第74回 文化ボランティア  その落とし穴と、可能性の大きさ。

2010年2月3日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

「全国文化ボランティアコーディネーター会議」がアーラで開催されました。私も15年前の阪神淡路大震災直後に芦屋の教会に入って救難物資を被災した人たちに手渡しをするボランティアをした経験があります。その時に「救難物資はあくまでもコミュニケーション・ツールで、お渡しする際にお声掛けして被災者の溜まったストレスを吐き出してもらうようにして下さい」という若いボランティアコーディネーターに言われた言葉は、忘れられない教訓として、その後の私の行動の際の突っかい棒になっています。その後、「神戸シアターワークス」という演劇的手法で仮設住宅の中高年者のコミュニティ形成を促進して孤独死のリスクヘッジをつくり、さらには被災した子どもたちの心のケアをすすめるボランティア団体をつくり4年間神戸で活動をしていました。

災害ボランティアや福祉ボランティアにくらべて、文化ボランティアは、モチベーションを維持するのがとても難しいものです。目の前に困っている人、苦しんでいる人がいれば、ボランティアの使命感は常に高いままに維持できます。健全な精神の持主ならば、生きることに困難を感じている人を目の前にすれば、おのずと手助けをするでしょう。文化ボランティアは、その点で、大変難しいところがあると言えます。多くの場合、目の前には音楽や演劇を楽しんでいる人しかいないのです。使命感はおのずと減速してしまいます。瘦せ衰えていきます。そうなると、多くの文化ボランティアは「お手伝い組織」か「指示待ち集団」になり下がってしまいます。「文化や芸術が好きだから」、「楽しいことが好きだから」というだけの参加理由が大勢を占めるようになってしまいます。それでは活動が活性化することは絶対にありません。

もう一度考えてみましょう。文化芸術は「娯楽」というだけのものなのでしょうか。人間が生きるうえで「余剰」と言えるものなのでしょうか。むろん、そういう側面も持ってはいます。ただ、それだけではないと私はこの20年間思い続けています。

800年ほど前の神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ二世は、とても残酷な実験をしています。全国から身寄りのいない新生児をたくさん集めて、ある実験をしたのです。人間には、食欲や睡眠欲や排泄欲や渇きをいやす水分を求めるなどの「生理的欲求」があります。フリードリッヒ二世は、新生児たちの「生理的欲求」を充たすように侍女たちに命令しました。彼女たちは生まれて間もない新生児たちに、乳を飲ましたり、心地よい睡眠環境を整えたり、風呂に入れたり、下の世話をしました。しかし、この実験が残酷なのは、「言葉をかけてはいけない」、「声を上げても反応をしてはいけない」、「笑顔を見せてはいけない」、「触れてはいけない」という厳しい条件を世話役の彼女たちに課したことです。フリードリッヒ二世は、そうして育った子どもたちが最初に話す言葉に強い関心を持っていたのです。当時は、そういう条件で育つと「神の言葉」を話すようになると信じられていました。ところが結果として、新生児はすべて死んでしまったのです。パルマの『中世年代記』という書物に書かれているそうです。

数百万年前から人間には「関係性欲求」というDNAが受け継がれており、いくら「生理的欲求」を充足させても「関係性欲求」を充たさなければ生きてゆけないのです。人間が「社会的動物」と言われるのはそのためです。「関係性欲求」を充たし、亢進するのには、相手の考えや行動を想像したり、さまざまに入り組んだ複雑な情報を組み込んで相手の思いに気を配ったりする能力が求められます。その「やりとり」と「想像力」の所産のひとつが、文化芸術なのです。したがって、文化芸術に関わるということは、人間の「関係性欲求」=「社会性欲求」を充足させる手助けをすることを意味します。

それが、そのまま文化ボランティアに結びつく、というのではありません。20世紀は「戦争の世紀」でした。そのために科学技術が急速に進歩して、人間の生活は豊かになり、経済的にも充たされるようになりました。しかし、獲得したものも大きいのですが、そのために失ったものもまた大きいのです。20世紀は、人間の価値を「経済的な尺度」で考える時代でした。子どもを経済的な将来性で輪切りにする「偏差値」はその典型例でしょう。

推理作家の大沢在昌氏は、21世紀は「犯罪の世紀」になる、と断じています。それは進歩と豊かさの恩恵を受ける一方で「関係性欲求」が損なわれ、人間の社会的存在性を危うくさせている結果として「犯罪の世紀」なる、という意味だと思います。現代は理解不能な犯罪にあふれています。他者の存在を認知できないような犯罪が横行しています。犯罪とは言えないまでも、社会をともに形成する人間として許せない行状が普通にまかり通っています。日本の社会は少しずつ劣化しています。「コミュニケーション不全」が近年急に叫ばれて始めていますが、それはいま始まったことではありません。「校内暴力」や「いじめ」が顕著になった70年代半ばから、人と人とを結ぶ回路が細くなり、衰弱し始め、絶たれてきたのだと私は考えています。

だからこそ、いま「文化芸術」なのです。経済的に豊かで、余暇時間があるときに「文化芸術」なのでは決してなく、人間の心がザラザラして軋み、人間と人間の関係がギスギスと歪んでいる時にこそ「文化芸術」の出番なのです。「関係性欲求」を充足へ向かわせる「文化芸術」は、今世紀においては「ラストリゾート」(最後のよりどころ)なのです。

その「ラストリゾート」に関わっているという使命感こそ、文化ボランティアの人たちに持ってもらいたい行動の原点なのです。社会の劣化は目には見えません。見えないから使命感を瘦せ衰えさせるのではなく、「見えないものを見る目を」、「聴こえない音を聞き取る耳を」、私たち文化芸術に関わる者は持たなければならないと思うのです。近くを見るのではなく、遠くを見るならわしを取り戻すべきではないかと考えます。私たち文化に関わる人間は、21世紀を「犯罪の世紀」にしないという使命(ミッション)のもとで「感じとり」、「思い」、「考え」、「仕組み」、「行動」すべきではないでしょうか。「お手伝い組織」に堕し、「指示待ち集団」に陥るのは、あの事業仕分けの民間委員をした市場原理主義者たちと同じ、文化は市場から供給されるもの、人間にとって贅沢なもの、という考えに囚われているからにほかありません。もう一度、人間の「関係性欲求」と関連させて文化芸術の社会的役割を考える必要があるのではないでしょうか。