第193回 世界劇場会議国際フォーラムin 可児が今年も無事に終了しました。
2018年2月26日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
全体のタイトルは『劇場は社会に何が出来るか、社会は劇場に何を求めているか?―鑑賞者開発と資金調達環境の改善を両立させる劇場経営へ』で、英国から、昨年に引き続いて文化組織コンサルタント会社インディゴ社業務執行役員のセーラ・ジー、そしてリヴァプールエブリマン&プレイハウスのマーケティング&コミュニケーション部長のサーラ・オーグル、ウエストヨークシャー・プレイハウスの資金調達部シニア・マネージャーのヴィヴィアン・ヒューズ、マンチェスターのハレオーケストラ資金調達部長のカス・ラッセル、日本側ゲストスピーカーとしては、文化庁文化部長の藤原章夫、日本劇団協議会会長で劇団文学座演出家の西川信廣、体奏家・ダンスアーチストでアーラのコミュニティ・アーツワーカーを務めてくださっている新井英夫、NPO日本演劇情動療法協会理事長の前田有作、岐阜県教育委員会教育主管の堀貴雄、社会的インパクト投資の数少ない専門家でケイスリー株式会社CEOの幸地正樹各氏という、多彩で、しかも芸術と社会の関わり合いの中で多大な成果を実証的にアウトカムしているスピーカーによって、今年はさいたま市での開催もあり、可児ではアクセスが難しい東京圏及び東北・甲信越・北陸からの参加者も見られました。
その意味では、意義のある国際会議にはなりましたが、それでも参加者は可児市とさいたま市で300人には届いておらず、5年後、10年後の国の文化政策の方向性と公立劇場のデザインを確実に提示してきたと自負する私たちにとっては、せめて400人程度の人々と、世界劇場会議からの情報と今後の文化政策の展望をシェアできればと総括しました。折しも、高岡市が新幹線駅周辺の整備等で市債を165億円発行した結果、歳入見込みの齟齬も重なって毎年40億円の歳出超過という事態に陥り財政健全化を推進するため2035年までに2016年時点で373ある公共施設のうち114施設を閉鎖削減するという再建案が提示されました。いまの劇場ホールを取り囲む環境のままであるなら、文化施設の多くは閉鎖に追い込まれると予測されます。
一方、昨年12月27日に発表された「文化芸術推進基本計画(第1期)」では、「社会的評価」に、従来からの「芸術的評価」、「財政的評価」と同等に重きがおかれる目標と戦略が提示されました。この基本計画はこれから5年間の国の文化政策の柱となるわけで、2035年までの高岡市の文化施設と文化活動は、この基本計画のビジョンを実現できるマネジメントとマーケティングにシフト出来るかにかかっていると言っても良いでしょう。チキンレースのような時間との競争ですが、世界劇場会議国際フォーラム2018での私の基調講演は、「負担と受益の圧倒的アンバランス」という脆弱な基盤の上に立脚している劇場ホールや文化活動を、その不均衡を是正するために受益者の底辺を拡大して是正する社会包摂型経営に着手すべきという提案です。
可児市文化創造センターalaは年間460回を超える社会包摂プログラム「アーラまち元気プロジェクト」で全国区となっていますが、それは私が非常勤として大学との兼務で館長に就任した年に、マイケル・ポーターによって提唱されたCSV(Creating Shared Value)=「共創価値創造」という手法を導入して、社会的ブランド力を高度化し、鑑賞者開発と資金調達環境を劇的に改善に向かわせたことによるもので、社会包摂型プログラムだけにフォーカスする見方は、「木を見て森を見ない」類のものです。昨年秋以降から、職員には「社会包摂はあくまでも手段で、最終到達目標は鑑賞者・支持者・支援者・擁護者を開発して、資金調達環境をブルーオーシャン化すること」と、明言し始めていました。それを今回の基調講演で公にしたという次第です。諸事情で参加できなかった方々に私の基調講演をシェアさせていただきます。
英文も併記します。お知り合いの外国人研究者及びアーチスト等にシェアいただければ幸甚です。
