第10回「民主主義」と「資本主義」が危ない。

2023年8月21日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生

「ビッグモーター問題」が国交省、金融庁まで動いて、マスメディアを賑わしています。これを拝金主義の呆れた企業体質によるものと受け止めて、行き過ぎを戒めれば一件落着と考えてしまうのは事の本質からのフォーカス・アウトを招いてしまい、あまりに危険なのではと私は考えています。私はこの世間を騒がしている事案から、「資本主義の制度疲労」を感じ取っています。ほとんど同時期に発表された世論調査の結果から、内閣支持率の急落がニュースとなり、その原因として「マイナンバーカードと健康保険証を2024年の秋に廃止」や「少子化対策の不透明感」、党税調が発表した「サラリーマン増税問題」などが、その要因と取り沙汰されていますが、これも事態を過小評価していて本質的な課題解決とはならないのではと考えています。私はあわせて自民党の支持率もシンクロして下落している点を重視すべきと思います。「マイナンバーカード」と「健康保険証廃止」や「サラリーマン増税」はトリガーでしかなく、民主主義自体への信頼が著しく希薄化していることが事の本質なのではないかと考えます。個別自民党への信頼感の低下と捉えると、ここでも事の本質からのフォーカス・アウトを招くことになりかねないと考えます。ここでもやはり「民主主義の制度疲労」がその根幹にあると私は捉えています。

2020年、コロナ禍が日本を襲った時、私たちは多くの行動制限を受け容れざるを得ませんでした。それでも感染者と死者は増えるばかりで、ウイルスに対する人間の無力感はつのるばかりでした。人間が長い時間をかけて歴史の中で獲得した免疫力であっても抗することのできないウイルスの感染力に対して、人工的に創られたワクチンに頼るしかないというのも、無力感を大きくすることになりました。ただ、私はそのような無力感の中で、免疫が追い付かないフィジカルな要因だけではなく、私たち人間の心の在り様をも、このウイルスに試されているのでないかと考えていました。「欲望」を抑制できない、アダムの末裔として、「欲望」に衝き動かされるという原罪を背負った人間の生そのものをウイルスは試しているのではないか、と長い時間考え続けていました。後期高齢者となった自分にとって新型コロナウイルスは、否応なく「死」を意識せざるを得ない死神であり、同時に行動制限に反して感染してしまう人間への「致し方ない」との共感も合わせ持っているという、何とも複雑な心境で2年半を過ごしていました。

『経済成長という呪い』(原題 閉ざされた社会と無限大の欲望)を著わしたヨーロッパの知性ダニエル・コーエンは、「バブルは繰り返される、なぜなら人間は欲望から解き放たれることがないから」という社会を俯瞰する重要な発言をしています。同じくヨーロッパの知を代表すると言われるジャック・アタリは、『命の経済』のなかで、「ポジティブな社会の実現の鍵になるのは利他主義である」と明言していますあえてそのような理を書くということは、利他的であるということは人間の本性を鑑みると、自己抑制をともなう大変難しい行為というのが彼の認識なのではないでしょうか。アタリは、この後に利他的であることは最終的にはめぐりめぐって自分の利益となる、と言っているのですが、「欲望の自由放任」、「稼ぐ・儲ける」という「短期的な経済利得」がすべてという価値観が社会に蔓延している現状では、アタリの言葉はいかにも説得力が弱い。彼の「最終的には自分の利益」となって帰ってくるというのは、行動経済学でいう「自己イメージ仮説」(自己肯定感を醸成するポジティブ心理学の知見でもある)に基づく「幸福感」とか「自己肯定感」という精神的な報酬を指していると思われます。だとすると、「競い合い、奪い合う」短期的な経済利得がすべて」という社会を覆っている価値観にあって、「利他的」は大変難しい選択になることは想像に難くありません。

ビッグモーターの企業体質を変えたと言われる副社長は、米国の大学でMBA(経営学修士)を取得しているとされていて、一般的にはMBA取得者は経営のエキスパートとされていて、頭脳が優秀であるとの先入観や固定観念があります。私はこの先入観にいささか違和感を持っています。「企業体質を変えた」のは、彼の経営に関する頭脳が優秀だったからではなく、MBAで学んだ「価値観」に歪みがあったからだと私は考えます。MBAを持っている若い友人に聞いたところ、「MBA教育は長年の歴史の中で、株価志向、利益志向、転職志向といった『短期的視点』」で物事を判断する教育を行っている」という答えが返ってきました。さらに「Greed」(貪欲・欲張り)とか「Greedy」(欲深い)が日常会話や議論の中で肯定的によく話されている、そうです。1987年公開の映画『ウォール街』のゴードン・ゲッコーの台詞に「Greed is right」(欲望は正義だ)というのがありましたが、類推するにリーマン・ショックの引き金となった新自由主義経済思想を背景とした「強欲資本主義」を全肯定する教育なのではないかと、私には訝しく思えました。

