第195回「まだ眠るわけにはいかない」と書いた日からの10年を―いささか情緒的な備忘録として。(その1)
2018年6月29日
可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生
【評論家&大学教員から劇場へ】
正確に言えば、宮城大学・大学院に辞表を受け取ってもらえなかったので、大学教員と可児市文化創造センターalaの館長兼劇場総監督との兼務の非常勤職員として2007年から可児市に居を構えました。それから11年が過ぎました。最初の条件が正規雇用の常勤館長でしたから、大学への辞表を突き返された時点で篭橋事務局長(当時・現教育長)からの申し出を断るつもりでした。彼から「1年だけ非常勤で、その翌年からは常勤で」と譲歩をいただいて、それでは開館から5年間の収支決算書や事業報告をすべて見せてほしいとお願いしました。2006年12月初旬に渋谷のエクセルホテル東急のティーラウンジに大きな紙袋ふたつを持って、篭橋事務局長と渡辺総務課長(当時・現可児市財政課長)が現れて、アーラの「現在」を詳細に話してもらい、私も職場環境の現状を聞き出そうとしました。仕事を引き受けることを決めてから、局長からエクセルで一覧となった「職員寸評」を就任前に送ってもらいましたが、「癖の強いプロの技術職員」と「劇場の仕事に自信のないアマチュアの事業職員」が混在している、あまり芳しくない職場環境という印象を強くしました。初出勤の時には「事務所はザラザラとギスギスで溢れていて荒れている」という印象でした。したがって、非常勤のあいだは週三日の勤務日はホテル住まいで、通勤は職員が車で送迎するという勤務条件を提示されたのですが、「腰掛け」と職員に思われたら初手から職場環境の根底からのイノベーションは難しくなると判断して、可児にマンションを借りて、可児用の車を購入しました。
演劇評論家の傍ら早稲田大学文学部の講師をしている折に「文化事業」の前任者の懲戒免職があり宮城大学事業構想学部・大学院研究科に急遽呼ばれましたが、のちに全国16ヶ所と東京公演となる金沢市民芸術村での市民創作劇『おーい幾多郎』のリーディング公演を控えていたために「後期から」という大学側からの要請は実現せず、10月31日にはじめて大学を訪れました。そして、年度当初から授業とゼミと卒論指導がまったくなされていなかった学部4年生の卒論指導にその日から入るという慌ただしさでした。それでも何とかゼミ生とは良好な関係はつくれたのですが、3年目くらいから、「大学」という場所に何となくの違和感を持ち始めました。別のゼミに所属する学生たちが私の研究室に集まることが多く、その理由が分かり始めたことが、その「違和感」のおおもとにありました。学部生の卒論指導を複数の教員で担当するのですが、「いじめ」としか思えない重箱の隅を突くような「指導」をする、とくに大学研究室の助手から上ってきた大学内でしか対人経験のない教員の共感力のなさにはほとほと呆れてしまいました。
いま言えば、あれは「パワハラ」であり「アカハラ」です。教員という立場は「先達が道に導き、あわせてゼミ生からも新たな知識と発想を教えられる相互性のある職業」と考えていましたが、その指導が「教授」という権威的立場を利用した「人格攻撃」でしかないことに、私は大学に深く失望していました。公立大学の定年は65歳です。つまり50歳代後半の当時の私はあと6、7年も毎年そういうことに付き合わなければならない訳で、ゼミ教師が「白を黒」と言えば「黒」になるような大学の研究室の研究環境の中で自分のキャリアを終えることに次第に抵抗感を持つようになっていました。そこに劇場経営をやってみないかとの誘いが舞い込んだのですから、何の躊躇いもなくその話に飛びついたのです。
