第119回 主たる目的を「文化振興」に押し込めるかぎり、劇場・音楽堂等は国民市民の合意を受けられない 「素案」を吟味する。

2011年11月5日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

劇場・音楽堂等の制度的な在り方に関する検討会(以下検討会)から「素案」が出ました。アーラに持ち帰り、職員にシェアして検討吟味してみましたが、「生煮え」の感は否めません。今年二月に閣議決定された「第三次基本方針」をさらに推し進めたものを期待したのですが、2003年の「文化芸術振興基本法」の「個別法」としても、そこから踏み込んでいないという感想を持っています。劇場・音楽堂の主たる目的を「文化振興」という狭い範囲にとどめる限り、あるいは「文化振興」を自己目的化するかぎり、新しい時代を先取りした、さらには社会の急激な「変化」をとりこんで先を読んだ「劇場・音楽堂等」は現前しないと考えます。

まず冒頭の「1.劇場、音楽堂に係る現状及び課題」の(我が国の劇場、音楽堂の現状)にある「本来、劇場、音楽堂とは、もっぱら音楽、舞踊、演劇、伝統芸能及び大衆芸能等の文化芸術活動を行い、観客が見聞き等をすることを目的とした施設であり、そのために必要となる音響、舞台及び照明等の専門的設備を備え、これらを管理及び操作するための技術職員及び公演を企画制作する職員等の専門的な職員を配置しているものが想定される」という規定が、間違ってはいないが、上演施設、鑑賞施設に劇場・音楽堂・ホールの今日的価値に封じ込めてしまっており、将来にわたっての文化施設の社会的効用を視野に入れていない点で、パースペクティブに欠ける「規定」と言えます。

これでは文化芸術振興基本法第32条にある「国は,芸術家等及び文化芸術団体が、学校、文化施設、社会教育施設、福祉施設、医療機関等と協力して,地域の人々が文化芸術を鑑賞し,これに参加し,又はこれを創造する機会を提供できるようにするよう努めなければならない」という「関係機関等の連携等」より後退しているのではないだろうか。(我が国の劇場、音楽堂の現状)に言われていることは、劇場・音楽堂のホール部分における一部の機能でしかなく、可児市文化創造センターala(以下アーラ)の2010年度の来館者約34万人のうち、ホール部分での「見聞き等をすることを目的」とした観客はその約1割の3万1800人に過ぎない。それでも10万1500人の人口の可児市にあっては、3.1人に1人が確かに観賞者としてアーラを利用している。しかし、一方では、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、教育機関、医療機関、多文化施設、公民館、市民の個人宅へのアウトリーチ等が年間328回(2010年統計)あり、アクセスした市民が11433人もいるのです。本を読みに来たり、DVDを観に来たり、お弁当を食べに来たり、勉強をしに来たりするカウントできない来館者も、およそ3万人います。

私の知るかぎりの欧米の劇場(上演だけを目的とした興行型商業資本による劇場は別として)は、国民市民が自由に来館して憩う場所であり、その一部がホール部分でチケットを購入する利用者であり、劇場・音楽堂・ホールは全体として、価値観や現実や生活に何らかの「変化」をもたらす場所として機能しています。あきらかに、成果を劇場・音楽堂・ホールの外部にアウトプットする「社会機関」として機能しているのです。 ここを、相も変わらず劇場・音楽堂等の機能を「文化振興」と狭く自己目的化して「規定」すると、永遠に国民市民からの「合意」は得られないと私は信じます。日本の劇場・音楽堂・ホールの特殊性は、民間のそれがおおよそ企業の営業広報施策として設置されて、おおむね上演鑑賞施設のみに特化しているのに対して、公立劇場・音楽堂は国民市民から「強制的に徴収した税金で設置し、運営されている」という点です。

