第27回 次世代に伝承する地芝居~地歌舞伎を考える~

2012年10月14日

可児市文化創造センターala 事務局長 桜井孝治

9月末の日曜日「第20回飛騨・美濃歌舞伎大会かに2012」が主劇場で開催されました。これは岐阜県の地歌舞伎保存会や同好会のうち4団体が参加して地歌舞伎を披露するもので、アーラでは開館直後の平成15年度に続いて2回目の開催となります。私個人としてはアーラ勤務前の昨年度に本庁で準備を進めていた事業であり、思い入れが少し強い事業です。開催日の前日には47年ぶりの「ぎふ清流国体」が開幕して岐阜県内に歓迎ムードが漂っています。PRのための横断幕や幟があちこちに立ちました。この歌舞伎大会自体も20回という節目を迎えることもあり私も誘致活動を行ってきました。市制施行30周年、アーラ開館10周年も冠に被せ、30-20-10とおめでたムードを創出しています。アーラもこの日は全館地歌舞伎一色、館内には幟旗が立ち物販ブースが並ぶいつもとは違った光景です。ブースでは弁当やおみやげが並び、地歌舞伎の衣裳が展示され、宮太鼓の笛・太鼓が場内に鳴り響く、五感に訴えかけるお出迎え体制です。劇場内も前列数列分のスペースは桟敷席となり座布団が敷かれています。花道が作られ、客席中段には提灯がぐるりと取り囲んでいます。こんな光景初めて見ました。
参加団体のトリでは地元可児歌舞伎同好会が満を持して登場。「南部坂雪の別れ」を演じ、見せ場である”見得”が切られると桟敷席から”おひねり”が飛び交う光景が繰り広げられました。

この”地歌舞伎”という呼称はこのあたり一帯で使用されている用語のようです。地芝居、農村歌舞伎、素人芝居などなど、地域によって呼び方がまちまちです。地歌舞伎という言葉自体に違和感を覚える方もみえるようですが”近世において地方の農村で行われていた江戸歌舞伎の型を伝承し保存していく”という県内保存会の理念に賛同し、今回はこの用語を用いていきます。素朴でその土地土地独特の味わいが創り出される、それが地歌舞伎の魅力でもあります。
身分制度の極めて厳しかった時代に、芝居の上とはいえ龍や鷲などが迫力いっぱいに描かれている豪華な衣裳をまとい、刀を差して大名にも武士にも、またお姫様にも変身できるという非日常の楽しさ、出演者と観客が顔見知りであるという距離の近い舞台。農作業の疲れを癒すため、収穫の祝いや祭りの余興、奉納のため等として、近所の皆で創り演じ楽しむ当時の最大の娯楽であったことが容易に推測されます。

岐阜県では全国に通用する大きな観光資源となるものを「岐阜の宝もの」として認定しており、そのうちの一つが地歌舞伎です。正確には県東南部である東濃地方の地歌舞伎と芝居小屋がその対象となる訳ですが、全国に25施設ある劇場型木造建造物のうち6施設が東濃地方にあることや、地域をあげて大歌舞伎で見られなくなった演目や特有の振り付けの保存に取り組んでいること、全国最多の28の歌舞伎保存会が県内で活動していることなどが評価された結果です。各地に舞台が残っており、保存会の方々が今も芝居を上演・伝承しています。

アーラのある県中央部の美濃地方でも広く流行した旨の記録が残っています。全国的にはこの美濃の方が知名度が高く、相模(小田原)・播磨(兵庫)と並び「日本三大地歌舞伎」の地と称されています。いずれにしても地歌舞伎は中山道と飛騨街道の沿道を含め各地で盛んであったのでしょう。
市内にもいくつかが江戸時代建造の宮舞台として記録に残っています。現存・廃絶を合わせ8棟が確認され、回り舞台や奈落、古い浄瑠璃本も残されています。羽崎地区にある日吉八幡神社の舞台が市指定文化財に登録されていることからわかるように、神社の拝殿と地歌舞伎の舞台を兼ねた宮舞台の建築種としての評価は宗教施設というよりは芝居に伴う文化施設として評価されています。これらの宮舞台はその地域の文化的な欲求が建築に結実したものであり、近世以来の地歌舞伎の興隆を後世に伝える貴重な有形財産でもあります。

