第142回 「常識からの逸脱」が新しい価値を生む。

2013年1月14日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督  衛 紀生

― 新しい均衡点は古い均衡点からの微分的な歩みによっては到達しえない。―

(『経済発展の理論』・ジョセフ・シュンペーター)

日本の劇場経営は大きな転換点に達しています。従来からの劇場経営の「常識」の延長線上に新しい劇場経営のパラダイムがあるとは私には思えません。民間劇場ならいざ知らず、日本の公立劇場に、劇場法の議論に一時あったように数億円の公的資金を注ぎ込もうが、「ハコモノ」という現状から脱することができるとは到底思えません。負の屋上に屋を重ねるように、より巨額のムダと謗られ、ほとんどの大多数の国民市民にとって「無用の長物」と堕してしまうことは火を見るより明らかです。劇場の存在理由への当事者の認識や経営の手法のパラダイムに相当にラジカルなイノベーションでも起きないかぎり、全国に2200あると言われ、さらにこの10年で100施設前後は竣工するであろうとされる公立劇場は、耐用年数のかぎりで朽ち果てるのを待つのみだと思っています。朽ちていくのであるなら、斧を用意して、新しい芽吹きに期待する方がはるかに建設的ではないでしょうか。

「相当にラジカルなイノベーション」が起きて、公立劇場やホールがまったく新しい価値を持つにいたるには、従来から後生大事に抱え込んできた「常識」を逸脱した劇場経営の仕組みや、あまり使いたくはないのですが「哲学」が生まれなければ難しいのではないかと思われます。

数億円の公的資金を継続的に投入すれば現況を打破できるとする考え方は、芸術的評価のみが唯一無二の劇場ホールの先駆性や卓越性を測る尺度とするいわば小児病的な思考であり、この考え方が日本の劇場経営に色濃く影を落としてきたことは否めません。経済学でいうところの「利潤動機」と合わせて、この「芸術至上動機」は、劇場の経営のみならず、その社会的存在価値と根拠に「大きな誤解」を生じさせ、国民市民の理解を著しく歪めてきたと言って良いのではないでしょうか。なぜなら、そこから「人間」が排除されているからです。「人間の顔」のない劇場ホールの経営概念しか浮かび上がってこないからです。

そのような施設にいかに数億円を向こう数10年注ぎ込もうが、「人間の顔」をもった劇場という成果は私たちの前には立ち現れないでしょう。「数億円の投入」という言説は、状況認識を著しく誤っているばかりか、的外れで、見当違いな「処方箋」だと私は考えています。それは一時しのぎの「劇薬」です。一時的に息を吹き返したとしても、結局は国民市民の支持を得られずに「死に至る病」に違いないのです。日本の公立劇場とホールは「死に至る病」に取りつかれているのです。この窮地を脱するには、従来から疑いもなく走ってきた軌道とはまったく位相の違うレールを敷設して「相当にラジカルな」コペルニクス的転換を実現させ、劇的なパラダイムチェンジを起こさなければならないでしょう。すなわち劇場経営に対する考え方自体のイノベーションを起こさなければ、たとえ数億円を投じたとしても「ハコモノ」は「ハコモノ」のままで現状を変えることは到底出来ません。

まずはポジショニングに大きな変更を迫らなければなりません。劇場ホールは、芸術の発展にのみ奉仕する装置ではないのです。日本の公立の劇場ホールのように、税金で設置し運営している施設は、その発展の「立会人」としての観客や聴衆を必要とする機関ではありません。あるいは、芸術的卓越性を実現させたアーチストを称賛するために観客や聴衆に「立ち会い」を求める経営を施す施設でもありません。日本の公立劇場やホールの経営の中心に据えるべきは「人間」であり、「芸術」や「芸術家」では決してないのです。国民市民がその中心にいないかぎり、劇場ホールはそれ自体の社会的責任は果たさないのです。「ハコモノ」という劇場ホールへのクレームは、その存在価値のマーケティング活動の欠如を意味しています。一般的にクレームというのは、マーケティングの欠如に対する消費者や住民からの自発的な警告であると考えて良いからです。

