第97回 もっと文化を、もっときずなを。

2010年11月8日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

先月19日にグランドプリンスホテル赤坂の新緑の間で、「文化芸術を国の基本政策に/心豊かな国、世界に誇れる国へ」と題されたフォーラムが開かれました。音楽議員連盟と芸術関係者との意見交換の会で、音楽議員連盟からは、会長の中野寛成衆議院員、副会長の枝野幸男衆議院議員・民主党、河村建夫衆議院議員・自由民主党、斎藤鉄夫衆議院議員・公明党、市田忠義参議院議員・日本共産党、服部良一参議院議員・社会民主党の各氏が列席しました。これは、芸団協(社会法人日本芸能実演家団体協議会)の推進する「もっと文化を!」キャンペーンの一環として行われた会合です。「もっと文化を!」は、「日本の国家予算に占める文化予算の割合は0.11%、このままでよいのでしょうか。文化予算を0.5%に」をスローガンに国会請願署名を集めているキャンペーンです。ちなみに、韓国が0.5%、フランス0.86%、ドイツ0.25%、イギリス0.24%です。このキャンペーンの成功に向けて、芸術関係者と超党派の国会議員が集って、これからの文化芸術の国づくりについて意見交換をするというのが、今回のフォーラムの眼目でした。

この意見交換の中で、私はお二人の発言が気になりました。ひとつは枝野議員の発言です。彼は行政刷新大臣でしたから「仕分け」をその立場から話しました。「文化庁は定量的な評価はまだしも、(文化の)定性的な評価の能力に欠ける。したがって、仕分けされることを押しとどめる説得性がない」という発言でした。これはひとり文化庁だけの問題ではありません。傍聴者を含めた文化芸術関係者のすべてに投げかけられた鋭い問いかけと、私は受け止めました。

なぜ「文化芸術」が社会にとって必要な財なのか。この問いに対して、「文化芸術の鑑賞によって子どもをはじめとして、国民は心豊かな生活を過ごせる」程度の根拠しか示せないのが現状なのです。文化芸術の鑑賞は、国民個々の嗜好に基づいて選択をする財であり、サービスです。「鑑賞」という行為に絞ってしまうと、「選択財」ですから、それを選ぶのは個々の自由ということになります。その選択は、いわば愛好者の意志にゆだねられた行為なのです。それをもってして、「国家予算の増額」は飛躍があり過ぎます。国民の一部の愛好者のために「国家予算を増額」には無理があります。増額して、鑑賞料金を低額に抑えれば、フランスやドイツのように鑑賞者が増える、という論理もあるでしょうが、これにも無理があると私は考えます。その程度で劇的に鑑賞者が増えるほど、文化芸術と国民とのあいだは近しくありません。徑庭の感があります。無縁な人間は、生涯、文化芸術に触れないで生きています。これは文化芸術関係者の責任です。文化芸術に親しむという、ライフスタイルの中に文化芸術を滑り込ませる、というようなソーシャル・マーケティングを長いあいだ怠けてきた「ツケ」と言えます。日本の文化芸術の現場は、ソーシャル・マーケティングどころか、自分たちの作品を多くの人に鑑賞していただくためのアーツマーケティングさえもおろそかにしていたのですから。チケット・セリングのみに特化してきたのですから。

これでは、枝野議員の問いかけに正面から答えられるはずもありません。「定性的な評価」というのは、文化芸術に触れると「なぜ、豊かさにつながるのか」、「なぜ、コミュニケーション能力の関わるのか」などに説明をつける、ということです。『文化立国』というキャッチフレーズもこの手のキャンペーンにはよく使われますが、勇ましいのですが、その内容について、国民的合意となる根拠や詳細に語られていません。「文化的である」ということが、単に多くの舞台芸術公演や美術展が頻繁にやられているというだけなら、「東京」は世界一いろいろなものが数多く行われている街です。けれども、私が月に何回か戻っても、東京を文化的な都市とは思えません。人と人のあいだに隙間風が吹いているうすら寒い街です。雑踏の中を歩いていて、いきなり誰かが刃物を振り回しても何の不思議のない街です。したがって、多くの文化イベントが行われているということと、「文化的」であることとは同義ではないと確信しています。ならばこの『文化立国』とは何なのか、文化芸術関係者の現在の認識では到底説明できません。問題は、定量的なことではなく、定性的な説明が不足している、ないしはまったく欠落しているということなのです。

河村議員の発言にも注目しました。「文化予算は新しい公共投資と考えなければならない」という発言です。河村議員は官房長官時代も物静かな語り口でしたが、この発言も抑えた調子でしたのであまり参加者の胸に落ちなかったかもしれません。あるいは「公共投資」という言葉面に「その通り」と受け容れてしまったのかもしれませんが、この発言にも、私たちは立ち止まらなければいけないと思います。私は、「公共投資」と文化予算の手当てを考えなければならないほど、日本人の心性が劣化しているのではないか、と河村議員が考えているのではないかと、その言葉を受け止めました。災害に備えて治水のためのダムを建設するように、限界集落化した地域の孤立化を防ぐために生活道路を整備するように、日本人の心の問題を解決して、力強く生きようとする生命力と他者を思いやる「きずな」の回復のために、文化施策を「公共投資」と位置づけて、重点政策として「生きる力」の回復を図る必要性を、河村議員は言っていたのではないでしようか。この河村議員の問いかけに対する解もまた、枝野議員の発言の解と同じく、文化芸術の定性的な裏付けとなるものです。

懇談会の冒頭に発言したピアニストの仲道郁代さんは、「親が子を殺し、子が親を傷つける、今の日本はおかしい。私たちはただ素晴らしい演奏をするだけではなく、私たちの仕事を社会の中に位置づけなければならない」とお話しになりました。的を射ている、時宜かなった問題意識です。文化芸術関係者は、自分の関わっている文化芸術が社会の中でどのように「いま、ある」のかを精査し、「これから、どうあるべきなのか」をデザインしなければなりません。そのための戦略を練らなければならない。私たちの組織は「何であるか」ではない。「何をすべきか」であり、その結果として顧客は、顧客自身が受け取った価値によって、私たちを何者かを決めるのです。「未来は望むだけでは起こらない」、ドラッカーの言葉です。私たちの持っている資源を直ちに行動に結びつけなければなりません。私たちは、文化芸術という想像力と創造力によって他者と結びあう文化芸術という「資源」を持っているのです。公演活動は、その一部を動員しているに過ぎないのです。私たちは大きな「資源」を未使用のまま放置してきたのです。

なぜ文化芸術が人と人を結びつける心を涵養するか、他者を思いやる、他者に気遣いする心を育てるのか、生きる意欲を喚起するのか、これらは脳科学の知見で充分に説明できます。「こころ」の問題とは、すなわち「脳」、とりわけて「社会脳」(Social Brain)の活性化と、発達の問題だからです。枝野議員の「定性的な評価(説明)」や河村議員の「公共投資としての文化政策」の答えはここにあると推察できます。懇親会で私が言った「もっと文化を!」は「もっと<きずな>を!」と同義であるという挨拶の裏には、この文化芸術の社会的効用を視野に入れたものだったのです。社会脳と文化芸術の相関性については、きちんとまとまり次第、稿を改めます。