第99回 いのちの格差をなくす ― 公共劇場の最終ミッションは。
2011年1月10日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
新年早々に編著者から送られてきた『公共劇場の10年』(伊藤裕夫・松井憲太郎・小林真理編 美学出版)を読みました。腰帯に『「劇場」「演劇」「舞台芸術」の公共性とは何か』とあり、昨今の重要なイシューである「劇場法」(仮称)にも言及しており、1日の公休があったとはいえ、謹呈された本では私としては珍しく一気呵成に読みました。
感想としては、腰帯から期待した「公共性」について明確な輪郭を描き切れておらず、何か奥歯に物の挟まった物言いに終始しているという感が否めないものでした。何がそうさせているのか、と考えました。ひとつは、政治や行政に対する拭いがたくある警戒感です。それに80年代から90年代にかけて全国に2000以上も公共ホールを造った「政治の失敗」に対する不信感が其処此処に出てきます。行政が「文化芸術」を知らない、という解きようのない難題も論議の前提として厳然とあります。むろん、読んでいる私にもそれらがない訳ではありません。ただ、それらのバイアスのために、公共劇場や舞台芸術の公共性の「有効と思える仮説」が提示できないでゆらゆらと揺れている論調に終始しているので、読者としては快哉を叫ぶ場面がなく、隔靴掻痒、苛立ちを覚えました。 比較的了解もし、共感できたのは鳥取県・鹿野町で「鳥の劇場」を主宰する中島諒人氏と、フェスティバル・トーキョーのプログラム・ディレクターの相馬千秋氏の発言でした。全面的に賛意というよりも、現場を持って戦っているという点で、共有できる地域劇場人としての実感があったせいでしょう。
「公共性」というイシューに対して、伊藤裕夫氏と松井憲太郎氏はともにギリシャ時代の悲劇の事例を挙げています。神々の運命との闘争の物語を市民が体験することによって、世界観や人間観を共有する、古代円形劇場でのギリシャ劇の社会的機能や共同体幻想に触れて、古代都市国家のおける演劇や劇場の「公共性」を論じています。同様の構図は、実はナチス・ドイツにもありました。ヒットラー政権下での「ワグナー賞賛」は、現在でもユダヤ人国家イスラエルではワグナーを演奏すること自体がタブーとなっているほどです。そのナチスの台頭によって機能を停止した観客組織で、のちに自前の劇場さえも持ったフォルクス・ビューネ(民衆舞台)も、社会主義労働党に呼応した運動であり、プロパガンダという構造は同様です。日本の大戦中の大政翼賛会の活動も、舞台芸術が、時の政府のプロパガンダとして使われたことは疑いのないところです。しかし、古代ギリシャの例も、ナチスの例も、フォルクス・ビューネの運動も、大政翼賛会の例も、すべて実は「公共性」という言葉で括れるのです。
ことほど左様に、「正義」という言葉と同様、「公共性」もまた、時代の装いによって変幻する、絶対的な善の価値観では決してないのです。非常に危ういものと言えます。その証拠に、ナチスは劇場を規制する制度を作っていますし、日本でも戦中に政治が芸術に介入した事例はあるのです。しかし、そのいずれもが「公共性」を根拠とした政治的作為であり、古代ギリシャにおける演劇の社会的効用もまた、政治的統治に利するものであったことは言うまでもありません。したがって、「舞台芸術」や「劇場」や「公共性」は、時代によって環境変異するものであり、その意味では、大変厄介で、危ない概念であり、脆いものでもあることを前提と認識して、私たちは議論しなくてはならないと思います。
その前提に立って、「公共劇場」とは何なのかと考えています。伊藤裕夫氏が「公共性」を「すべての人びとに関係する共通のものという共同体的原理」としているのは間違いのないところです。しかし、前提を考え合わせれば、「公共劇場」が絶対的上位概念でないことは言うまでもありません。ならば私たち劇場人は何をなすべきなのか、と考えます。おそらく、としか言えないのですが、政治や思想より普遍的な価値や原理に依拠した「公共性」を根拠とするミッションを掲げて、それに沿って事業や経営やマーケティングの仕組みを設計し、中長期的な計画のなかでそれを実現することが「公共劇場となる道程」なのではないか、と思います。つまり、あらかじめ「公共劇場」として設置されるのではなく、「公共劇場になっていく」過程が存在する、と言えるのではないでしようか。ならば、「より普遍的な価値や原理」が問題となってきます。したがって、「公共劇場とは何か」を問うことは、「より普遍的な価値や原理とは何か」に解を求めることではないかと考えます。それが私にとっては、「いのちの格差」のない社会であり、地域づくりです。可児市文化創造センターalaのゴールと言えます。
