第三章 経験価値マーケティングとブランディング(3)
2008年11月9日
私が10年ほど前から提唱している「創客」というサービス業におけるマーケティング概念は、顧客との関係づくりによる「顧客維持」と、双方向のコミュニケーションによって起こる「顧客進化」のプロセスを内包し、それを強く意識して企図するマネジメントの仕組みである。「顧客維持」と「顧客進化」は、劇場内で起こる舞台と客席とのコミュニケーションをも含めた、顧客とのコミュニケーションの集積の結果として、顧客と劇場・ホール、芸術団体との信頼関係と、それに基づくコミュニティ形成(地域社会から家族までのあらゆるコミュニティ概念)というマネジメント成果としてアウトカムする。
通常、私たち舞台芸術関係者は、「動員」とか「集客」という言葉を日常的に使用するが、これらには「掻き集める」というマス・マーケティングのニュアンスが色濃くあり、また何よりも舞台芸術の狭隘な市場との整合性に著しく欠ける、と私は考えている。
顧客の嗜好は概して移ろいやすいものである。したがって、マーケッターは、顧客のライフスタイル形成に深く関わって、継続的に劇場・ホールに足を運ぶ強いモチベーションを顧客のうちに構築しなければならない。そのためにはあらゆる手段を駆使して創客の仕組みを設計し、顧客の経験価値を高度化する「演出」を駆使しなければならない。あるいはコーズ・リレイテッド・マーケティング(CRM 社会貢献型マーケティング)を計画的に展開させて劇場・ホールや芸術団体の社会的価値を高めなければならない。
創客の思想へ。
「創客」の概念は、観客数を増加させるという単一の目的にとどまらないマーケティングの考え方である。劇場・ホールや芸術団体の利害関係者(ステークホルダー)すべてに働きかけるマーケティング、とその意味するところを広義に捉えなければならない。そして、ステークホルダー・マーケティングによる地域社会とのよき関係づくりは、長期的には活動存続の基盤を堅固にする。このマーケティングの考え方が、指定管理者としての強固な基盤形成に直結するのは言を待たない。
劇場・ホールや芸術団体が対象とするステークホルダー市場は、顧客市場(CustomerMarkets)はむろんのこと、世論市場(Influence Markets)、地域社会市場(Community Markets)、採用市場(Recruitment Markets)、仕入れ・調達等の業者市場(Supplier Markets)、委託市場(Referral Markets)、組織の内部市場(Internal Markets)のおよそ7つの市場に分類される。これらの各々の市場との良好な関係づくりをミッションとするということは、「創客」がブランディンク・プロセスをも内包していることを意味する。ここに至って、「創客」とは、「集客」や「動員」とまったく異なるフェイズにあるマネジメントであり、マーケティングであることが理解されるだろう。一部の芸術愛好者を対象にする仕事から、エリアのすべての人々を視野に入れて、すべての人々に必要とされる社会的認知を得ることをミッションとするマーケティングの概念なのである。
したがって、ここでいう「顧客」とは、劇場に来る観客とはイコールではない。劇場・ホールや芸術団体の取引業者や、そこに所属する職員にまでマーケティングの範囲は拡がる。販売はマーケティングの一部に過ぎないことをまず認めるところから、私たちの「創客」へのアプローチは始めなければならない。
ブランディング― 外部からの評価をマネジメントする。
「バカモノ、ワカモノ、ヨソモノ」。これは、私がまちの活性化を図る上で必須な要素として挙げるフレーズだ。ここでブランティングに重要な役割を演じるのは「ヨソモノ」である。すなわち外部の目からの評価である。これがなくてはブランディングが成功しない。「バカモノとワカモノ」の独りよがりに終わってしまう。
「ヨソモノ」が必要ということは、域内ではない第三者、あるいは機関が何らかのかたちで関わるプロジェクト設計や事業計画をしなければならないということだ。地方自治法の244条を回避するかたちで公共ホールとしては稀有な「鑑賞会員制」を敷いて複数回数の公演を成功させた能登演劇堂と、24時間365日利用可能の、市民ディレクターによる事業運営の金沢市民芸術村のプランディングを企図したときは、私が多くのメディアで書きまくり、喋り捲ることで短期間にブランド化を成功させることができた。この際の「ヨソモノ」は、まさしく物書きとしての私であった。これは私自身が、私の関心をマネジメントした例である。しかし、そのような例はきわめて稀であり、多くの場合は、経営陣が経営管理型の戦略的ブランディング設計をしなければならない。
紙媒体、ウェブサイトでの計画的な情報発信、芸術的評価の高い作品の創造発信、組織と仕組みの大胆な改革改善の実行とその外部への広報など、外部の人間の関心を集める工夫と、その共振者に「身内意識」を持ってもらうためのマーケティングをしなければならない。