世界劇場会議国際フォーラム2018 基調講演
可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生
昨年、厚生労働省から出た2つの文書に、私は注目しています。
その一つは『地域共生社会の実現のために』という、省内で検討されて纏められた文書で、閣議決定されたものではないのですが、まさに「競い合い、奪い合う社会」から「分かち合い、支え合う社会」への転換を求める、包摂型社会を構想したものです。その動機が毎年1兆円ずつ増えていく社会保障費と医療費の削減をコミュニティの再生で、かつてのように住民個々の抱える問題を「わが事」として、自分の事として考えられる互助社会をつくろう、といういささか虫のよい提言です。「わが事として」というのは、この文書のタイトルにもなっています。産業社会が進捗して資本主義社会が高度化すれば、生産手段の集積する都市部への人口集中が起きるのは必然であり、「生産と生活」の分離が進めば、かつては安心安全な生活を成り立たせていた支え合いのコミュニティが崩壊するのは時代の必然といえます。そこで政府自治体が、失われたコミュニティの支え合いに代わって公的資金で手当てする、いわゆる「公助」というものが必要になったのです。いわば「公助」による社会保障は、経済成長と発展の代価として、税金による応能負担で社会を維持するコストと考えられます。
税金による公的社会保障の負担というものは、そのような時代の進捗と経済成長によって失われてしまった支え合いのコミュニティ機能の対価として、国民の義務となっているのです。昨年の世界劇場会議で基調講演をなさった神野直彦氏は、『分かち合いの経済』という著書の中でスウェーデンの納税を指す言葉である「オムソーリ」という言葉を紹介しており、この「オムソーリ」には、「悲しみの分かち合い」という意味もあるとおっしゃっているのは、このことを指しているのです。したがって、私たちは「悲しみ」と「苦しみ」と、そして「喜び」をも「わが事」として共に分かち合うことための手段として、納税行為を日本国憲法第30条で「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」と定めているのです。
その「納税義務」と劇場ホールに関連した最近のトピックを話します。山形県鶴岡市に世界的建築家妹島和世さんの設計した劇場ホールが出来ました。しかし、まず当初の建築予算の42億円が倍増しておよそ98億円もかかってしまい、市長は直後の選挙で落選しました。また、静岡県河津町では、子育て支援施設と劇場ホールの合築を計画した町長に対するリコール運動が起きて、結果町長は失職します。2000席のホールはいらない、という市民運動が起きている姫路市のような事例もあります。90年代に次々と建設された劇場ホールは、1年も経たないうちに「ハコモノ批判」と「税金の無駄遣い批判」にさらされることになりました。そして、その四半世紀後もまた、ふたたび2000席以上の劇場が全国各地で計画され、建設され、負担をめぐるハレーションが起きています。
私が90年代から一貫して主張しているのは、この「ハコモノ批判」と「税金の無駄遣い批判」は、「負担と受益の圧倒的なアンバランス」があるからだということです。その原因は公立劇場におけるマネジメントとマーケティングの「不在」です。税金はすべての国民市民から強制的に徴収されます。その税金を負担しているにもかかわらず、自分にとっては一生必要としない、縁のないだろう施設に、100億円から250億円近い、あるいはそれ以上の税金が投入されているのですから、その批判は当然のことです。誰だって不満に思います。音楽や演劇の愛好者は日本では人口の2%前後と言われています。この「負担と受益の圧倒的アンバランス」を解消するのが、アーラの選択している社会包摂型劇場経営です。アーラは社会包摂型劇場経営を成功させた劇場として評価され、日本の代表的な劇場の一つと言われるようになっています。しかし、実は社会包摂型経営という選択は、この「負担と受益の圧倒的不均衡」を是正する手段なのです。
