第2回 コロナ禍を経て、「強い経営」に向かう。
2021年7月7日
可児市文化創造センター シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生
以前の「館長エッセイ」でも書きましたが、昨年3月20日過ぎにリーズ・プレイハウスでの日英共同制作『野兎たち-Missing People』がロックダウンで公演4日目のプレスナイト直前に中止となり、芸文振の委員会に間に合うように帰国して、「三密」「ソーシャル・ディスタンシング」「新しい生活様式」が盛んに言われている現実のなかに放り込まれました。アムステルダム-成田便が欠航となり、アムスからパリ=シャルル・ド・ゴール空港経由で成田に着いて、ドゴール空港での張りつめた緊張感とは打って変わった成田空港でのいつもの空港内の日常的な空気からは、何処を切り取っても「臨戦態勢」といった様子は空港職員からも感じませんでした。ただ、市長からの指示で自主的に2週間の自宅待機をしている間に、前述のワードが盛んにテレビで流されて、社会包摂型劇場経営の肝であるワークショップとアウトリーチが封じられて、手足がもがれた経営をこれから数年は余儀なくされるという危機感で、いささか鬱々とした日々を過ごすことになりました。
そのうちに緊急事態宣言が発出され、追って全国公文協からの「マスク装着」と「ソーシャルディスタンシング」での舞台製作というガイドラインが出るに至っては、その当事者性の欠如に呆れてしまい、その直後に強い憤りに囚われました。「観客数の制限」と「表現への制約」はまったく異なるフェイズの問題であり、当事者を統括する機関として守るべきことと感染対策に犠牲を払ってでも積極的に関与することとの線引きははっきりすべきです。すぐさま電話をして、文化庁にガイドラインへの指示を仰ぎに行ったとされる公文協事務局次長に確認したところ、当時の専門家会議からの指示を文化庁から申し渡されたということでした。文化庁もまた、当事者意識が著しく欠如している、と失望しました。「伝言ゲーム」をするだけなら、文化庁でなくとも全国公文協でなくとも、誰にでも出来ることではないか。その後、文化庁が補正予算で想定外の多額の枠を獲得しました。どのような配分するのかと注視していると、「ネット配信」によって舞台芸術の「収支構造を改革」するという、ここでもまた実演芸術の当事者とは到底思えない施策を出してきました。新型コロナウイルスによるパンデミック下では、災害時と同様に平時とは異なる施策による支援が現場からは求められます。
したがって、公演活動の困難な事態に対して活動の停滞による表現機能の減衰と低下を回避する措置として、「緊急避難施策」として「ネット配信」の選択を促すのなら致し方ないが、「収支構造の改革」を持ち出す不分明さには失望を禁じ得ませんでした。当事者意識の欠落ここに極まれり、と思わざるを得ませんでした。なぜ現場が、どのような困難に向き合って、何に困っているかを理解できないのか。主要事業の「舞台芸術創造活動活性化事業」、「国際芸術交流支援事業」、「劇場音楽堂等機能強化推進事業」等の事後の公演調査等が制度上求められる現場との接触機会が、それらの補助事業の文化庁から芸文振への移管によって失われて、現場と乖離して、そのオポチュニティ・ロスが、政策立案機能の緩やかな減衰と、予算執行機関としての現場への的確な予算配分機能を鈍らせる結果を招いている、と私は推察しました。あわせて、この有事に対処する方策を、文化審議会及び文化政策部会へ諮問した様子は窺がえません。困ったものですが、ここでは深追いすることは避けておきます。本題は将来的にあるべき文化政策のグランドデザインを官民一体となって描き切り、共創することが、今後も想定できる有事における劇場音楽堂等と文化芸術の公共的役割を果たす未来を創るためには、必要なブランディング作業であると強く確信しているからからです。
