第12回 職員の「強み」を引き出す職場環境を。

2011年10月20日

可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督  衛 紀生

ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』は経営の書のように思われているが、私はそうは思っていない。確かに「経営」についての詳細な見解を述べているのだが、その背景を透かし読み取ると、「人間」が伸びやかに生きるため、環境としての「仕事」をどのように組み立てるかの手引きであると私には思える。これは彼がナチスドイツの全体主義下で「個」の思いの自由な発現が厳しく制限されていたことに由来すると考えている。「組織に成果を上げさせるマネジメントこそ、全体主義に代わる唯一の存在」という信念が、この「経営書」には裏打ちされている。ドラッカー自身は『マネジメント』を政治の書であると言っているが、私は「人間主義」に貫かれた著作だと考える。
その著作の中でドラッカーは「人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。人は弱い。悲しいほどに弱い」と述べながら直後に「組織の目的は、人の強みを生産に結び付け、人の弱みを中和することにある」と論理の穂をつなぐ。このくだりなどは単なる経営書ではありえない記述である。いかにも「人間の幸せ」から出発しているドラッカーならではの眼差しである。

ここがアーツマネジメントの三大要素のひとつ、ヒューマンリソース・マネジメントの肝である。人の「強み」を十分に発揮させて、これも誰もが持っている「弱み」を意味のないものにする。口で言うには簡単だが、行うは難し、である。人間はみな個々に好き勝手なことを考えて走り出す。組織のミッションとは乖離してゆく傾向がある。あわせてコンピューターの職場への標準的な導入、個を孤立化させる山積しているルーティンな仕事など、組織にはミッションからの遠心力が働く要素が多くある。組織を生き生きと動き、「強み」を発揮させ「弱み」を意味のないものにし、個々の結びつきを堅牢なものに変化させるには、組織をヒューマナイズする必要がある。エルトン・メイヨーのウエスタン・エレクトリック社のホーソン工場での産業心理学の有名な実験では、従業員を意思決定に参画させるなどの社会的欲求を充足させる方が、賃金による動機付けよりもはるかに生産性を上げる、と提案している。平たく言えば「やりがい」であり、「必要とされる」社会的欲求の充足と言える。ドラッカーも、このホーソン実験を俯瞰しながら「利潤動機」というものは存在さえしない、と看破している。

このくだりから言えることは、社会的欲求の充足による「自己実現」を担保できる組織機構と組織風土を、より人間的な「体温」を持った、風通しの良さへと推し進めること(ヒューマナイズ)こそが、組織を活性化し、「強み」を結集させて生産性を向上させる、ということになる。

とりわけ、劇場やホールの経営のようにサービス業であり、顧客、市民、アーチストなどとのコンタクトポイント(CP)が重視される業態にあっては、上意下達式の組織は硬直化を起こし、それがCPにも大きな影響が及んでしまう。CPは、その多くが管理職ではなく、現場の末端の職員によって行われる。このCPが組織の印象や評価を決定づけることは言うまでもない。 つまり、ヒューマナイズされた組織や機構を創り上げることが、地域の利害関係者へのブランディングに大きな影響を及ぼすことになる。むろん、来館者数や入場者数にそのブランド力は反映される。さらに、地域住民へのマーケティング(関係づくり)が健全に行われなければ、不要不急のハコモノとして予算の削減や批判の対象となることは避けられない。したがって、CPの品質を向上させることが、劇場・ホールの社会的存在価値を決定づけるのである。そのためにも、組織機構や風土のヒューマナイズは、不可欠な経営要素となるのである。職員採用で、経験年数やキャリアよりも、その受験者の人間性を重視するのにはそういう理由があるのだ。ドラッカーがマネジメントで最重要視する「真摯さ」とはまさにこのまヒューマナイズされた意識である。

「ヒューマナイズ」に関して一つの話を紹介しよう。私が私淑しているアーツマネジメント(劇場経営)の師であり、十数年来の友人でもあるマギー・サクソン女史は、ヒューマンリソース・マネジメントには、「ゴムの輪」を持つべきであるという。

もし、その輪の中に入れない、あるいは入らない職員がいたら、そのゴムの輪を伸ばせばよい、とも語っていた。ヨークシャーの郊外のレストランに向かう車中での話である。「鉄の輪」を持って職員に向かい合えば、其処のなかに入らない人間を排除しなければならなくなる。それでは組織と個人の発想は硬直化してしまう。体温のない組織となってしまう。ゴムの輪が伸ばしすぎて切れてしまうのは困る。それはミッションが無化することだから避けなければならないが、切れないのなら伸ばして輪の中に包み込めば良い、とサジェスチョンしてくれた。私は「ゴムの輪」の話よりも、「鉄の輪」が、退館時間になると電源を落としてしまう日本の公立文化施設の規則に似ているな、とその時思った。電源を切るということは、市民とのリレーションシップを拒むことを意味するのではないか。そして、「ゴムの輪」と「ヒューマナイズ理論」が私の裡で共鳴し合ったのである。

さらに組織を活性化するために共有する「ミッション」はどのように共有すれば良いのか、である。この「ミッション」の共有が意思決定への参画による自己実現を担保するからである。以前にも書いたが、長くなるがヒューマナイズされた組織での「ミッションの共有」を理解してもらうために引用する。

「踏み分けし 麓の道は多かれど 同じ高嶺の月を見るらん」という相聞歌がある。逢瀬を楽しむために麓の沢山ある道のひとつを私は登っているが、他の路を今頃登っているだろう貴女も、きっとあの月を見ていることでしょう」という恋歌である。私の「組織論」は、この「高嶺の月」さえ見ていれば、どんな登り口からでも、どんな登り方をしても構わない、というものだ。日本人はともすると同じ道を、足並みをそろえて歩くことを組織的に職員に求めることが多い。その方が「まとまっている」という感覚が持てるのだろうが、それでは、職員個々の「強み」は薄められてしまう。職員一人ひとりの「強み」を最大限活かすための組織論がこの「高嶺の月」を共有することである。「強み」を最大限に活かし、「弱み」を薄めて、無力化するヒューマンリソース・マネジメントである。「言葉の共有」とは、この「高嶺の月」であり、組織で言えば「ミッション」である。同じ月を見ていることが職員たる条件で、違う月を見ているのなら職を辞してもらう。厳しいかも知れないが、これは組織が進化していくための最低の条件である。なぜなら、「言葉を共有する」あるいは「言葉を揃える」ことで、コミュニケーションが起きる最低必要条件が満たされるからである。

「ミッション」は緩やかに共有されることで、職場でのコミュニケーションが容易となり、職員の自己実現をより可能なものとなる。「ミッション」が上から押し付ける、一律のお仕着せでは職員の個性と遊離したものになってしまう。「ミッション」は神棚に飾って奉るものではない。職員の日常行動の規範である。とは言っても、職員の千差万別な個性を無視したお仕着せでは組織は硬直化する。ここでも「ヒューマナイイジング理論」を援用しなければならない。組織、とりわけ劇場・ホールの人材マネジメントと組織運営は非常に難しい。外部環境の変化がそれを一層困難にしている。指定管理者制度による非正規雇用(契約職員、個人業務委託、アルバイト、派遣職員)の急増が、CPを悪い意味でルーティン化させ、ミッションの共有を不可能にしている。一言でいえば、バラバラの思いの職員が混在して、しかも孤絶状態化し、CPをマニュアル化して「体温」のないものとしている。指定管理者制度への私の危機感は、ヒューマンリソース・マネジメントを無