第131回 「新しい貧困」に対して劇場音楽堂等ができること ―「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」素案が提示された。
2012年5月5日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
4月26日の音議連総会において、かねてから検討されていた「劇場法」(仮称)の素案が、「文化芸術振興基本法」の個別法として「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律(案)」という名称で提示されました。「前文」のある2章16条からなる素案で、「前文」には「人々が集い、人々に感動を与え、人々の創造力を育み、人々が共に生きる絆を形成するための地域の文化拠点」と謳い、次いで「劇場、音楽堂等は個人の年齢若しくは性別又は個人を取り巻く社会的状況等にかかわりなく、全ての国民が潤いと誇りを感じることのできる心豊かな生活を実現できる場として機能しなければならない」としています。この件は、私がかねてから主張してきた社会的包摂を噛み砕いて平易な文章としてまとめたところとして評価できます。とくに後段は憲法第13条の「幸福追求権」、「自己実現の権利 」を担保する機関としての劇場音楽堂等の社会的役割に言及している。これは高く評価できます。日本社会の劣化や社会の中での個の孤立化による様々な「歪み」がいたるところで露呈して社会不安や社会的排除が増幅している今日にあって、劇場音楽堂等に社会的包摂の機能を期待するのは、まったくもって正鵠を得た考え方だと思います。
生活保護世帯の増加、自殺者の年間3万人超え、認知犯罪数の増加、青少年の再犯率の増加、これらは1997年を前後して起きている社会変化です。「生きにくい社会」の現われです。私がいつも言っている「いのちの格差」の始まりがこの97年前後なのです。これらが同時期に偶然に変化を示したということは考えられません。「生きにくい社会」には当然ですが原因があります。97年に起こったことの一つは消費税率のアップです。あわせてアジア通貨危機が起きて、労働者の賃金など所得の変化を示す指数であるGDPデフレーターは98年から一貫して今日まで右肩下がりの数値となっています。さらに99年の労働者派遣法の改正が「生きにくい社会」をさらに推し進めました。派遣労働者や日々雇用労働者や年収200万以下ワーキングプア層の急増です。かつて日本社会を支えた「分厚い中間層の下級層化」が97年前後から始まっているのです。米国型社会への転換です。「多様な働き方のできる社会に」と小泉・竹中路線による内閣は2004年に、雇用者に対する派遣先企業の責任やセーフティネットを設けずに規制緩和を推し進めて、さらなる派遣法の改正に踏み込み、格差社会を拡大再生産させました。「生きにくい社会」は、さらに将来に希望の持てない人々を生むことになったのです。これが「新しい貧困」であると私は思っています。最近の内閣府による自殺対策に関する意識調査で、自殺を考えたことがある人が全体で23.4%、前回調査より4.3ポイント増加して、「最近1年以内に考えた」と答えた人は、20歳代の36・2%が最多で20歳代女性に限定すると44・4%にもなる。これが健全な数値とは到底言えない。
むろん、これらの社会制度の変化に対して文化芸術や劇場音楽堂等は無力です。私たちに制度を変える力はもとよりありません。しかし、昨年2月8日に閣議決定された「第三次基本方針」では、「文化芸術は,子ども・若者や,高齢者,障害者,失業者,在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となり得るものであり,昨今,そのような社会包摂の機能も注目されつつある」と文化政策の理念として初めて社会的包摂機能が成文化されました。これは制度から生じた歪みに対するセーフティネットの社会的役割を文化芸術や劇場音楽堂等がポテンシャルとして持っていることを認知したものです。文化芸術が、高い所得と余暇の時間のある余裕のある層の独占物ではないことを明言した歴史的な文言であると、私は高く評価しています。心がザラザラしているときこそ、人間関係がギスギスしているときこそ、文化であり、芸術への参加なのだと私は思います。