6月16日、英国のジョー・コックス財団から「5年前の2016年6月16日、ジョー・コックスMPは、ウェストヨークシャーのバトリーアンドスペンの彼女の構成員によっで殺害されました。 ジョーの死は、英国と世界中に衝撃と失望を引き起こしました」で始まる長文のメールが届きました。「ジョーはブレグジット国民投票キャンペーン中に殺害されました。それは英国の全国で深い分裂の時代でした。彼女の殺害に応えて、多くの人々が分断を回避することを約束しました」と続き、「ジョーは、直面する課題の大きさと高さにひるみ、解決を先延ばしにすることは決してありませんでした。ジョーにとって難しすぎる障壁はありませんでした。彼女は楽観主義者でした。彼女は解決策が見つかると信じており、解決策を見つけるために必要な努力をさらに積む準備ができていました」と、分断と孤立と孤独への彼女の戦う姿勢に対して、いまも衰えることのない敬愛を、いまだからこその深いリスペクトで締めくくっていました。死の前年に初当選した「弱者のために生き、憎悪に殺された」と言われる彼女の議員としての姿勢に与野党の政治的思惑を超えて、当時のテリーザ・メイ首相は、孤独担当国務大臣を設けて、社会的孤立と孤独を調査して、深刻な社会課題を解決に向かわせる政策提案に結びつけるための超党派の「ジョー・コックス委員会」を発足させることになります。
繰り返して私が述べているように、コロナ禍は、表土層に覆われて見えづらくなっていた日本の「現在」が白日の下に曝け出されたと理解しています。80年代から、とりわけ90年代後半から2010年代にかけて、加速度的に進んだ格差と分断と人間の尊厳を著しく軽視する社会は、もう既に数十年も以前から始まっていたことを、コロナ禍は知らせてくれたのです。そして、それは「欲望」を自制できない人間たちの業に起因していることも、新型コロナウイルスと劣化した資本主義によって知らされているのです。「いまだけ、金だけ、自分だけ」の欲望をコントロールできない個人と社会は、自壊するしか未来への展望はありません。「未来を予測する最良の方法は未来を創ることだ」はP.ドラッカーですが、私たちは「どのような社会で生きたいのか、どのような未来をこれから来る世代に遺したいのか」が厳しく問われている、と私は思っています。
いまほど「文化芸術の社会包摂機能」と「文化芸術への公的支援を社会的必要性に基づく戦略的投資」と、「国民の意見を十分考慮した上での政策形成」が問われている時はなかったと、私は感じています。コロナ禍を経るなかで10年前の第三次基本方針に書き込まれた文言がリアルな切迫感を持って、私たち当事者に行動への決断を求めているのではないでしょうか。
私はコロナ禍の第一波の時に、「『経済成長』のみを追求して、『所有の欲求』と『物質的欲望』の充足を生存の第一義として来た私たちは、その当然の帰結として『存在の欲求』と『つながりの欲求』を著しく疎かにしてきました」と書きました。「良心なき欲望」、「倫理なきビジネス」、「道徳なき蓄財」が、長い時を経て僅かずつ社会を劣化に導くことに、私たちは目を向けなければなりません。末期的な未来を予感させる「いま」を生きているとの時代認識が必要です。「地球温暖化」も「社会の分断化」も「人権意識の希薄化」も「感染病へのノーガード状態という社会の機能不全」も、根はただひとつだと、私は現下のコロナ禍を経る中で思い知らされました。だからこそ私は、「社会的必要性に基づく戦略的投資」と安心な他者との邂逅をアレンジして「つながりを回復」させる「文化芸術の社会包摂機能」を全面展開する、積極的社会政策としての「社会的処方箋」という文化社会政策への信頼を獲得すべく、劇場音楽堂等及び芸術団体関係者は、いま一度自分たちの価値観と活動を見直し、再構築する必要があるのではないか、と思うのです。
社会貢献と言うと、一般的にはCSR(企業組織の社会的責任経営Corporate Social Responsibility)が思い浮かびます。アーラの初期は、私自身が大学教員時代にマーケティングを専門分野のひとつとしていた経緯もあって、CRM(企業組織理念に基づいたマーケティングCause Related Marketing)の考え方に沿って、標榜していた「人間の家」のブランディングを軸に置いた「アーラまち元気プロジェクト」を館長就任当初から強力に進めて、全体のテーマとしては「家族と絆」を挙げていました。