したがって、民間の施設は「1.劇場、音楽堂に係る現状及び課題」の(我が国の劇場、音楽堂の現状)にある規定でよいのですが、公立の劇場・音楽堂・ホールは、世界に類のない成立過程を持っており、そこから派生する社会的・公共的使命を、その成立経緯から使命として持っていると言えます。ここを誤認してしまうと、狭い言語規定をしてしまい、公立劇場・音楽堂・ホールの使命を無力化し、圧倒的多数の国民市民にとって「無用な」、そして「無駄な」ハコモノとなってしまいます。ほとんどすべての公立劇場・音楽堂・ホールは、「文化振興」と横並びに「地域振興」を設置条例に掲げています。「文化振興」のみを自己目的化するということは、「ハコモノ批判」にさらされてきた過去と現状を追認して、成果が外部に出ない自家中毒症状を起こす原因になることを私たちは過去の体験から思い知っています。全国2400とも言われている公立劇場・音楽堂・ホールの使命をしっかりと検証しなかったために、日本の公立劇場・音楽堂・ホールは80年代から現在に至るまで「失われた30年」に晒されてきたと思っています。理想を高く掲げて、意味的価値も機能的価値も、「失われた30年」からテイクアウトしなければならないと強く思っています。

また、同項目に「多くの場合は、貸館公演が中心となっている」と、文脈から判断すると「貸館」が低次元の利用目的のように感じられますが、ほとんどすべての設置条例では「地域文化振興」が最初に掲げられており、市民がみずから文化芸術活動に参加し、創造するという文化芸術振興基本法の第2条にある「文化芸術の振興に当たっては、文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない」を担保するのが「貸館」であることを私たちは認めなければならないと思います。東京では「貸館」がないように多くの人が誤認していますが、あの世田谷パブリックシアターにあっても、実質的な「貸館」は少なくないのです。「共催」や「提携」というかたちになっているが、これは実質的な「貸館」なのです。東京という一極化したマーケットにあるという環境から、借り手がプロ集団であるだけであることに私たちは気付かなければならないでしょう。「貸館」も条例に合致した「事業」であり、創造事業と優劣をつける類のものではないのです。「2.基本的な考え方」の(劇場、音楽堂の機能)にあるように「地域住民が文化芸術活動を行う拠点」であることを委員はしっかりと認識すべきです。小さなまちにあっては、「貸館」が地域文化振興の主たる事業であっても間違っていないのだと私は思っています。

もう少し踏み込んでほしい、という箇所があります。「2.基本的な考え方」の「音楽、舞踊、演劇、伝統芸能及び大衆芸能等の文化芸術の役割等」における「人々が共に生きる絆と社会基盤を形成するものである」という認識と、その下段の「コミュニティの創造、地域振興につながるものである」というくだりです。「第三次方針」で、「文化芸術は、子ども・若者や、高齢者、障害者、失業者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会的基盤となり得るものであり、昨今,そのような社会包摂の機能も注目されつつある。このような認識の下、従来、社会的費用として捉える向きもあった文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要性に基づく戦略的な投資と捉え直す」とあり、これをさらに推し進めた展開があってこそ劇場法であり、「費用から投資」の具体的展開なのではないでしょうか。

「投資」に値する「存立価値」を劇場・音楽堂・ホールがもっていることを、あるいは持たなければならない責務があることを、高らかに掲げるべきと考えます。「社会包摂的機能」こそが、ここではキーワードとなります。社会機関として劇場・音楽堂・ホールが存立するためには、この「社会的包摂機能」を、「文化振興」という従来の理屈からコペルニクス的に転回させて前面に押し出すべきと私は思います。

2200とも2400とも言われる「公立劇場・音楽堂等」を、その役割で仕分けして、整理しようとしたのが劇場法(仮称)の芸団協案であり、平田案であったと私は思っていますが、あまりに数が多いことが「弱み」であるとの認識がそこにはあります。ただ、私は、これらを「社会的包摂政策の拠点施設」と位置付けられれば、全国隅々にまであるこれらの施設が、健全な社会を形成するための「強み」になると考えます。発想を転換させればよいのです。「文化芸術振興」では「弱み」になるかもしれないが、文化芸術を使った「社会的包摂の政策拠点」と定義すれば、今後ますます劣化していくだろう日本社会にとって重要な拠点施設となることは火を見るより明らかです。国民市民にとって必要な施設になることは、世界に類を見ない日本に特殊な施設の成立経緯と運営実態を考えると必須のスキームであると考えます。したがって、「民間事業者が設置する劇場、音楽堂等」は、それによる縛りを受けない舞台芸術愛好者のための文化振興を専ら目的とする施設であれば良いのです。民間事業者の設置した施設は、公立の施設のようなしばりは受けなくてよいのです。逆に言えば、公立であることによって生じる「責務」を課するのが劇場法であるべきと考えるのです。