第55回 思考回路を切り替える―「Change」の意味。

2009年7月28日

可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生

手元に興味深いデータがあります。オリコンで調査した「新入社員に求めたい能力」というもので、1.常識力、2.あいさつ力、3.コミュニケーション力、4.理解力5.行動力、の順になっています。5.までが50%以上の数値であり、そのうち1.が65%、2.が59.8%、6位以下の6.精神力、7.体力などは、30%前後です。「求めたい能力」ということは、それだけ能力に欠けていると思っているわけで、これはただならぬ数値だと思います。とくに4.までは、健全なコミュニティを形成するために不可欠な社会的能力だからです。

これらの能力が欠如しているということは、脳科学的な知見からみれば「社会脳」といわれる前頭連合野にいささかの発達障害 があるということになります。これはかなり由々しい社会問題と言えます。一国の総理大臣も「KY(空気が読めない)」と言われていました。「KY」は「常識力」と「理解力」の欠如を意味します。他者やその場の空気を想像力によって推察し、理解する能力に欠けているということは、すなわち「コミュニケーション力」に問題があるということです。コミュニケーション能力の欠如が大きな社会問題となっているのは周知のことですが、それはコミュニケーションを密にする際に不可欠な社会的常識をわきまえていないことと、理解力=想像力に欠けている人間が多くて、さまざまな社会的軋轢や問題を起こしてしまっているということです。日本がそういう生きづらい社会になっていることを意味します。

その事態を克服するためには、教育政策、文化政策、福祉政策、医療政策などの、人間の心の健全育成や住民の安心や安全に関わる公共的なサービスを、目配りのきいた、行き届いた、きめ細かいものにする必要があります。「モノの豊かさ」が一定程度の充足をみたあとに行うべき施策は、憲法十三条にある「幸福実現権」の保障です。人間やその関係(コミュニティ)に投資するという考え方です。その実現のための環境を整えることです。これこそが21世紀の公共サービスの行き着くところだと、私は思っています。所得格差、教育格差、福祉格差、医療格差などのあらゆる格差を放置して、人心の荒廃しているいまの社会を看過するとしたら、日本社会の将来的な不安は増大するばかりではないでしようか。

「投資的経費」という財政用語があります。道路や橋や建物や学校や公園などの建設・設置のための支出を指します。それらの社会資本(インフラ)整備に向けられる予算を指す言葉です。しかし、社会資本(ソーシャル・キャピタル=Social capital)が建造物・造営物に限られる時代はもう終わったと、私は考えています。人々の関係の健全さも、ソーシャル・キャピタルであるという社会学的な考え方をとるべきではないかと思います。住民の心の健全さ、国民の健やかな精神こそがコミュニティの未来を担保する、という意味で、私はそれを社会資本(社会関係資本)と位置づけるべきと考えます。Social capital=関係資本、という考え方が学問的にも認知されてきています。会計学上で建造物でないとバランスシートの処理できないという反対意見があるかもしれません。その通りです。それらは帳簿に記載できない、しかし大切な資産であり、簿外資本と呼ぶべき社会資本なのです。国債にも「建設国債」と「赤字国債」の区別があります。何か建造物をつくるための借金は「赤字国債」と峻別されています。これも会計学的な便宜上の区別です。

そのような考え方を大きく変えなければならない世紀に入っているのだということを、私たちはしっかりと認識しなければならません。まさしくパラダイム・シフト(発想の転換)であり、オバマ大統領のいう「Change」なのです。「考え方を変える」、「見方を転換する」ということであり、私たちが持っている「常識」と思われている固定概念を激しく疑う、ということだと私は解釈しています。

つい最近、「子ども手当」の創設による「配偶者控除」と「扶養控除」の廃止に対して、専業主婦家庭は実質増税になる、という意見が、主に政策に反対する保守層の立場から出ていました。しかし、子どもは国や地域の未来であり、かつて日本では、子どもはコミュニティの構成員が責任を持って育てるという共同体の美風がありました。したがって、「控除の廃止」は子どもの親たちへの負託を意味する経済的負担に過ぎないのではないか。そもそも地域社会の崩壊を嘆いている保守層からこの政策への反対意見が出てくること自体に、私は違和感があります。たとえば、医学部の定員を今の1.5倍にして医師や診療科の偏在を是正しようとすると、国民一人当たり1881円の負担をしなければならないという試算があります。また、待機高齢者が36万人いるとされる特別養護老人ホームをいまの2倍にするには、国民一人当たり3000円の負担が必要となると試算されています。「子ども手当」も含めて、これらは社会的必要経費であり、社会を健全化するための投資的経費であると、私は考えます。国や地域は「人」です。「まち」はその人と人の関係のあり方であると考えています。これは私が阪神淡路大震災の際にボランティアをした経験から言えることです。人間に投資することこそが、今世紀では社会資本(Social capital) の充実を意味すると思うのです。まさしくパラダイム・シフトであり、「Change」です。

教育、福祉、医療などの公共的サービスの充実が、この社会を構成する人間に対する投資であるように、文化に対する予算配分もまた人間の健全育成、コミュニティの健全化に資する投資的経費です。文化は決して富裕層の独占物ではありません。むしろ、心がザラザラしたり、他者や社会との関係がきしんだりしたときこそ、文化の出番なのです。教育と同様に未来への投資といえます。「<社会脳>を健全に発達させるには、前述したように、共感され、同意され、肯定され、賞賛されながら、<生きる力>を他者からもらえる環境を設定することです。自分と他者との関係の中で<社会脳>は発達していきます。それに最適な手段は、かつての<遊び>や<祭>のように、多くの人たちが交流して、何かを協働して創造する環境の整備です。つまり<文化的な環境>をどう設定するかです」(ala Timesエッセイ)。難しく言えば、文化とは他者や事象に思いを遣り、想像力で事態を推察して、自分との違いを一つのストーリー上に切り結び、意味付けという行為によって批評的に他者や社会と同化することです。違いを違いとして認めあい、つながることが「文化」の本質構造です。「つながりたい」という心の渇きが文化的欲求になります。人間として「生きる」ことが必ずや他者を必要とするように、文化もまた他者や異物を必要とし、それを「豊かさ」へと転化させます。ここでの「豊かさ」が、人間的な成長や進化を意味するのは言うまでもありません。繰り返します。文化は富裕層の独占物ではありません。むしろ、心がザラザラしたり、他者や社会との関係がきしんだりしたときこそ、文化の出番なのです。

従来からの常識的な思考回路を疑ってみること。社会の仕組みが大きく変わろうとしている今日、まったく違った視点からものを見直してみることで、社会全体に新しい展望が拓けるのではないでしようか。それにしても、「常識」に縛られている人間のなんと多いことか。一例で言えば、民主党政権の誕生が一種のリトマス試験紙のような役割を果たしています。二十世紀型の常識に縛られている識者や論者のなんと多いことか。その多くが、前世紀で強い影響力を持っていた社会的指導層やマスコミなど、古い殻を後生大事に守って、着膨れしたまま脱ぎ棄てられない人たちであることに、私はひどく失望します。暴走した金融資本主義への反省から公益資本主義への模索も始まっています。社会が大きく変化しようとしているということは、あらゆる価値観もまた変わっていくのです。そのためにはまず自分の「常識」を疑ってみること、「Change」は新たな思考回路によってのみ達成できる新世紀の生き方なのではないでしようか。「戦いの世紀」であった20世紀から、21世紀が「人間の世紀」となるようにと祈るばかりです。