第66回 マイナス金利による景況感悪化と文化政策の行方。

2016年2月29日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

1月29日の日銀のマイナス金利導入で、その意図に反して円高株安が急速に進んで企業のみならず国民の間にも先行きの景況感に不安が広がっている。当然と言えば当然である。そして、その10日ほど前に前後して起こった廃棄冷凍カツ転売事件と軽井沢バス事故を、私は複雑な心境で受け止めていた。19日と21日に起こった2つの事件・事故の根っこは同じではないかと直感したからだ。「廃棄業者の拝金主義」と「安全を担保しない規制緩和」は、ともに経済学者の故宇沢弘文先生は生前の講演で「市場原理主義は、新自由主義を極限にまで推し進めて、儲けるためには、法を犯さない限り、何をやってもいい。法律や制度を『改革』して、儲ける機会を拡げる」と仰って厳しく批判していた非人間的・非倫理的・非道徳的な経済成長優先主義に帰結するものだろうと直感したのだ。このところの出来事はすべてがリンクしているように思えてならない。

1930年代あたりから提唱されるようになった本来の新自由主義とは、「社会的公正を重要視して、自由な個人や市場の実現のためには政府による介入も必要と考え、社会保障などを積極的に提唱する」ものであり、ファシズム(全体主義)からの逸脱を試みた社会思想であって、70年代から台頭するシカゴ学派による新自由主義経済思想と呼ばれる自由放任の「市場原理主義」とはまったく意味を異なっていることに私たちは気付かなければならない。その意味では、英国の社会学者であるアンソニー・ギデンスの提唱する「ポジティブ・ウエルフェア(積極的福祉)」の考えは、この本来的な新自由主義の流れを汲むものであろう。

昨年、東証一部に上場する企業の9月の中間決算が「史上最高益」となり、「3月期決算企業全体(1270社)のベースでも、通期は経常利益、純利益ともに過去最高となりそうだ」との見通しが繰り返し報道されていたが、その裏には労働法制の規制緩和による非正規労働者の激増と、下請けや孫請けや曾孫請けの中小零細企業のギリギリのコストダウンの経営努力があることを忘れてはいけない。史上最高益であるにもかかわらず労働分配率が低下して被雇用者の給与が一向にあがらないのである。しかも、その「史上最高益」も為替差益によるもので、自動車産業は生産台数が減少しているのに「史上最高益」なのである。砂上の楼閣と言えるファンダメンタルズなのである。「上げ底」の経済成長でしかない。

経営者も「史上最高益」がいかに脆いものかを知っているから内部留保を積み上げるしかなく、働き手の給与に反映できないでいるわけだ。内部留保は300兆円を超えているそうだ。経済成長率が前年同期比1%も危うい状態であるし、それは総需要が委縮しているのであり、まともな経営者なら誰だって設備投資を控えるのは当然である。新自由主義経済思想の「伝道師」である竹中平蔵氏は「トリクルダウンは起こらない」と前言を翻したそうである。「改革」の痛みに耐えれば国民にバラ色の未来がやがてやってくる、と煽っておき、大企業と富裕層に富が集積すれば「おこぼれ」が下に落ちる、という「幻想」を振り撒いた責任はどうとるのだろうか。そこに来て「マイナス金利」の導入である。メリットがあるのは頭では理解できても、市中銀行は普通預金の金利ばかりか定期預金の金利まで考えられないほど低利にしている。100万円預けて10円、である。

当然、企業のみならず国民一人ひとりの先行きに対する景況感は今後、著しく悪化していくに違いない。私は2013年と14年に『公共劇場へ舵を切る』に、景気後退と消費税増税が劇場経営にどのような影響を与えるのか、それを回避するにはどのような経営をデザインすべきなのかの「処方箋」を書いている。ひとつは『再来年の消費税率10%は劇場音楽堂等には「脅威」になる』(http://www.kpac.or.jp/column/kan41.html)であり、いまひとつは『景気後退が劇場を直撃しないために』(http://www.kpac.or.jp/column/kan52.html) である。

国民が先行きに漠としてでも不安感をもてば、不急不要な消費としての文化芸術の鑑賞に費やす家計における「教養費」は当然削減されるだろう。もっと大きく見れば、国及び自治体の文化予算にも大鉈が振るわれるようになることが予想される。2020年東京五輪にともなう文化オリンピックの【「文化力プロジェクト(仮称)」の数値目標】 20万件のイベント ・5万人のアーティスト ・5000万人の参加 ・訪日外国人旅行者数2000万人に貢献は、「やりたいこと」としてはとりあえず了解するものの、「できること」と「しなければならないこと」としては、その前に「やるべきこと」があるだろうという感想である。

それもこれも文化の消費は可処分所得によって左右される個人の嗜好によるものであるという「常識」を、文化芸術界や劇場業界がそこに安住して一向に覆そうとしてこなかったことが原因である。「常識」とは過去の経験則によって導き出された価値観であり、決して未来を紡ぎだすものではないことを私たちは肝に銘じておかなければならない。文化芸術及び劇場音楽堂等が国民市民にとって日々の生活の営みを健全なものとするために必要な財であるという認知に至ることを、業界人は諦めてきたのではないか。「文化芸術は生きるために必要」などという抽象的な言説で、あるいは自分自身の成功体験の中だけで語るだけで一向に普遍化する作業を怠り、また何ひとつそのためのエビデンスをつくるための作業を怠ってきたのではないか。

