第四章 戦略的アーツマーケティングと顧客志向経営の実践-alaを事例として(3)
2009年2月4日
劇団青年劇場の土方与平氏からフランスの観客調査資料を見せていただいたことがある。フランスの文化コミュニケーション省がコメディ・フランセーズの観客調査をしたもので、その中に興味深いデータがあった。コメディ・フランセーズに1人で観に来る観客は全体の12%に過ぎない。次いで2人は50%、3、4人は22%、5人以上16%という数字が並んでいて、私が以前から感じていたことを、フランスのトレンドではあるが、かなり正確に裏付けてくれた。
顧客志向からの改革3(ビックコミュニケーションと生活提案型チケット)。
私がプロデュースして全国公演をした『おーい幾多郎』の米子公演のデータでは、1人での観劇はおよそ24%、複数での来場観客が69%(内訳 夫婦23%、家族15%、恋人1%、友人26%、同僚4%)という結果であった。日本でのこの種の調査はほとんど報告されていないが、フジテレビ営業局の行った調査にそれに類似したものがある。それによれば、趣味活動をする人たちは1人では28.8%、2人では47.1%、3人以上が24.1%となっている。可児市文化創造センターで2008年1月に行われたウィーン・フォルクスオーパーのニューイヤー・コンサートでの調査では、1人の来場が15%、複数人数は69%(4人以上9%)である。
私は40年以上劇場やコンサートに通い、年間多い年で430本観てきた経験から、1人で劇場やコンサートホールに来ている観客・聴衆は非常に少数ではないかと感じていた。それを裏付ける数字が上記のものである。
つまり、一人の顧客のうしろには数人の潜在客が控えているのだ。したがって、この潜在客を掘り起こすバズ・マーケティングやバイラル・マーケティングをどのように仕組むかが、観劇やコンサートのように嗜好性の強い、あるいは参加障壁の高いサービスにおいては重大な経営課題となると考えていた。
さらにニューイヤー・コンサートの際の別の調査結果では、鑑賞前後に食事やお茶を楽しむ習慣のある人が60%にも上った。これらのデータを根拠として「ビックコミュニケーション・チケット」を立ち上げた。これは潜在顧客の掘り起こしという経営課題に対応するチケッティング・システムである。
一緒に鑑賞する仲間や家族が4人目になるとすべてのチケットが10%OFF、6人目からは20%OFF、8人以上になると30%OFFという、当日ハーフプライスを除けばalaでの最大の割引率となる。また、複数客席をお客さまの望む指定の客席で押さえられるチケッティング・システムのため、顧客体験を共有して、経験価値を高めることを促すようにもなっている。従来からの「団体割引チケット」とは一線を画す目的をもっていることは言うまでもない。
ただ、このチケッティング・システムは、あくまでもバズ・スターターやバイラルの基点となる顧客の行動をサポートする目的でつくられていることを断わっておかなければならない。お客さまにセリングのエージェントとなってもらう仕組みではあるが、それ以前に、ロイヤルティの高い顧客創出のためにコミュニケーションを活発化する仕組みは全組織的に設計されなければならないだろう。バイラルの基点となるお客さまが、連れ立って来場した「同伴者」に感謝されるように演出する劇場環境の整備と職員意識の高度化は必須である。
さらに生活提案型チケットは、「ラブレター・チケット」、「アニバーサリー・チケット」、「ホットファミリー・チケット」の三種類を計画している。親しい人と音楽や演劇と食事やお茶や会話を楽しんでいただこうという、誰にでもある「特別な日」、「記念日」に向けた企画型のチケットだ。カードの見開きにメッセージの書けるカード型チケットで、片側にチケットをクリップしてプレゼント相手に「気持ち」を贈ることをコンセプトとしている。それを封入する封筒も「大切な人からのプレゼントです」と印刷された特製のものにする。このチケットも、芸術への心理的な障壁を、親密な人間関係で克服していただこうという企図を持ったものだ。
顧客志向からの改革4(いかに参加障壁をなくすか・チラシへの気配り)
芸術文化への心理的な障壁が、芸術文化への無理解の根幹にあることを私たちは知らなければならない。福祉と文化を天秤にかける暴挙にさらされたびわ湖ホール問題も大阪センチュリー交響楽団の補助金大幅カット問題も、根はここにあると言って良いだろう。文化は人々が安心して、幸せに暮らせる福祉社会を形成するために必要不可欠な一要素である。福祉社会をつくるための社会的必要(social needs)に裏打ちされた社会資本である。日本人の多くは「福祉」を弱者救済と誤解している。「福」も「祉」も‘さいわい’を意味する言葉で、社会的にも、個人的な意味でも幸福と繁栄を指す言葉である。そのような社会を実現するためにも芸術文化は重要な社会的役割を果たさなければならない。
