第五章 「創客」は誤解されている。

2010年11月5日

素晴らしいパフォーマンスを作るものは何か、というのはよく聞かれる質問だが、この質問は翻って言えば、素晴らしい観客を創るものは何か、ということである。

(P・コトラー&JS・バーンスタイン『Standing Room Only)

マーケティングは座席を満席にするための懸命な方法を考え出す技術ではない。マーケティングは本当の顧客価値を生み出す技術なのだ。「顧客」がもっと豊かになるのを助ける技術なのだ。 (同上)

私が「創客」という言葉を最初に使ったのは、90年代半ば少し前に、岡山アートファームの大森氏のコーディネイトで行われた岡山県立美術館でシンポジュウムでのことだと記憶している。ピーター・ドラッカーの「顧客創造」にヒントを得て、フィリップ・コトラーのマーケティング理論と、ドン・ペパーズ、マーサ・ロジャースの「ONE to ONE」理論を敷衍して「創客理論」を積み上げた。それは、リレーションシップ・マーケティングをベースにして、長く触れ合い、思い出を共有することで創られる人間関係に依拠したマーケティング=顧客創造を想定したものだった。当時は、ワークショップが盛んに行われ始めた頃であり、「アートマネジメント」に次いで「ワークショップ」がはやり言葉のように言われ始めていた。その現場に何度も立ち会う中で、アーチストと参加した市民とのあいだにきわめて密接な親和的な関係が創られていくことに着目したのだ。ワークショップの参加者は、JRや長距離バス、なかには飛行機を使って、アーチストの関わる舞台を観に東京に出掛けていた。なかには、これはどういうことだと訝れるような、それまで演劇とは縁のなかっただろう普通の主婦や一般市民までが、入場料ばかりか、長距離移動や休日返上という「コスト」を支払ってまでアーチストの関わる舞台を観るために東京に馳せ参じていたのである。ここには顧客創造のための何かがある、と直感した。これが、「創客」という言葉を使った嚆矢である。

その直感が、私を「マーケティング」という分野に誘い込んだ。マーケティング関連の書籍を乱読するなかで出会ったのが、フィリップ・コトラーの『マーケティング・マネジメント』をはじめとする彼の一連の著作と、ドン・ペパーズ&マーサ・ロジャースの『ONE to ONE MARKETING』を嚆矢とする連作であり、その翻訳者であり、「ワン・トゥ・ワン・マーケティング」の日本への紹介者であり、当時は慶応義塾大学総合政策学部教授であった井関利明氏の著作であった。少し遅れてセオドア・レビットの名著『マーケティング近視眼』、『無形性のマーケティング』、インタヴュー『マーケティングの針路』に触発された。フリップ・コトラーからは「生き方」を学び、レビットからは「ものの考え方」学び、井関氏からは、その後幾度かお会いしてマーケティングの関する多くの示唆をえることになる。

話を本題に戻そう。私のその時の「直感」は、その後、前掲の一連の著作に学びながら、次第に大きく的を外してはいないという確信になっていく。私は、目撃したワークショップの参加者の心理を丹念に追うことから始めた。まず、もしそれほどまでして観に行った舞台が耐えられないほど酷いものだったらどう感じるだろうか、と考えた。彼らの中には、地域で何年も演劇活動をしている者も当然いるのである。したがって、鑑賞眼のない人間ばかりではない。彼らは創造現場を何回も踏んでいるのだ。しかし、仮にそうではあったとしても、彼らは踵を返すように当該アーチストとの「関係性」を絶つことはないだろうと推測できた。現に、彼らのあいだはより親密になっていくのだ。翌年のワークショップにも彼らは必ずと言ってよいほど参加してくる。参加してきたことが「驚き」になるほど、批評家の私の目からは、彼らの体験した舞台は感心できるものなかった。であるにも関わらず、彼らのあいだには親密度が増していくのである。彼らは表現者と観客という関係以前に、「思い出=体験」を共有し、「長い時間=コスト」を共有する「間柄」に進化していたのだ。

舞台の出来不出来は、おそらくはここでは関係がない。それを問題としない強い結びつき、いわば強い「きずな」が出来上がっていたのだ。この事実が、私に「創客」へ向かうためのマーケティング・プロセスを確信させることになる。舞台のひとつひとつに、いちいち反応し、離反さえする顧客ではなく、劇場や団体の支持者や支援者として、いわば「関係者」のように、あるいは「縁者」のように舞台と向かい合ってくれる顧客を創造することに私のマーケティング理論は向かうことになる。移ろいがちで、気儘な顧客ではない固定客の創出、舞台の出来不出来には左右されない「浮遊性のない顧客」。これが「創客」における顧客のおおよそのプロファイルである。これと表裏となって、劇場・ホール、芸術団体のブランドづくりの手法が課題となってくる。組織や文化機関の「ブランディング」は、ときに「創客」と同時進行となる。

