第109回 劇場法(仮称)のミッシングリンクが震災で。
2011年4月30日
可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生
劇場法(仮称)に対する論議が、震災の影響もあってか、このところ沙汰止みになっています。しかし、私は、この震災で浮き彫りとなった芸術機関や芸術団体の果たすべき社会的役割を考えて、いまこそ公立の劇場・音楽堂の存在価値と存立基盤を熟考すべき時期であると考えています。現下のような非常時だからこそ、人間の「こころ」に関わるべき劇場・音楽堂が「無力である」こと自体を不可解であると疑ってみるべきだと思っています。
再来年の「冬の展覧会」にノーマン・ロックウェルのノベルティ展を考えていて、かつてその一大生産地であった瀬戸市を訪ねた帰り道、里山の新緑の中、車を走らせながら、この非常時に立ち往生している日本の劇場や音楽ホールはやはり「おかしい」と考えていました。しかも「公共」の施設ならこの状況で何らかの社会的役割は果たさなければならないはずです。「公共の機関」が重視しなければならない社会的機能に何か大きな欠落がある、としか思えないのでした。
もっとも、日本の公共文化施設の成立経緯を考えれば、道路や橋をつくるのと同様の公共事業の一環としてファシリティ(施設)を設置したのであり、本来的なマネジメント機能を持つインスティテュート(機関)として設立されたものでないことは自明なのですが、それにしても無力に過ぎると私は考えています。社会的な機能を果たし、社会的に認知されるには、重大なミッシングリンク(環になれない欠落)があると思えます。それが、現行の劇場・音楽堂の「欠陥」と言っても、言い過ぎではないでしょう。
常に社会を視野に入れて、意識して仕事をしていれば、公共文化施設は、教育・福祉・医療・多文化などの社会的課題をアンテナでキャッチして、そこに何らかの問題が生じれば即応できる能力は培われるはずです。私は90年代半ばに上梓した『芸術文化行政と地域社会』で、すでに20年近く前に指摘していることです。公共施設としての劇場・音楽堂は、単に舞台を創造する機能と、鑑賞してもらう機能を併せ持って自己完結する施設では決してありません。そうであってはいけない公共的使命を持っているはずです。
昨年の劇場法(仮称)に関する論議では、「創造と鑑賞」という点ばかりがフォーカスされて、経済的支援の多寡に偏った話になっていたきらいがあります。それが不要とは決して言いませんが、一方で、きちんと劇場・音楽堂の社会的機能の定義づけ、いわば社会機関としての劇場・音楽堂のデザインも論議されるべきだったのではないしょうか。それが為されないこと自体が、実は日本の公共文化施設のミッシングリンクなのであり、日本の劇場・音楽堂が社会化されていない原因であり、「ハコモノ=無用の長物=ムダ」という批判の論拠となってしまっているのです。
一般的な「ハコモノ批判」をすれば劇場・音楽堂の設置自体を首長の失政と断じることができると思っている地方議員は「一山幾ら」というほどいます。「ムダ」という論陣を張る地方議員は「右から左まで」満遍なく存在します。そういう議員ほど「赤字・黒字」という経済的な指数による経営概念をこれ見よがしに持ち出します。しかし、第一「黒字」となるなら何も自治体が設置しなくとも興行資本が地域に進出しているはずです。興行資本が自前の劇場やホールを建設して、利益を上げているはずです。そのバランスシートが成立しえないから、住民の福祉増進という名目で自治体が劇場・音楽堂を設置しているのです。したがって、公共文化施設には「赤字・黒字」という経営的な概念は設立経緯からいってもなく、「地域社会への投資」という経営概念しかないのです。そこで財政上問われるのは、唯一、「投資的行為の効率化」でしかないのです。
さて、この「投資」という行為こそが、いま問われているのです。今回の震災のような非常時に立ち往生するようでは、ただの「娯楽提供の施設」でしかないことを自ら認めていることになります。「娯楽施設」なら緊急時に不用なのは当然です。被災当初の生活支援の局面で劇場・音楽堂が避難所となるのは洋の東西を問わず自明と言えます。90年代半ば過ぎに英国の地域劇場をめぐった折に、阪神淡路大震災の時のことを念頭に、英国の地域劇場は震災などの緊急の椿事が起これば、直営のレストランもあり、食料のストックもあるのだから、絶好の避難所になると思ったものでした。災害直後の生活支援の場面では、劇場やホールはその堅牢な強度設計によって避難所としての機能を充分に果たします。今回もそういう役割を果たしている東北圏の公共文化施設はたくさん見受けられます。当然です。