その観点から「前文」を吟味すると、充分であるとは評価できないまでも、文化芸術の社会的包摂機能に相当踏み込んだものとなっていると思います。この法律は、もとより文化芸術に携わる芸術家の救済法でもなければ、その成果が上演される劇場音楽堂等の支援法でもない、そうあるわけもないと私は常々考えています。この法律が、文化芸術の最終受益者である国民市民が受けるパブリック・ベネフィットを担保するものでなければ公法としては整合性に欠けます。アーチストを支援・育成することで、あるいは劇場音楽堂等に公的資金を投入することで「文化振興」に資すると語っても、その際に抜け落ちているのが最終受益者たる国民市民の目線です。従来からの「文化振興」という文言には、この目線が欠落しており、最終受益者を芸術家や劇場音楽堂等や一部の芸術愛好者に暗黙のうちに限定してしまっていたことを私たちは猛省する必要があります。「前文」には、さらに「現代社会においては、劇場、音楽堂等は、人々の共感と参加を得ることにより『新しい広場』として、地域コミュニティの創造と再生を通して、地域の発展を支える機能も期待されている」とあります。期待されるセーフティネットとしての文化芸術、あるいは劇場音楽堂等の社会機関としての役割がここには書き込まれていると思います。
ただ、そのために「文化振興」が必要であるという論理展開には、私は与しません。第一条の「目的」には、「劇場、音楽堂等の活性化を図ることにより、我が国の実演芸術の水準の向上等を通して実演芸術の振興を図り」、「もって心豊かな国民生活及び活力のある地域社会の実現並びに国際社会の調和ある発展に寄与することを目的とする」とあります。さらに第四条の「劇場、音楽堂等を設置し、又は運営する者の役割」には、「事業をそれぞれの実情を踏まえつつ、自主的かつ主体的に行うことを通じて、実演芸術の水準の向上等に積極的な役割を果たすよう努めるものとする」とあり、さらに第五条の「実演芸術団体等の役割」には、「それぞれの実情を踏まえつつ、自主的かつ主体的に実演芸術に関する活動の充実を図るとともに、劇場、音楽堂等の事業に協力し、実演芸術の水準の向上等に積極的な役割を果たすよう努めるものとする」とあります。
ここに私の考えとの決定的な齟齬があるわけではないですが、ともに「実演芸術の水準の向上等」を図って実演芸術の振興に寄与し、「もって心豊かな国民生活云々」とすることがどこまで実効性を持っているかに対しては、前段の考えからいっていささか懐疑的にならざるを得ないのです。「文化振興」は、文化庁や芸術文化振興会の機関の設置目的であるし、それらが拠出する補助金や助成金の政策根拠でもあります。それらの一定程度の成果を認めながらも、私はその成果の享受者が一部の国民市民に留まっていること、芸術家や文化機関を救済支援はしたがその果実が広く社会に行き渡っていないことから、今日的に政策目的を大きく転換する時期に来ているのではないかと判断しているのです。一言で言い切るなら社会的に必要とされる「変化」です。
補助金や助成金の恩恵は芸術家や芸術団体や文化機関が受けるものではなく、それによって生まれる果実は広く社会にもたらされるべきと考えるのです。文化行政が行政分野に入ってきてからおよそ40年を経ています。その成果はあったことは当然認めながらも、ギアシフトしなければならない時機に差し掛かっていると私は認識しています。したがって、第四条と第五条では「役割」や「努力目標」ではなく、「劇場、音楽堂等を設置し、又は運営するもの」や「実演芸術団体等」の「社会的責務」とすべきではないかと思うのです。「プロフェッション」とはそういう役割を果たせる専門家であり、技術保有者ではないでしようか。また、この考えを敷衍することで、第六条「国の役割」も第七条「地方公共団体の役割」も単なる努力目標ではなく、より強い意志を持った「責務」とすることが必然となります。社会政策におけるセーフティネットとしての機関=劇場音楽堂等や芸術団体であるならば、より強い制約である「責務」であっても何ら矛盾はしないと考えます。その自覚と成果をアウトカムできる者だけが公的資金によって支援される、というスキームが大事なのではないだろうか。恩恵的に補助支援を受ける時代には、もう終わりを告げなければならないのではないでしょうか。
