も変わっていないに等しいのである。当然であるが、それに見合った組織改革から着手しなければならないのだ。アーチストを中心に据えて、その創造活動を軸としたヒエラルキー組織から、アーチストとマネジメント担当者の協働が可能となる組織改革がなされなければ、「意識」を変えたとしても何も起こらないことは必定である。要するに、「あなた創る人」、「わたし売る人」の関係では、何も変わらないのである。このことに、アーツマネジメントの研究者が言及していないのも不思議な話である。

次に、日本におけるアーツマネジメントが未成熟、未発達である別の事由をあげておきたい。ひとつは、芸術創造団体に経営に対する危機意識が欠如していることである。むろん、そんなことはない、という反論はあるだろう。しかし、日本の芸術創造団体のほとんどすべてが自前の劇場やホールを持っていない以上、勘定科目の劇場費やリハーサルに費やされる費用、いわゆる固定費の団体運営への圧迫は想像するに難くない。にもかかわらず、毎年のように人員を増やす(人件費や福利厚生費の増加を意味する)ということは、危機感が薄いといわれても致し方ないだろう。芸術的成果のための増員という理由もあるだろうが、そのために財政的な評価とのバランスを崩してもよいとは到底いえない。また、大手劇団のように、給料の発生しない俳優を毎年入団させているというのも、見方によっては彼らへの経済的な保障がステージギャラであって固定給が発生しない(つまり、俳優への支払いは変動費化している)から、芸術的成果と財政的、経営的評価へのリスクヘッジとなる、という考え方もあろうが、私から見れば、それも危機感の欠如としか思えない。むろん、そのシステムが日本における演劇活動の歴史的継続性を担保してきたことは認める。しかし、芸術的成果の担保と評価の獲得は、概ねアーチストの責任であり、それを現状の人員で達成することはプロフェッションたる彼らの仕事である。したがって、組織人員を肥大化させるのは、現状では経営を圧迫してまですることではない。もし、どうしても事情があるのなら、客演というかたちで演奏者にかかる費用を変動費化するか、劇団でいえば登録アーチストなどの制度を導入すべきであり、また、自前の劇場やホールを建設するのは無理だとしても、フランチャイズやレジデントなどの既存の施設との提携を積極的に進めて、日本の芸術創造団体の固定比率をあげている劇場費やリハーサル費の低減化を図るべきだろう。それを経営方針のプライオリティの高いところに据えていないというのは、危機感の切実さの問題である。改正地方自治法による指定管理者制度も導入されているのである。マネジメントに携わる者が、これをビジネスチャンスとして、あるいはドラッカーのいう「チェンジ・リーダー」となるチャンスと捉えないのでは失格である。いまの経営姿勢は、芸術創造団体自身にあきらかに甚大な機会ロスを生じさせている。

これは、日本における特殊事情であるが、自前の劇場・ホールを持たないために生じるのは固定比率の高止まりだけではない。複数の経営資源を補完的に作用させて、芸術創造活動がもっている「経済的ジレンマ」を克服しようにも、できない特殊事情が日本の芸術創造団体にはある(例外的に、宝塚歌劇団とその周辺の施設経営、東急文化村、たざわこ芸術村という複合的文化施設経営があるが、この業態については別の機会に述べることにする)。

欧米の劇場・ホールとはまったく違って、まさに客席のひとつひとつを売るというだけの単品経営という桎梏が日本の芸術創造団体にはある。これをとのように克服するかは、日本のアーツマネジメントに特殊な課題である。ここでも、フランチャイズやレジデントを含めた戦略的コラボレーションが志向されなければならない。また、その特殊な課題を解決する手段としてウェブ・サイトやブログを使って多様なコミュニティを形成する、といった対策も処方箋となろう。これについては改めて後述する。