その頃は「文化芸術振興基本法」(2001年)が成立して文化庁に「芸術拠点形成事業」という劇場ホールへの補助金を専らとする制度が出来て、その審査にも係わり、しかも地方自治法の一部改正による「指定管理者制度」が施行されて(2003年)まだ間もない時期でしたので、非正規雇用による組織の脆弱化や経営齟齬、劇場音楽堂等の職場環境の「ブラック化」があまり表面化していない時代でした。ならばと、90年代から構想してきた「劇場の再定義化」による、「90年代のホール建設ラッシュ」にともなって大きな声となっていた「ハコモノ批判と税金の無駄づかい批判」を可児市の劇場で実証的に撥ね返そうという野心を滾らせました。何しろ「劇場法」が成立した2012年に千葉県・白井市に講演で呼ばれた折に教育委員会の担当者から、「構想日本」から派遣された事業仕分け人が、市民文化祭事業を仕分けした折に「文化は基本反体制、行政と仲良く何かやるなんて気持ち悪い」と発言したと聞きました。隣接する四街道市でも同様の発言で文化祭の仕分けをしたそうです。驚くと同時に唖然としました。憤るよりも、その知性と品性の下劣さ呆れました。
あの元大蔵省官僚で不偏不党を貫いて政策提案をしていた加藤秀樹氏が率いていて、私自身も高く評価していた高名な「構想日本」から派遣された仕分け人の、その知性の欠如と社会の変化への鈍感さと不寛容な精神に深い失望を禁じ得ませんでした。単なる「コストカッター」でしかないのなら、何も行政は中立的立場とは言えず予断に満ちた仕分けをするなら「構想日本」から仕分け人を派遣してもらう必要などありません。いまからたった6年前のことです。そういう時代だったのです。最近も静岡県の事業仕分けで「構想日本」から派遣された仕分け人が「県民オペラ事業」を観客動員数の減少と自身が文化芸術を必要としていないという論拠での事業に対する理不尽な印象批評で「効果なし」に判定していました。「経済成長」だけを善とする成長神話に囚われた仕分け人の知性のなさには呆れるばかりです。私がアーラの館長に就任して5年、「第三次基本方針」が出て1年半、「劇場法」が成立しておよそ半年後の2012年でも、劇場や文化芸術の外部環境は、本来は一級の知識人であるべき「構想日本」から派遣された仕分け人でさえも、実にこの程度だったのです。
宮城大学からの年度途中からのゼミ教員就任という非常に難しい条件に乗ったのは、その前に6年間も関わった「北海道劇場計画」の知事交代による凍結があり、私が構想していた教育・福祉・保健医療分野との横断的なプロジェクトにより、「負担と受益の圧倒的アンバランス」を是正して、劇場ホールに広く社会的認知を得る経営戦略とマーケティング戦術のDNAを若い人たちに、せめても遺すためでした。ゼミを学部と大学院で週8コマ持たせてくれる条件があったからの宮城大学行きでした。40歳代はじめから地域に出て、古典経済学、経営学や行動経済学、認知心理学、公共政策学、マーケティング等を独学で勉強して組み立ててきた「夢のような劇場・いのち賑わう劇場=人間の家」を実現したいと思っていました。北海道では潰えましたが、可児市の現場で実証的に実現できる機会という選択肢をもらったのです。90年代から少しずつ構想を進めて、それを97年に『芸術文化行政と地域社会』としてまとめて上梓して、それでも芸術を聖域とする向きの多く人たちから激しいバッシングに晒されていた私は、その頃は「難破船」のように帰るべき母港のない、いや羅針盤さえ信じることのできない宙ぶらりんの状態でした。その果てでの可児からの要請でしたから「野心を滾らせる」のは当然の成り行きでした。
前述の渋谷・エクセルホテル東急のティーラウンジで篭橋さんと渡辺さんに「遺書を書くように劇場を経営する」とつんのめった発言をしたのも、「ようやく劇場を実証的に再定義して、社会的認知を得る機会を持てる」、「負担と受益の圧倒的アンバランスを是正する機会を得た」という「野心」の発露だったと、いまにして思います。北海道劇場計画は、現在札幌駅前の駐車場となっている札幌市所有の広大な土地に、しかも高度利用地区だったために当時でもおよそ240億円から260億円は建設にかかるだろうと予測されており、ランニングコストは事業費も含めて12億円程度は最低必要と、当時の担当課長の山谷吉宏氏(現副知事)に申し上げていました。可児市文化創造センターalaの指定管理料は、就任当時はまだ5億円(就任2年目に入札を不調にして談合を排除して4000万円を削減)でしたし、北海道劇場で考えていた社会的諸機能を可児ではダウンサイジングすれば実現可能と思っていました。