劇場音楽堂連絡協議会と芸団協が共催したシンポジウムで、「社会包摂」に対して「(クラシックの)演奏家はみな世界を目指しているから、そのようなことは」と発言して私に一喝された公益社団法人である日本演奏連盟の幹部の「浮世離れ」した言説に、日本の芸術界及び劇場界の「世間知らず」で衰弱した思考回路が透けて見えるのである。それなら税金による支援などに期待せず、個的な野心を実現すればよいだけのことで、文化政策云々、補助金云々という発言は厳に慎むべきである。

昨年5月22日に閣議決定された「文化芸術の振興のための基本方針」、いわゆる「第四次基本方針」には、「経済成長のみを追求するのではない,成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していくことが求められているなか,教育,福祉,まちづくり,観光・産業等幅広い分野との関連性を意識しながら,それら周辺領域への波及効果を視野に入れた文化芸術振興施策の展開がより一層求められる」という文言がみられ、「幅広い分野との関連性を意識しながら,それら周辺領域への波及効果を視野に入れた文化芸術振興施策の展開」をして、新しい社会モデルを、すなわち「新しい価値」を構築することが文化芸術及び劇場には期待されているということになります。

50年代半ばから70年代初頭にかけての高度成長経済時代の日本は、いわば「少年期」や「青年期」の社会構造であり、「集団就職」という農村部からの大量の安い労働力の移入によってGDPは年平均9.1%(56年~73年)という驚異的な成長を遂げて、国民生活のQOLにも劇的な変化もたらすことになった。しかし、「成熟社会」という視点を提起した物理学者で未来学者でもあるデニス・ガボールは、「成熟社会は量的拡大のみを追求する経済成長が限界に至り、きわめて困難となり、そして終息に向かうなか、精神的な豊かさや生活の質の向上を重視する、平和で自由な社会となる」と書いています。ガボールが「成熟社会」という概念を提示したと73年に「ローマクラブ」による『成長の限界』という提言が発表され、その年はいわゆる「オイルショック」が世界を覆った年でもある。

その5年後の1978年に経済企画庁国民生活局が編纂した『21世紀の国民生活像―人間味あふれる社会へ』という報告書には、「これまでのような物質的生活向上欲求ではなく、非物質生活的、非生計的(non-subsistence)欲求、つまり文化的な欲求が大きな意味を持つようになった。そして今後ますます、文化的なものが社会を変貌させるうえで重要な役割を果たすであろう」と書かれている事にも、私たちは着目しなければならない。「成熟社会」とは、かつての安価な労働力と低廉な資源の供給源であった植民地や経済的後進国等のいわゆるフロンティアが不在となり、経済成長の駆動力が働かなくなる「壮年期」や「老年期」の社会と言えるのではないか。それでも経済成長を最優先課題とすれば無理が生じて、社会に軋みや歪みが生じるのは自明である。

90年代から度重なる改正が行われた労働法制の「規制緩和」は、安い労働力の供給源であるフロンティアを国内に求めるためのものであり、結果として富める者と持たざる者とに「社会の分断化」を進行させることになっている。「同質性」が民主主義の根幹であるとすれば、社会の分断化とは「民主主義の危機」であることは言を俟たない。これが「成熟社会」における新しい社会モデルとでも言うのだろうか。「トリクルダウンの幻想」をまき散らして国民を欺いた罪は極めて重いと言わざるを得ない。国内にフロンティアを求めて、格差を拡大してまでGDP重視する経済成長優先主義をとる必要はあるのだろうか。

神野直彦先生がしばしば仰るように旧来の資本主義は「時代の峠」に差し掛かっているのである。「義務としての経済成長」の呪縛から私たちは解かれなければならない。ましてや「武器輸出」してまで経済成長をしようとすることに私は疑問を感じるのである。

2011年3月にアップした「館長エッセイ」では、GDP至上的な考えは文化芸術振興には馴染まないことと、私はむしろGNHの側に立つことで劇場経営と地域経営の融合を使命とすると書いている。
(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_104.html) その2ヶ月前の「館長エッセイ」では、当時の劇場法をめぐる多方面からの多様な議論に対して全国公文協の演劇部会に提案した「舞台芸術拠点による社会包摂推進法(仮称)」を提示して、国民市民から強制的に徴収した税という「富の再分配装置」を根拠として成立する「真の公共劇場」を夢想し、提案している。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_102.html)

文化芸術及び劇場音楽堂等の潜在力が反映した「成熟社会における新しい社会モデル」とは、第四次基本方針にある「豊かな人間性を涵養し,創造力と感性を育む等,人間が人間らしく生きるための糧となる」ものであり、「他者と共感し合う心を通じて意思疎通を密なものとし,人間相互の理解を促進する等,共に生きる社会の基盤を形成する」社会である、と私は思っている。社会的排除による現在進行している社会のかたちではないことは確かである。私の可児市での8年間で進めてきた可児市文化創造センターalaが地域社会に果たしてきた、そしていまも進行形である劇場経営と地域経営の融合のかたちは、従来からの文化芸術の社会的役割の在り方に一石は投じたと思っている。90年代初めに地域に出るときに思っていた「東京を相対化する」という目的の一端は果たせたのではないかと思う。アーラの劇場経営の在り方はひとつの「政策提案」である。世界劇場会議国際フォーラム2016in 可児の基調講演で語ったように、私には98年に出会った英国・ウエストヨークシャー・プレイハウスのような劇場を日本に10か所出来ることが「夢」である。アーラは、そのための「提案」なのだと思っている。