第72回 国の文化政策が大きく舵を切る。

2010年1月14日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

国の文化政策が大きく変わろうとしています。東京に過度に一極集中している文化芸術の人的資源や技術資源(とりわけ演劇の一極集中は95%を超えていて甚だしい)を活用して、地域の創造力を高め、地域の良質な創造環境の整備に利用し、地域を文化芸術の発信点とする方向に、来年度の文化庁予算から舵を切り始める様子がうかがえます。これも民主党政権になった産物、地域主権の政策目標の「文化芸術版」と言えそうです。

これまでは、東京で創られた舞台や演奏会を地域の公共ホールが購入して、ほとんどが一日一回だけの公演をするのが一般的でした。比較的大手の劇団は、地方都市にある演劇鑑賞会で数回の公演をするのが、東京での赤字を解消して利益を捻出する方策でした。演劇鑑賞会は会員制の団体ですので、広く市民に鑑賞機会を提供するものとは言い難いシステムになっています。いずれにしても、地域は東京の芸術団体にとって、単なるマーケットとして機能しているに過ぎなかったのです。

可児市文化創造センターでやっている「アーラコレクション・シリーズ」のように、東京の俳優・スタッフが地域滞在をして作品創造をし、東京や全国に発信するのは、ごく稀な事例と言えます。東京のプロフェッショナルの俳優と地元の俳優が共演するというタイプの「一部滞在型」まで枠を広げても、それほどアーチスト・イン・レジデンスによる製作事業は多くはありません。演出家だけの滞在型製作事業、演出家と舞台監督だけ滞在の事業まで拡大すると、かなりの事例にはなりますが、正直言って、「そんな名前の演出家、聞いたこともない名前だな」とその成果に疑問を禁じえないものも多く散見されます。「東京から来ていただく」ということだけに意味を感じているような地域の公共ホールの卑屈な姿勢は、ただちに改めるべきと思っています。

そんな地域を新しい文化政策の方針は、大きく変えることになるだろうと考えています。「アーラコレクション・シリーズ」のようなプロデュースとは違って、この政策スキームでは、東京の芸術団体が地域に滞在して作品創造をして、それを東京に発信することになるからです。劇団を例えにすると、従来は東京で作っていた定期公演を、地域に滞在して製作することになります。その舞台を東京で定期公演として上演することになるのです。そのために、内閣官房参与になった平田オリザ氏によれば、6千万円から8千万円程度の大きな額の補助金を地域の製作能力のある公共ホールに落とすことになるようです。本当にそれだけの補助があれば、年間2本から3本の作品創造が出来るようになります。あるいはそこまでの額ではないにしても、年間1本は製作できるような手当は最低限なされることは間違いなさそうです。

今秋には「劇場法」が超党派の議員立法で制定されると予想されています。これは、従来の公共ホールを三層に分けて、一層目が住民の集会施設的なホール、二層目は従来と同様の買い公演による自主事業と市民参加型の事業をするホール、そして数は少なくなりますが製作能力のある「劇場」となります。「劇場」と認定されるための要件は、芸術監督やプロデューサー、あるいはそれに準ずる管理職員がいて、さらに教育プログラムやコミュニティへのプログラム・サービスを統括する担当者が配置されている、その二点となります。私の考えでは、それらの役職にある者は、常勤職員であるべきで、従来の文化庁の「芸術拠点形成事業」のように非常勤や名誉職的な館長、役所から派遣されている人間では要件を満たしていないと判断すべきです。日常的に劇場にいて市民と同じ目線で関わり合っていないアーチストやマネジャー、あるいは専門性のない人間であっても、現行の「芸術拠点形成事業」では「要件」を満たしていると認めていますが、地域性を考慮してプログラミングできなければ、「劇場」の要件を満たしているとは私には思えないからです。「芸術拠点形成事業」の審査委員をしていたのでよく知っているのですが、ひどいのになると同じ作曲家や指揮者が二館、三館の非常勤芸術監督を務めている例さえあるのです。その程度の「腰掛け」的な人間に、芸術監督やプロデューサー、劇場総監督が勤まるはずもありません。