12月中の年内は14日に締切りとなる卒論と修論の指導の追い込みに縛られていましたが、年明けからは、総務課長の渡辺さんが重い思いをして運んでくれた5年分の収支決算、事業報告、理事会の記録などの数値化されている部分をエクセルに入力して、5年間の経年推移と事業分野別に比較できるようにグラフ化したり、職員が作成した事業報告の違和感を覚える箇所にマーカーを乗せたりしました。「事業報告」には職員の意識の高さ低さがはっきりと反映されます。文字づらと収支の取り方から焙り絵のようにその職員の意識の持ち方がくっきりと浮かび上がります。確かその頃のアーラの収支比率は32%だったと記憶しています。つまり、100円投資して32円を売り上げるということで、1000席以上のホールを持つところの分類では、全国で3番目に悪い数値でした。それらの分析と並行して、可児市とアーラのSWOT分析を試みました。その時のSWOT分析は、就任直後に『回復の時代のアーツマーケティング』にウェブアップしているので引用しておきます。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/ronbun-all.html) SWOT分析とは、前述したように、内部環境と外部環境を「強み(strength)」、「弱み(weakness)」、「機会(opportunity)」、「脅威(treat)」に分析して、みずからの置かれているポジションを客観化したのちに、そのポジショニングに沿った事業設計と経営戦略を編み出す分析手法です。この分析結果から、経営戦略(strategic management)を導き出して、それと現況との齟齬や整合性を吟味しながらマーケティング計画を組み立てるのです。
SWOT分析の概要を一覧すると次のようになります。
1) 強み(Strength) 内部環境(自社経営資源)の強み。
2) 弱み(Weakness) 内部環境(自社経営資源)の弱み。
3) 機会(Opportunity) 外部環境(競合、顧客、マクロ環境)からの機会。
4) 脅威(Threat) 外部環境(競合、顧客、マクロ環境)からの脅威。
実際にどのような分析結果になったかは、ウェブ上の『回復の時代のアーツマーケティング』を参照していただき、アーラの「現在」と比較対照していただければ、どのような戦略を実現するために、いかなる戦術を用いたかが透けて見えて来るのではないでしょうか。アーラで進めたマネジメントとマーケティングの粗々の経営戦略の粗々が可視化できると思います。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/ronbun_26.html)
その頃、「よくこんな田舎に来てくれましたね」と市民の方に声を掛けられたりしましたし、就任1年目に関連企画で来ていただいた、先年鬼籍に入った舞台美術家の朝倉摂さんからも「こんなところに、こんなものがあるんだねぇ」と言われました。ことほど左様に名古屋から小一時間も私鉄に乗るという地政学的な弱点があり、「可児」を「かに」とは読んでもらえず「かご」や「かじ」だったという「弱み」は、しかし周囲から盛んに言われた「よく決めましたね、大変でしょう」というほどではなく、私はむしろ、その人口規模の小ささと、全国的にはほとんど知られていないことを「強み」に変えるための経営手法の模索を始めていました。
何とかして劇場や文化芸術のプレゼンスに「変化」をもたらして、「負担と受益の圧倒的アンバランス」を是正して、可児市民の社会的合意に結び付けなくてはという思いは強くなるばかりでした。その当時、毎年市役所が行っていた「市民意識調査」の「アーラについて」の括りで、市民の意識の第1位と第2位は何処でも同じで「有名なタレント・歌手を呼んでほしい」の類だったのですが、第3位に「子どもと障害者の事業をしてほしい」が入っていることに驚き、大きな勇気をもらったことを憶えています。当時の可児市の生活保護世帯率は、全国平均の11.7%に対してわずか0.13%でした。就学援助対象も2世帯、いくら大家族だとしても5、6人でしょう。「市民意識調査」と「可児市概要」の数値を見ながら、私は可児市民を比較的高学歴で教養があり、大金持ちではなくても生活水準の高い人ではないかとプロファイリングしました。「市民意識調査」から、「ノブレスオブリージュ」(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観)の匂いを感じていました。