これはきわめて細やかな神経を使う仕事(task)であり、成果の上がりにくい作業(operation)であり、かなりタフなマネジメントである。後述するが、企業や政府自治体とのコラボレーションを成功させるのにも、第三者の評価が反映されたブランド活用による成果が必要となる。また、高いブランド力を持つ域内の他の公共文化施設とのコラボレーションを成立させたり、芸術団体にとってはブランド力のある劇場・ホールで公演することもまた、「第三者的な評価」に関わることであり、ブランディングに寄与するマネジメントである。
ブランド力は社会的信頼という無形資産(関係資産)である。その意味では、多種多様な顧客とのコミュニケーション様式のひとつであると考えられる。この構築は、経営戦略においては最重要課題となる。それは、顧客が感じる商品やサービスの不確実性を減少させるのにブランド力が大きな力を発揮するからだ。前述したように、舞台芸術は無形性の商品であり品質を判断することが難しい(認識の困難性)ので、ブランドが重要な役割を果たす場合があるのだ。
今田高俊は『モダンの脱構築』で「習熟した消費者は企業に先行してはいるが、消費者自身、自分が見えていない状況のもとで、自分の生活観を確立しようとしているという前提があります。つまり企業の側からすれば消費者に先行されているにもかかわらず、消費者自体が確たるライフスタイルを描ききっておらず、追いつこうにもどう動けばよいのか指針を見いだせないでいます。それが企業が消費者から置き去りにされているということでもあるのですが、このままでは手の打ちようがないというのが実態です」と述べている。
そのようにあてどなく浮遊していると同時に、前述したように時間の希少性と有り余る選択肢を提示されている今日の消費者を相手にビジネスをする以上、ブランド戦略がきわめて重要であるのは言うまでもないことである。
社会的存在理由と向き合う芸術経営へ。
芸術文化の評価軸は大きく三つの柱によって構成されていると考えている。その芸術性や先駆性に対する評価である「芸術的評価」、社会的存在意義や社会的効用に対する「社会的評価」、芸術会計の健全性や資金調達の多元性や適正性、外部への経済効果などを評定する「財政的評価」の三本の柱だ。
英国の労働党政権が、サッチャー政権下で推し進められた個人主義的な社会風潮を「行き過ぎ」と評価して「コミュニティ重視」の社会政策を打ち出し、94年に創設されていた「国営宝くじ」を財源とした芸術文化への資金導入が推進されたことはすでに述べた。ここでは「コミュニティ重視」の政策目的を達成するために間接的に芸術支援が行われたことに注目してほしい。
ここでいう「コミュニティ」は地域社会のみならず、「家庭」、「職場」などを含んだすべての共同体を意味していることにも注目したい。
私は「鑑賞者開発」は「芸術助成機関や地方自治体はコミュニティにコミットした芸術を支援した」(ジェラルド・リドストーン ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ教授)のであって、結果として劇場・ホールを下支えしたが、必ずしも無条件で芸術そのものを支持したのではない、と前述した。実は、ここに「創客」のヒントがここに隠されている。「創客」は芸術の愛好者や支持者を創り出すことでは必ずしもないことに着目してほしい。もっと大きな枠組みのなかで、舞台芸術や劇場・ホールの社会的機能を地域社会の中に位置づける考え方である。
「英国芸術評議会の『鑑賞者開発』はマーケティングを社会改革にまで敷衍するコミュニケーションの作法なのである」と第一章で書いた。つまり、労働党政権は、価値観の多様化という社会の変化によって評価自体が個人差により不分明になりがちな「芸術的評価」ではなく、社会との接点という客観性を容易に担保でき、誰の目にも分かりやすい「社会的評価」を文化政策の軸に据えたのだと言えよう。そのような政策が、行き過ぎた市場原理主義による社会の荒廃を是正しようとする政府の基本施策と一致したのである。日本においても、同様な施策が急務であることは言うまでもない。つまり、当時の労働党政権は、公的な資金を芸術文化の高い社会的ポテンシャルに投入することで、芸術文化の普及とあわせて社会問題の解決、すなわち「コミュニティの再生」を政策目的としたのである。このことは英国が、福祉、医療、教育の各政策と同地平の社会政策のひとつとして文化政策を位置づけたことを意味する。現実的には、社会貢献活動へのアーチストの参加と、それを促す劇場・ホールなどの文化施設の組織の改革(エデュケーション部署やアーツ・デベロップメント部署の設置)を義務づけることで、公的資金の投入に踏み切ったのである。