また、公共文化施設においては、指定管理者制度の導入や独立行政法人化でいささか環境は変化しつつあるが、ここにも危機感の欠如があることはいなめない。ここでも「危機感はある」という声は聞くが、ならば不要の人員を放置しているのはなぜか、顧客維持や顧客進化のためのマーケティングを導入しないばかりか、狭隘なアーツ市場でいまだにセリングにしがみついているのはどうしてなのか、酷いところは過去3年分のアンケートが棚積みされたまま放置されているのはなぜか、と私は考える。「危機感」があり、「変えなければ」と思っていても、またそのための構想があったとしても、具体的に行動を起こさなければリノベーションには結びつかないのは自明である。これは芸術創造団体にも当てはまる。例外的に財団に施設利用料を支払わなければならない(西日本に多い)ところもあるにはあるが、一般的には、公共文化施設は自主利用の可能な仕組みを持っている。劇場費やリハーサル費という固定費がかからないばかりか、減価償却費の計上も一般的には設置者たる当該自治体の責務である。ならば、その「強み」を活かす経営姿勢はあるだろう。たとえば、経営資源の多様化に取り組んで、アーツという商品の特性である、今日の客席は売れ残ったら絶対的損失となる消滅性に収入を全面的に依拠するのではなく、公演事業に対して補完性のある資源活用を企図すべきである。そうしていないのだから、危機感が薄いといわれても致し方ないだろう。行政の外郭組織であり、補助金が単年度毎ではあるが支給されてきたことが、リノベーションへの動きの鈍さとなっているのではないか。

先に少し触れたが、ともにこれらの「弱み」をもち、危機感もありながら、同業種、異業種にかかわらず他団体、他施設との戦略的コラボレーション(井関利明氏の言辞では「戦略的アライアンス」)への取り組みがほとんど見られないのはなぜか。

きわめて困難な特殊事情に対応したさまざまな仕組みを編み出して日本の芸術創造団体や施設は危機管理してきた。しかし、それゆえに「解散はあっても倒産はない」、あるいは「事業の縮小による貸館化はあっても閉鎖のない」曖昧な経営実態をつくりだしてきたとも言える。また、米国を嚆矢とするアーツマネジメントは、現在では各国の事情に見合ったかたちで変容して成果をもたらしているが、それらに基本的に共通するのは、それが公立であれ、NPO経営であれ、チャリティ格を有した有限会社であれ、劇場、ホール、美術館などの施設運営を含めた「企業」経営であるという事実である。彼らには、倒産も閉鎖もリアリティのある身近な問題として意識されている。それだけに、それらの国のアーツマネジメントは、その地域に見合った方法を編み出しながら現在進行形で進化しつづけている。「曖昧な危機感」と「実感としての危機感」との差異は、欧米の劇場で行われているアーツマネジメントの実態調査をすれば如実に明らかになる。

一方、アーツマネジメントの研究サイドが、日本の特殊性に対応する何らの提案もしていないのは、やはり怠慢であると言えよう。「芸術と社会の出会いをアレンジ」するなら、どのような手法が現況に照らし合わせて適正なのか、その結果、いかなる改善がアーツの側にもたらされるのか、その根拠はいかなるものなのか、が提起されてこそ実学としてのアーツマネジメントではないか。「曖昧な危機感」に負ぶさったかたちで、空理空論でも許容される構造が、日本のアーツマネジメント研究にはありはしないか。その「曖昧な危機感」にもたれかかってはいないか。実学である以上、現場に適用されて成果を生み出す方法論の提起か、あるいは現場をインスパイアする考え方を示すのでなければ、机上の空論と無視されても致し方ないと私は考える。

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日本で主に行われているアーツマネジメント教育は、芸術教養型のそれであるが、私は、それに対して経営管理型アーツマネジメント教育とその研究、そして経営現場への提言の必要性を強く感じている。私は、アーツマネジメントで研究されるべき中核として、あるいは芸術創造団体や劇場・ホールの現場で実践されるべき柱として、次にあげるものを三つの重要なアーツマネジメントのファクターと考えている。

  1. ARTS MARKETING
  2. ARTS ACCOUNTING/ARTS FINANCE
  3. HUMAN RESOUCE MANEGEMENT/HUMAN CAPITAL MANEGEMENT

むろん、この三本の柱を適正に運営する能力(ADMINISTRATIVE ABILITY)が重要であることは言うまでもない。

それぞれに、アーツの商品特性と産業特性を加味した経営理論が研究・実践されなければならないが、とりわけ重要な、そして私の研究分野であるアーツマーケティングをここでは例として取り上げたい。