したがって、人々の間に定着して、染み込んでいるアーツへの忌避感や無縁であるという感情、関わり合いを持つ糸口がないという障壁を取り除く仕事に、私たちは取りかからなければならない。芸術文化への心理的な障壁は、むしろ芸術文化の側がつくっていると私は考えている。したがって、この障壁をなくす努力を私たちはしなければならない。「分かる人間に分かってもらえばよい」というアートの側の姿勢は、芸術文化の社会的価値財化のためには、何の解決ももたらさない。
いま一度、フィリップ・コトラーのこの言葉を味わっていただきたい。
マーケティングは座席を満席にするための懸命な方法を考え出す技術ではない。マーケティングは本当の顧客価値を生み出す技術なのだ。「顧客」がもっと豊かになるのを助ける技術なのだ。
『Standing Room Only』でコトラーが次のように看破したことはすでに書いた。「実際には、非営利団体のかなりの数のマネージャーが、ある種の軽蔑を持って顧客を見ている」。意識はしていないのだろうが、芸術文化の側にある「エリート主義」は、たとえばチラシのデザインやキャッチコピーにも現れている。この障壁を取り除く努力をしないで公的支援を仰ぐのはいかがなものかと思う。公的援助は、芸術文化の社会的役割への筋道をつけることに対してもなされているのだと、私たちは意識しなければならない。
たとえば、クラシックのチラシを意識して観察すると、演奏者やソリストの顔写真が並べられているだけのものが非常に多い。その演奏会で聴衆にどのような「体験」をしてもらいたいのかのメッセージ性がまったくない。その顔写真の音楽家を知らない人にとっては何の意味を持たない紙切れに過ぎない。意味を持たないばかりか、来なくても良いというメッセージに私には見えてしまう。
こんなことがあった。可児市文化創造センターは2007年秋に急遽新国立劇場の『屋上庭園』と『動員挿話』の二本立て公演を翌年の3月に上演することになったのだが、事前に送られてきたチラシを見て、チラシを買い上げて上演場所や開演時間などの追い刷りするという通常のやり方を止めた。了解を得て、アーラ独自のチラシを全面的に作り直すことにした。デザインにも首を傾げたが、キャッチコピーが「近代演劇に新風を吹き込んだ岸田国士の名作。待望の再演!」と「『近代日本』はこんな『現代劇になった』だった。このコピーは可児市民にとっては意味不明である。
3200万の人口である首都圏というマーケットでは「岸田国士の名作。待望の再演」でも2000人程度の観客は見込めるが、可児市やその周辺市町村を含めたおよそ30万の商圏では、このキャッチコピーでは顧客の心は動かない。劇場は「教室」ではないのである。どのような顧客価値を味わっていただきたいのかのメッセージは絶対に必要である。地味ではあるがきわめて良質の舞台であることは私自身の目で観ていて間違いはない。この舞台で何を体験してもらいたいのかを明確に打ち出さなければ「客は動かない」と直感した。
そこでメインのキャッチコピーを「いつの時代も、人間は懸命に生きている」に差し替えた。東海地区での新国立劇場作品の上演が初めてであったことから、二作品のタイトルのあいだに細く「あの、新国立劇場がやってくる」を差し込んだ。急遽の上演であったが、結果は346名の観客数で、そのうちウェブからのチケット購入者は75名で21.7%だった。評判は良かった。実施を決断してよかった、観ていただいて良かったと思っている。ただ、オリジナルのチラシだったらどうだったか、という思いはいまだに消えていない。
私は、チラシひとつとっても「顧客志向」であるべきだと思う。チラシはお客さまにどのような「経験」をしていただきたいかの、最初のメッセージである。そのチラシを目にしたときから、顧客の「経験価値」は始まっていると私は思う。「分かる人間にだけ分かってもらえばいい」は引かれ者の小唄か、鼻もちならないエリート主義のたぐいだ。芸術の障壁は私たち芸術の側に立つ人間の努力で排除しなければならない。アーツマネジメントやアーツマーケティングに携わる人間の重要な任務(task)である。
