第112回 ハコモノからの脱却  いま、公立劇場・ホールは何を為すべきか。

2011年7月11日

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

「世界劇場会議国際フォーラム」の実行委員長に、という要請がNPO法人世界劇場会議名古屋の下斗米理事長からありました。日本を代表する地域劇場のブランドになるという目標達成のために最低3年間、長くても5年間は可児市文化創造センターalaの館長を務めるコミットメントを、アーラの職員から警備、施設管理、清掃の外部委託職員までを集めて話した直後だったために、他の仕事で忙しくなることは避けたいと思いました。むろん、世界劇場会議国際フォーラムの仕事も、つい最近開催された文化経済学会<日本>の理事の仕事も、間接的にはアーラのブランド化に寄与することは理解していますが、来年には前期高齢者になる身です。どこまで現在のように突っ走れるのかの確信がないので、できるだけアーラの経営に専念したいのが本心ではあります。しかし、「私たちが動きますから、<顔>になっていただきたい」という理事長の粘り腰に負けました。「やりたいテーマ」がないわけではないので、「やる」となった以上は大きな旗を精いっぱい振りまわすつもりでいます。「やりたい」ことというのは、全国におよそ2200ある公立の劇場・ホールの多くが、「ムダ」、「ハコモノ」という常套句で批判を受けている状況を、それが何故なのかをきちん分析・検証して、さらに「文化」の持っている社会的効用を説得力のある論理で証明する作業を世界劇場会議国際フォーラムで積み上げたいと思っています。

経営とは「新しい価値」を創りつづけることです。この「価値」は芸術的な意味だけではありません。「社会的な価値」を永続的なイノベーションで創りつづけ、市民や国民にとって公立劇場・ホールが必要な価値存在となることをも意味します。「ムダ」とか「ハコモノ」と言われてきた背景のひとつには、公立の劇場・ホールに「経営」という概念が不在だったことがあります。あるいは、「経営」を経済的な利得とのみ考え、事業毎に売り上げ目標を設定して、収支比率を100%以上にすることのみに専心してきた結果の「ハコモノ批判」なのではないでしょうか。私たちは興行師ではありません。「儲け」がでるくらいなら、行政が劇場・ホールを造らずとも、民間の興行資本が地域に進出しているはずです。確かに「儲け」も「新しい価値」です。経済的な利得は、「経営」の経済的側面ではあります。しかし、それは「部分」であつて「全体」では決してありません。興行資本が進出しない地域に何故劇場・ホールを行政が設置したのか、という地点に立って、公立劇場・ホールの「経営」を考え直さなければなりません。

経済的利得のみ注視すると、まず価格政策と地域社会の経済実態とのミスマッチが生じます。費用を積算して、それを回収することだけを考えた「費用重視型」の価格設定にすれば、机上では営利型の興行は成立するかに見えます。そうなると、地域社会の「慣習価格」を大きく逸脱したチケット価格を設定することになります。ただでさえ狭隘な地域の文化市場をチケット価格設定でさらに狭くしてしまいます。したがって、職員にチケットノルマを課したり、ディスカウントした団体チケットを大量に販売したりすることになります。「動員」です。客をともかくも掻き集める「集客」です。そこに集まったお客さまが、継続的な固定客に変わることは「奇跡」としか言いようがありません。劇場・ホールの営為は社会からますます隔絶した、狭い範囲のものとなります。「買値=チケット価格×客数」という机上で数字合わせの「マネジメント」めいたことをしていると、そういうところに陥ってしまうのです。一般市民とは関係のない施設となってしまうのです。「ハコモノ」であり、「ムダ」の象徴となってしまうのです。墓穴を掘っているのです。蟻地獄のなかで徒にもがくことになるのです。

「経営」とは「今日の利益」を出すことではありません。「明日」に向かうために人、装置、資金、情報を適正バランスに配することです。中長期的に成果を社会に生むことにほかなりません。公立劇場・ホールが「ハコモノ」、「ムダ」とされるのは、皮肉なことに、「今日の利益」しかみていない経営姿勢のためなのです。中長期的な「利益」は、今日の「投資」によってのみ担保できるのです。その「投資」がムダかどうかは、中長期的な展望に立った「経営姿勢」を持っているか否かで決まります。「今日の利益」のみに着目した場当たり的な興行師的な手法に終始するかぎり、「ハコモノ」とか「ムダ」からは絶対に脱却できません。

「経営とは中長期的な成果を社会にもたらすこと」と書きました。社会や地域や個人にとっての成果がアウトプットすれば、劇場・ホールの経営はおのずと健全化します。それは、社会や地域や個人が劇場・ホールの存在を許容するからです。劇場・ホールの健全経営は、それ自体、単体で自己完結的に成立するものではありません。劇場・ホールのあらゆるプロダクトが、社会、地域、個人を経由してその価値が広く認知され、はじめて存在が許されるのです。むろんそれは公立劇場・ホールに限ったことではありません。すべての企業、組織、団体は、提供する生産物の価値が受け入れられてはじめて存在が許容されるのです。舞台芸術の進化に寄与する芸術的成果(生産物)を提供し続ける民間団体や民間劇場は、高い「芸術的評価」において、多くの顧客を持つことになり、存在が許されるのです。