可児市文化創造センターalaは、「芸術の殿堂」ではなく、「人間の家」を目指す社会機関と自己規定しています。これは、住民から強制的に徴収した税金によって設置され、運営されている以上、一部の愛好者のみを対象とする事業や経営の組み立てでは説明責任を果たせないと考えるからです。すべての市民をサービスの対象として視野に入れることは至極当然のことではないかと思っています、すべての市民に課金されているのですから。したがって、芸術的使命の実現を至上の目的とした芸術団体とは、構造的に劇場の利害性はまったく異なっているのです。このあたりの認識が『公共劇場の10年』の論議全般には欠如していたように思えます。米国の地域劇場のように、およそ2%の市民が年間予約会員(鑑賞者)であり、彼らがそのまま寄付者でもある場合の利害とは、同じ劇場・音楽堂でも、日本の構造は百八十度違っているわけです。このあたりが『公共劇場の10年』では語られていないので、違和感を覚えるのです。公設の劇場・音楽堂は、芸術団体ではないのです。芸術的使命と同時に、社会的使命も果たすべき存在であり、社会機関なのです。
行政が設置したから「公共劇場」ではないのは言うまでもありません。しかも「公立」と「公共」のあいだには、径庭のへだたりがあります。私が希求し、成立させたいと願っているのは、「公共性」のある劇場です。社会や地域の抱えている課題に対してソリューションを提供できる組織と機能と社会的使命と実行力を併せ持った劇場こそが、いま社会全体と地域社会で求められている「公共劇場」であると確信しています。このあたりが、中島諒人氏には共感できて、他の編者や執筆者の論調に違和感を覚えるところなのでしょうか。
グローバリゼーションであるとか市場原理主義の台頭など、今日の経済情勢や社会状況の変化は、東京のそれよりも、末端である地域に大きな影響を及ぼしています。その「しわよせ」が地域の負の環境をかたちづくりつつあります。ひたひたと社会的破綻の近づく足音が聞こえています。そういう時だからこそ、劇場の、文化芸術の出番なのだと思うのです。共感性と共創性があり、コミュニティ形成に強く作用する舞台芸術(それゆえにプロパガンダとして利用される危うさがある)だからこそ、この危機的な状況に必要とされるのだと考えています。公立や公設のホールとは違って、「公共劇場」は、芸術的使命とともに社会的使命をも持った、まさしく社会機関でなければならないと考えます。誤解を恐れずに言えば、『公共劇場の10年』の読後感は、芸術団体の唯一無二の芸術的使命を「公共劇場」の枠組みに押し込もうとする、あるいは無意識に押し込んで、その結果おのずと混乱してしまっているように見えます。
「劇場法」(仮称)には「前文」が必要だ、と以前ここで書いたことがあります。それは、劇場・音楽堂の最終受益者である国民が公共的な劇場・音楽堂の社会的使命を認知しなければ、この法律自体が無力化されてしまうという私の危機感から発言したものでした。劇場法やアーツカウンシルに対しての検討を目的に定期的な協議をしている公文協の「演劇部会」に私が提案した「前文」の要旨は以下のようなものです。「劇場法」という名称はあえて使っていません。私の考える法律の主旨を端的にあらわす「社会包摂推進」という言辞を使用しています。私の考える「公共劇場」の外郭を描いていると思うので引用して置きます。
—以下、引用—
舞台芸術拠点による社会包摂推進法(仮称) 「前文」作成趣意。
【前文の要諦】劇場・音楽堂の供給する文化・社会サービスの最終受益者である国民のコンセンサスを得るために国民に語りかける文体であるべきと考えた。よって、「前文」 においては法律家の堅い法文調を排する。
【劇場・音楽堂の用語】「劇場・音楽堂」の用語については、「文化芸術振興基本法」において「劇場・音楽堂」の文言が使われているおり、同法の特別法(個別法)として立法すると予想できる為、ここでも「劇場・音楽堂」の文言を使用する。
【立法の時代的必要性ならびに国民福祉推進の根拠】国民の誰もが感じている時代認識・世界認識を立法の前提として明確に規定することで、「舞台芸術拠点による社会包摂推進法」(仮称)の喫緊の必要性を提示した。社会が大きく変化する中で、劇場・音楽堂の社会的使命も「変化」することが求められている。法文に書き込まれる「国民福祉」とは、憲法第十三条に保障された「幸福追求権」と「自己実現の権利」である。
【劇場・音楽堂の職員の責務】同法は、劇場・音楽堂の「未来のデザイン」を想定した法律であるべきで、現在からしか将来の劇場・音楽堂には到達できないと考え、したがって、劇場人の意識改革の必要性を視野に入れた。「変えよう」と思うなら「まず、自から変わる」ことが必須である。そのような「自己改革」(自己研鑚・研修機会の機会)を劇場・音楽堂の将来に向けた当該施設職員の職務的責務として考える。
