第85回 日本人は幸福か  GNH(国民総幸福度)と私たちの仕事。

2010年5月1日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

派遣切りにあった人たちのドキュメンタリーをテレビで放送していました。彼はホームレス状態で、故郷に帰るに帰れないとインタビューに答えていました。その50代の男性の口から「自己責任だから」という言葉が出たことに、私は驚きました。一瞬、時間が止まったような錯覚に陥りました。自分の置かれている境遇が「社会のひずみ」からのものではなく、「自己責任だから」と言い切ってしまうことに、私はある種の怖さを感じました。

GNH(国民総幸福度)ということが言われ始めています。英国のレスター大学の社会心理学分析の研究家エイドリアン・ホワイト氏が提唱・調査分析をした指標です。日本では、つい最近、仙石国家戦略大臣がこのGNHを言い始めています。「物の豊かさより、心の豊かさ」と施政方針演説で当時の大平総理が言ったのは、70年代後半のことです。それから30年もたって、GDPからGNHへのシフトが言われているのです。私個人の考えでは、20世紀にはじまった経済至上主義(何でも経済的な効率性や経済的な尺度ではかる考え方、人間の価値までも偏差値ではかってきた)は、とうに終息していると思っているのですが。

これまで一国の国力はGDP(国民総生産)という経済指標で語られてきました。ちなみに日本のGDPはアメリカに次いで世界第2位です。もっとも今年中に中国に逆転されるだろうとの観測がありますが。ところが、調査対象国178ヶ国中、日本の幸福度はなんと90位だったそうです。GDP第1位のアメリカは23位です。ドイツは35位、英国は41位、フランスは62位、中国は82位、ロシアに至っては167位だそうです。GDP第2位で、GNHが90位という日本のバランスの悪さに、私は違和感を覚えます。ちなみにGNHの第1位はデンマークです。

その違和感は、冒頭の「自己責任だから」と呟いた男性の言葉と無関係ではない気がしています。国税庁の報告では、2002年2月からリーマン・ショック前まで続いた「いざなぎ超え景気」で実質経済成長率は微増でしたが右肩上がりであり、企業の純利益(内部留保)はすさまじい勢いで増加したのに対して、給与所得は9年間連続で減少したそうです。企業の社会保障費負担を含む人件費は、企業の純利益率に反比例して、小泉政権が発足した01年から急速に減少しています。この「景気回復」の主な原因は輸出の拡大にありますが、あわせて厳しいリストラも、その原動力となっているのです。労働者派遣法の改正によって、製造業への派遣労働が認められ、固定費削減をはかるためのリストラに大鉈がふるわれたことは記憶に新しい出来事です。これは「人件費」の削減です。それは、企業の「社会保障費負担の軽減」を意味します。また、派遣法の改正前後から「自己責任」という言葉が政府要人から発せられるようになったと記憶しています。改正派遣法に、セーフティネットや派遣先企業の責任を明記しなかったことにも、「自己責任」の考えが貫かれていると私は思います。派遣法の改正の基礎となった答申をつくった「規制改革会議」の委員たちにとっては、「人間としての尊厳を守る」ことよりも「市場と経済規模の拡大」の方が重要だったに違いません。派遣社員の給与は、人件費ではなく「物件費」なのです。「物件費」― お金に色はついていませんが、哀しくなります。

日本人は本当に幸福なのでしょうか。「自己責任」と言わされてはいないでしょうか。思い込まされてはいないでしょうか。格差社会が固定化しつつあります。所得格差だけではなく、教育格差も進んでいます。所得格差が医療格差や福祉格差、教育格差を生み、これらの格差が確実に将来への国民不安を拡大させています。私たちが大切な「日本」にできることは何なのか、国民一人ひとりが考えなければいけない時期に来ていると私は考えます。

先にGNHの第1位はデンマークと書きました。このデンマークの、税負担、社会保険料などの総額である国民負担率は72.5%です。所得の72.5%を政府に納めるということです。(実は「国民負担率」という言葉は日本以外の国にはありません。また、この「国民負担率」が40%未満の国は、OECDの先進国諸国では「自己責任の国」アメリカのほか、韓国、スイスなどと日本くらいです。)「高福祉・高負担」です。しかし、デンマークの国民の幸福意識をあらためて見ると、あまりの「重税感」にあえいで国民は不幸になる、という「国民負担率」に対する従来からの主張が、いかに根拠のない、「小さな政府」を志向する為政者たちによって捏造されたものであるかが分かります。

スウェーデンやデンマークやフランスの国民は、高負担をしているのに幸福度が高いのは何故なのでしょうか。それは、事業主が被雇用者の社会費用を手厚く応分に負担しているからなのです。医療も学費も福祉も、無料か手厚く保障されているのです。「自己責任=応益負担」ではなく、持てる者が相応な高い負担をする「応能負担」をしているからです。日本では、企業の収益を上げて、GDP(国内総生産)を成長させることが国民の幸福に結びつくと信じ込まされてきたのです。そのために事業主の負担を軽減して、国民の実質負担を重くする(=自己責任)ようになっているのです。小さな政府を志向する為政者の口癖が「自己責任」なのは言うまでもありません。「小さな政府」とは政府の責任放棄です。医療費を抑制し、福祉費を削減することで、日本は将来不安に怯える圧倒的多数の人々の国になりました。「自己責任論」の裏側には「自分さえが良ければ」という考えが潜んでいることに気づかなければなりません。

本当に日本は劣化の一途をたどっているのでしようか。高い技術力を背景にしたGDP世界第2位の企業の生産力が、国民の幸福には結びついていないのです。GNPの成長が国民の幸福に結びつくから「痛みに耐えろ」と言うならば、所得の再配分をきちんとする制度を作らなければ「だまし討ち」に等しいのではないでしょうか。企業は「社会の公器」と言ったのは松下幸之助さんです。その伝に従えば、近年の日本の企業は「社会の公器」であることを忘れてしまったようです。私が子どもだった昭和20年代後半から30年代にかけては、経済的にはどの家も決して豊かではなかったけれど、というよりとても貧しかったけれど「幸福度」は高かったのではないでしょうか。「自分さえが良ければ」という考えはなく、互助の精神が、まだまだ生きていたからなのではないでしょうか。最近盛んに言われている「コミュニケーション不全」などと、まったく無縁な時代でした。地域の皆がつながっていたし、「きずな」が生きていたからでしょう。幸福は「つながる」ことから生まれる、決して大袈裟ではないと思います。私たち文化芸術に携わる人間のできることは、その「きずな」をつくる仲立ちをすることです。この時代にあって、いっそう重要な仕事になりました。誇りを持って仕事に邁進すべきではないでしょうか。ある意味で「きずな」は、政府からの給付金などよりも、よほど将来不安を軽減するのではないでしょうか。