第48回 父の命日。

2009年5月11日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


新緑の季節となりました。今日は夏日の摂氏二十八度、太陽の光は容赦なくじりじりと照りつけています。でも、そんな強い陽光をなだめるような新緑と、その葉をいたわるように渡る風です。新緑の風景を見ていると、不思議と強い日差しが気にならないのです。「薫風」という季語よりちょっと前の季節の風景が好きです。

父の三十三回忌で東京に行ってきました。菩提寺は、早稲田大学の文学部の前にある放生寺という小さなお寺さんです。江戸時代は徳川代々の祈願寺で、隣接する広大な穴八幡神社と合祀されていたそうです。葵の紋を寺紋にしており、格式は高いようです。父は寺が新緑色に染め上げられるこの時季に七十五歳で亡くなりました。熊本・阿蘇の百姓の次男でありながら勉強がしたくて行李ひとつで家出をして東京に来て、家もなく仕方がないので警察学校に入り、丸の内署に勤務して、母と「見ない結婚」をして七人の子を儲けたために警察官では食えなくなり、保険屋をやり、それでも駄目で不動産屋になってやっと落ち着いて、七人の子供を無事に育て上げた市井の無名の人間の最後が、華やかな新緑に彩られた季節だったことを、その頃二十九歳だった私は良い旅立ちだと思いました。刺すような陽光が若葉をきらきらと飾っていたことを記憶しています。最後の最後に、神様は彼の旅立ちの季節を鮮やかに彩ってくれたのだと感じました。

二年後には母の三十三回忌が来ます。父と母は相次いで倒れました。父は病院で、母は我が家で寝たきりになりました。家に一人残っていた私が、ごく自然に二人の介護をすることになりました。父が入院している頃はまだ仕事ができたのですが、母が倒れると、人工肛門になっていたこともあり、三時間おきに下の世話をしなくてはならず、ですから二十八歳から三十一歳までの足かけ四年間の私の評論家としての「仕事」はありません。

私は顔が白くなるほど本を読んで、勉強をした時期が三度あります。一度目は大学から虫プロダクションの時代で、三度目が地域に出てから経営学、公共政策学、法学、認知心理学、マーケティングなどを研究した四十歳過ぎの数年間、そして二度目がこの父母を介護した四年間でした。このときは、買っておいて「積ん読」のままだった本を片っ端から読みまくりました。ですから、「仕事」としては空白期なのですが、ここで充電したことがいまに生きています。また、父母の介護からも多くのことを学びました。父はあるとき病院のベッドで、付添いさんがおむつを換える時に自分を馬鹿にした言葉を吐くと私に訴えました。父は言葉を失っていましたが、私だけが彼の発する「音」を聞き取れるのでした。彼の口元に耳を近づけて彼の訴えを聞きながら、父の無念を思い、胸元に突き上げてくるものがありました。すぐに付添を代えるように指示をしました。自由にならないところを持っている人間ほど、人間としての矜持を守ってあげなければならないのだと教えられました。

三十三回忌を「弔い上げ」と言って、それを終えると仏は先祖墓に入るのだそうです。うまく出来ているものだと思いました。三十三年もたてば、私のように年を取ってからの子供でなければ、その人を知る人がほとんどいなくなるものです。その「弔い上げ」を終えて、可児に帰ってきました。