この町なら自分が理想とするすべての人々にとって必要な劇場を創りだすことが出来るかも知れないと、「負担と受益の圧倒的アンバランス」を慢性的に抱えている全国の劇場ホールの外部環境に大きな「変化」をもたらすことは可能なのではと、先を見通せる思いになったことを思い出します。可児市文化創造センターalaは、地域に出て10数年間におよそ400に迫る劇場ホールを見てきた私の目には、水準をはるかに超えるハードとしてのポテンシャルを持ったものでしたが、地元の可児市民にはその価値が理解できていない様子でした。むろんハコモノ批判も表面だってあり「売れ」、「壊せ」の私の声が耳に入ってくることもありました。来館者も「ビギナーズ・ラック」の時期が過ぎて、右肩下がりに急減している状態でした。主劇場に市役所職員と教員を集めて、いかにこの劇場が水準を超える、世界に出しても賛辞を浴びる施設だと講演をするほどでした。そのうえ、それまでの「劇場の常識」を破って大きく「逸脱する」のですから、高い壁と深い谷を同時に見上げるほどの困難が幾重にも立ちはだかるのは覚悟していましたが、「希望」を持つことは出来ました。非正規で就任した1か月後の5月12日脱稿で、私はこの「館長エッセイ」に『まだ、眠るわけにはいかない』という一文を書いています。(http://www.kpac.or.jp/kantyou/essay_13.html)米国の国民的詩人ロバート・フロストの『雪の宵の森にたたずんで』の一節を当時の私の思いに重ねあわせてのものでした。その詩は下記のようなものです。
森は美しく、暗くて深い。
だが私には約束の仕事がある。
眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ。
眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ。
「Stopping by Woods on a Snowy Evening」
その当時はまだ具体的な「死」は観念の中にしかなかったし、「気負い」ばかりを感じる文章ですが、この7年後に脳梗塞を患い、その後2年半ものあいだ薬の副作用で苦しみ、志に見合うようには身体が動かず酷い鬱状態となり抗鬱剤まで処方されたことのある私には、この詩の「眠るまでにはまだ幾マイルか行かねばならぬ」は、いまでも自分を叱咤する言葉です。いま「死」は私にとってとてもリアルです。発症時前後の記憶が飛んでしまったことによるPTSDを払拭しきれないでいます。アーラの「劇場経営のDNA」を現在の職員に移せる時間はあとどれだけ残されているのか、劇場音楽堂等と文化芸術の環境の変化に関わり合いながら自分をさらに「変化」させることのできる時間はどれだけ残っているのか、「可児モデル」と言われている社会包摂型劇場経営の「第二、第三のアーラ」を創出するために、私にはどの程度の時間的猶予があるのか、心臓から血栓が脳に飛んだことでニトログリセリンのフランドルテープを「疲労を感じたら貼るように」と、30年来の掛り付け医に処方された昨年からは、もうすでに頭の中ではカウントダウンは始まっていると感じています。五木寛之さんに『下山の思想』という著書がありますが、私も病気をして以来、いかに意義ある下山ができないものかを考えています。先日見たBSドキュメンタリーで「どういう終わり方をするかが問題」と過去に世界チャンピオンにもなった30歳代半ばの盛りの過ぎたポクサーが言っていましたが、私もそのボクサーの心境です。「いのち賑わう劇場=人間の家」の考え方をどこまで拡げることが出来るか、最後の一呼吸をする時に「あー、おもしろかった」と満足して終えたいと思っています。