第95回 地域に拠点劇場をつくるという発想 ― 文化庁概算要求を概観する。
2010年10月10日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
8月30日に来年度文化庁予算の概算要求の概要と主要事項説明資料が発表されました。来年度の「優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業」は、「重点支援施設」と「地域の中核施設」から成り立っています。その後の動向や情報を各方面から収集して思うことは、政権交代によって、文化庁サイドから「新しい政権の中で地域性が重要視されてきた。政権が変わるというのはこういうことかと実感している」という発言があったように、文化支援の在り方が大きく変わろうとする「いま」は、まさしく過渡期にあるということが理解できます。そのために、議論を重ねて、中長期的な視野に立った、そして日本の文化風土にマッチした支援制度を今後継続的に構築してゆくべきと思います。そのために毎年のように要項が変わったとしても良いのではないかと思います。
ただ、各方面から漏れ伝わってくる公共ホール関係者、文化政策研究者たちの発言を吟味すると、文化庁の「地域の重視」というポリシーにも関わらず「地域の実情」をまったく知らない人間の不用意な発言があったり、仮に地域で仕事をした経験があるとしても、みずからのマネジメントの失敗を「地域の特性」のようにすり替えたりと、関係者の「東京目線」と「将来的な文化政策のデザインの欠如」は拭いがたくあると感じます。このような傾向は今回に限ったことではありません。私がかつて「芸術拠点形成事業」の選定の委員をしていたときも、10人ほどの委員のうちで、地域の公共施設を歩いて知っている委員は、私を除けば草加叔哉氏のみという有様でした。また、現場を知らない学者や評論家に地域を評価する能力があるかどうかは、はなはだ疑わしいとさえ思われます。昨今、日本版アーツカウンシルを導入しようとする機運があり、来年度からの試験的導入の予算まで計上している以上、この悪しき傾向は一日も早く是正しなければならないと強く感じています。
それは例えば、同じ意味で、「貸館」に対する考えにも表れています。「劇場法」の解説でも、「貸館」は劇場運営においてはもっとも下位にランクされる利用形態かのような発言に間々出くわします。しかし、地域においての「貸館」は、施設設置条例で日本中のどの施設でも謳っているように、「地域文化の振興」に寄与している大事な「事業」として位置付けられているのです。「地域文化振興」は、高水準の舞台芸術の鑑賞機会を提供することだけで達成できるものでは必ずしもないのです。「貸館」は、いわば施設設置のミッションに関わる「事業」なのです。そのために受益者負担(利用料金)に50%前後から90%超の公的資金を補填してミッションを実現しようとしているのです。地域の劇場・音楽堂にとって、「貸館事業」は、持ち出しの大きな、劇場・音楽堂サイドの経費負担が甚大なものなのです。人口の少ない地域ほど、経費負担率は高くなる傾向があります。それもこれも、施設設置条例のミッションに沿って粛々と公共ホールを公共的な目的で運営しているからです。
ひるがえって、東京のトップクラスの劇場・音楽堂である、たとえば世田谷パブリックシアターやトリフォ二―ホールが「貸館」をやっていないかといえば、「共催」とか「提携」のかたちはとっていますが、実態は「貸館」なのです。また高水準の舞台芸術を一年通してラインアップしているようにも見えますが、実際は減免措置を施した「貸館事業」が連なっているのです。可児市では、地元にプロの芸術団体が存在しないために、可児にある三つのアマチュアのオーケストラ、数多くのバレエ教室、ダンス教室などが「貸館事業」の税金の補填の恩恵にあずかっている、というそれだけの違いです。可児市文化創造センターでも、今年は、劇団民芸、モノクローム・サーカス、本年度岸田戯曲賞受賞作家柴幸男氏のままごと+あいちトリエンナーレが、「貸館」で公演を打ちます。ウィーン・V・ルジェリウスピアノ三重奏団が共催でコンサートを開催します。札幌交響楽団は札幌・キタラを借りて、オーケストラ・アンサンブル金沢は石川県立音楽堂を借りて、定期演奏会をしているのです。「貸館」に対する誤解の根源は、東京と地域における文化資源の偏在の問題なのです。したがって、ここではレベルの高低は問題とすべきではありません。プロかアマチュアは問題ではありません。「地域文化振興」と、都市部の劇場・音楽堂が標榜している「音楽文化振興」、「演劇文化振興」とは、近いようで、位相が大きく隔たっているのです。
