第74回 花よりも、花を咲かせる土になれ ― 劇場職員の心構え。

2017年7月17日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

私は常日頃から「一人称」で事業企画やマーケティングを考えてはいけないと職員に言っている。「一人称」でものを考えなければいけないのはアーチストであり、事業企画とマーケティングは「三人称」で発想することが絶対条件である。「私にとっての価値」ではなく「誰かにとっての価値」を想像力と創造力で構想するのがサービス業という業態である劇場職員の役割だと心得ているからだ。「誰か」とは、言うまでもないが、市民とアーチストである。アーラをすべての市民にとって、とりわけアーラから一番遠くにいる、経済的にも、社会的にも、身体的な障がい、精神的な障がい、社会的な障がいに起因する「生きづらさを感じている」、すべての市民にとって「価値」となるかが細心に吟味されない企画やマーケティングは対象に届きづらいために発展性のないものとなってしまう。そのようなものに「投資」をすることは収支のバランスを悪くする一方となり経営を誤らせる、と私は断言する。それは決して中長期的なアウトカムを期待できる「戦略的投資」とは言えないのみならず、経営全体が負のスパイラルに入るリスクを冒すことになるからだ。

最近書店に行くと「生産性」に関する書籍が多く並んでいる。なかには「生産性」のコーナーまで設けている書店もあるくらいである。日本における「生産性」がドイツなどの欧米先進国に比べると著しく低いという言説がエコノミストを中心に流布されて、至上命題のGDPを押し上げるには生産性向上の取り組みが必須との風潮が経済政策として重要課題となっていることがその要因である。また、全国公文協の組織再編で設けられた「特別部会」(部会長・理事 岸正人氏)の検討課題にも「生産性」が新しく入っていたことに私は驚いた。そもそも日本企業の生産性は世界的に見て相対的に低いのだろうかは、法政大学経営学部専任講師の永山晋氏の研究によればいささか疑問なのであるのが、それは本題から外れるので稿を改めることにする。が、一般的には「生産性」とは投資に対してアウトカムがどの程度あるかによって測られる。一方、雇用環境を変化させ
ることで経年経過によって「関係資本」を蓄積する正規職員とアーチストや市民との信頼関係が構築され、その成果として劇場音楽堂等の「経済生産性」は大きく改善される。そのような課題設定をすれば各部会の検討に一本の筋が通るのだが。

人件費を削減するか、あるいは個人業務委託、アルバイト、パート等の非正規雇用によって固定費を変動費に、すなわち人件費を物件費に付け替えての「見せかけ生産性向上」という手法は2003年の指定管理者制度導入時からもはや全国で一般的に行われているのは衆知のところである。しかも、全国公文協の他の「経営環境部会」、「事業環境部会」が働き方・雇用のあり方、人材養成等の「指定管理者制度に関わる」検討課題を挙げており、この課題設定自体が進め方によっては矛盾を孕んでおり課題解決を複雑するように私には見える。劇場音楽堂等における手っ取り早い生産性向上は人件費の削減であるからだ。正確には「IT化と生産性向上」を抱き合わせた検討課題となっており、コンサルタントなどの外部識者を交えた検討方法を提案しているが、PCが職員に行き渡っていない劇場音楽堂等は「例外」であり、たとえばコンサルタントからはチケットの予約・販売・来場確認をQRコードのスマートフォン等への配信にして、読み取り機を設置することで「省力化」を図るなどの提案がされると予想できる。「省力化」とは人件費の削減であり、またQRコードの読み取り機設置で大きく毀損されるのは劇場音楽堂等のホスピタリティであり、あわせてソーシャル・ブランドである。イベントだけが売り物の興行場になり、「体温のない劇場」の出来上がりである。