ビックコミュニケーション・チケットも生活提案型チケットも、音楽や演劇やダンスという劇場内での体験だけに顧客価値をとどめないで、その価値を付加価値によって拡張させようとするものだ。その拡張した価値を複数人数で共有してもらおうとするチケット設計である。そのことで「芸術の障壁」を意識することなく行動してもらおうと考えられた。劇場・ホール内での芸術体験と等しく、食事、語り合い、共通体験から来るだろう融け合う心も顧客が獲得する価値であると私は考えている。
顧客志向からの改革5(ようこそ可児へ年間パスポートとバイキング・バイ)。
事務量の多さからまだ未着手ではあるが、さらにお客さまの立場にたったチケット設計が進められている。
ひとつは、「ようこそ可児へ・年間パスポート」で、これは可児市に転入してきた人々に抽選で可児市文化創造センターの年間ハーフプライス・パスポートを差し上げようという取り組みだ。可児市は外国人居住者が多いところで、転職のたびに転居する例が多い。したがって、転出入は年間でおよそ800世帯にものぼる。「新しい生活」を出発させようとしている世帯がそれだけ多く可児市内に存在するということは、「劇場のある生活」を始める機会も同じだけあるということだ。
この気分の一新した生活を始めようとしている方々に、一年間にわたって「ala体験」をしていただこうという考えである。転入してくる方々にとっては「劇場のある生活」を始める機会であるということは、劇場にとっても、新しい顧客開発(創客)の機会である。これまでalaは多くの機会ロスをしてきたと私は思っている。転出入の世帯が多いということは劇場にとって経営資源が手の届くところにあるということを意味する。また、「芸術の障壁」への対処策としても、気分を一新して生活を始めたところに「劇場」のパスポートを差し挟んでいただくということで、行動心理学的にもきわめて有効な施策である。
米国の年間予約会員制が機能しなくなってきていることはフィリップ・コトラーやジョアン・シェフ・バーンスタインによって報告されているが、ジョアン・シェフ・バーンスタインによれば「多くの人が『指定』席や定期会員への割引よりも、『座席を選べる』柔軟性や選択権に高い価値を置いていることが明白になってきている」(『芸術の売り方』)とその理由を述べている。また、一ジャンルに執着する観客がベビーブーマー・ジュニアを中心に減少していることも報告されている。このトレンドは米国だけのものではないだろう。
バイキング・バイ・チケットも未着手ではあるが、拡大した2008年度のパッケージ・チケットの動き方を分析して動かそうと考えている。パッケージ・チケットにはほとんどの公演が網羅されているが、クラシックと演劇、演劇とポップス、ジャズと演劇のように分野をまたいで鑑賞機会を持ちたいと思うトレンドは今後ますます強くなっていくだろうし、「柔軟性や選択権に高い価値を置いている」顧客が将来にわたって多くなることも予想できる。
バイキング・バイ・チケットに類する制度は、在京のオーケストラ団体はもうすでに導入しているが、それをもう一歩進めて異なるジャンルのチケットを自分の好みやスケジュールに合わせて5ないしは6公演をチョイスできる仕組みだ。ジャンルをまたぐということが大切なコンセプトだが、地域の公共劇場・ホールの場合、ワンステージ公演がほとんどであり、日程の調整はピンポイントとならざるをえない。この忙しい時代にピンポイントで日程調整するのは容易なことではない。劇場の事業日程に自分のスケジュールを合わすのではなく、自分の日程に合わせて事業を選択する行き方もありうると考えるのである。
さらに、2009年度からは、パッケージチケット購入者には、そのほかの公演をアラカルトから選んでプラスできるシステムを動かし始める。20%OFFに設定している。別の言い方をすれば、パッケージチケットを購入した方には、もう1枚が20%OFFで購入できる権利が発生する、ということだ。むろん、パッケージに入っている公演をもう1枚買い足して、友人と見に来るプランを組み立ててもかまわない。ただ、このプラス・アラカルトは、分野を超えてクロスオーバーする鑑賞者を創出する狙いがある。可児のような中小都市では、演劇だけの愛好者、クラシックだけの愛好者、ではなくて、良いものなら何でも参加しようとする顧客層を形成しなければならせない。
また、むろん、ライフスタイルが変化していく今後は、パッケージ・チケットのキャンセルシステムも同時に動かさなければならない。劇場内で他のチケット購入やレストラン利用に使用できるバウチャーに交換できるか、ウェブ内で買い手を探せるページを立ち上げるか、そのいずれかになるだろうが、はじめからライフスタイルと日程の都合に合わせて、自分で公演をチョイスしてパッケージできるチケット設計も近々必要になるだろうと思っている。