公立劇場・ホールにあっても、そういう方向の経営を目指すことは間違いではありません。問題は、「芸術的評価」というのは人間の数だけあるというほど多様であり、したがって原資が税金である場合にははなはだリスキーである、点です。そのリスク・マネジメントができる仕組みを設計して、それを公立劇場・ホールが採用できるのなら、それは投資に値する経済行為と言えます。現在、都市部の公立劇場・ホールのほとんどがこの方向性を採用していますが、しかしリスクをマネジメントしているとは言い難い現状があります。リスク・マネジメントの仕組みがあるかさえも疑わしい舞台に出会うことが非常に多いからです。いかにも芸術家まかせで、マネジメントは責任を放棄しているようです。それでは適正な「投資」とは言えません。税金の「ムダ」遣いと言われても致し方ないと思います。公的機関である公立劇場・ホールは、顧客のチケット料金の支払いだけで成立している訳ではありません。責任は当然ですが、税金の「拠出者」への、すなわち社会の「全体」への責任になる構造を公的機関は先験的に持っているのです。米国のコミュニティに依拠するNPO劇場は、人口のおよそ2%前後の顧客と寄付者に経営責任を果たせばよいのですが、日本の公立劇場・ホールは、まったく違う構造を持っているのです。日本の公立劇場・ホールは、入場料というサービス対価だけで成立しているのではありません。したがって正確な意味で言えば「顧客」ではなく、私たちが責任を持たなければならないのは「拠出者」に対してなのです。それだけに、きわめてリスクの高い舞台芸術製作のみを経営の柱とするのはとても難しい意思決定であると言えます。

一方、民間の団体や劇場では副次的にしか問われないのが「社会的評価」による認知と許容で、公立劇場・ホールにあっては、これが「芸術的評価」と等価であることがマネジメント上の大きな特徴と言えます。 「社会的評価」は、「芸術的評価」に比べると「拠出者」への経営責任の輪郭がはっきりしているからです。非常に日常的な事例では、劇場・ホールのロビーや緑地が多くの市民の憩える場となっている、というのも、「拠出者」への経営責任となります。可児市文化創造センターalaでは、チケットを購入する「顧客」がおよそ3万2000人強であるのに対して来館者総数は33万人強です(2009年度実績)。安心・安全な市民の「止まり木」の役割を果たすことも「拠出者」への経営責任と言えます。

むろん、ワークショップからアウトリーチに至るコミュニティ・プログラムも「社会的評価」を形成します。昨年度末に財団法人地域創造から出た『新・アウトリーチのすすめ』報告書によると、アウトリーチの実施状況は、都道府県ホールで55.8%、政令市ホールで31.4%、市区町村ホールで22.3%、ホール全体では25.9%となっています。この数値を多いとみるか少ないとみるかは多様な見解があるだろう。都道府県ホールが55.8%と高い数値を示しているのは、サービス圏域が広いためで、どうしてもアウトリーチでその「弱み」をカバーせざるを得ないからだろう。問題解決の手段としてのアウトリーチ、という位置づけをせざるを得ないと考えられます。一方、市区町村ホールが22.3%というのは今後の課題となります。住民に近いところでサービスを供給する市区町村ホールがこの数値なのには、いささか問題があります。税の「拠出者」の社会的認知を得るためにも、アウトリーチをもっと多く実施すべきです。むろん、ワークショップ・リーダーの不在という人材的な問題はあろうかと思いますが、演劇団体や音楽団体との通年契約でそれは十二分に克服できるはずです。そのような「地域拠点契約」を近隣ホールとネットワーク化すれば効率は飛躍的に良くなります。少なくとも、都道府県ホールの数値以上にならなければ、住民にもっとも近いところでサービスを供給する社会機関としては物足りません。はっきり、「失格」と言っても良いでしょう。廃館にしてもよい施設と言えるでしょう。あるいは、コミュニティ・アーツセンターとして、鑑賞事業を排して、ワークショップやアウトリーチに特化すべきではないでしょうか。この場合、予算がないので、という言い訳がかならず担当者から出てくる言葉です。しかし、廉価で質の悪い舞台芸術の鑑賞事業をするくらいなら、その経済的資源を通年のコミュニティ・ブログラム実施に向けることの方が「拠出者」への社会的責任を果たすことになります。資源の適正投入です。

「何をもって認められたいのか」、地域の中小館が「ハコモノ」から脱するためにはじめに考えなければならないのは、この問いへの答えです。当然、それに伴って、人材と資金とアウトリーチ先というリソースを考え合わせて解を求めなければなりません。先の財団法人地域創造の「報告書」に、「しかし一方では、事業の継続的な取り組みにつながっていないところや、<アーティストを派遣する>という手法のみが先行した形式的なものに留まっているケースも少なくない」、「 アウトリーチは、文化・芸術をより多くの住民に提供するという視点から、文化施設や芸術団体の側から地域や住民にアプローチする側面が強調されてきた結果、実際にアウトリーチが行われる教育や福祉の現場で効果があるのかどうか、あるいは、どのような成果が生まれているのかについて、検証されることが少なかった」、「つまり、これまでのところアウトリーチは、教育や福祉といった文化とは異なる政策分野とビジョンを共有することがないまま、文化施設や芸術団体など、文化・芸術を届ける側のみの企画、取り組みとして実施される傾向が強かったと言える」という課題が提起されています。これらはアウトリーチ事業の「事業定義」をしっかりとして、そこから導き出される「事業ミッション」に沿って担当職員がコミュニティ・アーツワーカーとアウトリーチ先の職員との「事業目的」の共有ができれば、おおよそは問題解決できます。コミュニティ・プログラムは低予算で実施できる事業ですが、その手間は鑑賞事業を実施することの比ではありません。その労力のモチベーションとなるのが、「何をもって認められたいのか」という問いなのです。