第62回 あと一歩、踏み込めるか否か ー ホスピテリティと顧客価値。

2009年11月1日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

劇場はサービス業です。それは民間であっても、公立であっても同じです。私たちは、演劇や音楽やミュージカルといった舞台芸術というサービスを提供しています。それは舞台芸術がもたらす「体験という価値」を提供しているということです。これは大なり小なり、あるいは多寡の違いこそあれ、何処の公共劇場・ホールでも行っていることです。ならば、市民にとって心を洗われたり、癒されたり、安らげたりする施設と、そうでないところとの差はどうして出来るのでしょうか。たとえば、同じ演目の舞台を違った公共劇場で観たとします。同じ演目なのに、受け取る印象がまったく違うのは何故なのでしょうか。同じオーケストラの、同じ曲目なのに、どうも受け取る感じが異なる、というのは何故なのでしょうか。

それは、「体験という価値」を高度化しようとする職員の意識と組織の仕組みとに裏打ちされたホスピタリティの差によるものだと私は考えます。アーツマネジメントやアーツマーケティングには、人間に対する「哲学」と「科学」がなければ血の通ったものにはなりませんが、概して大学や大学院で教えられるそれらの学問には、「人間」に対する洞察が欠けているように思えます。それらの学問の根底にはホスピタリティというきわめて人間的な営みが息づいていなければならないのです。でなければ、机上の空論とまでは言いませんが、象牙の塔の中だけで完結している「学問」の域をでないものとなってしまいます。

私が経営責任者になっている可児市文化創造センター(ala)が、なぜお客さまの数を年々伸ばし、パッケージチケットに限ればこの三年間、毎年200%以上の伸びを記録し、劇場来訪者がヘビーユーザーとライトユーザーを合わせて26万8千人と三年間でおよそ4万人も増加しているのか。

答えはたったひとつ、「ホスピタリティ」(おもてなしの心・愛しみの心)です。確かに、良い演奏や舞台を聴いて観ていただくだけでも「経験価値」は生じます。サービス業としての使命の一端は果たしていることになります。しかし、それだけでは血の通ったサービスとは言えないというのが、私の持論です。なかなか予約の取れないNYのレストラン「ユニオン・スクエア・カフェ」の創業者ダニー・マイヤーは、「サービスとホスピタリティは一緒ではありません。サービスは頭を使う、ホスピタリティは心を使うのです。サービスは技術、ホスピタリティは感情を使います」と、サービスとホスピタリティの違いを述べています。「ホスピタリティ」を意訳すれば、「心遣い」、「思いやり」、「心くばり」です。どれもが他者への働きかけであり、他者の立場にたって働きかける「心」や「思い」や「気持ち」のことです。脳科学的に言えば、「社会脳」の発達がなせる技です。澤口俊之氏的に言えば「HQ」(人間性知能)の発達している人間だからこそできる社会的行為、なのです。

ホスピタリティには、その人間の個性が反映していなければならないと、私は思っています。ファーストフード店やファミリーレストランなどのマニュアル言語は、だからホスピタリティの観点から言えば、零点どころかマイナス点数なのだと私は感じます。社会経験のない学生でもできるようにサービス言語の平準化をしたために、店員の個性は捨象されているのです。これはサービス業の観点からも零点に限りなく近いものと言えます。私が経営するアーラでは、職員の各々の個性を尊重して、それが反映するホスピタリティを求めています。最低限の原則だけを守ってくれれば、あとは自分の個性を大切にしたホスピタリティを発揮してほしいと思っています。当然のことですが、人間に関わることの苦手な人には辞めてもらうしかありません。私たちの職場は、お客さまにどうかかわるかというCP(コンタクト・ポイント)の質を求められているのですから。

問題は、公共劇場・ホールのマネジメント現場がそこに踏み込んでいるか否か、です。高等教育におけるアーツマネジメント教育課程でそのことを教えているか否か、です。いずれもNONと言うしかないのが現状です。アーツマネジメントやアーツマーケティングは、「知識」ではなく「高度な社会的関係力」です。インターンシップの受け入れでも、公共文化施設の多くは「職業的知識」を体験させようとしていますが、本当に現場で学ばなければならないのは「職業意識」の方です。しかし、経営方針に「ホスピタリティ」が掲げられていないので、どうしてもインターンには「職業的知識」を持ち帰ってもらおうとしてしまうのです。単なる買い公演をパンフレットのみで選定しているような施設では、その「職業的知識」のあらましが、一般事務作業でしかありません。まったく無駄とは言いませんが、その程度のルーティンは、就職して一ヶ月程度で習得できるたぐいの「知識」です。演劇や音楽を事業としてやっていても、そこでの仕事は、制作事務ではなく、一般事務なのです。