芸術創造団体の構成員と話をしていると、私の研究分野が「アーツマーケティング」だと聞くと「コマーシャル・シアターを研究対象にしているのか」とでも言いたげな様子を見せる。相手がアーチストなら忸怩たるものがありながらもとりあえずの了解はするのだが、それが制作担当であったりするのだから、「マーケティング」という言葉への芸術創造団体の誤解は相当なものである。それでいてご当人はアーツマネジメントをしていると信じ込んでいるのだから、状況はきわめて複雑にねじれている。さらにそのご当人が、チケットをいかに売りさばくかに神経を尖らせているのだから、「事態」は深刻きわまりない。むろん、マーケティングとセリングは対極の概念であることは言うまでもないのだが。

つまり、「アーツマネジメント」という言葉がいかようにも解釈されるほど、それが境界の不明瞭な概念として独り歩きしてしまっているのである。自称すれば、たとえ財務諸表を読めなくとも、インターナル・マーケティングによる人的資源の最適化ができないトップダウン型の「独裁者」でもアーツマネージャーなのである。この現象は、日本のアーツマネジメント研究の実態を反映している。日本的制作者と芸術経営者は厳然と区別されていなければならない。そして、日本のアーツマネジメント研究は、その概念の相違を明確に提示していない。「自称」が横行する所以である。すでにその語彙が導入されてから15年近くも経とうというのに、ムードとしてのアーツマネジメント、流行としてのアーツマネジメントから一歩も踏み出していないのである。

マーケティングとは、難しく定義すると「複数の当事者が相互に関わり合い、対話を通して新しい価値を創り出し、ともに目的を達成し、かつ相互の変化と再組織を推進していく、継続的・螺旋状のプロセス」となる。つまり、利害の異なった複数の人々が、コミュニケーションによって関わり合い、新しい価値を創造して、ともに何らかの変化と改革を獲得する連続性のある弁証法的な発展プロセス、ということになる。なにやら難しいが、狭義に考えれば「市場」にingがついているわけで、不断なる市場形成であり、広義に捉えれば舞台と観客のあいだに起こることもマーケティングであり、観客の数だけ「新しい価値」が生まれる、と考えてよい。また、組織内の構成員のモチベーションを高めるために、あるいは利害調整のために行われるコミュニケーションも、インターナル・マーケティングといって、マーケティングのひとつである。マーケティングという概念が「売る」ということを表現するものとして専らしたのは、工業化によって大量生産・大量消費が実現する近代に入ってからのことで、もともとの意味は対話を通して新しい価値を創ることにあったのである。ちなみに、「経営」という概念も同様に、現在では利益をあげるための経済行為のように使われているが、古語では「新しい価値を創造する」という意味である。

いずれにしても、芸術創造団体に限ったことではないが、マーケティングという言葉は、ジョン・K・ガルブレイスが看破したように、「消費者の選好は、とくに非必需品に関しては、主体的につくられる以前に広告によって操作されている」という「依存効果」(dependence effect)をより合理的に仕組むことであり、「欲望の操作」の以前に、矛盾さえ含んでいる消費者の欲望を解読して、それを技術的・採算的に吟味して生産可能な有効需要に変える「欲望の解読」=マーケティング・リサーチと同義と一般的には理解されている。繰り返し言うが、マーケティングという概念がそのように使われるようになったのは、ほんの二百年余り前からのことでである。そして、現在、マーケティングという概念は、その本来の意味に立ち返ろうとしている。ワン・トゥ・ワン・マーケティングやリレーションシップ・マーケティング、データベース・マーケティングなどの新しい考え方がそれであり、それを可能にしたのがIT技術の進化という外部環境の変化なのである。

また、誤解の第二は、マーケティング(marketing)とセリング(selling)との混同である。セオドア・レビットの定義によれば、Sellingは商品やサービスを金銭に換えたいという売り手のニーズに依拠したものであるが、Marketingは、買い手の、何らかの問題解決をしたいという買い手のニーズが中心となる概念、となる。ピーター・F・ドラッカーは、SellingsMarketingはまったく正反対のもので、同じ意味でないばかりか、補完しあうこともない、と断じている。そして、Marketingの理想はSellingを不要にすることである、と書いている。つまり、マーケティングの本来の意味するところは、物を売るということではなく、新しい価値が創造される環境を整えるために、双方向のコミュニケーションを継続的、かつ相互の弁証法的進化を担保するように行なうインタラクティブな経済行為なのである。