一部の愛好者と経済的余裕のある特権階級にのみを受益者とする施設ではなく、劇場から一番遠くにいる、経済的にも、社会的にも、心理的にも、遠くにいる人々に劇場の果実を届けることで、すべての人々を視野に入れたサービスを供給して、この圧倒的不均衡を是正しようとしているのです。それが「社会包摂型劇場経営」の最終ミッションなのです。地域住民を精神的孤立・社会的孤立に瀕させない、そのリスクヘッジとしての役割を、劇場が一社会機関として担うというデザインです。地域社会を健全化するために「悲しみと苦しみと喜びを分かち合う装置」としての劇場は、最終受益者を広く捉える「みんなの広場」であり、したがって、公立の劇場ホールの存立根拠という価値創造を更新し続けるのが健全な劇場の在り方だと私は思うのです。
私が注目した厚生労働省のもう一つの文書は『自殺対策白書』です。社会の健全性は、犯罪率や失業率でもはかることはできます。しかし、私はエミール・デュルケムの名著『自殺論』を踏襲して、その国の自殺者の年齢分布によって、その国と社会の健全性と、未来に向けた課題をクリアに抽出できると考えています。この国のかたちと課題と対策が如実に現れると考えています。
「自殺行為」には個人的資質や家庭環境もその要因として考えられていますが、デュルケムは、「自殺の決定要因は、個人の意識ではなく先行した社会的事実に求めねばならない」と主張しており、私も「自殺」は個人の問題ではなく、社会課題であるという立場をとっています。今年度の『自殺対策白書』によれば、15歳から34歳までの若年層を5歳毎に区切った4区分の死亡原因の第一位が、なんとすべて「自殺」なのです。ちなみに、35歳から39歳の死亡原因も第一位が「自殺」です。15歳から39歳までの死亡原因第一位がすべて「自殺」なのです。とても尋常とは思えません。異常な社会です。20歳代では、なんと死亡原因は2人に1人が「自殺」です。「何と息苦しい社会を生きているのだ」と心を締め付けられる思いがしました。主要先進国の自殺者が事故死の3分の1程度なのに対して、日本はその反対で、「自殺」が事故死の2.6倍にもなります。これは深刻な事実であり、その解決は将来に向けた重要な社会課題です。未来を担う青少年・若年層のこの現況は、社会全体で解決しなければならない問題です。それは教育問題であり、貧困問題であり、雇用問題であり、医療問題であり、福祉問題であり、差別問題であり、あらゆる社会政策の大きな課題です。ギリシャ劇は「人格を崩壊させるにはその人間を孤立させること」と明快に私たちに教えています。彼らの「孤立感」にどのように寄り添い、その解決に携われるのかが、「人間」としていま私たちが問われているのです。
社会教育学者の舞田俊彦氏は、「これから先、ますます生活は悪くなっていく」という意識の割合である「希望閉塞率」という概念を提起しています。そして、その割合と自殺率との有意な相関性を述べています。「働けど働けど 猶わが生活(くらし)楽にならず ぢっと手を見る」の、詩人石川啄木は『時代閉塞の現状』を著して、自らを「人生の落伍者」と自覚して孤立を深めていきます。彼が24歳の頃です。この時期に啄木は誕生して間もない幼な子を失っています。そのことも彼の絶望感と閉塞感をさらに深めたのでしょう。いまから120年程前のことです。啄木が精神的にも社会的にも孤立して、26歳の若さで肺結核によって夭折してから100年以上も経った今日、同じように閉塞感を持ち、孤立して死を選択する若者と若年層が数多くいることに、私は強いショックを受けています。それは一日本人として、と言うより以上に、「人間として」、「劇場人として」、私たちの仕事が「彼ら」に届かなかったという、悔いにも似た気持ちです。「希望閉塞率」、すなわち「希望格差」です。私の関わっている仕事で衝撃的だったのは「夢を話せない」子どもたちとの出会いです。大阪の子ども食堂の運営者が、帰り際の子供たちに掛けていた何気ない言葉は「生き残るんだよ」でした。耳を疑いました。それは戦場に赴く子供に親が掛ける言葉と同じだったのです。