上記の要件を充たし、そのうえで製作能力のある公共ホールは、全国でも十館程度あればよい方だと思います。理想的には、北海道から九州・沖縄までの各地方に二館から三館あればよいと思っています。つまり、全国に三十館ていどの「劇場」があれば十分ではないか考えるのです。しかし、それでさえ「理想」と言えます。六〇から八〇という説を唱える向きもありますが、能力もノウハウも持っていない公共ホールが「劇場」に認定されることで、現場に大混乱が起きるのは火を見るより明らかです。職員の能力をはるかに超えることが要求されれば、現場は当然ですが破綻しますし、そのような現場から良い作品は生まれるはずもありません。迷惑を被るのは最終受益者の観客です。多くの公共ホールにチャンスを与えることはマネジメント人材の拡大のためにも大切ですが、滞在型の製作事業をマネジメントするのは大変難しいことです。やはりきちんと人材や保有能力を評価して厳しく選定すべきと考えます。

アーチストが地域に滞在するということは、まちに素晴らしい効果をもたらします。滞在して生活すれば、当然お金が地域に落ちることになります。したがって、経済波及効果や雇用効果が当該地域に発生します。滞在するアーチストが学校や福祉施設、医療機関などにワークショップやトークで出かけることも要件となるでしょうから、まちの人々のあいだに「創造性」や他者への「思いやり」が生まれ、風通しのよい人間関係が形成されるでしょう。「まち」とはまさしく人間関係なのですから、まさに文化のまちづくりです。短期間で結実するとは思えませんが、マーケティングの能力次第では、その果実は確実にまちに豊かさをもたらすでしょう。

課題も沢山あります。可児市文化創造センターでは、毎年「アーラコレクション」と称した創造発信事業を、東京からのアーチストやスタッフの地域滞在で行っています。その意味では、アーラには人材とノウハウの蓄積は起こりつつあるのですが、「アーラコレクション」でいつも問題となるのは、技術集積と人材集積が、たとえ大都市である名古屋であってもひどく欠如していることです。展示会程度のパネルをつくる大道具製作会社はありますが、演劇の道具をつくれる会社はありません。同様に、名古屋ですと西川宗家による「名古屋踊り」をはじめとする舞踊衣装の会社はありますが、東京のように演劇の衣装をリースできる企業体はありません。こちらの望む衣装がないこともありますが、併せて舞踊衣装や婚礼衣装の場合の積算と、演劇用衣装会社の積算は根本的に違っていることも大変な問題です。驚くほどの価格差異が生じます。また、舞台や稽古を仕切れる舞台監督が地域にはいません。現在公共ホールに配属されている委託職員は管理を専らとすることを忘れてはならないでしょう。当然と言えば当然なのですが、東京と比べれば、大阪や名古屋のような大都市でも、演劇製作の機会はほとんどゼロなのです。東京から来る引っ越し公演の舞台仕込みをする腕利きのスタッフはいても、ゼロから舞台を組み上げることのできるノウハウはまったくないに等しいのです。さらに、舞台美術の小割りや垂木などの材料の寸法が各地方で違っていることも、今後何らかの問題となる可能性を孕んでいます。

幸いなことにアーラは相当な広さのワークショップ(叩き場)と、家を建てられるほどの工具を備えています。道具を叩ける技術者(棟梁)を東京の製作会社から派遣してもらい、可児市に滞在して、アーラの技術を持ったスタッフと道具づくりをしてもらう方向になっています。価格的には、東京の製作会社に丸投げするのと大差はないのですが、経済波及効果等を考えれば、可児市でつくるべきだと考えています。ただ、アーラのような設備と器材を持っていない公共ホールがほとんどですので、この課題にどのような解決策を見出すかが、今後、近い将来にシフトチェンジするだろう文化政策で公共ホールに課せられる重い宿題となります。技術移転や人材集積はそう簡単にできるものではありません。十年、二十年のスパーンで解決策を探らなければならない障壁であると考えられます。

ともあれ、舵は切られるようです。賽は投げられんとしています。従来の事業スキームが百八十度転換することですから、初めからうまくいくはずもありません。幾重にもある課題を見据えて、ひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。トライ・アンド・エラーは致し方ありません。エラーしたあとの学習能力があるか否かが問われることになります。