第107回 震災を前にして劇場・演劇は可能か

2011年4月4日

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

私たちが今から始めなければいけないこと。

夏期の東京電力管内の「計画停電」が、大口需要者のサマータイム導入や輪番休業で25%から30%の節電を実現して見送られる展望が示されました。これが実際に実施されれば、夏場の「劇場危機」や、それに伴って予想される劇団やオーケストラの経営危機を回避できると期待できます。予断は許しませんが、経緯を見守っていきたいと思っています。

(館長エッセイ前々回『劇場の危機をどう「機会」とするか』を参照)

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今回の大震災の被害状況の報道を前にして、私は、学生の頃に読んだJ・P・サルトルがフランスの文芸家たちに発した「飢えた子供の前で文学は可能か」という問題提起に対する彼らの小論文をまとめた同名タイトルの冊子を思い起こしました。あわせて、主に東京の情報しかないのですが、公演をするカンパニーの複雑な心情を思いました。「不謹慎」という反応があるとのこと。また、演劇人の中からも、「自粛」を言う者が出ているということも聞きました。「自粛」はあくまでも「自粛」で他人から言われることではないし、「自粛」が「委縮」となって芸術活動のみならず経済活動までが停滞するようでは復興への意欲やエネルギーまで削いでしまいます。また「不謹慎」は、自分の価値観を他人に押し付けることであり、他人の行為にそういう価値づけをした人間は、その言葉が自分に返ってくるという覚悟があるかどうかです。

東京では、稽古場が使えずに公演を控えて舞台成果を担保できないで困っている団体があるということも聞きました。計画停電などの影響で中止となった公演チケットの料金を芸術団体の支援としようという提案と、それに対する反論が一方にあり、また震災義援金にするという考えや劇団債として劇団支援にする提案もあります。そして仙台の演劇人たちが「東北復興のための舞台人会議」という話し合いの機会を設けたことはすでにここでも取り上げました。「劇都仙台」やその前の「シアタームーブメント仙台」、それ以前の総額たった180万円の予算で1年間ほとんど毎週のようにやったワークショップと『わが町』上演を実施した「乱暴な時代」からの知り合いだった主な演劇関係者がすべて無事だったことに胸をなでおろしているところです。しかし、「何かをやらなければ」という気持ちは持ちながら、あまりの災害の甚大さと、収入を絶たれたことで、身動きがとりにくい状況にあるように仄聞しています。

そして、いま、私は、一人の劇場人として、また演劇関係者として、サルトルの「飢えた子供の前で文学は可能か」という問いかけを前にしています。以前ala Timesというニューズレターにこう書きました。少し長くなりますが再録します。「確かに彼ら(飢えた子ども)に必要なのは温かい食事であり、身体と心に休息をもたらす柔らかな寝床であるでしょう。しかし、幾重にも押し寄せてくる不安や恐怖に晒されて、心がささくれ立ったり、他者との関係がザラザラしたり、生きる意欲が萎えてくることから、文化芸術は人々の心を救い出す力を持っています。なぜならば、文化芸術は、他者との関係の中で違いを痛烈に意識し、その違いを豊かさに変換するコミュニケーションがベースとなっている人間の原初的な行為だからです。<救い>は他者の中にしかないのです。人間は社会的な動物です。他者と打ち解けることを本能的に求める存在です。ワークショップで心が開いて行き、笑顔さえも浮かべる自閉症の子供たちを、私は見ています。(略)私が阪神淡路大震災のときに神戸シアターワークスを立ち上げ、活動した経験から、そう考えるのです」。

もうすでにお分かりのように、私は、被災した人々に「生きる意欲」を持ってもらうためには「劇場・演劇は可能だ」と思っています。それは『芸術文化行政と地域社会』を書いた90年代の初めから長いこと思い続けていることです。文化芸術や劇場に関わる際の信念といっても良いものです。一方で、被災していない東京などでは、それまでと変わりない日常を変化なく繰り返すことが、市民の心理的な動揺の不要な増幅をなくす意味で大切だと思っています。ですから、計画停電やそれによりお客さまの帰宅困難が発生するなどの物理的な事由で公演が出来ないという以外は、従来通りに公演を実施すべきだと考えます。「自粛」や「不謹慎」と感じる人は、そういう自分の価値観に従って、自らの公演中止をすれば良いのであり、他者に自分の価値観を強要する必要はないと考えます。また、そういう価値観の人は、観客や聴衆として劇場に足を運ばなければ良いだけです。ただ、一ヶ所に多くの人を集めるのですから、公演をやるならば、義援金を集めようとする「意志」をカンパニー自身の判断で見せるべきではないでしょうか。