その友人の話だと、同じMBAでももともとは米国と欧州のそれとは、かつてはいささか違っていたそうです。しかし、米国のMBAも、最近では「経営倫理」、「経営革新」、「持続継続性」などのESG経営に重心を移した中長期的な視点の経営に軸を移した教育になって来ているとのこと。私はアーツマネジメント(芸術経営・劇場経営)の高等教育を受けた経験はありませんが、良く知る英国のそれと米国で高等教育の考え方をベースにするものとは、この分野でも米国と欧州の違いは径庭の感があります。社会的価値を重視して、それへの共感・共鳴による「売れる環境」を整えようとする中長期的視点に立脚するマネジメントと、利潤の極大化を目途として短期的な利得にスタンスを置く米国のアーツマネジメントはまったくの別物です。このMBAの相違を考慮すると、くだんの副社長は、「Greed is right」(欲望は正義)の教えを丸呑みしたのではないでしょうか。しかも、「欲望の自由放任」こそがチカラであると洗脳されてしまっているのではないでしょうか。したがって、彼には今回の事件に対する罪悪感の持ち合わせは恐らくないと私は思っています。

「経済学の父」と言われるアダム・スミスは、グラスゴー大学の倫理学の教授でしたから、その時代の彼の構想していた経済学は「どうすれば資本家が儲かるか」よりも、「人間として生きるのにはどういう仕組みがいいのか、人々が幸福に暮らすにはどういう社会経済思想とシステムが良いか」を考える学問だったに違いないと私は理解しています。その意味で、私たちが考えて再定義しなければならないのは、「人間という原点」に立ち帰って「幸福」とは何が整うことを指すのかを探ることではないでしょうか。また、アダム・スミスが危惧したように「欲望と倫理」の関係を考える必要があるのではないでしょうか。しかし、「欲望」は決して充足しません。「増殖」するのみであり、しかも放置すれば利己的に際限もなく膨れ上がるものです。マックス・ウェーバーが産業革命直後の資本主義の黎明期である1905年に著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、「そもそも資本主義の生成過程には、隣人愛の実践と利潤の追求という二つの中心原則があった」にもかかわらず、「利潤の追求が自己目的であるかのようなエートス(精神・気風)を生じるようになった」との分析があります。これは、市場経済が共同体の一方の軸である「ヒト」とのつながりを圧倒して「モノ」や「カネ」という経済的利得を優先させた結果、コミュニティの結束が脆弱化して「良心なき欲望、倫理なきビジネス、道徳なき蓄財」が人々の日常生活にまで蔓延り、生活環境を蹂躙して脆弱化させる事態を招いていることをウェーバーは示唆しています。現代社会で看過することのできない「社会的孤立と孤独」は、精神病理学の「依存症」の原因とされる「信頼障害仮説」での解析が理解しやすいと思います。「モノ」、「カネ」に頼るのか「ヒト」に頼るのか、そのバランスが外的環境によって崩れるか、あるいは内部の価値観によって崩れるかすると「社会的孤立と孤独」に陥るという説です。英国の「ジョー・コックス孤独対策委員会」の報告によれば、ヒトへの「信頼障害」が「つながりの貧困」という社会病理を生み、巨額の社会経済的損失や自殺や犯罪という悲劇を生むという腑に落ちる解析がされています。ダニエル・コーエンの「人間は欲望から解き放たれることがない」との警告と危機感から、私たちは「信じられる明日」のために多くのことを学ばなければならないのではないでしょうか。