前後しますが、第三条の「劇場、音楽堂等の事業」には(一)から(八)までの例示が掲げられています。その(二)の「実演芸術の公演又は発表を行う者の利用に供すること」は、とかく中央の一部から批判のある「貸館事業」への根拠と私は理解しています。むろん、それではあっても地方自治法第二四四条の「公の施設」のどのような集会にも貸さなければならないという制約からは逃れられません。第三条の(二)は、プライオリティを設けて実演芸術を優先させる、という内規に根拠を与えるものと理解してよいのではないでしようか。第三条の(八)は、「前文」に対応する箇所で、「地域社会の絆の維持及び強化を図るとともに、共生社会の実現に資するための事業を行うこと」とあります。それならば、(四)の「関係機関等と連携した取組をおこなうこと」に、文化芸術振興基本法第三十二条のように「学校、文化施設、社会教育施設、福祉施設、医療機関等と協力して」と、考えうる諸機関を例示する方が適当しているのではないでしょうか。時代に適応しているのではないだろうか。それによって劇場音楽堂等の「社会的包摂機能」を何たるかを明確に指し示せるばかりか、この法律が国民市民への強いメッセージにもなります。この法律は、何度も繰り返し書き記されている「実演芸術の水準の向上等」が主たる目的であってはならないと思います。すべての国民市民の受益の質の向上こそが、劇場音楽堂等の社会的使命と役割を確たるものとする普遍妥当性があるのではないでしょうか。
全国にそのような機関が2200もあるということは、社会を健全化するためにも大変なスケールメリットになります。設置動機がどうあれ、このような「責務」をもつ社会機関としての役割を果たせれば、「ハコモノ」からは確実に脱することが出来ます。学校や福祉施設などと同様に社会に必要な施設として認知される方向に舵を切ることになります。「第三次基本方針」にある「従来,社会的費用として捉える向きもあった文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し,社会的必要性に基づく戦略的な投資と捉え直す」の文言に実効性を付与することになります。「社会投資としての公的支援」を実現することになります。それによって、「劇場音楽堂等」や「芸術団体等」の使命の輪郭を明確に描き、専門家としての職業意識にも大きな変化をもたらすことになるのではないでしょうか。
「前文」において、「実演芸術に関する活動を行う団体の活動拠点が東京をはじめとする大都市圏に集中しており、地方においては、多彩な実演芸術に触れる機会が相対的に少ない状況が固定化している現状も打破していかなければならない」と、文化芸術振興基本法第二条第三項にある基本的人権である文化権を「生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない」を担保したことは高く評価できます。これは文化庁に設置された検討会の「中間まとめ」でも触れられていた内容でありますが、3ヶ年だけ設けられて4年前になくなった補助制度である「舞台芸術の魅力発見事業」の復活に根拠を与える法文と言えます。
ともあれ、法律素案が近日中に各党に示され、党内での承認を受けたうえで音議連から上程されて今国会中に成立施行されるとされています。全国公文協の呼びかけもあり、多くの意見が音議連の各先生方にFAXされたことと思っています。統一した見解は全国公文協から示されてはいるものの、むろん同床異夢であることは疑いないところです。この立法に補助金の根拠法的役割を期待する向きもあるだろうし、中央対地方の二項対立的に利害を際立たせる意見もあるに違いありません。ただ、この機を逃しては、公立劇場ホールの社会的認知の機会は永遠に失われてしまうと思ってよいでしょう。「新しい貧困」の蔓延により混迷し、徐々に、しかし確実に劣化していく社会にあって、文化芸術の社会的包摂機能は社会政策的に欠くことのできない施策です。何回も繰り返し述べている「いのちの格差」を最小限に食い止めるための「積極的な福祉政策」です。そうなれば、フランスの優れた文化法である「反排除法」第140条にも負けない法律になります。設置動機はどうあれ劇場音楽堂等を、国民市民の掌中に位置づけ直す機会は何としても逃すべきではないと考えています。