第169回 「社会包摂は流行り言葉」という不見識。
2015年2月28日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
表題の「社会包摂は流行り言葉」は、首都圏の公立劇場の経営幹部が漏らした発言です。マーケットと日々向かい合いながら経営をしている人間にとっては、「社会包摂」という劇場ホールの果たすべき社会的機能を、「明日の観客」を生みだす即効性のないものと映るのでしょう。その発言を、3,200万人という巨大マーケットで民間劇場とも競争しなければならない東京圏という極めて「特殊な地域」でのマネジメントに忙殺される中で、事の本質を見失っていることに無自覚になってしまった経営者の言葉と、私は受け止めました。公立劇場の雇用環境を論議している際に「良いものを創れば問題は解決する」という発言をしたのも、別の首都圏の劇場経営者の言葉ですが、これまでも舞台芸術関係者は良い舞台を創ろうという使命に忠実たらんと活動してきたわけで、その確かな成果が数多あったにも拘らず、それでも国民市民に舞台芸術や劇場への支持は必ずしも醸成されてこなかったという「現実」があるのです。文化庁の翌年度予算の概算要求に対して財務省の担当者が「国民の支持がないではないか」と発言したことが、その「現実」の厳しさを如実に物語っています。
第三次基本方針に書き込まれた「文化芸術の社会包摂機能」は、文化芸術や劇場ホールの「果実」をすべての国民を視野に入れて、その掌中に届けることで、国民市民にとって文化芸術や劇場ホールが健全で豊かな生活を保障するうえで必要な財であるとの意識を構築する戦略的な筋道をつくる考え方です。文化審議会で策定の進んでいる「第四次基本方針」に、一時は「社会包摂」の文言が外されるようだということを仄聞していましたが、その「答申案」が先日公表されました。予想に違って「文化芸術振興の基本的理念等」の「基本的視点」の2.に「公共財・社会包摂の機能・公的支援の必要性」と、項立ての小見出しという扱いでブローアップされていました。
第三次基本方針よりも重い扱いになっています。正直言って安堵しました。ここで時間を逆に戻すようなことがあっては、文化芸術や劇場ホールは、未来永劫、健全な社会をつくるために必要な財であるとの社会的合意から遠ざかってしまうと思っていたからです。また、「劇場法前文」に書き込まれていた「公共財」(厳密に規定すれば文化芸術それ自体は非競合性と非排除性が認められないので、劇場ホールの非排除性・非競合性をもって公共財とすべきだが、これは「劇場法前文」を読み解くうえで肝要な箇所なので稿を改めたい)という文言が指針に入ることになった。「公共財」であることに社会的合意と認知を得るためには、優れた芸術的成果をアウトカムするとともに、包摂的な社会を形成するための「社会機関」としての機能と役割が劇場ホールには不可欠であることを、私たちはあらためて自覚しなければならないと思います。公立の劇場ホールは、当該地域の住民から強制的に徴収した税金で設置し、運営しているのです。それに見合った「社会的責任経営」(CSR)は当然なされるべきと私は考えます。
さる2月13日と14日にアーラで開催した「世界劇場会議国際フォーラム2015in可児」は、『社会包摂と劇場経営』というテーマで、英国からのゲストスピーカー4名と韓国からの2名のゲストスピーカー、国内スピーカー5名、それにおよそ400人の延べ参加者で活発に討議されました。その折の私の基調講演の読み上げ原稿を下記に掲載して、私の社会包摂プロジェクトと劇場経営をリンクさせるマーケティング手法の詳細と、世界劇場会議国際フォーラム2015の報告に替えたいと思います。
世界劇場会議国際フォーラム2015 基調講演
社会貢献型マーケティングと鑑賞者開発。
日本の劇場経営と芸術団体の経営は、現在、激しい外部環境の変化によって、大きな曲がり角に差し掛かっています。あるいは、見方によっては、劇場の経営革新の時代を迎えていて、みずからを「変化=イノベーション」をすることなしには生き残れないサバイバルの時代に、好む好まざるにかかわらず立たされていると言ってもよいでしょう。
