第一章いまこそアーツマーケティングの導入を/創客へシフトせよ (3)
2008年6月23日
「マーケティング」という経営用語を「アート」の対極にある商業主義的な発想だと思い込んでいる芸術関係者はまだまだ多い。これからの論旨を展開するうえで、ここではまずこの問題に触れなければならないだろう。
「マーケティング・リサーチ」を実施して、その結果として抽出された顧客嗜好に合わせて作品を創ることなど堕落のきわみである、という誤解は根深いと思われる。専門分野はと訊かれて「アーツマーケティング」と答えると、そこで会話が途切れることもしばしばである。
マーケティングはアートを疎外するか。
フィリップ・コトラーとジョアン・シェフ・バーンスタインの共著『Standing Room Only』のなかには次のようなくだりがある。
自身の提供物が本質的に魅力的であると考えている団体のアーツ運営者は、真っ当な人物なら自分たちの上演するものに参加したくないわけがないと考えがちだ。芸術的に『必須なもの』との旗を掲げたアーツ・マネージャーは、団体が成功しないことを観客の無知や意欲の無さ、もしくはその両方に責任があるとし、自分たちを市場よりも高い所に位置づけることが多い。マネージャーの中には、単に自分たちの提供物の有益さを伝える正しい方法が見つかっていないとか、ターゲット顧客の中に存在する慣性を弱める正しい刺激が作れていない、と認めている者もいる。しかし実際には、非営利団体のかなりの数のマネージャーが、ある種の軽蔑を持って顧客を見ている。
このように、非営利芸術団体組織に蔓延するエリート意識を指摘している。また、「彼らの多くは自分たちの作品と恋に墜ちているあまり、正しい認識ができていない。市場は自分たちほどには作品に『メロメロに』なっていないし、もしかしたら違う方向に動きだしているのかもしれないのに」とも述べている。
さらに『Standing Room Only』では、ピュー・チャリタブル・トラストの行ったマーケティング調査の結果に対するフィラデルフィアのジャーナリスト、マーク・ランドールの反論が引用されていて、コトラーは「ランドールの批判に存在する神話」と断じてそれに反駁を加えている。以下はランドールの『Artist Meets Marketer』と題されたアーツマーケティングへの批判である。
「アートの本質とマーケティングの限界を考えてみたならば、マーケティングはアートに害を与えるだけだという結論に至るだろう。アートと商業の典型的な不一致は脇へ置くとして、アーチストがやることと、マーケターがやることは、正反対なのだ。アーチストは自分のしたいことをやった後で、それが人々に気に入られるよう望む。マーケターは人々が気に入るものを見つけそれを実行する。これをマーケティングの用語に置き換えるとしたら、マーケターは顧客志向で、アーチストは製品志向なのだということになる」
ランドールのこの一文を覆っている認識は、多くのアーチストが「マーケティング」という語彙に抱く危惧とほとんど同質のものといえる。ここにはコトラーが「神話」と言い切ったアンチ・マーケティング派=アーチスト不可侵派の抜き差しならない誤解がある。マーケッターは、「人々が気に入るものを見付けて」作品づくりに影響を与えようと威嚇する存在ではない。作品や舞台の提供の仕方を創造的に編み出すのがマーケッターの任務(task)である。いわば作品提供の作法に工夫をほどこすのがアーツマーケティングである。その意味でマーケッターはきわめて創造的な仕事(task)を担っているといえる。
「可能な限り幅広い観客にアピールするため、観客のニーズや好みを満たす形でアーチストの製品をパッケージし、伝えるという責任を、マーケターは負っている」、「マーケティングの専門家は、特定の観客、もしくは幅広い観客にアピールするために、アーチストの創造物と団体のビジョンを『パッケージ』する方法を知っている」と『Standing Room Only』ではマーケッターの任務(task)を規定している。
ランドールの誤解と偏見。
ランドールは20世紀型の大量生産・大量消費時代の「マスマーケティング」の手法をアーツマーケティングに横滑りさせて誤解しているに過ぎない。多くの人々がそうであるように「マーケティング」という言葉を曲解しており、そこから看過することのできない偏見を生じさせていると思われる。マーケティング=マスマーケティングではないのである。
