第44回 建設計画は劇場経営のグランドデザインが決まってからに。
2014年4月12日
可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生
「2025年までに、あと100館程度の劇場ホールが造られる」と巷間言われている。真偽のほどは確かめようもないが、私が知っている限りでも30数館の建設が決まっているか、その計画がいま進行している。そのために私どもアーラに視察に来る行政関係者や計画委員会の市民や議会の関連委員会の議員は非常に多い。そのどの計画にも言えるのが、90年代から000年前後に建設された劇場ホールの失敗から何も学んでいないということだ。つまり、建設計画㱺着工・竣工㱺運営計画に着手、という流れに、何の疑問も持っていないのである。そして再び経営の失敗を繰り返すことになる。ハコモノ批判にさらされる。うまく経営されていない劇場ホールには共通する欠陥がある。出来てしまったファシリティ(施設)に合わせただけのマネジメントをしているか、そもそもマネジメントらしきものさえない、という二点である。
たとえば上演・鑑賞に資するホール部分だけは大層立派で必要以上に大きいのだが、市民が文化活動に使用する練習室をはじめとする諸室の数と広さが「にぎわい」をつくるには決定的に小さく、少ない。文化施設としてはほとんど意味を為さない長机とパイプ椅子が並べられているピータイル張りの所謂会議室が無駄に多い、ということだ。利用計画をどのように立案したのだろうかと疑問に思ってしまう。利用計画があったのだとしたら、それ自体が大きく誤っていたということになる。単なる興行場と民間企業向けの会議室のみを造ってしまったことになる。
文化施設が、劇場法や大臣指針にある「新しい広場」になるには、興行場は全体の「部分」でしかないと考えるべきなのだが、劇場ホール建設においては、最初の「基本構想」の段階から、委員会で語られるのは「このまちをどうしたい」とか「ホールをどの様な政策目的の拠点施設にしたいか」ではなく、キャパシティ(客席数)はいくつにするのか、音楽専用なのか演劇専用なのか、それとも多目的なのか、どの様な舞台芸術に使えるようにするのか、そのためには舞台の総面積はどのくらい必要なのか、など「興行場の仕様」のことばかりである。
私はそれがそもそも間違っていると思っている。まずは「経営計画」と「運営計画」からじっくりと練り上げるべきなのではないのか。インスティテュート(機関)として、まちづくりのどの様に拠点施設として位置づけるべきなのかをしっかりと語り合うべき、と私は考えている。そうすれば、おのずと「あるべき劇場ホールの仕様」、すなわちファシリティ(施設)の姿は見えてくるはずである。劇場ホールを設置することは決して政策目的ではない、と私は考えている。劇場計画は、皆がどの様な生活環境にあっても、社会環境のもとでも等しく個人として尊重されて、心豊かな暮らしを送れる社会包摂的なまちづくりのための「政策手段」の設置である、と私は考える。だとするなら、まず語り合うべきは、施設設置によって「どの様なまちをつくるのか」という経営計画と運営計画ではないか。それは「ハコ」を造ってしまってから考えることではない。「ハコ」の設置それ自体が、「経営と運営」に対しての「制約」になってしまうからだ。健全なまちづくりの「制約」になってしまうと言っても過言ではない。
本来なら「経営計画」から始めなければならない。経営とは「新しい価値」を創出することである。健全な地域社会をつくるためにどのような「新しい価値」を劇場ホール設置によって創り出すかを、まず考える。いわば「グランドデザイン」である。それに伴って「どう使用されるべきか」の「運営計画」がおのずと決まってくる。ここまでくれば劇場ホールの果たすべき「機能的価値」は決まってくるだろう。どのような大きさの舞台と客席数、諸室のあり方と部屋数、市民が集えるロビーの大きさと配置、そこに置かれるべき調度と使い勝手、心が休まる植栽デザイン、組織ツリーと職員配置の数と質の担保などなど、すべてが焙り絵のように浮かび上がってくるだろう。そうなって初めて建築家の出番なのである。経営計画と運営計画によってつくられた仕様を充分に満足させて、全体をデザイン化する建築家の仕事となる。現行のホール建設計画は、施設を「建設すること」を政策目的としているから、どうしたってマネジメントが積み残しになってしまう。繰り返して言う。ホール建設は「政策手段の設置」である。だとするなら、果たすべき「政策目的」を実現するための「最適」な施設建設がなされるべきである。当然の理である。