箕面市の新しいホール建設に伴う指定管理者の選定が話題となっている。選定されたのは興行会社として全国をネットワーク化しているキョードーグルーブが設立した株式会社キョードーファクトリーである。設置自治体からの指定管理料を受領せず、逆に収益から箕面市にその一部を納付金として拠出するというもので、市とキョードーファクトリーはSPC(特別目的会社)を組成して、建設にともなう要求水準を定めて整備等予定事業者を公募するというまったく新しいビジネスモデルである。15年間の長期契約ということだが、経年劣化や機材の陳腐化による大規模改修は設置者である箕面市が負うものであるのは当然であるが、契約内容の詳細は知る由もないが、当然「利潤の最大化」を目指すのが民間企業の正しいあり方であり、だとするなら地方自治法244条を根拠とする市民への「貸館業務」、収入の見込めない「社会包摂事業」、劇場法に定められている努力目標としての、これも事業者負担の大きい「人材育成事業」等はどのように位置づけられるのかいささか不透明感は否めない。そして、何よりも経済効率を重視して「生産性」を高めることは、短期的な収益を重視する最近の経営手法の観点から容易に想像できる。そうなると可能な限り省力化をはかり、職員に期待できる劇場運営のための経営資源である「関係資産」は短期的に利益を生まないものとして排除されるのも想像に難くない。このトピックは公立劇場が新たに設置されるというよりも、むしろ「企業誘致」に近いものと考えられる。

何でも経済効率性で計り、短期的な収益を短兵急に求める社会風潮とは、公立劇場はある程度の距離を保っておくべきと私は思っている。文化芸術や劇場音楽堂等は一般的な企業とは大きく異なった商品・サービスを社会に供給しているのであり、したがって「三人称」の「誰か」にとっての価値から経営戦略は出発しなければならないのである。文化芸術及び劇場音楽堂等の商品・サービスの特性のひとつは「共同生産性」、「共創性」というプラットフォーム型サービスであり、音楽・演劇のみならず職員のホスピタリティ、社会的ブランディング活動等のすべての面で顧客と劇場側が「新しい価値」を共創する点が業態の特殊性なのである。だからこそ、無味乾燥な「QRコード読み取り機」のお出迎えは絶対に避けなければならないのだ。

また、劇場音楽堂等の「生産性」とは、事業の収支による収益のみではなく、ソーシャル・ブランドの確立による資金調達環境の改善による収入、さらには社会的インパクト投資による「変化の数値化」(SROI)による社会的波及効果の中長期的なアウトカムもまた「劇場音楽堂等」の外部効果であり、「生産性」の一指標であると考えることができる。劇場スタッフは、想像力と創造力で「誰か」にとって中長期的に新しい価値を生み出す、アーチストとは違った面できわめてクリエイティビティに飛んだ「ミッションの従事者」でなければならない。「花」はアーチスト自身がなれば良いのだし、市民の心に咲けば良いのであって、私たち劇場職員は、その「花を咲かせる土」になることが仕事のミッションなのではないか。「生産性」という言葉に触発されてP・F・ドラッカーの1991年の論文『知識労働とサービス労働の生産性』を再読してみた。26年前に書かれた論文だが、少しも古くなっていない。むしろ、今日的な課題への提案となっている。関心のある方は『Harvard Business Review』の最新号に採録されているので是非とも読んでみてほしい。無駄をいかに少なくするかが21世紀の主たる産業である知識労働とサービス労働の生産性を上げることになるということに尽きる内容なのだが、無駄にどのようなロジックで気付くかが非常に難しい課題であることが理解できる。しかし、劇場の仕事は、一見無駄に思えることが市民にとって「体温のある劇場」という価値を生み、「人間の家」となることにも心を配らなければならない。「生産性向上」という言葉に囚われて効率性ばかりを優先させていては「花を咲かせる土」は疲弊して、枯渇してしまい、一輪の「花」も咲かなくなることを知らなければならない。

むろん、劇場職員がみずから「花」になろうとする行為行動は、強い組織を創るためには絶対に許してはならないことである。厳しく戒めるべきである。なぜなら劇場職員の資質に決定的に欠けるからである。どこまでも「花を咲かせる土」になることが肝要であり、唯一無二のミッションなのである。「関係資本」のことを考えていて、仮にアーラが非常勤職員ばかりで3年か4年で雇止めをしていたら現在の職員はほとんどいない。だとしたら、アーラが現在のようになっていない。想像さえできないことで背筋が寒くなる。むろん、私の芸術選奨文部科学大臣賞の受賞もあり得ない。つまり、常勤職員の「関係資本」があってこそのアーラの現在であると痛烈に思うのである。