「ランドールの誤解」はさらに「マーケターは顧客志向」と認識している点にも及んでいる。実のところ彼の認識している「マーケティング」という用語は顧客志向ではなく製品志向である。なぜなら、彼の言うところの「マーケティング」は、不特定多数に情報を流し、可能なかぎりに大きな「投網」を流れに打とうとする「マスマーケティング」を指しているからだ。「顧客志向のマスマーケティング」という語彙は成り立たない。不特定多数の潜在顧客に対してそのニーズに対応してカスタマイズ化された情報を流すなどというのは現実的には無理なことであり、論理的にも矛盾していている。多くの芸術聖域主義者のアーツマーケティングへの反駁は「マーケティング」という語彙への誤解と、そこから生じる感情的な嫌悪感によるものである。
考えても見るがいい。芸術はそれ自体で価値を持つものではない。それに立ち会う観客や聴衆がいてはじめて価値が成立するのだ。価値は作品と立ち会う人間とのあいだに成立する。その前提に立てば、音楽家であり教師であるジョン・スタインメッツの「芸術音楽をマーケティングする際に我々は、聴衆を消費者と取り違えてはならない。彼らは我々の製品の共同製作者なのだ!すばらしい観客がいなかったら、我々の製品は粗末なものになってしまうだろう」という発言がどれほど正鵠を得ているかが理解できるだろう。私たちは観客や聴衆を素晴らしい「共同製作者」へと進化させるマーケティングの重要性に着目して、そこに向かって思いを馳せ、歩き出さなければならない。
「彼らは『内なる敵』である。意識的に自分たちのアーツ団体を危機に陥れようとしているからではない。マーケティングに対する彼らの盲目的な抵抗が、最終的には重大な意味を持ってくるからだ」とのビジネス・コンサルタントでカーネギー・メロン大学教授でもあるロバート・ケリーの警句も『Standing Room Only』には引用されている。日本の舞台芸術の現状を重ね合わせると重い言葉である。
アーツ・マネージャーはこれまで伝統的に、自分たちの作品、自分たちの製品、つまりアートにその焦点を合わせてきた。しかし、孤立状態のところにアートは存在しない。アートのエッセンスは、観客とのコミュニケーションの中に存在するのだから。従って、アート団体はそのコミュニケーションに焦点を合わせ直さなければならない。これまで純粋に製品のことだけを気にしてきたが、これからは芸術面での意志決定プロセスと、観客のニーズや好みとの間でバランスを取る形に変えることが必要だ。アーツ団体の役割は、アーチストと観客の間の連絡係、まとめ役、流通経路として機能することである。そのため、アート団体は双方に気配りをしなければならない。(『Standing Room Only』)
アーツマーケティングの使命(mission)と任務(task)とは。
むろん、アーチストとマネージャーやマーケッターが、公式的にも非公式的にもコミュニケーションを繰り返して時代認識とその問題解決の方向性と意識を共有し、目指す作品創造のベクトルを概ね決定づけることは必要である。しかし、これはインターナル・マーケティング(組織内部へのマーケティング)の一種である。オーケストラの事務局や劇団の制作部がアーチストと縦の関係にあって意志決定権をアーチストが占有している例を多く見受けるが、それではマネジメントやマーケティングが十全に機能する環境とはいえない。アーチストとマーネジャーやマーケッターは主従ではなく、パートナーでなければならない。作品創造を前提として問題を共有する作業は当然やらなければならない。そのことがアーチストを屈服させたり、アーチストの領域を脅かすものではないのは言うまでもない。
たとえば、2008年4月の讀賣新聞の年間連続世論調査によると、「家族のきずなやまとまりは強くなっているか?」という設問に対しては「どちらかといえば」を含めての「強くなっている」の回答はわずかに9%で、「弱くなっている」との回答が89%にもなったという。23年前の同調査では「家族のきずなやまとまりは強くなっている」と思っている人が47%もいたことを考えると驚くべき変化である。「きずなやまとまりを大切にしたい」との回答が98%にもなっていて、時代の様相と社会的ニーズの在り処が窺える。こういう時代の断面をアーチストとマネージャーやマーケッターが共有することで、アーチストは作品創造にその認識を反映させ、マネジメントとマーケッティングの人間はどのセグメントを抽出して売り方を仕組めば適切かを考える。