これらのことを理解していないために、アーツマーケティングの現況は、大量生産・大量消費というパラダイムを踏襲した、チラシやポスター、パブリシティ、マス媒体を使っての広告宣伝というマス・マーケティングに偏在している。共感性や共創性をその商品特性とするアーツとマス・マーケティングは、費用対効果の面からも、ミスマッチと言わざるを得ない。ちなみに、チラシの実効率(観客数をチラシの印刷枚数で割ったヒット率)は、良くて1.8~3%、通常は0.3~0.5%である。シアター・コクーンでの蜷川幸雄演出作品については例外的に約15%の実効率をあげているが、これは「蜷川演出」というブランド効果によるものである。ただし、東急文化村のマーケティング・メディアとして東急電車への大量の中吊り広告による露出があることを考え合わせると、紙媒体の費用対効果は少し低くなるものと推測できる。ここで注目しておかなければならないのは、「ブランド資産」によるコストの低減化を実現していることである。これは芸術管理会計上、重要な効果である。この「ブランド資産」という簿外資産が、アーツと親和性のある戦略的ツールとなることは後述する。また、DMの実効性を検証すると、良くて3%の実効率であると言われている。100通のDMが掘り起こす顧客は一般的にはおよそ3人であり、その費用対効果も期待できないといえる。むろん、マス・マーケティングがすべて無力であると言うつもりはない。より実効率のあがるであろう場所、時間、期間を選定して、その効率を高めることは必要であり、重要な戦略である。ただし、ラーメン屋や居酒屋にぶら下がっているチラシの束が、経営現場を取り仕切る制作者のマーケティングに対する意識の低さを物語っていることも書き添えておかなければならないだろう。

冒頭で私は、アーツは「収入の最大化に限界性をもつ装置型産業」であると書いた。つまり、装置型産業の最大収入値は、入場料×キャパシティであり、したがって最大収益を求めるには経費を削減するしかないのがこの業態の特殊性である。ならば、マス・マーケティングにおける実効率をいかに上げるかの方策を企図すると同時に、顧客へのアクセスコストを低減化することを考えなければならない。それは、顧客データベースをもとにした双方向性のあるITを駆使したワン・トゥワン・マーケティング(あるいはリレーションシップ・マーケティング)へのシフトである。これは、WINDOWS95の発売によって、それ以前には想像もつかなかったインターネット通信の急速な普及と、通信コストの激減、さらにはアプリケーション・ソフトの低価格化という外部環境の大きな変化によって可能となったマーケティング手法である。このことによって、従来からのマス・マーケティングによる顧客アプローチの不確実性から、マーケティング本来の双方向のコミュニケーションによる価値創造というパラダイムに回帰することで顧客維持と顧客進化という手法が容易なものとなった。

「顧客維持」とは既存の顧客とのコミュニケーションによって基数としての顧客を維持することであり、「顧客進化」とは、その顧客のロイヤルティを高次化する顧客政策である。一般的に顧客進化は、潜在的顧客(prospects)⇒有力潜在顧客(leads)という顧客開発におけるスキームと、反復購入顧客(repeaters)⇒固定顧客(clients)⇒支持者(supporters)⇒支援者(advocates)⇒協働者(partners)という区分がなされる。この顧客進化を実現することによって、クチコミによる顧客開発(buss marketing)におけるバズ・スターターを獲得できるし、そのことで一人の顧客のうしろに隠れている数人の潜在顧客や有力潜在顧客を顕在化させる道筋が見えてくる。フランスの文化コミュニケーション省の調査によれば、劇場に一人で来る客は全体の12%に過ぎず、あとの88%は複数での来場者であるという。そのうち22%が3~4人で、5人以上で来場した客はなんと16%もいたというのである。共感性の強いサービスであるアーツサービスとバズ・マーケティングは、きわめて相性の良い顧客開発の手法であることは言うまでもない。

