第87回 健全な将来社会への公共投資 ― 文化政策の舵を大きく切る。
2010年5月29日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
アーラが昨年度にニッセイ基礎研究所に委託していた「可児市文化創造センター 経済波及効果等に関する調査研究」の中間報告がでました。経済波及効果は10億700万円で誘発係数は1.47、管理運営・主催事業に限ると1.54です。関連する新聞記事の掲載紙は193件で広告掲載基本料金に換算すると約5500万円、あわせて人件費を算入すると総計12億2200万円で、指定管理受託料に対する誘発係数は2.57となりました。この数値がどの程度高いのか、低いのかは事例が少なくてよく分かりません。公共事業の誘発係数が1.31前後であるので、低いというわけではなさそうです。同じニッセイ基礎研究所が行った北九州芸術劇場の調査があり、管理運営・主催事業の誘発係数が1.44なので、可児市のような人口10万1000人の小さな町にしては「大健闘」というところでしょうか。
顧客アンケートでは、「総合的なアーラへの満足度」で、86.6%が満足していると答え、WSの参加者の満足度は100%でした。アーラでの舞台鑑賞の頻度では、年2回までの「ライトユーザー」が47.3%、年10回までの「ミドルユーザー」が38.6%、月1回以上の「ヘビーユーザー」6.0%となっています。おそらく他館と比較して「ミドルユーザー」の比率が高いのは、「パッケージチケット」によるものと考えられます。
これらの最終報告書が出ればウェブサイトにアップする予定ですので、研究者の方々は参考にしていただければ幸甚です。
経済波及効果のような定量的評価も大事ではあるのですが、教育や文化は、実のところあまり定量化には馴染まないと思っています。であるのに、何故あえて調査をしたのかと言えば、洋の東西を問わず、企業からの資金調達や行政への説得力としてこの種の数値が用いられるのが劇場・ホール、美術館、博物館などの常道だからです。数字だと一定程度の客観性が担保できるからなのでしょう。
しかし、本当に大切なのは、文化芸術や教育は「未来への投資」であるという点です。このエッセイの前回『日本人は幸福か ― GNH(国民総幸福度)と私たちの仕事』と、前々回の『年々息苦しくなっていく日本の社会に処方箋はあるか』で述べたような時代の変化に対する処方箋としての効用の方こそが文化芸術ならではの社会的価値と言えます。教育や先端科学と同様に定量化するのが非常に困難な分野なのですが、それでも米国の各州にある芸術支援担当部局(State Arts Agency)の連合体である全米芸術支援会議の業績評価指標には、「少年犯罪における芸術参加の効果」、「危険行動(薬物使用等)に関する芸術参加の影響」などが定性評価指標としてあります。また、英国の、現在は中央の芸術評議会に統合されましたが、かつての地域芸術評議会の評価指標には「当該団体の差別や不利な立場に対する認識及びそれらを取り除くために積極的な姿勢をとっているか否かを審査する」という項目があります。いずれも、芸術団体や劇場・ホールの社会的評価に関わるものです。たとえ芸術であっても、社会から超然としてあるのではなく、公的資金が拠出されている以上、社会的にさらされてこその文化芸術であるという支援の姿勢がうかがえる指標といえます。
これらの評価指標が文化政策を執行する側にあるということは、欧米では文化芸術支援を社会的な投資と考えていることを意味します。ひるがえって、私たちの国では、文化芸術支援は恩恵的なものであり、経済情勢によっては真っ先に「仕分け」すべきムダであると一般的には認識されています。繰り返しますが、教育や先端科学と同様に文化芸術という「未来への投資」を怠る国は、将来世代へ大きなツケを負わせることになります。人間関係や、ひいては社会の劣化というツケです。それを回復に向かわせるには、膨大な時間と多額の予算を必要とします。日本という国は、OECD(経済協力開発機構)加盟の先進諸国と比べると教育、文化、先端科学に対する公的支援は低くとどまっていると言わざるをえません。「この国をどういうかたちにしようとしているのか」というメッセージが、前政権でも、今の政権からも明確な輪郭を持って見えてこないのです。かろうじて「子ども手当」や「高校無償化」からは、所得格差を教育格差に転化させないという「政治の意志」はうかがえますが、「対症療法」でしかないように私には思えます。大切なのは、もっと大きなグランド・デザインのなかに文化芸術、教育、先端科学を位置づけて、国民に将来する「私たちの国のゴール」を明確に示すことではないでしょうか。
少子高齢化社会で膨らみ続ける社会保障費はどうするんだ、という声が聞こえてきそうですが、社会保障は、前回のエッセイにかいたように自己責任の「応益負担」から、ヨーロッパ型の所得再配分によるセーフティネットを「応能負担」で設けていくに方向にシフトすることで、充分に対応できると考えています。日本もかつては「互助・公助」の生きる「応能負担」の国だったことを思い起こしてください。それに加えて、前回のこの欄で触れたように、文化芸術の社会的効用を社会の隅々にまで行き渡らせることによって、「安心・安全で健全な社会形成」を目指すべきではないかと思っているのです。
文化芸術は可処分所得の大きな、時間的にも余裕のある階層の独占物では決してありません。社会がぎすぎすときしみ、人間のこころがザラザラとしているときこそ、文化芸術の社会性が問われるのです。私たちの仕事は、すべての人の「文化権」を視野に入れてマネジメントされるべき社会的価値財であると考えています。文化芸術には、住む場所のない人に家を造ってあげる力はありません。職を失った人の就職先を探し当ててあげることもありません。しかし、「出会い・語り合い・つながる」という他者との関係づくりのプロセスで、もっと生きよう、もう少し頑張ってみよう、という「生きる力」を湧きあがらせる確かな力を文化芸術は本来的に持っています。その潜在力をコミュニティの健全形成に生かさない手はない、と私は強く思い続けています。
アーラの劇場マネジメントには、そのモデル・ケースを作り上げようとする方向性が強く打ち出されています。学校、フリースクール、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、医療施設、多文化施設、地域集会施設へのアウトリーチやワークショップをまとめた「アーラまち元気プロジェクト」は、昨年度実績で267回、今年度からは14施設ある地域の公民館へのアウトリーチを加え、コンテンポラリー・ダンスによる「高齢者の健康保持・体力維持のための事業」も視野に入れているので、およそ280回を超えるようになります。これがモデル・ケースづくりの柱の一つとなっています。
私は、文化芸術に内在するコミュニケーション機能を社会に向かわせることは、コミュニティの崩壊、コミュニケーション不全が顕在化する社会で、喫緊の行政課題であると思っています。そして、私たち地域の公共劇場は、地域社会の健全化というミッションを完遂するために地域社会にコミットして仕事をしていかなければならないのです。なぜ、文化芸術、とりわけて舞台芸術のスキルがコミュニティ形成に強力な力を発揮するのかは、従来まではいささか情緒的であったり、アプリオリに根拠の薄い公共性を主張したり、きわめて主観的で我田引水的な論理でしか説明されてこなかったのですが、今後は脳科学研究、とりわけ「社会脳」の知見によってそれらは明らかになるに違いないと思っています。その研究が進めば、文化芸術の社会的必要性がはっきりと証明できると考えています。近々にその試論的なものをこの場で展開できればと思っています。これが文化政策の位置づけに一石を投じて、広くコンセンサスを得られれば、「経済波及効果」のようなものは、劇場・ホールの社会的価値を説明する上できわめて補完的なものとなるでしょう。