先進国での今日的な「貧困」は「相対的貧困」と言われます。これは、国民の平均所得の半分、いわば中央値以下の年収で生活を営むこと、と定義づけられています。日本では、年収121万円ですが、私はそれだけではないと思います。今日的な「貧困」は3つの要因によって複合的な「貧しさ」を生んでいます。一つは、言うまでもなく「経済的貧困」です。2つ目は「つながりの貧困、関係の貧困」です。これは冒頭にお話しした「地域共生社会」の喪失と関係しています。そして3つ目は「自尊感情の乏しさ、自己肯定感の貧困」です。自分を価値のない人間、誰からも必要とされていない存在、社会に必要とされていない不必要な人間、と思い込んでしまう貧困です。この3つの要素が複合的に絡み合っているのが、今日の相対的貧困であり、結果としての「自殺」なのです。そのような貧困に瀕すると「精神的・社会的孤立」にして、「自殺」、「引きこもり」、「蒸発」という、いわば人間の尊厳と存在の放棄が起きるのです。
一つ目の経済的貧困は劇場ホールや文化芸術が解決できる要因ではありません。しかし、「つながりの貧困」と「自己肯定感の貧困」は、文化芸術こそが、劇場ホールこそが解決に大きく寄与できると、私は劇場経営者として考え続けています。私たちの劇場は「社会包摂型劇場経営」として全国随一、あるいは唯一と評価されるようになりました。したがって、講演と視察対応で年に80回ほど多くの皆さんの前でお話しし、質問を受けます。その時に必ず出るのが「社会包摂」とはどういうことですか、というものです。劇場を、「集客して舞台鑑賞してもらい対価をいただく場所」と、興行場としか思っていない劇場職員には、まったく手掛かりのない言葉だからです。そのような時に私は「あなたは孤立したことがありますか?」、無いのなら「その時に人は何を感じると思いますか?」と質問して、「社会包摂とは誰一人、精神的・社会的に孤立させない」という社会構築の理念で、違いを受け入れる寛容さと、違いを豊かさに転換できる、人間それ自体への全幅の信頼です、と答えます。それは人間の生き方にかかわる、人間の価値にかかわる考え方です。私は、劇場ホールは、そこで仕事をする人間の、生き方そのものが如実に現れると考えています。
日本には「母は強し」という言葉があります、これは日本に限ったことではなく、世界中の母親は、いかなる逆境にも立ち向かう「強さ」を持っています。なぜなら子供から必要とされているからです。逆の見方をすれば、母親は子供にとって自分の存在が役に立っていると自覚しているから「強い」のです。そして、このような「関係」から、私はコミュニティとは、「身内意識(sense of belonging)」を構成員が持っている「状態」を指す言葉です、と言います。「受験勉強でいろいろなことを犠牲にしてきた子供が試験に失敗したら、隣人であっても、それこそ我が事のように悲しむ」、「全国規模のスポーツ大会で金メダルをとったら、当の本人よりも感動して歓声を上げる」、これがコミュニティというものと説明します。
そのような「誰かに必要されている」、「誰かの役に立っている」、「我が事のように喜ぶ」、「我が事のように悲しむ、落ち込む」という関係づくりを、文化芸術と劇場という空間を触媒にして、誰かと誰かの間に「身内意識」という「関係の価値」を化学反応として起こすのが私たちの仕事なのだと話します。その化学反応とは、お互いの、あるいは複数人数間の「承認欲求」を充足させることを意味します。「承認欲求」とは「存在の欲求」であり、その化学反応で起きるのは「自己肯定感」の醸成であり、そして「承認欲求」の充たされた場所が、その人間の「居場所」となるのです。「承認欲求」を充たすということは、「必要とされている」ことの確認であり、「愛されていること」の自覚で充たされることなのです。私は、それだけで絶望している人間は前を向いて立ち上がれるとさえ思います。