この意味は小さくない。結果的に、英国において芸術文化の社会的存在理由に国民的コンセンサスを付与することになったのである。むろんそのことによって、きわめて前衛的・先駆的な芸術活動に資金が手当てされなくなったり、ロングランで多くの観光客を集めるなどして産業化しているウエストエンドの活動が対象にならなかったりと、政策的瑕疵が一方で問題視されたことは否めない。だが、劇場・ホールや美術館が、何らかの社会的・福祉的課題や教育施策を実現するための「政策手段」であるとの認知が得られたことの意味は大きい。そのことによって、芸術そのものや劇場・ホール等が一定程度の社会的信頼(ブランド)を獲得することになったのである。
私はウェブに連載している「館長エッセイ」で次のように書いた。
公共劇場・ホールの建設目的を「地域文化の振興」と謳うのにも、私はいささか抵抗を感じます。私は、公共劇場・ホールの設置自体が「政策目的」ではない、と考えています。設置自体を目的化しているような文化施設はいくらでも造られたのですが、しかし、公共劇場・ホールや美術館、スポーツ施設などは、あくまでも政策目的を達成するための「手段」であって、むろん設置自体が政策目的では決してありません。そうあってはいけないと思います。地域の社会福祉政策目的、コミュニティの問題解決のための「政策手段」として設置されるべきだと思っています。文化政策はむろんのことですが、それだけではなく、教育政策や福祉政策、医療政策などの、いわば社会政策の「手段」としての公共劇場であり、公共ホールであるべきだと考えるのです。
英国のブレア首相は、1994年にソーシャル・インクルージョン(社会的包括)という社会施策のポリシーを決めて、その政策目的を実現するために国内の文化施設に公的資金を投入することにしました。コミュニティの問題解決のために劇場や美術館を活用したのです。ここで言うコミュニティは、地域社会のみならず、家庭や職場をも指す広義の概念です。英国政府は芸術家に、学校や福祉施設や刑務所に行くことを奨励したのでした。小規模のコミュニティ・アーツ・センターから大規模な地域劇場、ホール、美術館まで、人種の違いや階級的格差、性差、世代格差、貧富の格差、マイノリティの経済的格差などを社会全体で包括して「誰もが健康で文化的な生活を送ることができるように、人々を孤独や排除から救い、万人を社会の構成員として包み込むことを目指す」ための政策手段として位置づけたのでした。英国が社会福祉政策の手段として劇場や美術館を活用しようとしたのには、「芸術的評価」とは違い、「社会的評価」にはほとんど個人差がないことが理由でした。劇場やホールを「芸術的評価」で格付けするのは、芸術作品の受け取り方は千差万別であり、あらゆる人たちに説得力を持たせるのはほとんど不可能なのに対して、「社会的評価」を軸にすれば非常に分かりやすく、目に見えやすく、多くの人が納得しやすいことがありました。
ひるがえって日本では、「誰のための公共劇場・公共ホールなのか」という問いに対して、明快に答えられる施設がいくつあるだろうか。公共によって建設された劇場・ホールの運営には、建設費のおよそ5?6%の予算がかかると言われている。そのおよそ80%が、委託費を含めた維持管理費である。しかし、昨今の指定管理者制度によって、維持管理さえおぼつかない予算しか手当てされていない施設が多くなってきている。
憂うべきことであるが、ホール建設を「政策手段」の設置ではなく、「政策目的」としていたのが実態なのだから、大方の自治体の掲げていた「文化政策」とやらの正体が現れたというだけである。建設だけが政策目的であったということだ。ホール建設という大型公共事業をすること自体が政策目的であった場合がほとんどなのだから、栗東市の「さきら」のように、開館して七年目に指定管理者を民間のビルメンテナンス業者に年間およそ2億8百万円で丸投げをして、しかも毎年5億円の建設に関わる公債費を償還しているという理不尽な事態が起きるのである。ならば、建設費の98億円とも101億円とも言われる金額は何なのだったのか。まさしく建てることだけが目的であったとしか思えない。次回の指定管理者の切り替え時に栗東市は、「さきら」の廃館も視野に入れているという中央の文化機関から情報もある。明らかに「行政の失敗」にほかならない。劇場・ホールの社会的存立理由に何らの関心もなく建設してしまった「ツケ」を住民は払わされているのである。
憲法第十三条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という条文は、国民の幸福追求権を規定しており、公共文化施設は、文化芸術振興基本法の第二条第3項にある「文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利」であることを前提として、この幸福追求権を形成するインフラストラクチャーと位置づけられる。むろん、先述した欧州各国のソーシャル・インクルージョン政策の吟味を待つまでもなく、芸術文化は社会福祉政策上も重要、かつ有効な社会的ツールとなるのは言うまでもない。