我が国の舞台芸術は、従来、より芸術性の高い作品を創造するという芸術的なミッションを結集軸として集まった劇団及び音楽団体の活動によってのみ発展してきたという経緯があります。したがって、1990年代までは、地域のみならず、東京などの都市部の劇場やコンサートホールは、それらの芸術団体が公演をする場として借りるための貸館を専らとしていました。また全国におよそ2,200造られた地域の公立の劇場ホールは、一般的にレシービング・シアター(買い取り公演のための施設)として存在していました。日本における劇場ホールは、都市部の一部を除いては、ほとんどすべてが100%自治体によって設置された公立の劇場です。そして、自治体立の劇場が建設された1990年代には、全国各地で1週間に3館がオープンして、盛大にオープニング記念事業が行われているという様相を呈していました。いささか異常なことです。この「ホール建設ラッシュ」は、施設建設による地元への経済波及効果に期待する公共事業として実施されてきたという経緯があります。それらは「地域文化振興」を建前の設置目的として公共事業に位置づけられていました。したがって、不思議なことに建設後の経営計画はまったく想定されていませんでした。建設してしまえばそれで終わり、というわけです。社会的効用をほとんど外部化しない、かろうじて一部の芸術愛好者や所得の多い特権的な人にのみ利用される施設を次々と建設する自治体の無駄な予算執行を指して国民は「ハコモノ主義」と呼んで揶揄していました。
今日、そのような自治体立の劇場ホールの機能にも大きな「変化」が求められています。その契機となったのが、2011年2月に閣議決定された「芸術文化振興のための基本方針」、いわゆる「第三次基本方針」の存在です。そこに「文化芸術の社会包摂機能」という文言が書き込まれ、政府や自治体による芸術支援を「戦略的な投資」であると位置づけました。この「社会包摂」という用語は、第二次大戦後、福祉国家政策を推進したヨーロッパ各国が、1970年代から80年代にかけて低成長時代に入ったことで従来の福祉国家の存立に「揺らぎ」が生じ、「新しい貧困」と、それによって社会的孤立に瀕する人々の存在が大きな社会問題となりました。そのような社会的排除(Social Exclusion)を回避する方策として、ヨーロッパで普及した社会政策の概念が、社会的包摂(Social inclusion)です。日本では、2000年12月、当時の厚生省による「社会的援護を要する人々に対する社会福祉のあり方」に関する検討委員会の答申の中で、社会的弱者や援護を必要とする人々への政策化への提言に初めて登場しました。
それから10年を経過して、ようやく文化政策の公的文書に「社会包摂」という文言が登場したのです。「ようやく」というのは、私は、90年代半ばに出版した『芸術文化行政と地域社会』のなかでレジデントシアター構想を提言しているのですが、この構想が「劇場法」の大臣指針にある「教育機関、福祉施設、医療機関等の関係機関と連携・協力しつつ、年齢や障害の有無等にかかわらず利用者等の社会参加の機会を拡充する観点からの様々な取組を進めること」という文言と符合しているからです。また、大臣指針に先行する第三次基本方針には、「文化芸術は、子ども・若者や、高齢者、障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となりうるものであり、昨今、そのような社会包摂の機能も注目されつつある」とあり、さらに「文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要に基づく戦略的な投資と捉え直す」と書き込まれています。この「戦略的投資」という考え方を記憶しておいてください。
日本の地域の劇場ホールの大半である自治体立の施設は、すべての地域住民から強制的に徴収した税金で設置し、運営されているわけですから、当事者が意識するとしないにかかわらず、当然のことながら、劇場を「一部の愛好者」と可処分所得の多い「特権階級」の独占物として位置づけるのは「社会正義」と「機会の公平性」に著しく反しています。すべての市民を対象として、地域社会の解決すべき課題に対応する多様なサービスを供給するというのが、私の従来からの一貫した考え方であり、このアーラはそのような基本的な理念によって経営されています。「芸術の殿堂より人間の家」をというのが、私が館長に就任した7年前に掲げたミッションです。「社会機関としてのアーラ」をつくるというのが、私が、ここ可児市で最終的に実現しなければならないと考えている劇場のグランドデザインです。「アーラまち元気プロジェクト」と私たちが呼んでいる社会包摂型事業は、解決しなければならない課題を抱えている学校、あるいは不登校の子どもたちのフリースクール、障害者福祉施設、高齢者福祉施設、保健医療機関、多文化共生、福祉型NPO法人、公民館等と連携して、多様なプログラムが可児市全体を視野に入れて通年で行っているものです。2013年度の数値ですが、このようなプログラムを年間422回実施しています。この包摂的な地域社会づくりのプログラムは、アーラの劇場経営の大きな柱の一つとなっています。それについては後で詳しく述べたいと思います。