この手順を踏まえないと、マネジメントは施設のデザインから大きな制約を受けることになる。アーラは市民参画による委員会で計画されたとはいえ、その手順を踏んではいない。私はその委員会に参画していないし、前任者の後に来た2代目の館長である。それでいてアーラの経営が順調に進んだのは、私が50歳前後に7年間にわたって北海道劇場計画に主査として関わって地域劇場のマネジメントとマーケティングを多岐にシュミレーションしてきた経緯があり、そのあとに赴任した県立宮城大学事業構想学部と大学院研究科で、そのシュミレーションに徹底して学問的根拠を裏付けてきたからであり、更にそれをダウンサイジングして、可児市の意識調査を読み込み、可児に在住して市民のメンタリティを実感し、人口規模に合わせ、アーラの進むべき道を「設計」したからでもある。またアーラの施設自体が、5年目でも充分にポテンシャルを引き出せていなかったものの、実に可能性の大きい施設であったことも幸いした。もう一度繰り返す。経営とは「新しい価値」の創出である。
遮二無二事業を実施すれば「鉱脈」に当たるわけではないのだ。
「そもそもマネジメントらしきものさえない」のには前述の計画段階の手順によるのだが、あわせて最高経営責任者(CEO)たる館長に役所の現職や退職者を充てていることにも由来する。そもそも役所の人間は、与えられた仕事を事務的に定型的に完璧にやり遂げるための訓練は受けており、事実、その限りで大変優秀な人材なのだが、それは「新しい価値」を生み出す仕事ではない。むしろ「新しい価値」を生んでしまっては減点となるのが地方公務員の仕事なのだ。つまり、最高経営責任者たる館長としては不適である場合がほとんどである。それが「優秀な地方公務員」であるからだ。公務員はマネジメントやマーケティングから一番遠い地点にいる種類の人間なのである。「新しい価値」を生むには、定型的な仕事をする能力よりも応用問題を解く能力が求められる。しかし、「ならば誰かいますか」と問われるとハタと困ってしまうのも事実だ。民間出身者なら誰でも良いというわけではない。芸術に知見があるから芸術家なら誰でも良いというわけでもない。民間で経営畑にいた人間なら良いというわけでもない。民間企業は「収益の最大化」を使命とするのだが、公益性の高い劇場ホールの経営は「収益の最適化」と「地域社会への投資意識」がなければやっていけない。つまり、「税金で仕事をしている」という意識を持っていなければ、その組織は地域社会に対して使命を真っ当に発揮できないのである。
いま計画している、ないしは竣工を間近に控えている劇場ホールには、まちの身の丈以上の大きなホール(興行場)を備えたものが多く見られる。それから透けて見えてくるのは、興行プロモーターに貸館で使ってもらいたいという棚ぼた根性と、自主文化事業でせめて赤字にはなりたくないという公立施設としての戦略的投資意識の欠如と、地元団体の累積延べ観客数と実数の乖離を見抜けないで「延べ観客数」に見合ったキャパシティを鵜呑みにして大規模な興行場にしまう例が多いからだ。プロモーター頼りの劇場ホールは、多様なタレントが公演を打ってくれるので一見すると賑やかで華々しいのだが、「貸館」というのは八割前後の税金をつぎ込んで、実質の維持管理費との均衡を保っているのである。つまり、借りられれば借りられるほど税金を注ぎ込むことになる。東京での民間の劇場ホールの貸館料金は、一席当たり1200円から1800円である。つまり、1000席のキャパシティの劇場ホールなら120万円から180万円、付帯設備で50万程度プラスとなるのだが、地域だと大都市圏の札幌でさえ一席570円程度、中小の都市だと良くて400円程度なのだ。