そして、私の「創客」の理論化を大きく前進させてくれたのが、当時、前掲の井関氏と同じ慶応義塾大学の商学部教授だった井原哲夫氏の『愛は経済社会を変える』であった。フィリップ・コトラー、ピーター・ドラッカー、セオドア・レビットの論文に絶えず触れながら、そこから「アーツ」に敷衍できるマーケティング・エッセンスを取り込み、井原氏の、私が勝手に命名させていただいた「身内意識論」と融合させながら、リレーション・マーケティング理論をより進化させることに私は関心を傾注することになる。劇場・ホールにロイヤルティをもつ顧客を創り出すために、潜在顧客を顕在化させたのちに、初期顧客(early customers )⇒ 継続顧客(repeaters)⇒固定客(clients)⇒支持者(supporters)⇒支援者(advocates)⇒協働者(partners)と進化させるために芸術団体、劇場・ホールは何を施せばよいのかを考えた。支持者、支援者、協働者という「身内意識」(a sense of belonging)をもった、すなわちロイヤルティの高い、劇場・ホールや芸術団体と一体感をもった顧客づくりの継続的・螺旋状の生成のプロセスを「創客」と定義したのである。

従来からのチラシやポスターやDM、パブリシティ広告などは潜在客を顕在化させるだけで、その後のケアやアプローチがなければ、それはほとんど一過性の顧客を掻き集めるだけに終わってしまう。たとえ満席となっても、それは「瞬間最大風速」に過ぎない。そのように、せっかく多額の広報宣伝費を使って潜在顧客を顕在化したのに、短期間で大量の顧客を逃してしまう芸術団体を、私は沢山見てきた。無論それは劇作家や演出家の才能の枯渇という問題、つまり「才能の消費」という演劇界全体で考えなければ何らない問題もあるだろうが、マーケティング・プロセスの軽視、あるいは無視もあったのではないか。毎公演3万人近くの客を集めているのに、5年たっても、10年たっても「3万人」のままというのは、どこかが間違っているとしか思えない。芸術団体の経営スタッフは、そのことを疑ってみる必要がある。何かのアプローチが欠落しているのだ。したがって、私は、非潜在客(suspects) ⇒潜在客(prospects) ⇒有力見込客(leads)というプロセスを創り出す、劇場・ホールや芸術団体の戦略的なブランディング手法と、前述のその後の継続的・螺旋状の「顧客進化」を連結させたマーケティング・デザインを描こうとした。その総体を「創客」の戦略的スキームと考えた。

井原哲夫氏の『愛は経済社会を変える』に話をもどそう。経済学は、人間を利己的な存在であるという前提条件(ホモ・エコノミクス)で世の中の事象を扱ってきたが、井原氏は、「愛」もまた利己心から起きると問題提起をする。合理的な選択をする「ホモ・エコノミクス」を想定して社会の事象を分析してきた経済学者らしい仮説を立てる。なのに、人間は莫大な費用と膨大な時間を「愛する者」のために費やすことが間々ある、というのが著者の疑問として浮かび上がる。あまりにも不合理と考える。「愛は自己の犠牲のもとに他に与えるものであり、その行為の社会的評価はきわめて高い。一方、利己心とは他人のことは顧みず自己の利益や快楽だけを求めることこころであるから大変評判が悪い。まるで反対の極に位置しているようにみえる。実は、この二つが密接に結びついているのだから面白い」と展開して、「人間には<自己愛>の範囲を広げるところがある」と説いてみせる。つまり、子どもが受験に失敗すれば大いに落胆し、合格すれば「我がこと」のように喜ぶ。ひいきのプロ野球チームやJリーグチームが勝ったり、母校だけではなく、故郷の高校が甲子園で勝てば「我がこと」のように欣喜雀躍して、サヨナラ負けにでもなれば心が痛む。心底から悔しがる。これは「自己愛」が広がった結果であり、これを「身内意識」」と呼ぶ、と井原氏はこの論の基点をつくる。

ならば子どもを持ったことを後悔しているのかと問えば「とんでもない」という返答があるし、そんなに心配ならひいきのチームのファンをやめればよいと忠告しても「考えられない」と反論されるという。「どうも、現象からみるかぎり、人間は身内意識をもてる相手を求めているようなのだ」と分析して、「人間は愛の対象をもとめているといえる」と結論づける。井原氏の結論は、「自己愛」を広げたがっているのが人間の本性である、ということだ。私自身の経験でも、私が演劇評論家として世に送り出した若手演劇人の公演では、観客の反応が気になって仕方がなかった。私が評価されているかのような気分になる、一種独特の心の状態で舞台と向かい合っていた。まさに「身内意識」である。おそらく、作家や俳優の親族と同じような気分である。評論家としてあるまじき姿勢だが、私が最初に評価した演劇人の「初の紀伊国屋ホール公演」に多くの観客が押し寄せているとなれば、まさに「他人事ではない」のだ。先の顧客進化のプロセスで言えば、協働者(partners)の精神状態である。