ここで誤解のないようにお話ししておかなければならないことがあります。音楽や演劇やダンスに「社会包摂機能」があるのは厳然たる事実ですが、しかし、音楽や演劇やダンスそれ自体が社会課題を解決すると理解してはいけないことです。それらが持っている「社会包摂機能」によって用意されるのは、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションの場です。コミュニケーションが繰り返されることによってもたらされるのは「自己肯定感の回復の機会」と、他者と共生する「コミュニティ形成の機会」です。私はそのような場を「プラットフォーム」と呼んでいます。そのような「プラットフォーム」を用意できる社会包摂機能が文化芸術の社会的効用のひとつであり、その「プラットフォーム」に乗って課題解決をするのは、誰でもない、様々な境遇や環境にあり、解決しなければならない生活課題を抱えて生き辛さを感じている彼ら自身なのです。彼らの多様な交流によって生み出されるのは、「自分が誰かに必要とされる」という実感、あるいは「自分の存在が誰かの役に立っている」という実感であり、その実感こそが「プラットフォーム」に小さな「共生のコミュニティ」をつくるのです。なぜなら、コミュニケーションの集積こそが「コミュニティ」だからです。たとえそれが、どのように小さな「出会いの輪」であっても、何かの「コミュニティ」の一員になるということは、個人の存在が社会化するということであり、それは人間としての存在証明であり、さらに人間としての成長がそこでは約束されるのです。そのような「プラットフォーム」に乗ることで、社会的な疎外感が癒され、ケアされ、誰かと「体験」を共有することで、誰かと繋がれる「機会」を持てるということです。それが「社会的孤立」というリスクを回避して、問題解決に人々を導く「社会包摂機能」であり、どのような劣悪な「社会的環境」にも人々が自ら立ち向かう勇気と、生きる意欲もたらす「機会」創出となるのです。体験を共有する「機会」の創出こそが「文化芸術の社会包摂機能」であると言えます。
従来、日本の文化芸術関係者はその機能にほとんど着目してきませんでした。「体験の共有」という点でいえば、芸術を鑑賞する行為にも同様の社会的機能があると考えて良いと思います。私たちの調査とフランスの文化コミュニケーション省の調査によれば、一人で劇場に来ている人は観客全体のおよそ12%から14%です。それ以外の観客は何人かの家族や仲間とともに鑑賞しています。これも私どもの調査ですが、そのおよそ60%前後の観客が、鑑賞前のお茶か鑑賞後の食事を共にしています。そういう場を持つことで、多様なコミュニケーションを交わし、意識することなくコミュニティの「絆」を強いものにしているのです。したがって、劇場経営で重要なのは、その「プラットフォーム」を用意する「仕掛け」や「仕組み」です。劇場内のレストランをリラックスできる雰囲気に演出したり、心が躍るような室内装飾を施したり、飛びきりの料理を用意して人々の心の通い合いを促すようにすることはもちろんのことですが、たとえばアメリカのオレゴン・シェイクスピア・フェスティバルやカナダのストラトフォード・フェスティバルのように、劇場のウェブサイト内から町のレストランを予約できるフォームを用意することもそのための「仕掛け」であり、「仕組み」と言えます。
また、チケットの半券を持参すればシェフ特製の一品やデザートがサービスされるような「仕掛け」を持っている劇場もあります。つまり、劇場やホールに芸術鑑賞に見える人々は、実は無意識に文化芸術の持つ「社会包摂機能」を含めて「楽しみ」にしているのです。文化芸術が創り出す「プラットフォーム」を「仲間づくり=コミュニティ形成」と強い「きずな」づくりに活用しているのです。そのような芸術消費行動のあり方を促す「仕掛け」づくりも、私は劇場ホールの重要な経営ミッションであり、劇場経営の大事な手法のひとつだと思っています。私どもアーラの多様なチケット・システムには「ビックコミュニケーション・チケット」というのがあります。4人なら10%OFF、6人なら20%OFF、8人以上が集まれば30%OFFになる、これもコミュニティ形成のための「仕掛け」です。そのチケットを購入しようとする「最初の一人」は、私たち経営者にとって、単なる顧客の一人ではありません。誰かに影響を及ぼすことのできる「インフルエンサー」であり、口コミの「バズ・スターター」であり、劇場の「アンバサダー」(大使)でもあるのです。
