第51回 障害は個性だ―エイブルアート展によせて。

2009年7月12日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

95年に起きた阪神淡路大震災の折に、神戸シアターワークスという団体を立ち上げて活動していたことは既に何回かこのエッセイでも触れています。その組織化と資金調達で、東京と関西を忙しく往復していた95年の秋から初冬のころだったと思います。何を見てその催し物を知ったのか、まったく記憶にありません。ただ、私には、新幹線を途中下車して迂回して、奈良公園の猿沢池の畔を歩きながら明かりを探していた記憶が、15年近く経ったいまでも鮮明にあります。障害を持つ人々のアート展が開催されているというので、不案内な、しかも夜の奈良公園の中を、「エイブルアート」(可能性の芸術)と名付けられた美術作品の展示場を探し歩いていました。記憶の襞の中には、ひっそりと明かりがともる、いささか心寂しい建物の入口があります。ホッとしてそこに飛び込むように足を踏み入れたことを思い出します。海外では、障害者の芸術をアウトサイダー・アートと呼びます。日本ではその言葉の響きを嫌ってエイブルアートと命名しました。いま思い返すと、その猿沢池の展覧会から日本における「エイブルアート・ムーブメント」が始まったのでした。

建物の中には衝撃的な作品群が展示してありました。色彩が闇に封じ込められた池畔の風景からいきなり極色彩のエイブルアートと向き合ったせいもあったのでしようが、私の身体には閃光が何条も走りました。あるいは、色彩の少ない震災地の風景に目が慣れていたせいでもあるのかも知れません。その理由はともかくも、私は、想像をはるかに凌駕する造形と色彩を放つカンバスの前で、根が生えたように立ち尽くしていました。自分が大人になる過程で置き忘れ、喪失してしまった感覚の果てしない大きさを思い知らされていました。打ちのめされていました。「この感覚は、何なんだ」と、それらの作品を前にして自問していました。痺れている感覚というか、宙に放り投げ出されて頼りなく浮遊している感覚と言ったらよいのか、ともかくも私がとうの昔に忘れてしまった眼差しで、彼らが世界と向き合っていることだけは確かでした。「障害は個性だ!」という、アーラで開催される「エイブルアート展―Good Job!」のヘッドコピーは、そのときに痛烈に私を襲った言葉です。

私と作家たちを隔てているのは、決して障害の有無などではなく、個性の違いであり、その違いの出会いが、その時の私の眼の眩むような豊かな戸惑いをつくっていたのだと思います。障害を障害たらしめているのは、健常者に都合よく作られている社会やその仕組みです。少なくとも、アートの環境下では、その社会の仕組みをはじめとする桎梏が消えて、「私」という個性と、「あなた」という個性が出会うだけの、いたってシンプルな全人格的な人間の邂逅になります。アートという環境は、そういうものです。だから、アートという環境では、よく言われる「障害を乗り越えて」という言葉は絶対に間違いなのです。彼らは決して障害を乗り越えて作家活動をしているのではありません。彼らの個性をありのままに生きることが、彼らの創造活動になるのです。

私の若い友人である大内武志君は、高松市にある朝日平成園に通所している元気のよい障害者です。私が2000年に高松で障害者と保育園児とのワークショップをした時からのメルトモです。アイドルのコンサートに行ってノリノリのメールを寄越したと思えば、スポーツ好きで全国大会の投擲部門で入賞したりと、いたって行動的な障害者です。ときどき身体の具合が悪くなることはあるようですが、彼は自身の障害を意識していません。障害と共生しているというのか、自分の個性だと思っているようです。いつも元気一杯のメールを送ってきます。私は彼を生き方の達人だと思っています。

アーラで「エイブルアート展―Good Job!」(7月20日-26日 美術ロフト)を開催したいと思い立ったのは、あの猿沢池畔の私の体験を、可児市民の皆さんに追体験していただきたいからです。今年からしばらくはこの時季に「エイブルアート展」を継続的に開催します。彼らの豊かな「個性」に出会い、私たちの「忘れ物」に思いが到り、彼らの「個性」をまるごと受け入れる時間を共有したいからです。彼らは間違いなく「生き方の達人」です。

写真 左:「とんぼとはちのついたはっぱの絵」 山野将志 2006年 アクリル絵の具、クレヨン、パネル
写真 右:大内武志さん