問題は、被災後に大勢のボランティアや救難物資が寄せられて「支えられている」という実感のなかで生きる、およそ1ヶ月間の「ハネムーン期」が過ぎて、自分の身に起きたことの大きさに打ちひしがれそうになる時期に、その「こころのケア」に対して公共文化施設とその職員に何ができるのか、という点です。まずもって、目の前にいる人の「こころ」に関わることを使命と考える職員を劇場・音楽堂は日ごろ育てているか、なのです。興行資本の社員ではないですから、公共文化施設の職員は興行師でもプロモーターでもありません。公共的な使命をもった職員でなければなりません。この点がまったく欠落しているのです。自分を興行会社の社員だと勘違いしている人間のなんと多いことか。だから、無力感で立ち往生したり、設置自治体から自宅待機を命じられたりするのです。非常時の生活支援の局面では、「興行師」も「プロモーター」も不用な、という無関係な人材なのは自明です。
「こころの支援」が必要な時期となっても、この種の公共ホール職員は、被災者のこころの側に立って物事を考えられない傾向があったり、大イベントを避難所や仮設住宅に無理に持ち込もうとしたりします。平時には少しは役に立っても、それが平時だから露わにならないだけで、一朝何かが起これば、公共的意識のなさが馬脚をあらわします。したがって、劇場・音楽堂が今回の非常時にも機能していないのは、地域社会に向けて投資的な社会貢献活動をする主体であるという当事者意識が幹部や職員にないのと、「イベント屋」が非常時に不用になるという当然の帰結なのです。
今回の震災で、公共文化施設には重大なミッシングリンクがあることが露呈しました。社会機関としての劇場・音楽堂のグランドデザインが欠落している、という点です。「芸術の殿堂」という誤った役割に職員が安住しているという点です。私たちは公共的使命をもった施設で働き、そういう使命のもと仕事をしているのです。社会に資する役割を果たさなければならない存在です。自分たちの施設を「芸術の殿堂」たらんと目論んでいる「興行師」や「プロモーター」ではないのです。非常時のみならず、地域社会の社会的問題解決という「公共的使命」を果たせないのなら、「不用」と思われても甘んじるしかありません。屈辱的ではあっても甘んじるしかないのです。「無用」と言われても、「不用」と言われても致し方ありません。先述した「地方議員」の言い分にも一理ある、ということになってしまいます。
公共的な劇場・音楽堂で働く人間には公共的な使命が必須です。社会の問題解決や将来的な課題解決に出動する使命がなければなりません。私たちが提供しているサービスは、何らかのかたちで「ソリューション(問題解決)」なのです。したがって、劇場法(仮称)は、その責務を明らかにするものでなければならない、と強く思います。この欄で何回か「演劇人はコミュニケーションの専門家」と書きましたが、劇場人もまた、それにも増してコミュニケーションに長けた人間であるべきです。でなければ公共的な劇場・音楽堂の職員は務まりません。私たちの仕事は、右から左にイベントを流していく事務的な作業では決してないのです。ルーティンでは決してできない仕事です。
公共文化施設の職員は、人間に関わり、人間のこころを慮って、事業を組み立て、仕組みを組み立てる仕事をする存在です。そうであって初めて公的な資金の給付を受けることが許される存在です。アーツマネジメントやアーツマーケティングとは、そういう種類の仕事を指しています。公共的な劇場・音楽堂の職員には、そういう資質が必須となります。日本の公共的な劇場・音楽堂が「社会的有用」であるという社会的認知を得るには、そういう責務を持った職員を育成するしかないのです。劇場法(仮称)は、そのための、いわば基本法的な役割が求められるのです。何度も繰り返していますが、そのためにも「前文」でしっかりと社会的使命を謳った劇場法(仮称)が必要なのです。公共的な劇場・音楽堂は、いわば社会のリスクヘッジと考えられるようにならなければなりません。公的支援の金額の多寡を言うのは、それからで良いのではないでしょうか。日本の公共的な劇場・音楽堂のミッシングリンクが、今回の震災や被災者を前にして露わになったと考えるのは私だけでしょうか。だからこそ、劇場法(仮称)の喫緊の必要性がむしろ高まった、と考えるのは私だけでしょうか。