舞台を鑑賞したり、ワークショップで他者と交流するという「体験」は、舞台芸術を理解したり、他者を理解する「機会」を持つということです。アメリカの哲学者アラスデア・マッキンタイアは、「人間は物語を紡ぐ存在である」と言っています。「物語」(narrative)を紡ぐことで何かを理解する存在であると言っています。その「物語」は、脳科学の知見でいえば、「想像力」と「創造力」をつかさどる、額の後ろにある前頭連合野の、いわゆる「社会脳」によって紡がれます。したがって、私たちが何かを鑑賞するということは、舞台上で繰り広げられる物語を受動的に受け取っているのではなく、また演奏を単なる音の情報として受け取っているのではなく、観る、聴くと同時に「自分の物語」を紡ぐことで舞台や演奏に能動的に関わって理解しているのです。ですから、1,000人の観客がいれば、そこでは1,000の「物語」が同時に紡がれているのです。鑑賞後の食事には、その多様な「自分の物語」が食卓の「調味料」として並べられます。その「プラットフォーム」では、良い意味での「価値観の対立」が起こります。それがコミュニケーションを活性化し、他者の理解をより深いものとするのです。また、アウトリーチ・プログラムやワークショップで他者を理解しようとする際に起こることも、良い意味での「価値観の対立」です。「自分の物語」と「他者の物語」が衝突してこそ、コミュニケーションが活発になり、コミュニティの「絆」がさらに強くなるのです。この良い意味での「価値の衝突」が起きる場所が、コミュニティが生まれる「プラットフォーム」です。
したがって、価値観の定まっていない子どもたちの舞台鑑賞には、その「プラットフォーム」を形成するための事前のレクチャー・ワークショップが必要です。日本には、子どもの時に良質の芸術に触れさせれば「思慮深い良い子」が育つと頑なに信じている「芸術万能主義者」がいます。そうあってほしいという気持ちは理解しますが、それは自身の成功体験に基づく一種の「神話」を頑なに信じているに過ぎません。子どもたちに「自分の物語」を紡ぐための糸口を事前に与えなければ、子どもたちは、関心のない演劇や音楽と「退屈な二時間」を過ごさなければならなくなります。「意味のない言葉」や「意味のない音」に二時間ものあいだ晒されることになります。それでは演劇や音楽や、さらには劇場が嫌いになってしまいます。劇場やホールは「退屈な場所」として彼らの脳に刷り込まれてしまいます。従来の、学校行事として行う芸術鑑賞教室は、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して彼らの行動に介入・干渉するパターナリズム(温情主義)であり、音楽関係者や教育関係者の自己満足に過ぎないことを強調しておきます。
「想像力と創造力」をつかさどる前頭連合野の社会脳の発達は、パターナリズムでは決して起こりません。「いじめ」や「学級崩壊」を起こさないための、相手を「思いやり」、「気づかい」、「心くばり」という社会脳の発達は起こりません。したがって、「想像力と創造力」が活発に働くような「鑑賞のための糸口」を用意しなければならないのです。彼らが健全な「プラットフォーム」をつくるためのサポートをすることで、はじめて相手の身になってものを考え、思慮深い、社会性をもった子どもが芸術鑑賞によって育つのです。
これまで述べてきたように、「文化芸術の社会包摂機能」というと、日本では社会問題や地域課題の解決のためのアウトリーチやワークショップだけを指すと限定的に理解されがちですが、実は、大人たちの鑑賞行動も、子どもたちの鑑賞行動も、適切な「仕掛け」や「仕組み」を施すことで、社会課題を解決する「文化芸術の社会包摂機能」が起動し始めるのです。「プラットフォーム」をつくる「仕掛け」を施すことで、健全な地域社会を形成するという地域の自治体立の劇場の本来のミッションにコミットすることになります。そして、その「プラットフォーム」に乗る権利は、実は日本国憲法第13条の「幸福追求権」と呼ばれる基本的人権のひとつとして、すべての国民に保障されているのです。そこには「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。 したがって、生きづらさや生きにくさを感じることなく、「生きる意欲」と「希望を持って生きる」ことを保障する、健全な福祉社会を実現するために、劇場はそのコミットメントを実現するための社会機関であり、拠点施設でなければならないのです。そのような事業の仕組みを設計して実施することで、すべての人々に必要とされ、支持される劇場への道が拓けるのです。