また、新しい顧客を開発するコストは、既存客を維持するのに比べて5倍もかかると言われていた。「言われていた」という訳は、IT経営コンサルタントの見解として最近では、ブロードバンドの一般化によるIT通信の低コスト化によって、その較差が約8倍にもなっているという。装置型産業という業態の特殊性から最大収益を求めるには、コストの削減と顧客へのアクセスの効率化が決め手となることはすでに述べた。

が、しかし、顧客データベースによる顧客分析をもとにした顧客維持と顧客進化を実践している芸術創造団体や劇場・ホールはどれだけあるだろうか。そもそも、顧客データベースの作成さえ一般化していないのが現状である。一般的には、事後アンケートから収集した顧客データをExcelのワークシートに打込んだ顧客名簿を保持している程度である。いわばDMリストである。その名簿にそってDMを発送するわけで、そこでは折角のITがマス・マーケティングのツールとしてしか活用されていない。チケット購入時期や鑑賞履歴からのトレール・マーケティングもされていないから、「死に客」にもDMを送るというロスは防ぎようもない。

ここまできて、アーツマネジメント研究の大きなテーマが登場する。それは、顧客データベースに関連した研究課題である。いままでは、芸術創造団体や劇場・ホールの外部環境の変化に対するレスポンスの悪さを指摘してきたが、同時に私たちが考えなければならないのは、それらの団体・機関が顧客データベースを導入してマーケティング・パラダイムを転換させようにも障壁となる外部環境が厳然としてある、ということである。それは、オンライン・チケッティング・サービスの存在である。日本に特有のコンピュータによるチケッティング・サービスは、83年の劇団四季と㈱ぴあとの共同による実験的な試みを嚆矢とするが、そのオンライン・チケッティング・サービスを、アーツマネジメントを考えるうえでどのように位置付けるかが研究課題としてきわめて重要となる。なぜなら、無形資産のひとつであり、新たなマーケティング・パラダイムに踏み込むうえで不可欠な顧客データが、チケッティング・サービス会社に留まってしまい、芸術創造団体や劇場・ホールには、誰に観せているのかも、誰に聴かせているのかも、誰がリピーターなのかも、なにひとつ知るすべが絶たれているのである。

確かに、84年に始まったチケッティング・サービスというニッチな業態は、アーツの世界に革命的な変化をもたらした。購入の意思決定と実際の購入とのあいだのタイムラグを飛躍的に僅少化したことと、チケット購入のアクセスポイントをコンビニエンス・ストアにしたことによる利便性の向上は、手売り率の高かった団体・機関のチケットの捌きに革命的な便益をもたらすことになる。しかし、あわせて「誰が購入したか」を永遠に知ることが出来ないという機会ロスも引き受けることになったのである。つまり、オンライン・チケッティング・サービスの登場した80年代初頭は、芸術創造団体や劇場・ホールが、近代的なマス・マーケティングにすっぽりと組み込まれた時期であったと考えてよいだろう。

革命的にもたらされた便益が機会ロスを大きく上回っているあいだには問題にもされなかったが、20年の時間が新しい経営課題を浮上させた。それは、80年代には考えが及びもつかなかったITの日常的ツール化と技術革新によるウェブサイトの構築やアプリケーションソフトの低廉化である。さらには、インターネット・モールの急速な拡張をビジネス・チャンスとみたカード決済代行会社や宅配やコンビニエンス・ストアでのチケット受け渡しと決済を同時に代行する業態の出現である。それによって、芸術創造団体や劇場・ホールは、自ら構築したウェブサイトからのチケット購入と決済、受け渡しが容易となり、それによって顧客データの収集とデータベースの構築が可能になった。しかし、それはあくまでも「可能になった」だけであり、現実に取り組みが始まったわけではない。チケッティング・サービスの便益がまだ機会ロスを上回っていると考えているのか、あるいは投資の資金が不足していると判断しているのか、それとも考えが及びもつかないのか、いずれにしても、オンライン・チケッティング・サービス会社と芸術創造団体、劇場・ホールを取り囲む外部環境の変化は、現行のシステムを限りなく臨界点に近づけている。

