第101回 GDP主義者の文化と、GNH重視の文化の違い。

2011年3月7日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「文化産業」とか「文化の産業化」という語彙が政府の刊行物や研究者の論文などに盛んに現われ始めたのは、90年代半ば過ぎだったように記憶しています。それに先立つ90年の『文化白書』には「文化立国」という言葉が使われていました。当時の文化芸術関係者の多くは、その言葉に違和感を持っていたように思います。違和感とまではいかなくとも、自分のいる場所からは縁遠い、言葉の遊びのようには感じていたのではないでしょうか。研究者は、欧州文化都市(当時の呼称)のフィレンツェ、アムステルダム、グラスゴーなどの事例や成果を織り込んだ論文を発表して、文化芸術の経済的波及効果を強調して、日本もその轍を踏むべき時代に至っていると主張していました。20世紀に入ってからは、アニメやゲームなどのコンテンツ産業の急速な進捗もあり、「文化産業」、「文化の経済効果」の一本槍になってきたきらいがあります。昨年6月には経済産業省が『文化産業」立国に向けてー文化産業を21世紀のリーディング産業に』を発表して、文化芸術を取り囲む流れは、すっかり「文化の産業化」、「文化の経済効果」がメイン・ストリームになっています。

日本人は、何を見ても経済性で物事の理非を判断する成長社会の習性から離れられないようです。私はこれをGDP(国民総生産)主義者の「幻想」と呼びます。何年か前に「痛みに耐えろ」と叫んだ総理大臣がいました。耐えれば「バラ色の社会がやってくる」とでも言いたげな絶叫でしたが、それもGDPが大きく成長すれば国民は幸せになるという「幻想」を、『夏の夜の夢』のパックのごとく恋の三色スミレの花のしずくのように、眠りこけている国民の瞼に振り掛けたのでした。日本人は、まだその「魔法」から醒めていないようです。経済が国民を幸せにするとは限りません。人間の幸福感、あるいは幸福総量こそが、国民の福祉であり、ひいては国力となるのです。文化芸術が経済性で語られる時代から、私たちはテイク・オフしなければなりません。

文化芸術の社会的効用は「経済性」なのでしょうか。GDPに寄与すれば、文化芸術は社会的認知を受けられるとでも言うのでしょうか。私はそのような考え方とは与しません。すべての事象において「経済性」が錦の御旗であるとは私には思えないし、とりわけ文化芸術政策の目的ではないと絶対に思います。文化芸術は人間の心に働きかけて、健全なコミュニケーションや健やかなコミュニティの形成に寄与して、「生きようとする伸びやかな活力」を社会にもたらすことが最終ミッションなのだと私は考えています。文化芸術の社会的効用とは、まさしくそれなのだと断言できます。その結果としての社会の活力が生産性を上げて、経済的な波及効果となるのなら、それを否定するつもりは毛頭ありません。ただ、それが断じて「目的ではない」と言いたいのです。

研究者も、欧州文化都市の事例を研究するのなら、結果を評価するよりも、プロセスに踏み行って何がその成果を生み出したのかを緻密に検証すべきではないでしょうか。結果としての「表象」をなぞっているだけでは、またぞろ施設建設や補助金の投下という結論しか導きだせないのではないでしょうか。たとえば、欧州文化都市の成果には、市民の意識の変化や都市への帰属性の変化などがあるはずです。それこそが「文化芸術の社会的効用」なのです。

「文化芸術の社会的効用」とは、「こころ」という目には見えないものに働きかけられた結果生じる活力や想像力や創造力、つまり生きるために必要な力なのです。思い遣る、思い寄る、心配る、心通う、心尽くす、心遣る、気配る等々、相手や事象と向き合う力なのです。文化芸術を考えるときの起点は、目には見えにない「心」なのです。「心」とは、すなわち「脳」の働きであり、人間を社会化する「社会脳」の発達こそが、「文化芸術の社会的効用」なのです。

その意味では、私は、GDPよりもGNH(国民総幸福感)を選びとる人間です。その結果が、経済的な発展につながるのなら、それを否定する頑迷さを私は持っていません。それでも、第一義的には、文化芸術の成果は「人間」に現われ、「社会」に現われると私は考えます。「社会」に現われる、ということは「関係」を変革するということと同義です。文化芸術は「変革した人間」をその成果とするものなのです。社会に働きかける、とはそういうことではないでしょうか。最近の言葉なら、個々人の価値観の変革により「社会包摂」を実現することです。でなければ、「創造都市」も「まちづくり」も、お題目に過ぎなくなってしまいます。

閣議決定された『文化芸術の振興に関する基本的な方針』(第3次基本方針)の基本理念において、「文化芸術は、子ども・若者や、高齢者・障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会基盤となり得るものであり、昨今、そのような社会包摂の機能も注目されつつある」とし、さらに、「そのような認識の下、従来、社会的費用として捉える向きもあった文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要性に基づく戦略的な投資と捉え直す。そして、成熟社会における新たな成長分野として潜在力を喚起するとともに、社会関係資本の増大を図る観点から、公共政策としての位置づけを明確化する」という文化政策の位置づけを画期的、と前回書きました。ただ、昨年6月の文化政策部会の『審議経過報告』には、またぞろ「文化芸術の振興は持続的な経済発展や国際協力の円滑化の基盤となるものであり」という文言があります。どうしても、こういう文言を書きこまなければ、GDP主義者や過去の経済発展の「亡霊」から逃れられない人間は、気が済まないのかも知れません。

「社会的必要性に基づく戦略的な投資」と言うなら、まさに「人間の社会性の関係性の進捗発展」のための「投資」でなければならない、と私は強く思っています。基本方針にある「社会的必要性」とは、劣化した日本と日本人をアイデンティティ・クライシスから救うための必要性でなければなりません。「劇場法」(仮称)が取り沙汰される昨今だからこそ、そのところをしっかりと押さえて置かなければならないと思います。