文化庁の次年度予算の概算要求の説明に行った担当者が、交渉相手の財務省に「国民の支持がないではないか」と言われて立ち往生してしまったエピソードを聞いて、私は「財務省の役人の言うことももっともだ」と思いました。妙なことですが、実は財務省の役人の言葉が腑に落ちました。我が国の劇場ホールや芸術団体は、舞台芸術を単なる「消費物」としてのみ提供して来てしまったのです。東京は世界に誇る文化都市ではなく、巨大な文化消費市場でしかありません。文化芸術や劇場ホールを、「新しい価値」が生まれる公共財として、あるいは社会的価値財としては、これまではほとんどの芸術関係者も劇場関係者も、政府機関も自治体も、さらに国民も市民も、認知してこなかったと言えます。しかし、とりわけ今日の自治体立の劇場ホールは、従来から求められてきた「芸術的価値」と「経済的価値」の両立のみならず、それらに加えて「社会的価値」を持つように努める責務がいま求められています。すなわち、財政危機という環境の下で「社会的責任経営= Corporate Social Responsibility」が自治体立の劇場やホールにも求められるようになってきたのだ、と言えます。
日本の社会は90年代からの「新自由主義的な経済政策」によって著しく劣化しています。酷く傷んでいます。所得格差は教育格差を生み、今日では、いのちの格差や希望格差にまでなっています。その社会的諸矛盾を手当てするには、国も自治体も財政不安を抱えていて、セーフティネットとしての福祉政策が覚束なくなっているのが現状です。そのような外部環境の変化と劇場経営は決して無縁ではありません。とりわけ税金で設置し運営されている公立の劇場ホールには、何らかの形での「社会的責任経営」が求められます。これまでのように安穏と芸術的価値のみ追求し、提供するだけでは、その責務を果たしているとは到底言えない時代になっていることに、私たちは気付かなければなりません。そのような公共的・社会的な使命を強く意識した経営をすることで、劇場ホールは社会的必要に依拠し、社会貢献に資する施設としてブランディング活動に踏み込むことになります。ブランドとは「社会的信頼」のことです。冒頭に申し上げた「社会機関」としての劇場ホールへの道に踏み込むことになるのです。国民や市民から「必要とされる施設、支持される施設」へと歩み始めることになるのです。
「文化芸術の社会包摂機能」が文化政策上でフォーカスされて地域社会といかにコミットするかが大きくクローズアップされる一方で、劇場ホールはあくまでも芸術性の高い創造型事業をする施設であるという芸術至上主義的な発言が、従来の枠組みの中で順調に経営してきた主に大都市圏の劇場関係者からは上がっています。「芸術的価値」と「社会的価値」を二項対立です。これらの守旧派の劇場関係者に、私はこの20年の社会の激変と、それに翻弄されている大多数の国民生活の惨状をどのように受け止めているのかを厳しく問い糺したいと思います。1997年から年間3万人以上で推移した自殺者たちの孤立感をどのように受け止めているのかを聞きたいと思います。年収200万円以下のワーキングプア層の激増が私たちの国の未来にどのような影響をもたらすのか、6人に1人の子どもが年収112万円の貧困線以下の世帯で育っているという現状が、どのように日本の将来に影響を及ぼすのかするのかを、芸術至上主義者である守旧派の劇場経営者に問いたいのです。むろん、言うまでもなく、劇場やホールの経営は、芸術的価値と社会的価値と経済的価値を等しく実現するのが使命です。しかし、格差が加速度的に進行する社会にあって、芸術至上主義者が主張するように、そのような社会から隔絶された「安全地帯」で芸術的価値のみを追求することに社会正義はあるのかと改めて訊きたいのです。かつてジャン・ポール・サルトルは、「飢えた子どもの前で文学は可能か」と世界に向けて問いました。そして私は2011年3月11日の東日本大震災の後、4月7日にそのサルトルの問いに答えるかたちで、被災した人々がいま必要としている、文化芸術の社会的機能をすぐに発動すべきと、次のような文章を発表しました。
「確かに彼ら(飢えた子ども)に必要なのは温かい食事であり、身体と心に休息をもたらす柔らかな寝床であるでしょう。しかし、幾重にも押し寄せてくる不安や恐怖に晒されて、心がささくれ立ったり、他者との関係がザラザラしたり、生きる意欲が萎えてくることから、文化芸術は人々の心を救い出す力を持っています。なぜならば、文化芸術は、他者との関係の中で違いを痛烈に意識し、その違いを豊かさに変換するコミュニケーションがベースとなっている人間の原初的な行為だからです。<救い>は他者の中にしかないのです。人間は社会的な動物です。他者と打ち解けることを本能的に求める存在です。ワークショップで心が開いていき、笑顔さえも浮かべる自閉症の子どもたちを、私は見ています。(略)私が阪神淡路大震災のときに神戸シアターワークスを立ち上げ、活動した経験から、そう考えるのです」と書きました。したがって、いろいろな意味での「変化の時代」の劇場経営は、自らも変化して「社会的価値」をより高度化することが求められるのです。