【劇場・音楽堂の責務】劇場・音楽堂の「成果」とは何なのか。すべての国民が音楽・演劇・ダンスのいずれかを選びとって鑑賞をする社会が劇場・音楽堂の成果では決してない。選択財としての芸術文化は、あくまでも個人の嗜好によるものであり、その選択の自由は立法によって規制できないのは当然である。あるいは劇場・音楽堂での鑑賞を法によって推奨できないのも自明である。ではあるが、一方では劇場・音楽堂は、優れた舞台成果の創出と、あわせて多様な「きずな」が健全に存在する社会を国民にもたらすことは、公益的な存在として必要な責務と考える。
【国民主権としての劇場・音楽堂】劇場・音楽堂は「政策目的」ではなく「政策手段」である。竣工した時点で政策目的を達成できたと考えた施設があまりに多いことが、経営理念のない施設を生み、ハコモノ批判を生んできた。本法は、「劇場・音楽堂とは何か」と規定する法律ではなく、劇場・音楽堂は「何をなすべきか・誰になすべきか・どうなすべきか、何を成果として考えるか」をデザインするものである。したがって、それを「前文」で明確に語るべきと考えた。劇場・音楽堂が働きかけるのは社会であり、その成果は社会にしか現われない。したがって、社会機関としての劇場・音楽堂の輪郭を際立たせた。「劇場・音楽堂とは何か」を決めるのは、構造的にも、法的にも受益者たる国民でなければならない。
【国民の文化権担保】劇場・音楽堂の「成果」とは何か。劇場・音楽堂は、演劇、音楽、ダンスの持つ社会的効用によって、国民の、あるいは市民個々が何らかの生活課題の創造的解決を図ろうとするニーズに備え、その「機会」を保障する機能を劇場・音楽堂が持つことによって成果はアウトプットするのであり、すべての国民の「文化権」を担保する存在であるべきと考えた。国民の「文化権」があまねく保障される「社会」こそが、劇場・音楽堂の「成果」であると規定した。国民の「機会の平等」の保障である。
【劇場・音楽堂の社会的中核施設としての存立根拠】舞台芸術の芸術性のみを目的とする文化施設から、国民総体の健全生活を、さらには社会的包摂を担保する社会的中核施設としての「劇場・音楽堂」への転換を促し、その存在価値を国民と共有するように文案を考えた。文化芸術が青少年の健全育成と国民福祉に寄与するものとの認識の国民的コンセンサスを目指すものにしたいと考えた。したがって文化予算や文化への補助金・助成金は、人間・地域社会・国民生活への「投資」であるという意識を国民と共有したいと考える。
【設置者の責務、および指定管理者制度の扱い】劇場・音楽堂の設置者たる地方公共団体は、当該機関が、その目的・使命を十全に果たすことのできるように経済的・制度的環境を整え、提携して、共通する目的・使命を達成できるように努める責務を持つことを記した。地方自治法の特別法としての成立は非現実的なのだが、劇場・音楽堂の社会的責務をかんがみて、指定管理期間を長期間化する協働者としての責務を設置者の努力目標とする方向で考える。
【立法の根拠】文化芸術基本法の「特別法」(個別法)として、第二十五条と第三十二条を基に、劇場・音楽堂の創造環境の整備と、教育機関、福祉機関、医療機関等の地域社会と機関との連携による文化的サービスの供給と、憲法第十三条の「幸福追求権」と「自己実現の権利」を担保する施設として、国民福祉の推進を責務とする。
【総則】条文の展開と調子を規定するために(総則)のみは例示した。
【専門家】「専門家の必置義務」は条文で対応することとした。
—以上、引用—
上記のような国民的コンセンサスを抜きには、劇場・音楽堂は到底社会化しないし、ましてや公共劇場化するはずもない。これは、「行政が文化に無知である」などという言質とは、まったく違う局面での話なのです。批判は出来ても対案を提示できないのなら、批判はその効力が無力化します。『公共劇場の10年』に感じるもどかしさや、苛立ちや、読後の徒労感は、そのせいではないかと思います。日本の文化土壌における「公共劇場」の思想はいまだにならず、その存在も実は皆無なのです。それらしき劇場はあっても、芸術的使命のみの「片肺飛行」と言えます。唯一、鹿野町の鳥の劇場に、地域と密着する活動によるその萌芽があると言えます。そのような現状への誤認が拭いがたくある、というのが『公共劇場の10年』の率直な感想です。
私は、この可児市で、「公共劇場」を夢想しています。可児市文化創造センターalaを日本における「公共劇場のモデル」と言える日がくることを夢想しています。「いのちの格差」のない可児市というまちのグランドデザインを描いています。こういう地平では、行政も劇場も同じ目的のために、違う手法ではあっても、目的達成デザインにアプローチしているのです。「文化芸術を知らない」行政でも、劇場は、市民福祉の実現というピンポイントの標的を共有できると私は思っています。正直言って「行政云々」は、突破力のない我々の側の自己保身の言い訳のようで、聞き飽きました。辟易としてしまいます。