そこには「孤立」の影は微塵もありません。「必要とし、必要とされる」、「役に立っていると存在に価値がもたらされる」ところからは「孤立」も「自殺」も起こりえません。別の言葉を使えば、そのような実感を持てる他者との出会いが用意されるのが、劇場であり、芸術文化の場であるのです。劇場と芸術文化の社会包摂機能とは、そのような「承認欲求」が充たされる機会を得られることで、「必要とされている実感」と「役に立っているという実感」で充たされるということです。版画家の棟方志功は酷い弱視という身体的障害を持っていましたが、小学生低学年の時に彼の描く絵を同級生が皆競って欲しがったことから「承認欲求」を充足させて、後年芸術教育を受けることなく、あれだけ世界的に評価される版画家になったと私は思っています。まさしくアール・ブュリットの先行者です。「承認欲求」を充たされるということは、その人間の潜在的な価値と能力を導き出して、WELL BEINGを実現させるばかりか、社会の発展に寄与する価値となるのです。
ここまで私は皆さんに、劇場とは一見関係のないことをおしゃべりしてきました。しかし、「健全な共生社会を形成する、誰も孤立させない社会を創り出す」ためにこそ「社会機関としての劇場」が税金で設置され、運営されているのだという根拠=エビデンスを私は示したかったのです。そうなってはじめて、「負担と受益の圧倒的不均衡」という、日本の公立の劇場ホールが抱え込んで長いあいだ責められる一方だった、あるいは、この先永遠に続くとも思えた課題に解決の道が開けるのです。そして、いま、劇場の外部環境には喫緊に解決に向かわせなければならない社会的ニーズの高まりがあり、それが急速に溢れ出していることに、私たちは強い関心を持たないわけには行かないのです。
芸術的価値と社会的価値が経済的価値を生むという、ごく当たり前の「劇場経営の方程式」を成立させるために、私たちは「芸術的価値と社会的価値」の好循環を生み出し、社会的必要を背景にして「鑑賞者開発」と「資金調達環境」を、身動きの取れないレッドオーシャンから、豊かな可能性に満ちるブルーオーシャンへと転換させて、高いソーシャル・ブランドを、すなわち社会からの強い信頼を獲得する道に踏み込むことが、いま求められているのです。成熟社会になって消費性向も大きく変化しています。「何を買うか」よりも、「それを誰から買うか、何処から購入するか」に大きく変化していることに私たちは気付かなければなりません。そして、民間資本の商業劇場ではないので利潤の最大化は図る必要はありませんが、利潤の適正化という「経済的価値」に向かうべきではないでしょうか。それは「支援者開発」、「擁護者(advocator)開発」を劇的に促進させ、経営成果として、資金調達環境を整え、劇場への国民市民の強い関心と信頼を喚起することです。必然的に文化政策は成熟社会における最重要政策として、国民市民の生活の質及び生命の質、さらには人間の尊厳を守る砦として、劇場と芸術文化は成熟社会において大きな役割を担うことになると確信します。フィリップ・コトラーの提唱するマーケティング3.0及び4.0、さらには社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)とは、そのような循環を設計することであると私は理解しています。コトラーはマーケティング3.0を提唱する際に「Marketing the world better」 と書き、「売れる環境、すなわち健全な社会環境を整える」ことが事業体の使命であり、それが事業体経営の持続継続性を担保すると説いています。
さらに、あの競争社会を煽っていた経営戦略の権威であるマイケル・ポーターでさえも、従来からの企業の社会的責任経営(CSR)は「慈善事業への寄付ボランティア等、本来事業との相関性のないものが多く、社会的インパクトによって社会を変化させようとは本気で考えていない。事業戦略と結びついたものにすべき」と2011年のハーバード・ビジネスレビューに『Creating Shared Value』(邦題『経済的価値と社会的価値を同時実現する共通価値の戦略』)を発表して「戦略的CSR」としてCSV(Creating Shared Value)=「共創価値創造」という概念を提唱して、他社との差別化を図って競争優位を獲得すべきと主張しています。彼の提唱していることは、従来の社会的責任経営は「慈善事業への寄付ボランティア等、本来事業との相関性のないものが多く」、事業体の負担となっているのに対して、CSVは、その事業体の持つ強み(経営資源・専門性等)を活かし、資本主義の原理に基づいて、ビジネスとして社会問題を解決するという視点であり、攻めのソーシャル・ブランディングであり、経営発展性のあるものと捉えられます。