社会と無縁に私たちが存在しえないのと同様に、劇場も、芸術も、社会との関係の中にしか存在できません。もとより劇場や芸術に社会制度を変える政治的な力はありません。しかし、その制度から生じた「ゆがみ」を矯正する、彼らの「いのち」に寄り添う力は何よりも持っていることを、私たちは自覚すべきだと考えます。そして、その社会の病理を癒す文化芸術の力が、いまこそ社会から求められているのです。「人間」をど真ん中に据えた劇場経営をすることが求められているのです。まさに「人間の家」としての劇場経営です。私たちは、明るい真昼の空に星を見いだす「眼」を持たなければなりません。押し黙った人々の生きづらさから発せられる声なき声を聞きとる「耳」を持たなければなりません。私たち劇場関係者は、文化芸術と劇場ホールが高度な社会的価値を持つ公共財であることを、いまこそ実際の現場で証し立てなければならないのです。劣化する社会へのリスクヘッジとしての劇場に、社会的認知と合意を得るためのプロセスに踏み込むことが、いまこそ求められているのです。
そして、私は更に加えて、そのプロセスに踏み込むことが、「鑑賞者開発」にもリンクするブランディングに直結していることを、ここで強調したいのです。先ほどお話しした芸術至上主義的な芸術的価値と社会的価値の二項対立思考ではなく、両者を循環させてより高次のブランディングを実現し、より多くの鑑賞者と利用者を開発する手法に踏み込むべきと思っています。ブランドとは社会的信頼に他なりません。このブランディングのプロセスを、将来的な鑑賞者開発に結実するコーズ・リレイテッド・マーケティング(社会貢献型マーケティング)の手法につなげることこそ、私が今日、是非とも皆さんにお話ししたいことです。
コーズ・リレイテッド・マーケティング(CRM)は、日本では「社会貢献型マーケティング」と訳されています。営利・非営利を問わず、Cause(目的・使命・大義)にRelated(関係した)Marketingという意味の、社会的信頼を構築して、そのブランドという無形資産を経営資源として、売上の向上や利用者の開発に反映させる経営手法です。社会的価値をベースとした高いブランド力を劇場経営に結びつける新しいアーツ・マーケティング手法です。CRMの起源は、1981年にアメリカのサンフランシスコ地区の「芸術支援」というコーズのためにアメリカン・エクスプレス・カードが、カードを一回使用するごとに2セントを寄付したことに始まります。わずか3ヶ月で約10万ドルの資金を集めました。次いで、その2年後の1983年に「自由の女神修繕」というコーズ(社会的意義)で大キャンペーンを行い、カード使用一回につき1セントを、カードの新規発行1件について1ドルを寄付して、総計170万ドルの資金調達を達成しました。あわせてアメリカン・エクスプレスは、期間中のカード利用額が30%も上昇するという成果を獲得することになります。このキャンペーンがCRMの嚆矢とされています。2012年6月に施行された「劇場法」の前文に「新しい広場」という文言が出て来ますが、この「新しい広場」としての劇場ホールを目指すためのキーワードこそ「社会包摂機能」と「ブランディング=社会的信頼」と、新しいアーツ・マーケティング手法である「コーズ・リレイテッド・マーケティング=社会貢献型マーケティング」の三つです。いずれも舞台芸術の世界や劇場経営にとっては耳新しい概念かも知れません。
実は「マーケティング」という概念ほど、日本では正しく理解されず、欧米に比べると周回遅れとなっているマネジメント手法はないと言われています。マーケティングの巨人と言われるフィリップ・コトラーは「成熟市場における新しいマーケティング戦略」(New Marketing Strategies in a Mature Market)という論文の中で、「不思議なことに、この国(日本)のマーケティングは高度成長期からほとんど変わっていない。日本はまぎれもない経済先進国だが、マーケティング後進国なのではないだろうか」と書いています。日本では、10人中9人までが「マーケティング=セリング」だと思い込んでいます。「実のところ、販売(セリング)とマーケティングは真逆である。同じ意味ではないことはもちろん、補い合う部分さえない。もちろん何らかの販売は必要である。だが、究極のマーケティングは販売を不要にすることである」とピーター・ドラッカーは名著『マネジメント』で言い切っています。