さらに言えば、文化庁や劇場・音楽堂への補助金の検討審査会の評価基準が「高水準の舞台芸術」に偏り過ぎているのではないか、という点です。「偏り過ぎ」というよりも、ほぼその一点のみの評価であることに、マネジメントやマーケティングの専門家でもある私には強い違和感があります。高水準の舞台芸術は、むろん必須のことで疑義をさしはさむつもりはありません。が、しかし、劇場・音楽堂を正しく評価するならば、「劇場経営(アーツマネジメント)の水準」もあわせて吟味し、審査すべきではないでしょうか。その双方は等価であると考えます。全国水準、世界水準の舞台芸術の質を問うなら、同時に、マネジメントやマーケティングの水準も厳しく評価すべきです。その両輪があってこその、文化芸術の振興であり、文化庁のいう「文化芸術立国」に近付くということではないでしょうか。舞台芸術の成果の水準ばかり求めても、高水準のマネジメントやマーケティングなしに「文化芸術立国」は成立するはずもありません。今回の概算要求にある「重点支援施設」と「地域の中核施設」は、舞台芸術の質のみならず、劇場・音楽堂の経営及びマーケティングの質をも評価する支援制度であるべきと考えます。求められるべきは、世界水準の舞台芸術の成果と、あわせて劇場・音楽堂の経営の質なのではないでしょうか。
さて、いまから20年ほど以前に上梓した『芸術文化行政と地域社会 ― レジデントシアターへのデザイン』のなかで私は、北海道から九州・沖縄までの各地方単位に、舞台芸術の創造発信と社会的包摂の実現を志向するコミュニティ・プログラムで組み立てられた「レジデントシアター」を12劇場前後造るという提案をしました。仮にそれが叶わなくても、大手劇団が抱え込んでいる人材の活用がきわめて不十分であり、人材の剰余が著しいことから、その経営資源の活用策として、全国の文化行政を推進する都市を中心に「劇団の分社化」を進めて活動拠点を多様化することを提案しました。劇団の人材は、劇団から見れば利益を生み出す「経営資源」ですが、地域からみればきわめて有用な「文化資源」であることは間違いのないところです。その有効活用は、日本の文化状況を一変させるだろうと思っていました。たとえてみれば、「仙台文学座」とか、「岡山青年座」とかのように、です。
そのことによって、地域の文化状況は大きく変わります。この発想は、近年になって私がコーディネイトをして、長岡リリックホール、北上さくらホール、可児市文化創造センター、八尾プリズムホールが締結している「地域拠点契約」(regional stronghold agreement )という準フランチャイズの仕組みによって一部は実現しています。共同企画した公演・演奏会と、ワークショップ、アウトリーチ、人材派遣を包括したフランチャイズ契約です。ちなみに、可児市文化創造センターが「地域拠点契約」を結んでいる劇団文学座と新日本フィルハーモニー交響楽団の客席稼働率は92.4%(09年実績)にもなっています。長岡リリックホールでは、「地域拠点契約」による文学座公演は毎年ソウルドアウトか、もしくはそれに限りなく近い集客率を記録しています。地域に拠点をつくることによって、確実に舞台芸術が根を下ろし始めている、と実感しています。地域にアーチストなどの創造的人材が滞在し、あるいは定住することが、まちを創造的にするという証左です。
したがって、今回の文化庁の概算要求にあるように「トップレベルの芸術団体や劇場・音楽堂による舞台芸術の創造発信を重点的に支援するとともに、地域の中核となる劇場・音楽堂からの創造発信を支援することにより、我が国の舞台芸術水準の飛躍的向上を図り、その成果を広く国民が享受できる環境を醸成し、『文化芸術立国』の推進に資する」という視点に、私は諸手を挙げて賛成です。進むべき方向は間違っていないと評価します。20年前に構想していたことに、少しずつ近づいているという感慨もあります。しかし、マーケットのある首都圏の創造型の公共劇場と地域を拠点とするそれとは、いずれ公的支援制度を峻別すべきではないかと思います。ボウモルとボウエンの『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』の吟味を待つまでもなく、舞台芸術は都市部でも大きな経済的・経営的な矛盾を抱えており、ましてや大きなマーケットを持たない地域では、なおさら有効かつ適正な公的な支援の仕組みが必要となるのです。