ここで今一度サルトルの言葉に立ち帰ります。思い起こしていただきたいのは、演劇人や劇場人は、コミュニケーションや対人関係の専門家である、専門家でなければならない、と繰り返しここで述べている前提です。残念ながら、日本の演劇人と劇場人には、その前提が通用しにくいところがあります。なぜなら、日常的にそういう特別な技能が求められてこなかったという重大なミッション不在があったからです。演劇人も劇場人も、「モノ」を提供しているのではなく、こころに対する「サービス」をしている存在です。業態で言えば「サービス業」に分類される職業です。その原点さえ理解していれば、演劇人と劇場人は、コミュニケーションのプロフェッショナルであるはずです。あるいは、プロフェッショナルたらんと日々研鑚していなければならない存在です。

だとするならば、私たちは、被災して急性ストレス障害や心的外傷後ストレス障害の危機にある人たちの「発せざる声」を受け容れることは可能なのではないでしょうか。いわゆる「嘆きの作業(Grief Work)」の担い手となることは可能なのではないでしょうか。「こころを怪我」したのですから、その手当てをしなければなりません。むろん、得手不得手はありますし、大事な要件として事後のデブリ―フィング(振り返り、吐き出し報告)のための精神医や臨床心理士の立ち合いは必須です。しかし、少なくとも可能性としては「ある」と私は思っています。不得手な人は、そのために必要になる経費を資金調達する後方支援に志願すればよいのです。「生活支援」の相互扶助が働いている「ハネムーン期」が落ち着いて、起こったことがリアルに重圧となる「いのちの質」を担保しなければならない時期になったら、その時にこそ私たちの出動の時なのです。それが、阪神淡路大震災のときは、三月半ばを過ぎた、震災から二ヶ月後あたりでした。ピッコロ劇団と長田区の避難所に出掛けて、「寅さんシリーズ」の映画を上映すると被災者のいる教室を触れまわっても、ほとんど誰も集まりませんでした。その現場にいて、被災者のこころの在り様はもうそういう時期ではないと感じたのでした。そのいささか空虚な気分の中で「何か、そういうこころの在りように対応できるプロジェクトを始めなければ」と思ったのが、神戸シアターワークスのオルグ活動を始めるきっかけでした。

突然子どもたちの夜泣きが始まったり、夜尿症を発症する子どもが出てきたり、何があっても母親から離れない子どもがいたりとか、大人でも、不眠を訴える過覚醒症状や無表情で何にも関心を示さない感情鈍麻の症状のある人を見受けるようになりました。急性のストレス障害の兆しです。私たちは、子どもたちが、他の子もみんな自分と同じで、自分だけが「特別ではない」という感情を持てるようにこころのケアを演劇的手法で進めるプロジェクトを始めました。被災の記憶を消し去ることはできないが、それをコントロールできるこころの状態を回復させることは演劇的手法で出来ると確信していました。それは例えば、子どもたちの呟きを紡いでいく『焼けない野原をさがして』という動物たちの旅の物語を子どもたちだけで創るワークショップになりました。

大人たちには、「支え合う人間関係」と「必要とされる機会」を、つまりはコミュニティの健全な機能を仮設住宅内につくることで、「生きる意欲」を湧きあがらせ、「いのちの価値」を確認しあう機会をつくろう、と考えました。孤立感の中で引きこもりになり、朝から酒を飲み、孤独死する事例が多くありました。「人間、一人では生きてゆけないんだ」と、デンマーク・ボート・シアターの『フルーエン(蝿)』の公演を日産自動車のショールームで上演した時、招待した仮設住宅の高齢者が言っていた言葉はいまでも思い出します。充分なことが出来たとは思っていませんが、いろいろな人とお話をして、沢山の言葉を吐き出してもらいました。それらは本当にささやかな活動ではありましたが、被災者にいくばくかの「元気と勇気」は振い起せてもらえたのではないかと思っています。

さらに一年以上の時間が経過すると、被災した個人への社会全体の関心が薄くなり、ボランティアや物資等の支援が目に見えて少なくなって行きます。「孤立無援感」や、「生存者の罪悪感(サパイパーズ・ギルト)」が日増しにこころの重石となっていきます。この時期までに、被災者と「顔なじみ」になっておく必要があり、「何でも話せる関係」を作っておく必要があります。避難所や仮設住宅を何回も何回も訪れて人間的な関係形成をしておく必要があります。その時期になっても、コミュニティ・アーツワーカー(演劇人や劇場人)と臨床心理士や精神医と生活支援ボランティアのネットワークは維持しておかなければなりません。そのネットワークの連携が、より強く求められる時期と言えます。

