第54回 劇場音楽堂等を「ハコモノ」にした元凶は、リスクをとらない経営。
2015年1月23日
可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生
去年一年は北海道から沖縄までの多くの地域に出かけて、劇場経営やアーツマーケティングや劇場法以降に期待される施設設計とマネジメントについての講演をした。この近年では、県立宮城大学の教員をしていた時と、90年代に『芸術文化行政と地域社会』を上梓した直後に匹敵する数の講師を受けたように思う。事業のある時はバースディ・サプライズやアフタートークがあるから、それらと劇場の運営に関わる諸々の事務の合間を見て、休館日と指定休日を潰しての講演旅行だった。さすがに体調を悪くしたが、「このスケジュールを乗り切れるか」と危惧する月もあったが、何とかそれも杞憂に終われた。
劇場法や大臣指針が出たこともあってか、何処に出かけても熱気のある会場となった。参加者から「何とかしなくては」という危機感を感じた。とくに20代から30代、40代前半までの若手・中堅の劇場職員や建設計画のある自治体の若手職員には、ともかくも一歩を踏み出さなければという切実な姿勢を感じることが出来た。その熱意は、90年代の「ホール建設ラッシュ」の頃の受講者と共通するものがある。切羽詰まった意欲のようなものを感じることが出来たのは収穫だと思っている。
ならば何が課題なのか、と言えば、彼らの意欲のほとばしりに、その水路を付けて上げられない意思決定権者たちの問題であることが透けて見えてきた。若い職員たちの意欲に筋道を付けることをしていないのではないか。彼らの発想や意欲をかたちにすることは必ずしも容易いなことではない。市民や観客の心に関わることであるから、意欲や思いだけでできる仕事ではない。私もそうであったが、若い職員は概して「近視眼的」である。走り出したら後先が見えなくなる。「独り善がり」に陥ってしまう事例はいくらでもある。それだけに、ダニエル・ピンクの提唱する「やりがい」のモチベーション3.0を損なうことなく事業のマネジメント設計を整えて実現可能態なものとする意思決定権者の力量が求められる。外部環境をはじめとする地域の社会的ニーズや費用対効果などの経済的な判断などを俯瞰しながら、彼らの意欲を実施可能なかたちに落とし込んで行く高度な調整能力が求められる。
もうひとつ解決しなければならない組織的な課題がある。劇場というサービス業を運営するには、ここでも高度な経営能力が求められる。「経営」の最初のハードルは、リスクテイクである。つまり、どれだけリスクをとることが出来るかである。乱立した地域の自治体立の劇場ホールで、かつて一度たりともそれが問われたことはない。しかし、マネジメントとは「リスクをとる」に他ならない。そして、そのリスクをマネジメントする能力である。これがいままで問われたことがない、そしてこれから設置される計画においても依然として問われていないということは、自治体の「本気度」の問題でもある。それに「館長職」のポストを自治体の退職職員に割り当てるということ自体、私には理解できない。天下りポストに3年間いるとなれば、その在職期間には何事もおこらないでほしいと誰でも考えるだろう。つまり、「リスクをとる」などということは絶対に
しないだろう。無難に在職期間を全うしたいと考えるのが普通である。そうであるなら、若手・中堅職員の「意欲」とは利害は異になる。交わる可能性すらないと言える。「ハコモノ」に堕することなく市民にとって拠り所になる施設にしたいのなら、その慣行はすぐに止めることである。
2年前の全国公文協の「アートマネジメント研修会」で、「ダメな劇場ホールは退職派遣の職員が館長をしているところ」と発言したところ会場がどっと笑いに包まれた。私の発言の真意が届いていないのか、それともあの笑いは自嘲的なものだったのか定かではないが、いずれにせよ「リスクをとれない」組織運営からは住民のアイデンティティになるような劇場ホールは絶対に生まれない。
