第31回「消費される劇場」と「まちに拡がる劇場」

2008年11月8日


可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生


仙台で文化経済学会<日本>の秋の講演会のシンポジウム『創造性を支える都市空間』で現代美術の村上タカシ氏とセッションをして、翌日福岡に飛んでアジア美術館で、福岡大学主催の対談『ミュージアム、劇場と都市の互恵関係を引き出す一歩を踏み出せ』で蓑豊氏(金沢21世紀美術館特任館長)とお話しをしました。アーラのことを沢山しゃべって来ました。不十分ではありますが、一応の「広告塔」の役割は果たせたと思っています。

それから一旦東京の家に戻りましたが、東京には「表情」がないと感じました。確かに雑踏はあり、駅構内は多くの人たちが行き交い、賑わいはあるのですが、人と人のあいだがスカスカなのです。風が吹いているのです。皆が他人に無関心で、電車の中では携帯を操作している人やイヤーホーンを耳に差し込んでいる人ばかりで、とても「文化的な生活感」を感じないのです。以前からそれら光景に違和感があったのですが、とくに可児に住むようになってからは、東京に行くたびにその寒々しさを強く感じるようになりました。

この「カンジ」は東京の劇場に行っても同じです。大変多くの人々が観に来てはいるのですが、舞台を消費しているという感を否めないのです。だいいち劇場がまちに向かって開いていない。何もかもが劇場の中だけで完結してしまっているように思えます。これでは劇場やコンサートホールの存在がまちに彩りを、人々に幸福感と必要をもたらすとは到底思えません。

むろん、東京の劇場・ホールはマーケットの真っ只中に存在しており、3400万人を抱える首都圏域を相手に経営していますから、地域劇場と同様の社会的機能は求めようもありません。経済的効果という別の社会的機能と、高水準の舞台を提供しつつけるという芸術的使命を果たし続けるというマネジメントは強く求められています。ところが、このあたりもいささか心許ないと、私は思っています。

ぴあ総合研究所の『エンタテイメント白書2008』によると、古典芸能を含めたミュージカル、現代演劇の観客数は前年比5.1%の伸びで、市場規模は1508億円になり、市場規模で初めて1440億円の音楽を上回ったそうです。とくに市場規模の五割を占めるミュージカルと二割を占める演劇の好調がこの伸びに大きく関係しているとのこと。この伸びの原因には、東京における大規模劇場の相次ぐオープンと、大手芸能プロダクションの演劇・ミュージカルへの参入があげられると思います。今後も渋谷区が大和田小学校跡地に公共劇場を、港区が田町駅近くに公共劇場を、渋谷の東急文化会館跡地に東急がミュージカル専用劇場を、東京ディズニーリゾートにはシルク・ドゥ・ソレイユシアターをオープンさせます。

舞台芸術の市場規模はもうしばらくの順調な伸びを予想させます。慶賀の至りではあるのですが、ここでまず課題となるのが、大劇場系と中小劇場系の二極化です。大規模の資本投下のされている大劇場系の観客と、劇団公演や中小規模のプロデュース公演の観客が、私にはクロスオーバーしているとは思えないのです。「観客も二極化」しているのです。双方の良い舞台を観る観客はごくごく少数なのではないでしょうか。統計には表れていませんが、劇団公演や中小規模のプロデュース公演の観客数はおそらく減少傾向にあると思われます。ある大型プロデュース公演の舞台を観に行ったときに、あまり芳しくない舞台成果なのに、カーテンコールでスタンディング・オベーションと「ブラボー」を叫ぶ観客を見て、この人たちは劇団公演や中小規模のプロデュース公演に来るお客さんではないだろうと直感しました。鑑賞眼のなさには呆れましたし、「ブラボー」に不快感を覚えました。この人たちは舞台を消費しているだけだと思いました。「舞台バブル」と「観客格差」の時代なのです。

大劇場の、大型プロデュース公演が悪いとは言いません。市場規模の拡大は、一定程度の経済波及効果の伸びをもたらしているに違いありません。これは舞台芸術の社会的認知が進むうえで良いことです。しかし、「素晴らしいパフォーマンスを作るものは何か、というのはよく聞かれる質問だ。だがこの質問は翻って言えば、素晴らしい観客を作るものは何か、ということである」という『Standing Room Only』におけるフィリップ・コトラーとジョアン・シェフ・バーンスタインの指摘を、私たちはもう一度吟味してみる必要があるのではないでしょうか。その全責任は大劇場や大型プロデュース公演のプロデューサーが負うべきと、私は考えます。この現況を「バブル」で終わらせないで、実体のあるものにする努力は怠るべきではないと思うのです。

地域公共劇場にはまったく別の役割があります。アーラでの私たちの仕事が、まちに拡がっていくように仕組みを考え、マネジメントをしなければならないのです。むろん、経済波及効果を「強み」としている地域劇場がないわけではありません。オレゴン州アシュランドにあるオレゴン・シェイクスピア・フェスティバル(OSF)は、二万人の町で、年間四十万人の観客を呼び込んでいます。正確には、四十万人近くの人々が、近隣のワシントン州やカルフォルニア州などから訪れる、と言うべきでしょう。アシュランドは観光地でもあり、保養地でもあり、そこに大中小の三つの劇場を持ったOSFがあるのです。マネジメント・ディレクターのポール・ニコルソンも、乗数効果から弾き出した経済波及効果を行政や企業に対するエクスターナル・マーケティングの武器にしています。

しかし、多くの地域劇場は、経済的効果よりも社会的効果の方が重視されるべきであるし、そこに投下される資金は「社会的投資」と定義されるべきなのです。具体的に言えば、コミュニティ形成への投資です。ミクロ的にいえば、心豊かな生活、多様な人間関係の創出、子どもたちの創造性の育成、福祉機関や医療機関のアメニティの向上、それにより担保される安全と安心な地域社会を創出するための「投資」です。マクロ的に表現すれば、そのような地域社会の生活環境が整備されることで、創造性に富んだ経営環境を求める企業の立地条件を満たして、創造性を回転軸とした劇場と産業の循環を成立させるための「投資」と考えられます。地域劇場は、日本で単一的なスタンダードとなっている、地域文化振興を目的とした施設では決してないのです。「指定管理者制度」に怯えるのは、地域文化振興という極めて抽象的で、漠然とした目的に盲目的に従っているからです。拠って立つ基盤が脆弱なところに指定管理者制度が導入されたわけで、「公共文化施設に指定管理者制度はミスマッチ」という意見に私は必ずしも組しません。もっと未来を見詰めたグランド・デザインにしたがって劇場をマネジメントすることで、「闘う経営」を前面に押し立てるべきだと、私は考えます。

東京のまちをもっと生き生きとさせることは出来ないものでしょうか。「素晴らしいパフォーマンスを作るものは何か、というのはよく聞かれる質問だ。だがこの質問は翻って言えば、素晴らしい観客を作るものは何か、ということである」という言葉をもう一度反芻します。私が言い続けている「創客」というサービス業態のマネジメント概念においても、「素晴らしい観客」をつくることは大事な柱の一つです。「動員」や「集客」ではなく、「創客」を地道に積み重ねていけば、東京の劇場も「まちに拡がる」と、私は確信しています。