私たちは災害における多岐にわたるリスクマネジメントを学習して、将来の危機にも備えるべきです。これから東北各地には仮設住宅が設置されることになります。阪神淡路大震災のときの神戸では、設置当初、障害者や高齢者などのいわゆる災害弱者を優先的に入居させる方針をとったために、従来の守られていたコミュニティから引き剥がされた「災害弱者」が一ヶ所に集まることになりました。その後も、コミュニティを温存するかたちでの入居は行われませんでした。仮設住宅での「孤独死」の遠因にはその入居方針がありました。「二次被害」と言えます。被災者のケアの大事な要素のひとつは、相互扶助のコミュニティという「生活環境」を守ることにあります。それができないと、孤立感を深めてPTSDの危機にさらされることになります。障害者も高齢者もコミュニティに守られてQOL(いのちの価値)をたもっていたのです。優先順位を決めたことは「温情」だったのでしょうが、結果としてQOLを劣化させてしまいました。今回の震災では、他県の避難所に移るにしても、コミュニティ毎に集団で移り住んでいます。被災した人々の「生活環境」のひとつが守られていると感じています。それが欠如したために、神戸では「二次災害」が頻繁に起こっていました。被災は大変に不幸なことではありましたが、コミュニティを守って集団で移住している報道に私はホッとしています。その「人間第一」と考える姿勢は、阪神淡路大震災を経て学習されたことではないかと思っています。

しかし、報道される仮設住宅の抽選風景からは、その「学習」が生かされていないと危惧します。一人ひとりが申し込んで抽選となる、という方式は、公平性の観点からは誰からも文句の出にくい方法ではありますが、それまで生きてきた生活環境が顧みられていないという点で、孤立を生みやすいと私には思えます。震災前の近隣世帯のコミュニティを温存するかたちでの抽選は出来ないものかと思います。そして、これから数ヶ月経つと復興事業が始まります。20兆円規模の公共事業になると言われています。これをゼネコンに発注するにしても、被災者を雇用することを義務づけるべきではないかと思います。港湾の整備には漁業関係者をあてるなど、従前の仕事に関係する工事に従事してもらうことで生活再建を企図し、さらに自分たちの手でのまちの復興をする日々が、被災者の心のケアにもなることを考えるべきではないでしょうか。阪神淡路大震災の教訓を生かした復興施策、人材の育成・配置、まちづくりをすべきではないでしょうか。

可児市文化創造センターalaでは、可児市に、演劇的な手法で社会に貢献できるコミュニティ・アーツワーカーを育てようとしています。むろん、ダブルワークの職業のひとつとして成立させたいと思っています。現在2人の市民が、実際にアーラで仕事をしたり、スタンバイの状態にあります。毎年100人以上の出演者でやっている大型市民参加型事業は、そのリクルーティングの機会であると私は位置づけています。また、30人が3ヶ年受講しているワークショップリーダー養成講座は学習の機会であり、多文化共生プロジェクトと付属のユースシアターは、その技術の現場研鑚の機会と考えています。そういう人材が地元にいることで、教育機関、福祉機関、医療機関、多文化施設への日常的なアウトリーチ事業の実施が可能となるし、一朝、まちが何らかの災害に遭遇したときには、阪神淡路大震災のときに故山根淑子館長がピッコロ劇団にミッションを与えたように、被災者に向けた時間的な経過に沿った多様なアプローチが可能となります。まちのリスクマネジメントのためにも、コミュニティ・アーツワーカーの養成と、職業化は、アーラでは加速させて進めていかなければならないと、いま強く思っています。急がなければ、と考えています。

震災を前にして「劇場・演劇は可能か」と問われれば、私は可能であると断言します。また、可能にしなければならないと考えます。であるならば、昨今論議されている「劇場法(仮称)」は、そう いう方向性を持った立法精神に貫かれなければならない、と考えます。「国民の福祉」=より良く生きる社会形成のための「劇場法(仮称)」であるべきだと考えます。「社会包摂」という文言ならより広範な概念となります(館長エッセイ『劇場法(仮称)がもたらす社会を構想する ― 「失われた30年」を取り戻す』参照)。この機会に、私たち劇場人と演劇人をはじめとするアーチストは、「いま」を走りながら、「これから」を考えるべきではないでしょうか。対症療法だけではない将来への手当てをすべき、今こそ「その時」であると、私は考えます。