マーケティングとは、「売る」ことではなく、「売れる環境をつくる」ことであると、私たちは正しく理解しなければなりません。マーケティングとは、セリングでは決してなく、社会的信頼を構築するソーシャル・マーケティングによるブランディングのプロセスであることを理解しなければなりません。空席が出ないように「一枚でも多く売る」のではなく、空席が出ないような「環境をつくる」ことがマーケティングなのです。コーズ・リレイテッド・マーケティング(CRM)は比較的に新しいマーケティングとブランディングの手法ですが、社会的責任経営(コーポレイト・ソーシャル・レスポンスビリティ=CSR)の一般化によって、その具体的手法として現在では多くの企業・組織で行われるようになっています。エイボンやワコール等の女性関連企業が参加している乳がん撲滅のコーズによる「ピンクリボン運動」や、アフラックをはじめとする保険会社が参加している小児がんキャンペーンの「ゴールドリボン」、地域NPOの支援をコーズとするスーパーマーケットのジャスコの毎月11日のイエローレシート・キャンペーンなどがその事例です。
企業メセナ活動も、90年の日本メセナ協議会発足当初は「見返りを求めない社会貢献活動」と定義されていたのですが、現在ではCSRやCRMの一環と位置づけることが一般的となっています。社会貢献によって高次ブランドとしての社会的合意を企業・組織が獲得する活動とされています。そして、成熟社会における消費者は、前述したコーズ・リレイテッド・マーケティングの事例にあるように、購買行動が、同時に社会参加にもなるような倫理的な価値判断によるように変化してきているのです。節約志向ではあるが、価値のある購買行動を選択するようになっています。エシカル・コンシューマー(倫理的な消費者)の登場です。成熟社会においては、自分の購買行動が社会のプラスになるかどうかが購買行動の判断基準になるのです。「フェアトレード」の世界的な普及なども、消費行動の変化の結果です。
そのように考えてくると、焙り絵のように浮かび上がってくるのが、2011年2月8日に閣議決定された「第三次基本方針」を嚆矢として、2013年3月の「大臣指針」までの文化に関する公文書の流れの中に現われてきた「文化芸術の社会包摂機能」という文言なのです。「大臣指針」には、「教育機関、福祉施設、医療機関等の関係機関と連携・協力しつつ、年齢や障害の有無等にかかわらず利用者等の社会参加の機会を拡充する観点から様々な取組を進めること」とあります。そこまで書き込まれていることは、私が活動拠点を東京から地域に移し始めた1990年代からみると、まさに隔世の感があります。
「社会的包摂(Social Inclusion)」の反意語は「社会的排除(Social Exclusion)」です。「社会的包摂」とは、成熟した現代社会が大きく変動し、様々な矛盾が噴出して社会を覆い始めている中で、貧困、差別、障害、移民、セクシャル・マイノリティ等の様々な要因によって「社会的孤立」や「社会的排除」を受けている人々、受ける可能性のある人々に対して、誰もが健康で、健全な文化的な生活を送ることができるように、人々を孤独や排除から救い、万人をコミュニティの構成員として包み込むことを目指す社会政策の理念です。社会的包摂は、90年代以降、北欧をその発祥地として、イギリスやフランスをはじめとしたEU各国で、公共政策を進める上での重要なキーワードになりました。障害のある人、高齢者や子ども、失業や貧困などの問題を抱える人、セクシャル・マイノリティの人たちなど、社会から排除の対象とされやすい、社会から孤立しやすい人々に対して、社会的包摂という考え方で自らが地域社会の一員であると自覚できる「機会」をつくり、社会的孤立に起因する諸課題を解決しようとするのが社会的包摂という考え方です。