これをボランティアや寄付等、本業の強みを活かして社会的価値を創造していないと批判して、財務が悪化して経済的・人的なリソースを振り向けられなくなると即座に撤退することになると、マイケル・ポーターは、まさに本業の「強み」で社会的価値を創造すると経済的価値をも連動して収益の拡大になるCSV(共創価値経営Creating Shared Value)を主張しました。芸術創造及び鑑賞機会提供を「本業」、ワークショップやアウトリーチ等のコミュニティに向ける活動を「副業」とする考えを、拡大生産的ではなく、ややもすると撤退という意思決定が下されて持続継続性はなくなると私が主張する根拠はここにあります。アーラも2014年の消費税増税で収支が悪化して、館長就任以来はじめて「赤字」を計上することとなりました。年度末近くの翌年度予算策定は、当時の事務局長の進言を受け容れてあえて「赤字予算」を組むことになりました。
これが続けば、「人間の家」の心柱である「アーラまち元気プロジェクト」の縮小を余儀なくされるとの危機感がひたひたと迫っていました。収支が圧倒的に支出超過に傾斜するまち元気プロジェクトは、いずれは指定管理料を拠出する市役所から「副業削減圧力」がかかることになるのではと危惧しました。実際にはそういう事態にはならなかったのですが、この事態が何年か続けば起こりうる、と危惧していました。いったん削減された予算は、そう容易く復活できないことは90年代からの経験で痛いほど身に染みていました。コロナ禍が家計に直撃するインパクトは時間を要しませんが、消費税増税の家計への影響にはタイムラグがあります。そこで先回りして、パッケージチケットシステムの大改革をすることになりましたが、だからと言って収入が増えるということではありません。改革の基本姿勢は、家計からの趣味教養費の支出を抑制するということで、それまでの顧客を維持するという「守りの改革」ですから。それでも、チケット購入を、しかも多額の支出となるパッケージチケットの購入者数の減少は食い止めなければ、維持しなければという消極的な経営への転換でした。
「アーラまち元気プロジェクト」の市民からの支持は実感していましたし、文化庁及び芸文振、地域創造、自治総合センター、地元企業・団体からの財政支援も順調に右肩上がりでしたので、それを縮小、撤退、削減しない経営は、それが「副業」ではない、「本業」は別にあるという考えから離脱することで、それにはアーラが商う文化芸術という「商品」が「つながりを構築」するという直接的な「強み」と、結果的には「社会経済収束力」という社会的価値と経済的価値をともに両立できる「実現可能性」のある性質を強く持っていることにフォーカスしました。そこで、「アーラまち元気プロジェクト」の縮小撤退は、この劇場の存在価値と基盤を喪失することと考えて、大変難しい経営手法となりますが、思い切ってCSVによるマーケティングにシフトしました。CRM及びCSRの限界を、身をもって知ったということです。マイケル・ポーターのCSVへの提言が、消費税増税のインパクトによる苦難と危機を経たからこそ、彼がCRMとCSRを批判的に継承してCSVを主張した意味が腑に落ちたというわけでした。
隔世の感があって、現在では補助金・助成金申請とその事後評価では、「芸術的価値」「社会的価値」「経済的価値」が求められるようになりましたが、そのうち数値化できない、あるいはすべきでないのは「芸術的価値」だけです。プロジェクトのインパクトの「社会的価値」と「経済的価値」は数値化すべきであるし、できます。Facebookで「企画への予算がシードマネーになって、10年後にこんなに投資効果が出る、というロジックで事業評価をしていたのが新鮮だったんですが、このたびの(アーラの)来訪では、一回りまわって『アウトカムは数字で測りきれない』という、われわれ文化関係者は重々承知している事実に立ち返っていらっしゃる様子を伺いました」と書き込んでいるあーとま塾のかつての参加者がいましたが、私たちが目指す未来を理解していなかったこの職員のことを、私は叱責しました。アーチストは別にして、マネジメント、マーケティングを志向する者は、時代の進捗による「変化」から何を学ぶかが、その人の存在価値となります。「芸術的価値」は鑑賞者の数だけあるのが正解であり、決して数値化すべきではありません。それを無理に「観客動員数×チケット料金」に牽強付会して「期末評価」と称しているのが自治体文化行政の現実であることから、私たちはそれを反面教師として何を学ぶかです。意味のない、身内だけで回し読みする「アンケート」で自己満足してきた「悪習」の残滓が、現在に至っても尾を引いていると、私は正直憤っています。かつては「良いものをやっていれば客は来る」という言説が大手を振って罷り通っていましたが、もはやそのような「世迷言」は通用しない時代に移行しているのです。