問題は、比較的狭隘なアーツの市場で、安定的な顧客基数を獲得して経営を高次化するにはどのような方策をとるのがより効果的かということである。答えは簡単に出る。一度来場した顧客を逃さず(顧客維持)、よりロイヤルティの高い顧客になるようコミュニケーションをして(顧客進化)、来場頻度を高めてもらい、年間購入枚数と金額を多くしてもらえるようにチケッティングの仕組みを顧客のニーズにマッチングするように再考することである。感動や癒しのともなう無形消費財のフロー消費が活発になっていることが総務庁の家計調査と内閣府の国民生活に関する世論調査により明らかになっている。アーツ・サービスも無形消費財のひとつである。人間的な共感をベースとしたサービスへの潜在的なニーズは、21世紀になって大きく膨らんでいると考えるべきであろう。だがしかし、アーツへの「来訪者」が際限なく存在するというわけではない。したがって、先のスキームが重要となってくる。一人の客を失うということは、1枚分のチケット収入が減るということではない。その客が将来にわたってもたらすであろう多額の売上げを失うことを意味するのである。同様に、一人の顧客を維持するということは、低廉なコストで将来にわたっての利益をもたらしてくれることを意味する。冒頭近くでブランド資産について述べたが、この顧客との関係もブランド資産と同様に簿外資産であり、一般的に「無形資産」と呼ばれるものである。資産であるならば、それを大きく育てるべきであり、そのためにはコミュニケーションを絶やさず、関わり、気遣いをして、維持し、大きく進化させるのは当然の理といえよう。

しかしながら、先に述べたように、アーツを取り囲む外部環境の変化は現行のシステムを限りなく臨界点に近づけてはいるものの、経済的・心理的障壁がパラダイム転換への意思決定を遅らせている。上記のような顧客とのリレーションシップ形成を促すマーケティング手法は、IT技術を援用した顧客データベースを構築することなしにはほとんど不可能である。チケット販売における便益を得る代償として、将来にわたって利益を生みつづける可能性のある無形資産を手放しているのである。アーツの市場特性、産業特性、商品特性からいえば、これは絶対的損失であり、甚大な機会ロスである。これは、本来、アーツマネジメント研究によって進捗を促さなければならない日本に特殊的なテーマである。外部環境の変化は日進月歩で進んでいる。現に、200万円程度でウェブサイトからのチケット購入を可能にするシステム構築が、中小のベンチャーによって完成している。20年前の100分の1以下のコストである。

また、日本に特殊なアーツマネジメント研究と実践の課題をいまひとつあげれば、自前の劇場・ホールを芸術創造団体が持っていないことに対する問題解決のスキームをどのように考えるか、である。欧米の劇場やコンサートホールを訪ねると日本のそれとの違いが分かるのだが、劇場やホールは、何かを鑑賞することを専らとする施設ではないということである。食事をするだけに訪れる人もいれば、劇場内のフリースペースで読書にふける人もいる。ミーティングをする人たちもいれば、趣味のサークル活動をホール内のティーラウンジでやっている人々もいる。つまり、劇場・ホールは、さまざまなライフスタイルを許容する時間と空間を提供しているのである。その多様なライフスタイルのコミュニティが、いつかは顧客へと変容することを、劇場・ホール関係者は信じて疑わない。この劇場・ホールのあり方も、マーケティングのひとつである。日本の芸術創造団体は、自前の施設を持っていないためにこのようなマーケティングができない。しかし、ウェブサイトに多様な「コミュニティ」を立ち上げて、直接的には利害のないサイトへの訪問者を創り出すことはできる。掲示板機能を使うのでもよいし、フレーミングへのリスクマネジメントとしてブログによる身元の確かな人物によるコミュニティを形成してもよいだろう。将来的に顧客となる可能性をもつ潜在顧客を創り出すためのこの仕組みは、コストではなく、投資である。この手法は、大学院の私のゼミからの提案で、現在、二つの芸術創造団体が取り組みを開始している。

