第63回 「たんぽぽの家」の人々。
2009年11月3日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
可児から新潟県・長岡市に新幹線を乗り継いで東京経由で行きました。翌日、早朝の新幹線で可児に戻って、5時間だけいて仕事をやり、再び東京に向かって翌日一日と次の日の午前中、岸田國士小品選の仕事で動き、午後には奈良の「たんぽぽの家」でセミナーをやるために新幹線と近鉄を乗り継いで16時頃に西ノ京駅に向かいました。可児から東京に戻るときに、通路側に座っていたのですが、誰かが通るたびにその人が起こす「風」に悪寒を感じて、手先がキンキンに冷えて、どうなる事かと翌日以降の日程を案じていました。もう一歩も動けない、と思えるほど身体は鉛のように重く、痺れ、気持ちは焦りまくっていました。
こういう時に人間っていうものは、なかなか優しくはなれません。ともかくも這ってでも下北沢に戻って、夜遅くまで営業している行きつけのマッサージ店で身体だけでもほぐしてもらおうと電話をしました。「予約でいっぱいで今日はちょっと、明日なら予約できます」。「いますぐにだよ、明日じゃ駄目なんだ」と心の中が瞬間湯沸器になりました。喉元まで言葉が出かかっていました。「しょうがない、下北沢まで帰って行きつけの焼肉屋でユッケとニンニクだぁぁぁ」と心は決まりました。
重いキャリーバックはともかく家に置いて、スーツを脱いでジーパンとジャンパーに着替えて、「焼肉モード」のファッションになって出かけました。階段を降りて地下にあるその店に入ったら、いつもと様子が違っていました。奥から店長が出てきて「すみません、十時から貸し切りなんです」。「聞いてないよぉぉぉ」と心の中で叫び声がこだましました。わずか30メートルしか離れていないその店に出かけるにも「勇気を振り絞る」状態で、しかも階段まで下りたのに、それはないだろうという怒りというより虚脱感。身体は血糖値が高い状態、と言っても分かりませんよね。怒りとも虚脱感ともつかない心が表情にあらわれたのでしょう。店長は怪訝そうな物腰で「すみません」と謝っていました。焼肉くらいで虚脱感を覚える人間なんて、まぁそうは居ないでしょうから。こういう時の人間って、なかなか優しくはなれないものです。コンビニでチゲ鍋うどんを買ってニンニクを放り込んで食べて焼肉の仇を討ち、長風呂に入ってマッサージの代用にして、何とか翌日には体調を立て直しました。
午後の新幹線はガラガラで、ゆっくりと京都まで眠って行きました。そこから近鉄特急に乗って大和西大寺駅で各駅停車に乗り換えて、西ノ京駅に降り立ちました。大和路を堪能したいと思っていたので、近鉄の車中ではずっと車窓に過ぎる風景を見ていました。葉が落ちて、赤ちゃんの拳くらいの柿の実が赤く熟れてたわわになっていました。この柿の木の様子が、まことに大和路に似合うのです。とても枯れた風景で、京都とは違った古都の風情があります。
西ノ京駅には「たんぽぽの家」の岡部太郎君が迎えに来てくれていました。彼は群馬県出身の好青年で、今年から始まったアーラでの「エイブルアート展―障害は個性だ」を中心的に進めてくれている人物です。多摩美術大学の出身ですが、途中一年間休学して「たんぽぽの家」で仕事をしていたそうです。大学の先生には「多摩美で休学すると戻ってこないのが通例」と反対されたそうですが、自分の意見を通して、しかもちゃんと多摩美では初(?)の復学を果たして卒業したのですから、好青年の外見の割にはかなりの頑固者とお見受けしました。
車で10分くらいの小高い丘の上に「たんぽぽの家」はあります。5年前に新築したそうで立派な建物です。岡部君は車を置きに行って、私は作業所などから施設に戻ってきた人たちでにぎわう建物の中に一人で入りました。「こんにちは」と声を掛けると「こんにちは」といくつもの「こんにちは」が帰ってきます。その中に山野将志君がいました。アーラの「エイブルアート展」で実際に絵を描いて見せてくれた、あの彼です。将志君は私の顔を見るなり、少しくぐもった声で「どうして来たの、何で来たの」と声をかけてくれました。私たちは再会を祝して固く握手をしました。彼は一級のアーチストですが、なかなかお茶目なところのある愛すべき人間です。私が職員の皆さんを対象にセミナーをやっている時、突然ドアが開いて、『スターウォーズ』の暗黒卿ダースベーダーの被り物をかぶって顔をのぞかせたりもしました。サービス精神いっぱいのアーチストです。
