第150回 東京の劇場環境を変えるために― ロングランによる演劇の産業化は可能か。

2013年7月10日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

日経新聞 東京本社の編集委員である内田洋一氏がアーラの取材に見えました。視覚障がい者をサポートする市民団体「ヴォイスの会」へのアウトリーチを視察してもらった後、3時間にも及ぶインタビュー取材を終えて、馴染みの店で食事をしながら東京の演劇界について談論風発の雑談となりました。そこで話題となったのは、若手中堅の劇作家が「消耗品」のように才能をすり減らして消費されて、作品のクォリティを著しく低下させることや、書けなくなってしまう現状についてでした。頭角を現すとその劇作家に仕事が集中してしまい、私が身近に知っている事例では、30歳代で大きな演劇賞を受賞してから年間5本の量産を数年続けて才能をすり減らし、粗くて酷い作品しか書けなくなったしまった劇作家がいます。「無残」としか言いようのない零落ぶりでした。

ならば仕事を受けなければ良いではないか、と思うかもしれませんが、量産しないと「喰えない」のです。いや、正確には量産して初めて「喰えるようになる」のです。欧米の劇作家のように、上演回数が多くてそのロイヤルティで収入を得る、という環境に日本はないため一本いくらの劇作料で「喰う」しかないのです。それが自殺行為であることを知りながらも、生活のためにあえてそこに突っ込んで行くしかないのです。そして、「過剰な放電」を強いられ、「充電」する間もなく才能をいたずらに枯らしてしまうのです。それでも小劇団の主宰者でもある劇作家は、劇団として大きな補助金・助成金を得ているために、書き続けるしかないのです。そのような状態で良い作品を生み出せるはずもありません。

ある劇作家の舞台の質が急速に低下している、という内田氏との話のなかで、何とかしないと「才能を消費するだけになってしまう」との危機感を私は持ちました。良い戯曲があってこその良質な舞台であり、そのための環境を整備しなければ演劇界は「シーシュポスの神話」のように積み上げては崩れ、崩れては積み上げるという終わりのない徒労をこれからも永久に続けなければならなくなる、と暗澹たる思いになりました。私が演劇評論家になった70年代初頭からおよそ40年、そこには干からびた才能が死屍累々と横たわっているのです。実に「無残」な光景です。

東京の民間の劇場はおおむね貸館です。その劇場を、まだ上演する演目すらも決まっていないおよそ2年前から公演期日と日数を決めて予約するのが一般的です。つまり、当てがないのに押さえている日程から逆算して、まず戯曲を書き下ろさなければならないのです。実は演劇環境を歪めたものにしている諸悪の根源がこのシステムにあると私は考えています。これを何とか健全な作品創造の環境に、そして劇場環境に改革しなければ、つまり「負の連鎖」を何処かで断ち切らなければ、いつまでも才能と舞台は消費されるしかないのです。消費型の東京の演劇環境は、どう見ても私には健全であるとは思えないのです。

20年ほど以前、私は当時の通産省大臣官房内に設けられた官僚の勉強会に呼ばれたことがあります。「文化を産業化するための施策にはどのようなものがあるか」というのが私に課せられたテーマでした。私は即座に「通産省にとっては5億円という目くそ鼻くそみたいな額の交付金を用意すれば、サバイバル競争で演劇界全体が活性化し、従事する人間が生活できるようになる仕組みが出来る、すなわち産業化への一歩が踏み出せる」と提言しました。既存の民間の「貸小屋」である劇場を活用して、ロングラン・システムとロングラン劇場をつくる、という考えです。そうすれば、高評価を得てロングランすることになれば、劇作家ばかりか、演出家も俳優も技術スタッフも生活の安定化が図れるし、何とかロングランにしようと各劇団が鎬を削って舞台を練り上げて活性化する、と提言しました。