ホスピタリティの質が、お客さまが持ち帰る「顧客経験価値」の質を決めます。私が講演やセミナーの折にお見せするパワーポイントのタイトルは『経験価値創造 = 創客経営の全体像』というものです。アーラは「経験価値創造」を経営の主柱にした展開をしています。ホスピタリティの第一歩は、「あなたに関心があります」というメッセージとして、「おはようございます」、「こんにちは」、「こんばんは」の挨拶をお客さまに掛ける、名前を知っているなら「何々さん」と必ず名前を呼ぶ、という簡単なことです。お客さまの「居心地の良い居場所」としてのアーラづくりは、ここから始まっています。アーラのホスピタリティを代表する事例は「バースディ・サプライズ」と「イルミネーション点灯式」です。

アーラはインターネットによってチケットを予約でき、コンビニで決済・発券できる仕組みを導入しています。私が館長に就任して導入したシステムです。これを活用するお客さまは会員登録をしなければなりません。その折に、いろいろな質問に答えていただきますが、その一つに誕生日を記入していただきます。したがって、今月の何々の公演のどの席に、今月誕生月の何という方が座っていらっしゃる、ということが事前に分かります。ですから、開場前にその席に、職員の手作りバースディカードと可児の花であるバラ一輪、場合によっては関連グッズを置いておき、お客さまがいらっしゃったときに私が「何々様でいらっしゃいますか、館長の衛でございます、お誕生月、おめでとうございます」とご挨拶に伺う、というのが「バースディ・サプライズ」です。多い時には15名を超えるお客さまが誕生月のことがあり、開場から開演までの30分間で回りきるのに汗まみれになることもしばしばです。感激して泣いてしまう方もいらっしゃいますし、周囲の方が小さく拍手をして祝福したりすることもあります。後日、お礼のお手紙をくださる方もいらっしゃいます。

「イルミネーション点灯式」は、アーラでは11月20日前後の事業日から年明けて1月20日前後の事業日までのおよそ2ヶ月間、水と緑の広場をイルミネーションでライトアップします。これは私が就任した年の4月にすぐに指示を出して予算をひねり出して実施したものです。このイルミネーションの点灯式は毎日行われ、市民が応募してくるかたちをとっていますが、50回程度が1時間でいっぱいになります。「子どもの誕生日記念」、「おばあちゃまの全快のお祝い」、「仲間たちとの卒業記念」とか、いろいろの理由で点灯式に応募して下さいます。その点灯式は期間中の毎日17時過ぎに行われ、私たち管理職と私たちのパートナーであるNPO法人アーラ・クルーズのメンバーたちが参加して、誕生日記念なら「ハッピー・バースディ」を歌い、それ以外ならカウントダウンをします。私のダミ声の「ハッピー・バースディ」で驚いて泣いてしまう幼児もいますが、点灯した瞬間はなかなか楽しいサプライズとなります。そのイルミネーションを背景に担当職員が記念写真を撮って、すぐにカードにしてプレゼントするのです。日によっては広場に面したウッドデッキで、スチールドラムの演奏やデュオや胡弓の演奏があったりもします。

来年度はチケットのキャンセル・システムをホスピタリティの一環として、現在、その制度設計を進めています。何カ月も前にチケットを購入するのですから、この忙しい時代です、当然当日の都合がつかなくなることはあります。そういうご事情に対して、2週間前までならそのチケットをキャンセルできるようにしようと思っています。これもアーラのお客さまへのホスピタリティであると考えています。

私たちのホスピタリティは、様々に入り組んで複雑なものになっていますが、そこに貫かれているのは「心遣い」、「思いやり」、「心くばり」です。ここに「あと一歩」踏み込むか否かで、サービスの質は劇的に高度化します。経営に関するアーラの考え方の詳しくは、「館長の部屋」の連載『集客から創客へ☆回復の時代のアーツマーケティング』をお読みください。