東京の民間の劇場ホールは、サントリーホールや紀伊国屋ホールのようにすべて民間企業が広告宣伝費を注ぎ込んでいるもので、客席一席当たりの金額は、施設を維持管理する損益分岐点の金額見当と見て良いだろう。だとすると、中小都市のホールは貸館を1日する度に、1000席で140万プラス付帯設備50万前後、すなわち200万円弱の税の投入をしているということになる。岡山市には2000席のホール計画がある。プロモーターが「岡山飛ばし」で倉敷に行ってしまうので、何とか岡山で食い止めたいというわけなのだが、これだと1日につき約400万円の税投入をしなければならないことになる。この計算式を自治体の首長はまったく知らないか、あるいはそれよりも自身の在任中のモニュメントとして巨大な「文化の殿堂」を残したいという野心があるか、である。規模が大きければ大きいほど、比例して維持経費がかかるのは当然である。むやみに大規模な興行場をつくることは大変な誤りである。
「大きく造らないと事業が赤字になってしまう」という反論があるだろう。しかし、その考え方自体が誤謬なのである。何が誤っているかと言えば、「価格政策」の考え方である。「価格政策」には大きく三つのタイプがある。「積算型価格政策」と「競争型価格政策」、それに「地域慣習型価格政策」である。前の二タイプは主に民間で採用されるもので、「積算型」は、掛かると予測される総予算を、集客率(有料客席稼働率)60%から70%で回収し、その後が収益となるという考え方である。「競争型」は多くの劇場ホールが林立している大都市部での「相場感」で「積算型」の価格が大幅に突出しないように均衡を保つ役割を持っている。「積算型」で地域の劇場ホールの価格政策を考えると、旅費交通費・運搬費・日当(パーディアム・食費補助)が掛かる分だけ東京のチケット料金よりも高額となる計算になる。一方でそれではその地域に見合った「値ごろ感」があるから、それほど高い値付けはできない。いきおい興行場の施設規模は大きくなる。しかし、そうなれば正比例して鑑賞環境は著しく劣化する。あわせて机上の計算で打ち出した客席数を埋めるだけの集客能力とマーケット自体が当該組織にあるのかと言えば、否定的にならざるを得ない。
私の考え方は、「値ごろ感」、すなわち「地域慣習型価格」を採用することで一人でも多くの県民市民に観ていただく、聴いていただくのが、地域の公立の劇場ホールの使命であるという選択である。「地域慣習型」を採用すると、当然なのだが、チケット料金は東京より廉価になる。中小都市は大都市より廉価になってくる。だとすると、「大赤字」になってしまうと考えるだろうが、その考え方自体が誤っているのである。私たちは「興行師」ではない。1万円で500人の観客よりも、5000円で1000人の市民に観ていただく、聴いていただくことを選択するのが、公立施設のそもそもの使命ではないか。より多くの人々に鑑賞の機会を提供するこの考え方は、「赤字」ではなく、県民市民への、そして地域社会への「投資」であるというマーケティング思考によってもたらされる。
市場に委ねていたら、そもそも地域に劇場ホールは出来なかったのだ。その市場の原理からテイクオフしたからこそ、劇場ホールが建設され、「投資行為」としての事業が成立するのである。逆に見れば、「赤字」を税金で補うことで福祉的な地域社会の成立を担保しているのであり、税の投入でチケット料金が低廉化するのは、欧州各国で普通に見られる文化政策である。
もう一度言う。自治体が「興行師」になってどうするのだ。マーケットの規模を考えないで、しかも鑑賞環境を大幅に劣化させてまで大規模な「興行場」を造って「したり顔」になっている首長は、はじめから劇場ホールなど造らない方が良いのだ。そして、建てるという選択をしたなら、骨格のしっかりした経営計画を作成することから、劇場ホールの建設計画は始めるべきなのである。