このあと井原氏は、マルクスの『ゴーダ綱領批判』にある、「各人は能力に応じて、各人はその必要に応じて」という共産制における来るべき国家の理想像は、マルクスが「愛の認識」を間違えた結果であると展開する。さらには「社会保険」や「バレンタインデー」のような「愛の制度化」について論を進め、「愛の制度化」の極みである宗教にも論は及ぶが、「創客論」とは直接的な関係ないのでここでは省略する。私の研究は、顧客進化を実現するために、「ホモ・エコノミクス」を基準とした従来の経済学では説明しきれない人間の不合理な心理と行動へ向かうことになる。そして、「行動経済学」とか「経済心理学」とか「神経経済学」と呼ばれる分野や「社会脳科学」に関心が移り、それらの書籍や研究論文を乱読することになるが、その展開は別の機会にゆずる。

「創客」という考え方は、荒っぽく言えば、そのような研究の中から生まれてきた関係づくりの作法であり、マーケティング理論である。肝要な点は、せっかく掘り起こした観客を決して一過性の顧客にしないで継続的な関係づくりを設計し、関わり合いを続けること。そのプロセスで螺旋状の顧客進化を実現できること、の二点である。これは、別の言い方をすれば、芸術団体や劇場・ホールの「ブランディング」を推し進めるということと、ほとんど同義である。顧客との「信頼関係」を形成して、それを「社会的信頼関係=ブランド」にまで高めることを最終的な到達点とすることが肝要である。その手段として、ワークショップやアウトリーチ、交流会や親睦パーティ、バースティ・サプライズやイルミネーション・カードのような、可児市文化創造センターalaがやっている人間的な共感をベースとしたサービスを実施する必要があるのだ。誤解を怖れずに言えば、良質な舞台だけを見せれば完結するマーケティングは決してあり得ない。とりわけ、小劇団のマーケティングは満席にすることで完結してしまっている。そこからが出発なのであり、そこからが重要なマーケティング活動なのである。「創客」は、「集客」や、ましてや「動員」とは真反対に位置するマーケティング概念である。「満席にする手法」ではなく、「満席になる環境を演出する」ことなのだ。

「創客」はたんなる「集客」の技術ではない。ましてや一過性の「動員」のやり口でもない。劇場・ホールや芸術団体への「愛着心」を生成する顧客ロイヤルティ形成ための制度設計と、求められる技術精度と実行力なのである。これを成立させるために重要なのは「顧客志向」という経営哲学である。顧客の立場に立つ、という思考である。顧客の心を思いやるという姿勢である。顧客は、劇場・ホールや芸術団体にとって「資産」である。帳簿には記載されない「簿外資産」である。「関係資産」と言ってもよい。気を配り、気遣いすれば「大きくなる資産」である。心を通わせれば、何人もの「顧客を生む資産」である。一人の顧客の後ろには、何人もの顧客が隠れていることは、クチコミ・マーケティング(BAZZ MARKETING)の研究で実証されているし、私自身による調査でも実証されている。「顧客進化」を実現できれば、バズ・マーケティングやインフルエンサー・マーケティングが働いて、「客が、客を創る」という環境が整う。「創客」とは、そういうマーケティングの総体を指すのである。少なくとも、当初はそう考えていたし、現在でもアーラで行われているマーケティングはそういう経営哲学であり、マネジメント手法なのである。

最近、いろいろなところで「創客」という言葉が使われているが、どうも「集客の技術」のように思われている節がある。「集客」を促進するための仕組みづくりのような使われ方をしている。それ自体は従来の宣伝広報より進化したものとして私は評価するが、そこから先が従来の劇場・ホールや芸術団体の大きな課題なのである。多数の観客を発掘してからが、「創客」の出発なのである。一過性の満席の観客で満足している「気前の良さ」からはテイク・オフしなければならない。文化芸術の市場は充分なほどに広くはないのだ。とりわけ、地域の劇場・ホールの市場はひどく狭隘なのである。毎回、ゼロから客を集めるという作業は、狭隘な市場では消耗するだけであるし、効率性にも欠けており、経済合理性もない。「集客」や「動員」からは遠く離れるべきだ。手間と人手と時間という「コスト」はかかるが、その「コスト」に見合う成果は必ずある。新規顧客を開発する費用は、従来からの顧客を維持する費用の約8倍もかかる、という報告もなされている。芸術集団の経済環境が脆弱化してきている現在、私たちはいますぐ「創客」にシフトしなければならない。

【次回】第六章 「共有地」としての地域劇場は何処にあるのか。