「強い経営」とは、社会的必要にしっかりと根を張り、そのニーズの強さと高さに基づいた核心的な社会的価値を、劇場音楽堂等は自らの「強み」をもって国民市民との共創のプロセスを丁寧に踏み、実現することと考えています。「社会的孤立と孤独」がどのような仕組みで発生して、いかなる「社会的処方箋」によって回避できるか、或いは回復に向かうかが、同志社大学創造経済研究所と可児市文化創造センターalaとの、科学技術振興機構社会技術開発センター(RISTEX)の研究助成が実現すれば、経済学、経営学、社会学、社会心理学、社会疫学、医学、評価学等の多彩な研究者と現場関係者によって組成される学際的な研究チームによって明らかになると期待しています。また、アーラの館長に就任した2008年(常勤)からの経年データ分析によって、社会包摂型劇場経営が3年強で当初のおよそ3.8倍の鑑賞者開発と、人口10万余人の小さな町のシティプロモーションを進捗させたか、その相関性が解き明かされて、文化芸術の強く持っている社会経済的収束能力という「強み」を活かして「社会的価値」と「経済的価値」をともに獲得する「両利きの経営」、すなわちCSV(共創価値)マーケティングの科学的エビデンスが明らかになると期待しています。いまのところは「期待」でしかないのですが、13年間のアーラでの「実感」は、年々「あるべき公共劇場」として進化してきたと思っています。「強い経営」の科学的エビデンスを学際的な吟味を経て出すことが出来れば、それが後から来る業界世代とすべての国民市民に遺せる、文化芸術と社会とのあるべき仕組みとなると、ラストランをしながらいま考えています。
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随筆 言の葉のしずく
第2回 ちょっとした浦島太郎。
可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生
14年ぶりに下北沢の定住民に戻りました。可児を去る時、もはや可児市民となり切り、生活のサイクルも身体に馴染んでいただけに一抹の寂しさはありました。入居していた広見の私のマンションの周囲は、田圃しかなくこの時期になると電話の声が聴こえないほどのカエルの声が物凄かったのですが、14年間のあいだにそのほとんどが宅地造成されて、朝の登校時と下校時には子供たちの打ち解ける会話と笑い声で空気は充たされます。
久しぶりの下北沢も随分と変わりました。とは言っても、銀行と掛りつけの医者、共働きなので時折のスーパーへの食材の買い出しくらいしか街に出ないのですが、小田急線の地下化にともなって数年がかりの大工事で大きく変化した下北沢駅は、「原住民」である私にはむしろ不便になりました。昨年2月から外食はしていないので、たまに商店街を歩くと、閉めてしまった行きつけだった店があったり、居抜きで移ってきた業態の違う店になっていたり、90年代後半から、もともと若い店主が店を開いて短期間で資金ショートして店子が替わる街になっていましたが、コロナ禍でその傾向に拍車が付いた、という印象です。
私の場合、東京でも地域に出かけても、「食とまち」は切っても切り離せない関係にあって、地域に出ても観光には絶対に足を向けない習性があるので、一仕事終わった後の「食」と「まち」が隣接というより「一体化」しています。富山で食した「白エビの昆布じめ」、金沢の「金時草のおしたし」、熊本での「馬刺しのタテガミ」等々、あげれば切りはありません。ふらっと入った町中華での懐かしい醤油味の中華そばが記憶に深く残って、その店の老夫婦との会話が「まちの印象」になったこともあります。
14年ぶりの下北沢では、馴染んだ味の店が商売をたたんでしまった例が少なくありません。持続化給付金で商売は出来ているのだか、一杯いくらの少額の売り上げを得るのが馬鹿らしくなった、と言った行きつけの珈琲店のマスターがいれば、申請が出来なくて店を閉めてしまった地付きの老夫婦が営んでいた店もありました。「演劇のまち」と言われた80年代から90年代にかけても下北沢は大きく変わりましたが、「コロナ禍」ではその変化のスピードが半端ないと感じています。