東京からエイブルアート・ジャパンの太田好泰さんがみえていました。アーラでの「エイブルアート展」を実現しようと最初に私が電話したのがこの太田さんでした。長身の偉丈夫、セミナー終了後にこれぞ奈良町という風情の民家風料理屋で食事をした後、理事長の播磨さんの行きつけのうどんやに行くことになり、20分ほど路地を歩いたのですが、私の重いキャリーバックを転がさずに片腕で持ったまま運んでくれました。彼は19歳の時一年だけ「たんぽぽの家」で仕事をしていたそうです。そのあと東京に出て「エイブルアート・ジャパン」の前身となる「日本障害者芸術文化協会」を94年に設立しています。30代のときに一時「たんぽぽの家」に戻ってきたそうです。播磨さんに言を借りると「何か問題があるとここに帰ってくる」のだそうです。どこで彼と知り合ったのかはまったく不確かなのですが、彼に言わせると私が国際交流基金のシンポジュウムのパネリストで出ていた時に名刺交換をしたとのこと。私はもっと前から知り合いだった気がしているのですが。心優しき偉丈夫です。
今回の私のセミナーの窓口となっていただいたのが財団法人たんぽぽの家/芸術とヘルスケア事務局の森下静香さんです。きびきびとした動きでいかにもやり手とお見受けするのでが、眼の奥にはいつも微笑みがあって、人間に対する優しいまなざしが印象に残る方でした。初対面の折に、どこかで会っている印象を持ったのですが、市民ミュージカル『あいと地球と競売人』の演出をしてもらった金沢の10シーズの黒田百合さんに醸し出す雰囲気がそっくりなのです。お聞きしたら、なんと出身が石川県の能登。大学は新潟だったのですが、いまでも石川には実家があるそうです。石川の女性は皆、活動的で、しかも人間に対して優しいのかなと思ってしまいました。「10年いても道をおぼえない」と運転していて自分で自分を呆れるように言っていましたが、そのあたりも黒田さんによく似ているな、と思いました。
若い藤井克英君は、アーラの「エイブルアート展」の時に設営に来てくれた元気者です。奈良の南部出身で、「たんぽぽの家」では数少ない地元出身者の一人です。「やりたいことがあるのに施設長には言いにくい」と平然と私たちの前で言い放つ元気者です。大阪芸術大学を出て「たんぽぽの家」に来たそうで、芸術家肌の一途さがあるのかも知れません。障害者福祉の世界に彼のような元気者がいることは良いことだと思いました。
播磨靖男さんは元毎日新聞の記者で、「たんぽぽの家」の創立者です。播磨さんは「エイブルアート(可能性の芸術)」の命名者であり、運動の推進者です。芸術家としての教育を受けていない者のアーチストとしての活動を海外では「アウトサイダー・アート」と呼称され、障害者芸術もまたその中に分類されていました。播磨靖男氏の最大の功績は、それを「エイブルアート」と名付けて再定義したことにあります。そのムーブメントはすでに15年を超えて、多くのアーチストとしての才能を発掘し、驚くべき作品群を多く世に送り出しています。衛さんならこの店が好きだろう、と猿沢池の裏路地にある奈良町の民家を改造した料理屋を用意していただきました。お庭が枯れていて素晴らしく、戸袋のところの大きな蜘蛛の巣までが趣のある造作のひとつになっている感のあるお店でした。料理も素朴な味わいの中に「仕事」がきちんとされていて、なかなかの逸品ぞろいでした。この播磨さんのホスピタリティには恐れ入りました。話題は豊富ですし、博学を感じさせる職員との受け答え、「大人」(たいじん)の雰囲気を漂わして「さすが」と思わせます。お酒がお好きなようで、休肝日でもノンアルコールのキリンのFreeをお飲みになるそうです。
「たんぽぽ家」の1階は三つのアトリエと一つのギャラリーで構成されています。絵画のアトリエ、染色と機織りのアトリエ、陶芸のアトリエ、それぞれに個性のある作品が制作されていました。二階の事務所に入ると、入口に大きなブルーの「木」が立っています。「何なんだろう」と見上げているだけで五分くらいは経ってしまうほど不思議な「木」です。そこで沢山の職員が働いています。「たんぽぽの家」には穏やかな空気が流れています。障害を持った皆さんも、自分たちの「居場所」と心得ている様子で、和やかな時間が流れて行きます。大和路で過ごした半日は、疲れ切った身体には極上の癒しの時間でした。