芸術関連の製品は、観客に合わせて調整するものではない。例えば自動車製造会社が最も良くフィットする座席を作るために、様々な人の協力を得てシートのデザインをテストしていくのとは違うのだ。しかし、アーチストやアーチスティックな意志決定をする人々のビジョンによって決定されるのは、プログラミングのほんの一部である。プログラミングの選定は複雑な作業だ。アーチスティック・ディレクターとマネージング・ディレクターの間で長年に渡り取り組まれてきた難題を解決すべく、両者が協力しあわなければならない。
(『Standing Room Only』)
マーケティング・リサーチが作品提供の作法に影響を与えることはあるが、大衆の嗜好に合わせて作品創造をするなどということはアーツマーケティングには断じてない手法である。私たちがマーケティング・リサーチをする場合のテーマは、作品や舞台の提供の仕方や、「顧客経験」や「劇場体験」を高品質なものとして顧客に届ける仕掛けや方策を探るための基礎データである。
たとえば可児市文化創造センターでは、年始のニューイヤー・コンサートの前にフルコースのビフォー・ディナーを実施したが、その試みの反応を探るために公演アンケートに「公演の前後に同行した方と会食やお茶をしますか」という項目を設けた。その結果、「必ずする」から「時々する」までを集計すると60%のお客さまがそのような行動をしていることがわかった。また、「食事つきの企画があれば参加したいと思いますか」という問いにも60%の「参加してみたい」との回答があった。そのリサーチ結果が、「ラブレター・チケット」や「アニバーサリー・チケット」、「ホットファミリー・チケット」という食事つきライフスタイル提案型チケットの企画やレストラン予約が可能なウェブ設計に結びつくことになった。(詳細は後述する)
これがマーケティング・リサーチとアーツマーケティングの関連を示す一例である。マーケティングの使命とするところは、行動や習慣に変化をもたらすように働きかけることである。劇場経験をライフスタイルに組み入れることで「豊かさとゆとり」がもたらされると提案するのもまた、アーツマーケティングの任務といえる。顧客のチケット購入行動や鑑賞行動や楽しみ方のありようを探って、より良い「劇場体験」を演出し、いかに「顧客価値」を高品質化するかを追求するのが創客のアーツマーケティングである。
アーチストや彼らが所属する団体は、自分たちの作品をこよなく愛しているだろうし、ゆるぎない確信を持っているだろう(実は、そうでない場合にも数多く遭遇するのだが)。したがって当然のごとく製品(作品)志向であるが、だからといって経営側(マネージャーやマーケッター)がそこから一歩も踏み出さないでいるのには到底承服できない。マネージャーやマーケッターはアーチストの従属物ではないのだ。劇場・ホールに集まった人々を作品や舞台で教育したり、啓蒙したり、洗脳したりするのが目的ならば極端な製品志向でも良いのかもしれないが、芸術団体や劇場ホールは、教育団体でなければ、宗教集団でもなく、学校でも教会でもない。
コトラーは、作家マリヤ・マンズの次のような痛烈な意見を引用している。(以下『Standing Room Only』より)「今日のアーチストは公衆に向かって、『もしこれが理解できないなら、あなたはばかだ』と言っている。しかし私は、そうではないと断言する。もしあなたが苦労してアーチストに近づかなければならなかったとしたら、それはアーチストの落ち度なのだ」。そしてコトラーは「言い換えれば、アーチストと、アーチストの作品を上演している団体は、観客に対して責任を負っているということだ。アートを公衆に近づけ、公衆をアートに近づける努力は、低俗な欲望への迎合を示していない」とマーケティングを擁護する意見を述べて、「人間の成し遂げた最高のものに触れる経路を提供し、もっと基本的なことを言えば、人間の持つ人間性に触れる機会をもたらしているのだ」とアートとマーケティングのあいだに横たわる「神話」を完全に否定している。
さらに「マーケティングはアートと関連する際にも、アーチスティックなビジョンを脅かすものでも、弾圧するものでも、放棄するものでもない。マーケティングは押し売りでもないし誇大広告でもない。マーケティングは取引を作り出し、その取引を当事者双方にとって利益的なものにしようとする行動に影響を与えるための、健全で効果的な技術なのだ」と結論づけている。
マーケティングの目的はターゲットたる顧客の行動律に刺激を与えて何らかの「変化」をもたらし、当事者相互にWIN-WINの関係を創出することにある。