さらに、地域の劇場・音楽堂には、東京圏とは異なった公的支援の枠組みが必要である根拠があります。少し前にこの欄に、「地域では、演劇に限らず、舞台芸術を含めたアーツには社会政策的な要請があります。マーケットで戦うことを中核に据えなければならない東京圏の劇場・音楽堂とは、文化芸術の役割がまったく違うのです。非常に住民の生活に近いところで要請があります。あるいは潜在的な社会的ニーズが存在します。芸術的評価の高いものを制作したり、提供することはむろん当然で、言うまでもないのですが、あわせて地域社会の諸課題の問題解決のために劇場・ホールは草の根的な仕事をします」(『「劇場法」には、文化投資の明確な政策目的をうたった「前文」を』)と書きました。市場に対して先端的・先鋭的な舞台芸術を供給して舞台芸術の水準の高度化を主要な目的とする東京圏の劇場・音楽堂と、「地域社会に寄り添う」ことをミッションとする地域の劇場・音楽堂とは、おのずと経営の仕方も、事業の仕組み方も、すべてで位相が異なってきます。たとえば、アウトリーチやワークショップなどで目指すものが違っています。東京圏では将来的なアーチストや劇場人を養成する「人材育成型」が主たる教育普及事業なのに対して、地域では地域住民を対象とした「社会的包摂型」が大半となります。地域の劇場では、人々の文化権を保障し、生活課題の解決をする社会的な機関の意味合いが強くなるのです。これは、社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)政策の一環として劇場支援をしている英国の地域劇場の特徴でもあります。文化庁の言う「劇場が果たす役割の違い」が、両者には歴然としてあるのです。
また、当該区内からの観客がおよそ20%前後の世田谷パブリックシアターと、市内の顧客が49.5%(ちなみに、市外岐阜県内33.5%、愛知県内11.6%、他県5.4%)の可児市文化創造センターとでは、マネジメントのスタンスがまったく違います。そもそも、「立ち位置」が違っていて、「ミッション」も異なるものを、一つの支援制度で括ってしまうことに無理があるのではないでしょうか。それでも、14の「重点支援施設」で、東京都内の特別区(23区)内の劇場・音楽堂の補助率を3分の1として、地域の施設に対する2分の1と一線を画したのは文化庁の卓見といえますが、東京と地域にはこの程度では埋まらない「差異」があると言えます。将来的には別の制度を創設することが不可避と考えます。
概算要求の説明資料によれば、「我が国におけるトップクラスの舞台芸術の創造活動を行う劇場・音楽堂」と定義される「重点支援施設」は、最高8000万円までの支援で、14施設、総額5億6000万円。芸術監督及び専任のアートマネジメント人材と舞台技術の責任者の配置が要件とされており、過去3年間の実績で自主企画制作公演を10事業以上実施しており、教育普及事業を5事業以上やっていることも要件となっています。さらには、施設利用者が年間10万人を超えること、も要件です。「劇場・音楽堂が中心となり、地域住民や芸術関係者とともに取り組む特色ある優れた舞台芸術に関する公演、教育普及事業等を行う劇場・音楽堂等施設」と定義された「地域の中核施設」では、芸術監督への言及はありません。要件としては、事業規模が1000万円を超えることがあり、支援額は500万から最高5000万円までとなっています。
ただし、重点支援施設の施設利用者が年間10万人、という要件は少な過ぎるのではないでしようか。自主企画制作公演を10以上実施しており、教育普及事業を5事業以上やっており、諸室利用者もいるのですから、年間20万人はないと「賑わいのある劇場・音楽堂」とは言えないのではないでしょうか。ちなみに、可児市文化創造センターalaでは、フリースペースの利用者を含めると、およそ319,000人の来館者があります。劇場・音楽堂には、この「賑わい」が大切なのです。事業をやっていない時には閑古鳥が鳴いているような劇場・音楽堂は、文化芸術、あるいは劇場・音楽堂と住民の距離が遠すぎるという証左なのではないでしょうか。どれほど前衛的で、世界水準の舞台創造をしていたとしても、閑古鳥が鳴いているような劇場・音楽堂は、当該地域の人々の心にその成果が届いていないということなのです。欧米の優れた劇場・音楽堂は、午前中から非常に多くの人々で賑わっています。劇場や音楽堂のある生活を市民が楽しんでいることが窺われます。今回の文化庁の補助事業は、舞台芸術そのものへの支援ではなく、劇場・音楽堂へのサポートであることを決して忘れてはいけません。芸術団体支援とは、はっきりと一線を画すべきです。