しかし、社会の改善と進化、技術革新もまた、「欲望」を抜きには考えられないのも事実です。それだけにこの人間の心の在り様を決めるのは、ジャック・アタリの「ポジティブな社会の実現の鍵になるのは利他主義である」という発言に鍵があると私は考えますが、「欲望」は外貌や外見で即座に判断の出来ないものです。著書『命の経済』には、「その利他的な行為は突き詰めれば自己の利益として返ってくる」と述べています。「自分のイメージのために利他的な行動をとることで幸福感を持っている」人間は多いとする、英国のニューエコノミック財団の2018年の「調査報告書」にある経済心理学の知見から吟味しても、利他的行為は循環して自らの利益として還ってくるとの知見は、アーラの「社会包摂型劇場経営」にあっても体験していますし、フードバンクのボランティア体験でも経験値としてありますが、これらがどれだけの説得力を持っているのかには、正直言って確たる自信はありません。ただ、政治・経済を動かすエリート層から庶民に至るまで、経済が成長して国内総生産が伸びればあらゆる社会課題と生活課題がたちどころに解決に向かうという「GDP神話」が幻想にすぎないことは明らかです。格差と分断をさらに加速させる「困った経済成長」があることを、私たちは自覚すべきではないでしょうか。「困った経済成長」は、「競い合い、奪い合う」という経済原則を普遍化した行動律によって「良心なき欲望、倫理なきビジネス、道徳なき蓄財」が社会全体を覆う共通感覚(常識)となって、持たざる者が再チャレンジの機会を与えられない社会構造が加速度的に構築されてしまう経済成長です。「自己責任」という言葉が投げかけられて「新しい貧困」を再生産し、「社会的孤立と孤独」を蔓延させしまう時代環境を生んでしまう経済成長です。その私たちの現在地が、コロナ禍によって白日の下に晒されたと私は思っています。「つながりの貧困」は本来社会が担保しているコミュニティ機能である「生存欲求」を脆弱化させて、社会的緊張を増大させて、犯罪や自殺という悲劇を生じさせてしまうと、私は考えています。欲望の制度化が資本主義だとするなら、明らかにその欠陥とも言える「欲望の肥大化」を組み込むことで、著しい「制度疲労」が人間を苦しめてきたのが今日的な現実なのではないでしょうか。アダム・スミスも人間が逃れようもなく持っている「利己的な欲望」への危機感の発露として『道徳感情論』のたびたびの推敲を重ねたのではないでしょうか。

政治で政策科学的に「欲望」を制限することはコロナ禍で散々体験してきましたが、総裁選での現岸田首相が掲げた新自由主義からの離脱を謳った「新しい資本主義」に一抹の期待をした国民は少なくなかったのではないでしょうか。「長いトンネル」からの一条の光と感じた向きは少なくなかったと私は思っています。新自由主義を堅持して安倍政権時代のたびたびの選挙を圧勝して政権維持を果たしてきた自民党にそれが出来るのかという訝しさはありましたが、主流派と目される岸田現首相から「新しい資本主義」が出たことに逆説的にむしろ期待感がありました。しかしながら、「新しい資本主義実現会議」の有識者構成員はおおむね新自由主義政権下での既得権者で占められており、議事録を読んでも資本主義の制度疲労にメスを入れるような本質的議論にはなっていません。社会のほころびを手当てするという対処療法の施策に議論は終始している感が強くて、まったくの期待外れです。「ビッグモーター」の常軌を逸した非倫理的な経営が次々と露わになる過程と時期を同じくして、「内閣支持率の下落」が耳目を集めました。マスコミ各社の調査結果には各々の政治的体質が強く反映されていてまちまちであり、信頼度が低いので、民間世論調査会社のレポートから結果を抽出すると6月27日時点で、政権支持率26%、不支持率が62%となっています。それはそれで大きな問題ではありますが、私は政権与党の自民党の支持率が6月末に28.2%と急激に低下したことに着目しています。時の内閣支持率が大きく下落しても、自民党支持率は30%後半から40%半ばを維持してきたのが日本政治の特徴だったのですが、このところ自民党支持率は内閣支持率と歩を一にするように低下してきています。20%後半にまで落ち込んでいます。早稲田大学招聘研究員の鈴木崇広氏によれば、「低支持率の内閣は、総理を代えれば与党を維持できることを意味する。その意味では、今の自民党支持率の低下は同党にとり脅威」とあり、関連するマスコミ論評によれば「自民党幹部が心配しているのは『内閣支持率』より『自民党支持率』の下落」という。この幹部の杞憂は部分的には正鵠を得ている、と私は考えます。冒頭に書いたように、「マイナンバーカード問題」や「少子化対策の不透明感」や「防衛費増額」や「サラリーマン増税」や「社会保障費の自然増を5200億円以内に制限」、「社会保険料の年6000円程度の引き上げ」という一つひとつの政策はあくまでもトリガーでしかない、と私は自民党支持率の急落を分析しています。