平成10年、市に芝居衣裳の寄贈があったことをきっかけに、市民により地歌舞伎を復活させようとする気運が高まり、(財)地域創造より助成を受けたことが最終的な後押しになり、平成12年度より3年間の「可児歌舞伎プログラム」が始まりました。プログラムの柱のひとつはアーラ開館を記念して行う地歌舞伎公演です。平成16年2月には多くの市民有志の力によって復活公演が実現、その際にも今回と同じように客席から大きな声援とたくさんの”おひねり”を頂戴しました。
またプログラムのもうひとつの柱として、当時芝居が上演された宮舞台などの施設について、建築的な現状とそこでの活動の様子を後世に伝えるために調査を実施しました。調査対象となった宮舞台、旧久々利小学校講堂、旧東雲座(しののめざ)の三種の施設は、純農村社会から多様な産業が興ってきた可児の地域変化のルーツを探る存在でもあります。調査を進めるにつれ、これらの施設が人々の欲求から生まれ、地域の人々の手によって維持されてきた文化拠点であった事実が浮き彫りになってきました。
当時の人たちには”まちづくり”とか”文化の拠点”とかの意識は微塵もなかったでしょうが、100年200年といった長期的なスパンで見た時にこのような施設の存在を重要視する遺伝子が今のアーラにも受け継がれていることをうれしく感じます。

地歌舞伎は演じ手、振付けの師匠、浄瑠璃語り、三味線弾き、そして観衆などによって成り立ってきました。これを蔭から支えてきたのが貸衣裳屋です。地歌舞伎の衣裳一式は大変高価なもので、ムラで揃えて持つことは不可能に近く、貸衣裳屋が所有し貸し出す方式が一般的でした。市内にも昭和30年代頃まで営業を続けていた地歌舞伎の貸衣裳店があり、その所蔵者のご厚意により衣裳群を市へ寄贈してもらえることになったことは前段でお話したとおりです。受領後は梱包の状態であった衣裳行李を解き、一枚一枚の寸法を計測、写真を撮ってカード化し、整理と目録作りを進めます。約40年間梱包されたままであったので、行李のなかには鼠害や虫害を受けていたものもありました。衣裳は小物まで入れると約570点、このほかに小道具類が約260点と鬘が約220点ありました。
この衣裳が寄贈されたことを契機に早速講座を開講し、衣裳の種類等を学習する際には受講生に実物を見せたり触れたりする生きた教材として活用しています。昨年度には衣裳の虫干しを兼ねて追加調査を行い、その記録を残すよう今年度中には報告書を作成していきます。冒頭紹介した県の地歌舞伎大会を成功に導いた担当職員がこの報告書についても熱意を持ってやってくれています。もうひと踏ん張りガンバレ!(充分に頑張っています)

幕末から明治にかけて全国的な舞台建設の流行が見られた地歌舞伎ですが、一方で市井の良俗を乱すものとして制限が加えられるようになってしまいます。明治時代には芝居に熱中するあまり勤労意欲を阻害し風俗を乱すとして、興行法により取り締まりが行われたのです。芝居にのめり込んでしまって仕事や家庭を蔑ろにするようになってしまったのでしょう。
人々の大きな楽しみのひとつであった地歌舞伎は、多くの地域で娯楽の多様性など社会変化の影響を受け衰退の一途を辿り、宮舞台も荒れてしまう傾向にありましたが、ここのところにきて少しずつですが各地で舞台を再建し復活公演が行われるようになりました。
地歌舞伎は保存伝承すべき民俗芸能というよりは、庶民の娯楽としての性格を強く持ち、演じる側観る側双方に大衆娯楽としての色合いが濃いまま普及していきました。そのため大正時代からの活動写真、昭和20年代後半からの映画やテレビの普及によりその役割が取って代わられ今日に至っています。娯楽の指向性が乖離したからに他ありません。

神事あるいは祭礼に結びついた民俗芸能は、儀礼としての意味合いが強く、無形文化財として保存伝承すべきという住民の意識が強くなります。関係者も関心を持って保存に向けて取り組んでいくことになるので次の世代へ踏襲されやすい環境が整います。この場合は不変を原則とした永遠性、”今やっていることを、全く同じように後世へ伝えていく”ことが重視されることになります。
一方、地歌舞伎は地域のコミュニティに支えられて今日まで伝承されてきました。ムラを基本とした地歌舞伎は、地域社会へ働きかけ、再構築する契機を作らなければ伝承することができません。継続のためには”意図的に”新たな展開を示す創造性が求められることとなります。この場合伝える内容は必ずしも同じであるとは限りません。時には時代の求めるものに合わせて少しずつ姿・形を変えていくこともあるでしょう。
地歌舞伎は大衆娯楽としてのブームは去りましたが、建造物を含めて後世に残すべき無形・有形文化財としての価値は充分にあります。歴史的建築のストックを成熟した生活空間に不可欠な文化的ストックとして認識することによって、”まちづくり”とか”文化の拠点”という先人の意識の潜在下にあった想いを受け継ぐことができます。可児における魅力的なまちづくりのためには、先人から受け継いだ地域の文化遺産を次世代に伝承させていくことも大切です。