社会的包摂は、ノーマライゼーションの特徴の一つである「全ての人が共に生活できるように、社会のあり方を変革する」という考え方が、教育分野、福祉分野、文化分野から公共政策全般を包括する政策理念に発展したものと考えて良いでしょう。そのための拠点施設として劇場やホールを社会に位置づけるのが、「劇場法前文」にある「新しい広場」を現出させるための第一歩なのです。そのような社会的機能を発揮して初めて、劇場やホールへの公的支援や文化芸術への公的支援を「投資」と呼ぶことが出来るのです。英国芸術評議会の設置は、戦争直後の労働党によるクレメント・アトリー政権が、社会福祉における「揺り籠から墓場まで」の政策理念とあわせて、公的資金による文化芸術支援を打ち出したことが、その嚆矢です。その条件として、「多くの人々が参加できるように文化芸術の幅(対象)を拡げること」と「社会の問題解決のための文化芸術の社会的役割を果たすこと」の二点が挙げられていました。ここには公的資金による文化支援が社会問題の解決に資するようにとの方向づけがなされています。それでこそ、劇場や芸術団体への公的支援を、初めて「投資」と言い切ることが出来るのです。「コストからインベストメントへ(負担から投資へ)」という考え方を是非とも記憶にとどめてください。
劇場ホールで上演される、あるいは演奏される舞台の「芸術的価値」は、前述したように千差万別で、多様であることこそが健全ですが、一方の「社会的価値」にはほとんど個人差はありません。そのことが、文化芸術を梃子としたコーズ・リレイテッド・マーケティングが社会的価値としてのブランディングに大きな力を発揮する理由です。それは社会正義の問題だからです。前述したように、演劇や音楽は入場者の数だけ価値が生まれ、多様な物語が生まれることこそが健全なのに対して、アウトリーチ・プログラム等の社会的プログラムを実施して、長期入院の子どもを癒し、障害者に生きる意欲を持ってもらい、高齢者に笑顔をもたらしても、失業者の励まし合う仲間づくりに対して誰もそれに異を唱える者はいないでしょう。それは、アブラハム・マズローが晩年に辿り着いたとされる「欲求の五段階説」の最高位である「自己実現の欲求(self-actualization needs)」のもう一つ先に、人間には「コミュニティ発展欲求(Need for Community Development)」があると信じるからです。
国民や市民や顧客の嗜好は概して移ろいやすいものです。彼等はいわば「浮気者」です。したがって、劇場経営者やそれに関わる関係者は、顧客のライフスタイル形成に深く関わって、継続的に劇場・ホールに足を運ぶ強いモチベーションを彼らの裡に構築しなければなりません。そのためにはあらゆる手段を駆使して鑑賞者開発・来館者開発という「創客」の仕組みを設計し、顧客の経験価値を高度化し、劇場に関わるあらゆる顧客の動機を更新し続ける、すなわち「変化し続ける演出や仕組み」を設計しなければなりません。また、コーズ・リレイテッド・マーケティングを計画的に、戦略的に展開させて、劇場・ホールや芸術団体の「社会的価値」を高度化し、ブランド力の高次化を進めなければなりません。それが「新しい広場」を創出する戦略であり、戦術と言えます。以上の社会包摂型戦略プログラムによる劇場の「社会的価値」の高度化マーケティングは、「マーケティングの巨人」と言われるフィリップ・コトラーが近年提唱しているマーケティング3.0の劇場経営や芸術団体経営への適用です。先に「ビックコミュニケーション・チケット」で例示したように、顧客は単なる顧客にとどまらず「共感者」、「支持者」、「アンバサダー」として劇場や芸術団体と協働する経営資源としての存在に変化してもらうのです。劇場の「社会的価値」を軸とした戦略こそが「マーケティング3.0」の成熟社会における経営手法と言えます。
1960年代に社会変革運動を担った若者や学生からバイブルのように愛読された詩人吉本隆明の詩に『涙が涸れる』という詩があります。その詩には「僕らは遠くまで行くんだ」という、変革への思いを奥歯で噛みしめながら未来への歩を進めようとする決意にも似た一節があります。それは「胸のあいだからは 涙のかわりにバラ色の私鉄の切符がクチャクチャになってあらわれ ぼくらはぼくらに または少女にそれを見せて 遠くまでゆくんだと告げるのである 遠くまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ」という詩です。詩人は愛する人々に、変化を起こすための長い旅への決意を語りかけるのです。それは、私たちの後に来る世代の手の中に「希望」を遺すための永続的な営みです。社会的孤立に陥る可能性のある社会的に弱い立場にある人々、たとえば子どもたちは、少なくとも「二つの木陰下で育っていく必要がある」と東大名誉教授の神野直彦先生は仰っています。ひとつは緑の木々が織りなす木陰であり、いまひとつは人びとの「きずな」が作りだす温もりのある木陰です。この「きずな」が作りだす木陰こそが「文化芸術の社会包摂機能」がもたらす体温のある社会の豊かさなのです。私たちには、そのような社会を形成するという使命があることを心しておく必要があると申し上げて、私の基調講演を終わります。