私はこの自民党支持率の下落には、「民主主義の制度疲労」がこれらの数値の背景にあると考えています。英国の名宰相とされるウィンストン・チャーチルの名言に「民主政治は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」という箴言があります。権力者にとって、単純な多数決ではなく、少数意見にも耳を傾けて尊重するという民主主義の原則は自身が確信する政策を遂行するうえで、相当に面倒なことと思われます。「公平性と公正性の制度化」である民主主義は、権力の集中化を図りたい、それによる迅速な政策履行で自分たちの理想とする社会経済構造を実現したい者たちにとっては、煩わしく、手数のかかる、面倒極まりないものなのに違いありません。どれだけ自民党の政党支持率が下落しても、現在の野党の体たらくでは政権交代が起きる状況にはありません。だとすると、前出の鈴木氏によれば「国民の間には、今の自民党を中心とする政治の体制や状況に対する不満と不信感は急速に高まり、積もってきているのだろう。このことは、国民は自民党が大きく変貌してくれることを望んでいるということ」という分析が正鵠を得ています。しかし、私は安倍政権での、議会での論議を経ずに「閣議決定」で重要政策を進めようとする権力の側の「欲望」に発する、煩わしさを省いた政治手法が、「民主主義の制度疲労」を漸次的に進めて、民主主義の根幹である「選挙の軽視と無関心」を生じさせていると考えています。選挙制度は民主主義の根幹をなす制度であり、「多数決」と「少数意見の尊重」という両立させることが困難で、トレードオフでありながら、二つの矛盾する価値観を有する「公平性と公正性の制度化」である民主主義制度を担保する最初のゲートです。これへの軽視と無関心は、明らかに「制度疲労」です。チャーチルの不承不承の諦観の一方には、「民主政治とは、多数派、世論による専制政治」と看破した19世紀のフランスの政治家で思想家のアレクシ・ド・トクヴィの言葉もあります。チャーチルの諦観もド・トクヴィの達観も、民主主義が一筋縄ではいかない矛盾を内包する制度であることを物語っていると考えます。そんなことを考えていたら、JNNの世論調査で「次の総理にふさわしい自民党議員は」の設問で、石破茂元幹事長がトップだったというニュースが飛び込んできました。非主流派と言えば聞こえは良いが、政治の表舞台に立たなくなった石破氏がトップに推されるというのは、「国民は自民党が大きく変貌してくれることを望んでいるということ」という鈴木崇広氏の分析が正解なのか、私の「民主主義の制度疲労」という見方が正しいのか、正直言ってこれからの長い時間によってのみ判定はおのずと明らかになることでしょう。

上梓を予定して書き進めていた『人間の安全保障としての芸術文化-人間の家・そのアーツマーケティング』の14回目の推敲をしている折に、イスラエルの司法改革のニュースが飛び込んできました。「合理性法案」と呼ばれるその法案は、最高裁判所が不合理と判断した政府の行為を、無効にできないようにする内容となっています。民主主義における「権力の監視と抑制機能」を担保する三権分立に制限を加えて、裁判所の権限を縮小しようとする改革です。また、トランプ前大統領の選挙結果に対する幼児性を露わにした言動が、共和党支持の群衆を議会襲撃へと煽った罪状で起訴されたことも、私は米国における権力維持の「欲望による民主主義の制度疲労」と考えています。このままでは「共和党の消滅」にまで至ると考えています。それも、トランプという特定個人の「幼児的な欲望」によってです。「欲望が肥大化」すれば、その裏に同じだけ張り付いている「不安」も正比例して膨らみます。「不安の肥大化」からは、「恐怖」の感情が生まれて、争いごとや戦争の原因となります。歴史に学べば、「欲望」を持った特定勢力が恐怖を振り払うために戦争を始めていることに気付くことと思います。長い歴史と多くの犠牲者によって制度化した「資本主義」と「民主主義」がともに制度疲労を起こしている時代にあって、その原因である「利己的な欲望」に私たちはどのように向き合うべきなのか、最適解は容易には見つからないでしょう。

世界が資本主義と民主主義の制度疲労を克服して、「つながりの貧困」から逃れて「ヒト」に依存するホモサピエンスの習い性を取り戻すのはいつの日なのか。劇場人である私に出来ることは何なのか、と考える日々です。