さらに、前述したが、自前の劇場・ホールをもたないという日本の特殊性から生じるアーツマネジメントの課題を解決する方策として、戦略的コラボレーション(井関利明氏は「戦略的アライアンス」と呼ぶ)の展開を提案すべきであろう。劇団同士のような同業種のそれのみならず、劇団、オーケストラ、オペラ団体などの、さらには劇場・ホールとの異業種間のコラボレーション、さらに言えば劇団と教育施設と福祉団体などのまったく異なった業態間のコラボレーションも考えられる。フィリップ・コトラーの報告によれば、フィラデルフィアでの戦略的コラボレーションは、当初、各団体が顧客のくいあいによる減少を心配したが、結果はどの団体も動員を伸ばしたという。また、戦略的コラボレーションの発展形として、同業種、異業種にかかわらず、いわゆる制作部門を共有するかたちの統合会社(integrate company)をつくることで、コラボレーションのシナジー効果による新規の顧客開発と顧客の拡大、さらには購入金額の増加を企図しつつ、マネジメント・コストの削減をはかるという方策も視野に入れてよいだろう。

冒頭で、アーツの商品特性として共感性と共創性をあげたが、これは関係資産のひとつであるブランド資産の形成との親和性のある特性であると言える。ブランド資産がもたらすメリットは、高価格の設定が可能となることと、認識の困難性を克服することから新規顧客を獲得する環境をつくり、安心して購入できることから反復購入の促進、すなわち固定客の拡大と、バズ・マーケティングが起こりやすい環境を用意できることなどがあげられる。ここでは、組織や機関、施設のブランディングを進める方策のひとつとして、先にあげたコーズ・リレイテッド・マーケティングに触れておこう。コーズ(cause)とは組織や機関、施設の理念、主義、目標という意味で、いわば社会的使命といえよう。リレイテッド(related)は関係する、あるいは関連するで、Cause Related Marketing というのは、日本では社会貢献型マーケティングと訳されている。ここでも、マーケティングを利益をあげることを目的とした営業手法、と考えるとその本質を見誤る。Cause Related Marketingは、82年にアメリカン・エクスプレスが行なった美術館への寄付キャンペーンがその嚆矢で、新規カード1枚につき2ドル、カード利用一回につき5セントを寄付に充てることで、10万ドルの寄付を成功させた。さらに翌年、自由の女神修復キャンペーンを3ヶ月間にわたって実施する。新規カード1枚につき1ドル、カード利用一回につき1セントで170万ドルの寄付を実現し、さらにカードの利用率前年比28%増、新規カード取得者45%増という成果をみた。ここで大事なのは、アメリカン・エクスプレスの成果としての数字ではなく、自社ブランドがナショナル・ブランドとしての認知とその高度化を果たしたことである。Cause Related Marketingは、むしろCause Brandingと言う方が適切かもしれない。

アーツはそれ自体に社会的諸問題、将来予測できる社会不安へ対処する潜在能力を持っている。それは、芸術創造における相互の関わり合いやそれを鑑賞するという行為が、バーバル、ノンバーバルに関わらずコミュニケーションに基づいた人間的な共感をベースとしているからである。まさに、共感性と共創性という特性がここにある。したがって、アーツの個々の成果は、それ自体が、コーズ・リレイテッド・アクティビティによるアウトプットという性格を帯びているのである。したがって、アーツにはアプリオリに公共性があるなどという驕慢な言辞を弄するつもりはない。そのアーツみずからの「強み」を意識的に経営活動に反映させたCause Brandingを企図し、ブランド資産を形成することも、アーツマネジメントの、とりわけて21世紀における課題のひとつであると断言できる。その活動が、アーツの社会的認知として結実することは想像に難くない。

最後に再び書き記しておきたい。アーツマネジメントの唯一無二の使命は、アーチストの創造環境の整備による良質な作品のアウトプットとその社会化である。そのために、組織の内と外へのマーケティングを行ない、アーツの産業特性と商品特性にマッチした会計思想をもち、ファイナンス計画を作成し、人的資源の最大活用を企図するのである。日本のアーツマネジメント研究のみならず、アーツマネジメント教育が、そのための仕組みの研究と優れた人材育成という役割を果たしているかといえば、いささか心許ないのが現状であると認めざるを得ない。