あわせて将来にわたって論議しなければならないのは、「重点支援施設」で要件となっている「芸術監督及び専任のアートマネジメント人材」と、いわゆる「専門家」の定義です。「芸術監督」に関しては、新連載の『創客の劇場経営』の第三章「ベス・チャトーの奇跡の庭のように」に書いているように、たとえ非常勤であっても勤務実態としては年間120日以上がなければならないと思っています。そこで「芸術監督」に対する私の考えは詳しく述べています。参考にしてください。とりわけて、これまで「芸術拠点形成事業」で必置義務となっていた「芸術監督」への監査があまりにも杜撰で、「言ったもの勝ち」のところがあったので、これは改めて、厳しく規定し、査定すべきだと思います。芸術監督が、自身のアーチストとしての「芸術的野心」を果たすことに偏ってしまうと、地域住民は置き去りにされてしまいます。また、地域の人々に寄り添うことなしに、地域劇場や音楽堂のトップは到底務まりません。
それにも関わるのですが、私たちはほとんど検証することなしに「専門家」という言葉を使います。「専門家」さえいれば劇場・音楽堂が万全に動き始めるかのように、この「専門家」を使いますが、人材の集積している東京でさえ、プロとアマチュアの境界線が曖昧にして、不分明なように、この「専門家」もはなはだ怪しいのです。とりわけ、地域の公共文化施設の事業は、演劇、ダンス、クラシック、ポップス、寄席まで、広い分野を跨いでいます。ならば「専門家」とは誰を指すのでしょうか。「劇場法」でも、「専門家」という言葉がキーワードとして使われています。「専門家」さえ置けば劇場・音楽堂はうまく運営できる、というのは、私には幻想のように思えてならないのです。「専門家」を抱えたために大混乱をきたし、大失敗した事例もあるのですから。本当に「専門家」は、それほど打ち出の小槌なのでしょうか。何をもって「専門家」とするか、もう一度検証すべきではないでしょうか。
地域に拠点劇場をつくるという20年前の私の発想は、舞台芸術創造拠点であると同時に、地域社会の諸課題の解決に寄与する社会的包摂政策のセンター機能を併せ持つことで、健全な地域社会の形成のための拠点施設がいずれは必要になる、という問題意識から組み立てたものです。当時は演劇のことを主眼においていましたから12拠点程度と構想していましたが、これに音楽を加えると、およそ20程度の拠点施設は必要になるでしょう。これらは、舞台芸術創造拠点であると同時に、地域社会の将来的な不安を解決するための社会機関であり、あわせてアーチスト、アーツマネジャー、アーツマーケッター、コミュニティ・アーツワーカー、技術スタッフなどの人材育成機関でもあるべきです。各々の地方で、将来的に劇場・音楽堂で働きたいと思っている若い人々の受け皿となり、キャリアスタートの場でもあるべきだと思います。逆に言えば、欧米の大学に付随して設置されている劇場・音楽堂のように、キャリアのスタート地点であるからこそ、現場経験の研修の場として、創造拠点でなければならないし、またコミュニティ・プログラムの実施機関でもあるべきなのです。
海外に行けば、たいていの大きな町には劇場か音楽堂があり、その町にはアーチストが滞在しており、あるいは定住しています。そのことが、町に活気をもたらし、創造性をもたらしています。地域社会の政策課題には、劇場や音楽堂が積極的に関与して、創造的な解決の糸口をつくっています。そのいう事例を日本の社会の仕組みに合わせて構築すべきなのではないでしょうか。地域に拠点劇場をつくるという発想は、東京圏に拠点劇場をつくるという発想とは、まったく違うミッションを持つものであることはこれまで述べてきたとおりです。国は、トップレベルの舞台芸術創造のためにだけではなく、コミュニティ・プログラムによる中長期的な視野に立った社会コストの縮減のためにも、地域に拠点となる劇場・音楽堂を、日本の文化政策のグランドデザインに沿って、必要な支援すべきなのではないでしようか。