芸術や劇場ホールのサービスは「共創性」(Co-creativity)というプラットフォーム型の商品特性を持っており、それを梃子としたマネジメントとマーケティング手法は、「強み」を活かすという点でCSVを強力に進めるうえでベストマッチングであると考えます。2007年のハーバード・ビジネスレビュ―で前述のマイケル・ポーターは、CSV前段となる「Strategy and Society」(邦題 競争優位のCSR戦略)で戦略的CSRをはじめて提唱しました。 私は、2008年に、この可児市文化創造センターalaに就任してすぐに、この経営手法を採用して初年度に「アーラまち元気プロジェクト」を年間265回実施しました。その成果として、2014年統計ですから少し前のデータですが、就任後7年間で来館者はおよそ20万人増加、観客数は3.68倍、パッケージチケット数が8.75倍、そしてて、2016年の数値ですがマーケティング投資収益率(MROI)が5.62というアウトカムを引き出しました。
私の目指す劇場のグランドデザインは、「負担と受益の圧倒的不均衡」を是正して、劇場と芸術文化がすべての国民市民の「真の意味での公共財」として認知される社会です。最終受益者を芸術愛好者、鑑賞者という狭い範囲に止めることなく、芸術文化の社会包摂機能を余すところなく活用して、社会全体を視野に入れ、身体的障害のみならず震災被災者、犯罪被害者等の心的外傷後ストレス障害等の心の障害、子供の貧困、いわれなき差別をはじめとする社会的障害など、すべての「生きづらさ・生きにくさ」を感じている方々の課題解決に向けて寄り添い、尽力するで「負担と受益のバランスシート」を健全化することです。そのことが国のみならず自治体文化行政における 公共政策の優先順位に大きな変化をもたらすでしょう。また、2003年の指定管理者制度導入以来悪化し続けて自殺者という犠牲者まで出している職員スタッフの就労環境の改善をはじめとする指定管理者制度自体の改善及び見直しにも結び付くことと確信します。
最後に、ふたつの言葉を皆さんに提示して私のプレゼンテーションを終わりたいと思います。
そのひとつは、ドラッカーの言葉、「未来を予測する最良の方法は、未来を創ることだ」(『創造する経営者』)です。私たちはいま、日本の芸術そして劇場が如何なる環境にあろうと、すべての人々に必要とされる「未来」へ続く、遠くまで行く道を切り拓いているのです。その開拓者精神と先駆けとしての使命感を持たなければと思っています。分断の進む社会にあるからこそ、私たちは誰かと誰かの「架け橋」になろうとする生き方を選びとらなければならないと思います。そして、「悲しみを分かち合う、苦しみを分かち合う、喜びを分かち合う」、心休まる場所として、劇場音楽堂等を成立させる未来を構想すべきと考えます。
いまひとつは、ジョン・レノンの「僕は30歳になったらもうShe loves youは歌わないよ。
僕たちは、僕たちを好きな人達のために、いつまでもShe Loves Youと歌っているわけにはいかない」という言葉です。劇場と芸術文化を取り巻く外部環境は「指定管理者制度導入」の2003年以降、激しく変化しています。そして、大変厳しい状況での公的資金投入の政策根拠(エビデンス)をはじめ、時代環境に見合った経営が求められています。しかし、厳しいからこそ、社会からその存在の認知を獲得するチャンスでもあると私は思います。大きなもの、強いものが生き残るのでは決してありません。「変化」し続けるものだけが生き残るのです。それが、新しい価値を生む経営の鉄則であることを決して忘れないことです。