ニューヨークのブロードウェイも、ロンドンのウエストエンドも、ロングランというシステムによって産業化しています。むろん優勝劣敗の世界ですから、競争は激化するでしょうし、淘汰も起きてくるでしょう。演劇で収益をあげるには二つの方法しかありません。ひとつはロングラン・システムであり、もうひとつはレパートリー・システムです。アメリカの地域劇場のいくつかとロシアの劇場は、この後者によって産業化しています。つまり、12、13本の舞台を2、3日毎に入れ替えて公演して、投資した資金を長期間にわたって回収し、複数の損益分岐点を出して収益化するのです。10数本の舞台が並列的にロングランしている、と考えれば分かりやすいのではないでしょうか。そして、新しいシーズンに入る時に集客率の悪くなった舞台を終わらせ、その代わりの新しいレパートリーを加えるという代謝をしていくのです。

日本では、劇場に劇団が付属しているのが健全な在り方と思われていますが、それはまったくの誤解です。劇場にカンパニー(劇団)が付属しているのは、このレパートリー・システムに限ってのことで、カンパニーが付属していなければこの仕組みを採用・実現するのは不可能になります。ですから、劇場にカンパニーが付属しているのはレパートリー・システムを採用している場合のみなのです。「劇場にはカンパニーが付属しているもので、そうでないのはおかしい」という言説こそ一種の虚言なのです。ごく一部の演劇関係者の私的な利害に基づいた牽強付会な空理空論なのです。

実際としては、カンパニーが付属していない方が現代では一般的なのです。イギリスでもレパートリー・システムを採用している「レップ」を名乗っている地域劇場は私の知るかぎり、スコットランドのダンディ・レップとイングランドのバーミンガム・レップしかありません。このうちバーミンガム・レップは、私が訪ねた時の話では、少数の俳優が単年度契約で所属してはいるものの、実態としてはプロデュースであると思えました。英米の地域劇場の大多数はプロデュースによって年間10本から20本程度の舞台を製作しているのが実態です。それとレパートリー・システムを採用するには劇場と10数本分の舞台装置、小道具、衣装等を保管しておくストックヤードも所有していなければなりません。日本の劇団は専有している劇場さえ持っていないので、したがって考えられる収益最大化の選択肢はロングラン・システムのみとなるのです。

通産省に提言したのは、このロングラン・システムを採用できる民間劇場を数館ピックアップして、ひとつの舞台がクローズドしたあと、次の舞台が決まり、初日が開くまでのあいだの「休業補償」に交付金を支給する、というものです。仄聞するに、紀伊国屋ホールの1日の演劇価格は40万円だそうで、次の初日が開くまで2ヶ月間空けるとなると、40万円×60日で2400万円の休業補償が支払われ、その期間は劇場文化に空白期間をつくらないために、ホールみずからが主催する講演会、落語、チャリティ音楽会など何に使用しても良いということにする、というのが私の提案でした。劇団にも、劇場にも、鑑賞者にも、都市のイメージアップにも良い、という「三方よし」ならぬ「四方よし」の施策と私は考えました。

むろんロングランを日本化の演劇界で常態化するためには、俳優や舞台技術者のスケジュールの「切り方」を現行と大きく変えなければならないなどの、越えなければならない障壁は厳然とあります。しかし、負の連鎖の一点でも断てば、その結果が大きな経済的利得をもたらすものであるなら、それがロングランの常態化へのインセンティブとなるのではないでしょうか。良質の舞台のロングランは新たな鑑賞者開発に大いに寄与します。劇場文化と演劇界が大いに活性化して、さらに産業化することは必定です。私はわずか5億円の交付金でそれが実現できると思っています。経済波及効果は、可児市文化創造センターでさえ誘発係数が2.57(ニッセイ基礎研調査)なのですから、おそらくは3.0以上になるだろうと考えています。既に存在する民間劇場を活用するかたちで文化芸術の産業化を推進するのですから、施設設置のための新たな巨額の資金は発生しないし、いたずらに才能を消費することのリスクヘッジにもなるし、良い舞台を残していくという消費型の日本には従来はなかった建設的な施策にもなります。そうすれば、東京の演劇環境は劇的に改善する、と考えるのは私の妄想でしょうか。