劇場法の「大臣指針」へのパブリックコメントで、「8.経営の安定化に関する事項」の?の後段にある「国民又は住民の実演芸術に関する理解の増進及び当該劇場、音楽堂の事業についての支持の拡大に努めること」に対して私は、「当該劇場音楽堂の事業についての支持の拡大」ではなく、「当該劇場、音楽堂」そのもの「への支持」でないと「国民又は住民」の顔が見えなくなってしまう、と記して送付しました。「事業についての支持」とすると、実演芸術の愛好家という国民住民の一部しかその対象とならないからです。この法律は実演芸術の振興を目的としたものではなく、劇場音楽堂等を、その社会的効用にすべての国民市民が浴することができるような社会機関として位置づけるために制定したのは明らかであり、「事業についての支持」だとその法の目的理念がまったく違ってしまうからです。

また、日本の公立劇場ホールが、すべての国民市民から強制的に徴収した税金で設置し、運営されている以上、その施設はまぎれもなく公共財であり、そのサービスの対象はすべての「国民又は住民」でなければ論理的に破綻してしまいます。存在と活動それ自体がすべての「国民又は住民」を視野に入れた施設でなければならないのです。したがって「事業についての支持」であるはずもないのです。このあたり微妙な言い回しのずれに、日本の劇場ホールに対する「偏見」と「誤解」が表われていると考えて良いでしょう。民間は別として公立の劇場ホールにおいては、実演芸術を鑑賞する場あるいは上演する場としてのホール部分は、あくまでも全体機能の一部でしかないのです。

したがって、劇場経営という場合、アーツマネジメントというよりは、公立施設の場合は、鑑賞や貸館貸室利用などの対価を支払わないでも利用可能なホワイエ部分のマネジメント、マーケティングをも包含されると考えるべきなのです。「劇場とは何か」と質問すればほとんどの人は「演劇や音楽を鑑賞する場所」と答えるでしょう。文化経済学の学者も、文化政策学やアーツマネジメントの研究者も、そう答えるに違いありません。しかし、この答えは間違っているばかりか、的外れなのです。それは劇場ホールの果たすべき機能のほとんど何も説明していません。

私が公立劇場ホールは「利潤動機」によって動いているのではなく、「投資動機」によって経営されているというのは、前記のようなポジショニングによって劇場経営はなされなければならせないと考えるからです。公立の施設は利益の最大化をミッションとするものではなく、地域社会の健全化への投資的施策としての役割をあらかじめ負っているのです。可児市文化創造センターalaが、すくなくとも現在のところ観客・利用者・来館者とも5年間で倍増、倍々増させて順調に右肩上がりに成果をアウトカム出来ている背景には、従来からの「常識」に囚われないこのポジショニングによるコペルニクス的な転換があるのです。

マネジメントの成果は内部に現われるのではなく、組織や機関の外部に現われます。私が劇場ホールを「社会機関」というのは、外部に「変化」(イノベーション)をもたらす存在でなければ劇場ホールに社会的に価値がないと思うからです。ドラッカーは「イノベーションとは、組織の外にもたらす変化である」と簡潔に述べています。そのためにも組織内部にイノベーションを起こさなければならないのです。そして、その組織内部のイノベーションの肝要な柱が、従来の「常識」に囚われないでドラスティックに行われる組織全体の意識改革です。ポジショニングの変更は、まず最初に手をつけなければならないパラダイム・チェンジです。囚われてきた「常識」からの逸脱はここからしか始まらない、と私は考えています。

でなければ、組織の外に「変化」という成果をもたらすことは困難だと思います。そのパラダイム・チェンジ自体が、「新しい価値」なのです。そして、次に着手するべき作業は、社会が健全でなければ組織経営の健全化は為しえない、というテーゼに沿って事業の基礎を組み立てていくというミッションです。これはとても易しいことではありませんが、劇場ホールの外部に効用が波及することを念頭に置いてその作業は進められるべきです。劇場ホール内で起こることは、外部に起きる「変化」に比べれば微小なことなのです。内部で自己完結しないことが肝要なのです。それ自体が「常識からの逸脱」であると私は思っています。私たちはあまりに内部に引き籠っていたのではないでしょうか。「常識からの逸脱」は、まず自分から、そして組織全体の意識へと戦略的に推し進めるべきでしょう。