顧客接点(Contact Point)の重要性と情報の共有。
ここでいま一度、ブランディング戦略に話を戻そう。列記したチケッティング・システムもまた、ブランディングの一環と私は位置づけている。顧客の利便性と受取価値に着目して設計をしていることが、それを物語っている。ここで問題となるのが「顧客接点」(Contact Point/CP)の重要性である。
私が着任して最初に「どのように手を打てばよいだろうか」と思ったのが、チケット発券をするインフォメーション・デスクのスタッフが外部委託業者からの派遣であるという点だ。「顧客接点」という点では最重要視しなければならない部署なのだが、委託業者であることで情報の共有に困難性が伴う。当時は、「私つくる人」、「あなた売る人」の意識がアーラの事務所内にもあった。派遣祝員が館長ゼミ、課内会議などに加わることは派遣法の制限で難しい。それでも、お客さまともっとも密接に接触するスタッフと事務所内の職員との、事業の詳細、企画意図のみならず、劇場のミッション、設定されるゴールなども共有がなければ、顧客サービスに落ち度が出てくるのは到底避けられない。
着任してすぐに事務所職員、事務委託職員、警備、管理、清掃の委託業者からのスタッフ総勢80名に対して、4回に分けて、経営方針とミッション、目指すゴールの詳細を説明するミーティングを開いた。顧客志向と地域社会や市民との契約履行に対しての姿勢を各一時間半ほど割いて説明した。警備、管理、清掃のスタッフは、そのあたりを大掴みに把握していれば良いと思っているが、インフォメーション・デスク、貸館利用受付を含めた事務職員は、毎日毎刻が市民との接点にあり、サービスの品質が問われ、与えられた情報だけでは対応できない「応用問題」に即時に答えを出していかなければならない。それができることが、顧客接点でのブランディング戦略をスムースにする。
当たり前のように思えるかもしれないが、事業遂行や舞台の品質に意識を集中させるあまり、私たちは案外と「顧客接点」の重要性を見落としがちだ。「顧客接点」とは自分たちのことを知ってもらう機会であり、それはブランディングにつらなる重要な仕事(task)である。それだけに派遣法の制限が障壁となったが、懇話会のようなかたちでスタッフと話し、問題点や改善点を聞き取り、それを事務所内にフィードバックさせることをやるうちに、事務所内の総務課に設置した顧客コミュニケーション室や事業制作課のスタッフの動きにも変化が見えるようになった。インフォメーション・デスクのスタッフとのコミュニケーションがスムースになっていった。
派遣法の障壁は越えようもないが、その許容範囲内での改善努力は不断に続けるべきだと思う。お客さまから見たら正職員も契約職員も派遣職員もないのだから、当たり前といえば実に当たり前のことである。
CPとは課題を別にするが、事務所内のコミュニケーションと情報・課題の共有を推進するために、2009年度から事業運営に「ワークアウト」を導入する。ワークアウトとは、かつてGEのCEOであったジャック・ウェルチ氏が1988年に提起した概念であり、できる限り現場に近いところへ問題解決と業務改善をエンパワーメント(権限委譲)し、迅速かつ集中的に意思決定するためのプロセスのことを指している。可児市文化創造センターでは、事業事務が動き始める3か月から6か月前に、事業の主担当、副担当、当日のサポート員、舞台監督、マーケッターが集まり、まず事業のSWOT分析から始まり、事業の進行に従ってのワークショップを行って、課題、問題点を抽出し、その解決策を共有することから始める。問題解決のスピードをあげるために、館長、事務局長、事業制作課長のいずれかをオブザーバーとして臨席させて、その場で遅滞なく解決策とそのための環境改善を意思決定できるようにする。突発的な問題が生じたときには緊急のワークアウトを招集して解決に当たるが、そのときにも必要ならば館長、局長、課長を招集できる権限を持たす。このワークアウトによって、事前にあらゆる情報を共有して、全チーム的な対応を可能にすることを企図している。
さらに、そのワークアウトで事前にベスト・プラクティスの構想を基準として、事後評価までをするようにしている。それによって、技術集積を起こそうというものである。アーラでのワークアウトは、失敗を学習の機会にするための仕組みともいえるだろう。
マーケティングひとつとっても、かなり複雑なものとなってきており、事業にかかわる職員一人ひとりが戦略的思考を共有していないと仕事がスムースに進行しなくなっている。ワークアウトは、その対応策である。