ならば「官から民へ」の政策の一環として制度化された「指定管理者制度」にはその可能性があるのかと言えば、現状では、まず無理だろうと言わざるを得ない。「官から民へ」の成功事例として武雄市の図書館が全国的に注目されているが、あれは民間商業施設のなかに図書館を一部門として設置しただけであって、図書館としての地域に果たさなければならない社会的機能が民間経営で高度化したわけではない。民間企業は利潤の最大化を追求するのが使命であり、公共施設は地域住民に貢献することをミッションとして、そのミッションを果たすための利潤の適正化に踏みとどまるべき存在なのである。そのことの線引きと腑分けがきちんとされていなければ、本来的には地域社会の福祉化に投資されるべき公的資金が民間企業の利潤として本社機能のある大都市圏へ流れてしまうのである。
民間指定管理者の「館長職」がリスクをとる裁量を委ねられているということはない。いわゆる「ブラック企業」までもが参入しているのである。「収入額の最大化」と「支出の大幅削減」によって「利潤の最大化」を企図しているのが現実である。
「支出の大幅削減」は人件費の節約であり、最少数の正規職員と期限付きの非正規職員とアルバイトとパートによって市民へのサービスが賄われているのが現状である。職員に経年で蓄積される「関係資産」などは徹底して排除される。そもそも「リスクをとらない」のだからそういうことになるのは当然の帰結である。計画段階であるにもかかわらず、副市長が「指定管理者は民間に」と公言している大阪府の基礎自治体もあるくらいだから、文化芸術や劇場ホールが市民にもたらす社会的効用に関する自治体の「本気度」は疑わしいと思わざるを得ないのである。その程度なら、はじめから造るなと言いたい。数十億の建設費と毎年数千万円から数億円かかる後年度負担を考えたら、「造らない」という判断こそが良識的な意思決定であると言わざるを得ない。
兎にも角にも、「リスクをとる」経営姿勢が端から封じ込められているのである。だとすれば、文字通りの「ハコモノ」になるのは火を見るよりも明らかではないか。本来は「何故つくるのか」(使命)を検討して、ならば「どのように経営されなければならないのか」(経営計画)を明確にして、だとすると「どのような施設内容と設備が必要となる」と結論づけて、はじめて建設に関する検討委員会に諮問を上げるのがまっとうな手続きであろう。そのような手続きを踏むことで経営の達成度を計ることが可能となり、必然的に「リスク」を取らざるを得なくなる。
アーラは、当日ハーフプライスチケット制度をはじめとして日本で最初に導入した経営企画が山ほどある。当然であるが、前例のないことばかりである。市からの派遣職員にとっては想像のつかないことばかりを起案した。そうなると、軋轢も生まれてくる。それをきちんと科学的な論理を使って説明する責任は私にある。新古典経済学、行動経済学、経営学、公共政策学、認知心理学等を駆使して、その新しく導入しようとする制度が理にかなっているかを説いて、相手を納得させる必要がある。
大学の教員と掛け持ちしていた非常勤であった初年度の仕事の多くは、その説明責任を果たすことにことであった。「リスクをとる」という考え方は行政には馴染まない。したがって、その「リスク」がコントロールできることと、その「リスク」は間違った「常識」に囚われていることで感じるものであることを説明したのである。
その説明が出来ないのなら、根拠のない情熱にまかせて一瀉千里に走ることは戒めるべきである。公的な資金がその経済的な根拠なのだから、当然である。だが、リスクに対して過度に臆病になることも戒めるべきである。もう「ハコモノ」は造るべきではない。意思決定権者は、きちんとした経営に関する知識と手腕のある「専門職」と位置づけるべきである。いまある2200の地域の劇場ホールは、それが出来ないのなら廃すべきであるし、でなければ社会包摂的な事業をする社会機関に事業定義を改めて、そのための体制をつくるべきである。「文化の香る地域づくり」とか「文化的なまちづくり」などという抽象的な文言で存続させることは、財政的な事情を勘案すれば犯罪的でさえある。劇場やホールがあれば地域やまちが文化的になるとは到底思えない。そのような抽象的・情緒的な考えでは、劇場を経営することはできないことを知るべきである。