第125回 「新しい価値」を創りつづける― ナラティブ・マネジメントと劇場経営との関連性。

2012年2月3日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「ナラティブ」というのは「物語」のことです。二つ以上の個性が相互に交流する場合、そこには多様な「物語」が生まれています。その「物語」を介在してのみ、私たちは相互理解が可能になります。それは舞台鑑賞においても、読書においても、絵画鑑賞においても、そして自他のコミュニケーションにおいても、他からの働きかけで心が動くという現象は、自分の「物語」と他者の「物語」が交差して、新しい価値=「物語」が生まれているということです。「人間はその行為と実践において、本質的に物語を語る動物」であると言ったのは、アラスデア・マッキンタイアというアメリカの哲学者です。そして、ある人間の行為は、その人の生きている時代や社会から切り離して理解することはできないとして、人間の生は種々の共同体の中での生であると結論している。ここでいう共同体とは、社会であり、地域であり、職域であり、家族であり、仲間であり、さらには時代であり、共有する歴史や記憶でもあります。私たちは、この「物語」を介して様々なものとつながり、そのつながりが生をかたちづくり、価値観をかたちづくり、それらによる「変化」という新しい価値を不断に生み続けているのです。「生きる」とはそういうことではないでしょうか。

持って回った言い方をして恐縮ですが、「関わる」というのはそういうことであり、文化芸術自体のみならず、アーツマネジメントも、アーツマーケティングも、ヒューマンリソース・マネジメントも、すべて関わりの中から「新しい価値」を生み出す価値交換という相互行為なのだと考えるのです。原理的に言えば、1000人の聴衆がシベリウスの『交響曲第二番』を聴けば1000の「物語」がコンサートホールに生まれているのです。1000人の聴衆がラベルの『ボレロ』を聴いているということは、その夜、1000の「物語」を紡がれているということなのです。舞台上で行われる実演芸術のみならず、ゴッホの『あざみの花』の前に立つ人々は、青っぽく描かれたあらけずりなタッチのアザミと自分の生を交差させて「物語」を紡いでいるのです。むろん、『あざみの花』を介在させてゴッホの人生と自分の生を交わらせて「物語」を想起している人もいることでしょう。「鑑賞」とはそういう自律的な行為であり、顧客の裡に生まれる「新しい価値」とは、そのような自律的な相互行為なのです。人々は、それらの作品とともにある「時間」を生きていると言っても良いでしょう。

アーツマネジメントの三大要素であるアーツマーケティングとヒューマンリソース・マネジメントは、ともに他者との関係づくりをする作法です。ここでも「物語づくり=ナラティブ・マネジメント」が重要な仕事となります。そのナラティブ・マネジメントは、「物語」をいかに心揺さぶるように高度化するか、いかに心動くように演出するかの仕事です。「物語」を生成する文脈をいかに際立たせるかという演出家的な仕事です。この仕事が劇場職員のミッションです。アーチスト、顧客、市民、同僚職員、さらには議会、行政、企業とのあいだに最大価値の「物語」を紡ぐのが劇場職員の重要な任務です。

「市民の半歩先に行く企画」ということを私はよく口にします。アーラの事業ラインアップは、この「市民の半歩先に行く」ことをポリシーとして慎重に立案し選んでいます。アラスディア・マッキンタイアは「私たちはみな自分の人生で物語を生きているのであり、その生きている物語を基にして自分自身の人生を理解している」と書いています。可児市民は、東京で生活している人間とは、当然ながら異なる「物語」の中を生きていると私は思っています。演劇を観ても、音楽を聴いても、ダンスや美術を鑑賞しても、可児市民は、想像力と創造力で自分の「物語」という舞台の「共演者」としてそれらを捉えています。「物語の様式によって自己について考えることは自然なこと」なのです。これは、以前ここで繰り返し述べた「社会脳」がつかさどっている機能です。したがって、自分の物語から逸脱することは理解不可能に陥ってしまい、「物語」を紡ぐことが不可能になってしまうのです。顧客がその事態に陥ってしまうことをあたうかぎり回避しようとするのが「市民の半歩先に行く企画」なのです。

組織を運営するリーダーについても「物語」とは無縁ではありません。外部環境の変化で破棄しなければならなくなった事業から撤退するという決断をする際にも、また組織が危機的な状況に陥ってしまったときの決断の際にも、「どのような判断を示すか」よりも、「誰が決断するか」の方が重要になります。組織が一体となって危機的な状況を脱するためには、リーダーが組織の「物語」を代表する、決断を彼に委ねることがリスクを回避する最適な選択であるという組織の意思が示されることが肝要なのです。したがって、組織のリーダーは、職員と経に関わり合い、組織の利害を一身にまとい、絶えず最適な経営判断を下し、将来的な組織のグランドデザインを明示できる人物でなければなりません。そのような彼の「物語」と職員の「物語」が交差するところに、危機脱出の最初のメッセージが発せられるのです。「誰が決断するか」が重要なのはそれ故なのです。

ひとつの「物語」ともうひとつの「物語」が出会い、理解可能な関係ができると「新しい物語」が新しい価値として生まれます。「変化」です。この「変化」は、観客数や稼働率や経済波及効果のように定数化は出来ません。そこに私たち公立劇場の経営に従事する人間のジレンマがあります。ただ、地域や社会が「文化的になる」とか、その「文化的環境が整えられる」ということは数値としてはアウトプットしません。しかし、それが「変化」であることは紛れもない事実です。逆説的に言えば「市民の半歩先に行く企画」とは、鑑賞者が想像力と創造力で「物語」のなかで生きて、新しい価値=「変化」をもたらす企画を選択するということなのです。それは上演施設だけで起こることではありません。上演施設は入場料を徴収しますから「排除性」と「競合性」をもっている施設ですが、人々が集うロビーは「非排除性」と「非競合性」、つまり誰でも集えるし、フリーライダー(ただ乗り)も可能な施設であり、その意味で公共財的な施設です。ここでも新しい価値は生まれます。アウトリーチやワークショップでも新しい「物語」が紡がれます。それらの場所で生まれる「変化」も公立劇場の所産であると言えます。数値化できないことですが、逆に言えば数値化できないからこそ、公的機関のサービスであると考えてよいのではないでしょうか。「公共劇場」は、その「変化」を成果とする社会機関のことを指すのだと私は考えています。