第12回 「売る」ことと「売れる環境をつくる」ことの違い。
2008年3月7日
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生
どんな鳥だって想像力よりは高く飛べない。 寺山修司
マーケティングというと「営業」と勘違いする人が多くいます。フィリップ・コトラーは、セリングを「刈り入れ」、マーケティングを「種まき」と言っています。コトラーの先駆者であるピーター・ドラッカーは、究極のマーケティングはセリングを不要にすることである、と言い切ります。つまり、この二つは180度違う考え方であるのです。
営業から思い付くのは「動員」や「集客」という言葉です。いわば掻き集めるという方法です。それもひとつの方策ではあると思うのですが、私が10数年前から提唱している「創客」と大きく違うのは、お客さまのモチベーションの違いです。舞台芸術はステージの上の演技や演奏の巧拙やその芸術的価値のみで完結するものではありません。観客や聴衆を一度経由してその価値が派生するものです。つまり、半分はお客さまが創るのです。その意味では、舞台芸術のお客さまは、座席に押し込められて座っている受動的な存在ではなく、舞台からの刺激に対して能動的に想像力を働かして舞台と対峙する人たちなのです。舞台の側からの働きかけに呼応するかたちで観客席にいるお客さまは大きく想像力の翼を広げます。その相互作用で起こるのが「経験価値」というものです。経験価値は「ある刺激に反応して発生する個人的な出来事」ですが、それは「自発的に生み出されるものではなく、誘発されるもの」であり、私たちはお客さまにとって最も望ましい経験価値を体現してもらうための環境を提供しなければならないのです。お客さまはこの「経験価値」に対して入場料を払っているのですから。
そのことに気付いていない人は多くいます。また、経験価値を舞台の芸術的価値と勘違いしている人もいます。お客さまが買っているのは、劇場やホールで起きることであって、舞台で起こることではないのです。むろん、舞台で起こることに対価を支払うお客さまもいます。有名なタレントや歌手がキャスティングされている舞台を「見物」しにくる場合などはそれに当たるでしょう。ただ、舞台芸術は舞台と客席の相互の作用によって成立する表現であり、「ある刺激に反応して発生する個人的な出来事」とはいわば想像力による批評行為といっても良いものです。この「批評行為」の質を担保するには、舞台の芸術的卓越性が必須なのです。しかし、その芸術的卓越性は高い「経験価値」の必要条件あり、前提条件ではありますが、十分条件ではありません。芸術家のなかにはそのことに気付いていない人もいます。芸術的卓越性が唯一無二の十分条件であると思い込んでいるのです。「良いものさえやっていれば客はついてくる」という話はよく耳にします。
マネジメントやマーケティングに従事する者は、芸術的卓越性を梃子にして高い顧客価値を実現することを求められます。つまり、それを体現化できる環境を提供するのが芸術経営であり、アーツマーケティングの仕事なのです。マーケティングが「種まき」なのは、高い顧客価値を実現してお客さまがリピーターとして劇場やホールにふたたび戻ってくることを仕掛けるからです。そういう環境をつくるからです。
たとえばそのひとつを例に挙げようと思います。空席の目立つ客席と立錐の余地のない満席の客席とで、鑑賞経験の質が変わることは誰もが認めるところでしょう。そのためにマーケッターのできる仕事は、むろん満席に近い状態をつくりだすことです。その際に「動員」は極力避けるべきと思います。観客席の質を併せて考えるべきだからです。可児市文化創造センターでは、来年度からインターネット・チケットに限り、席は悪くなりますが公演二週間前から15%OFFになり、当日の0時からはハーフプライスになります。段々と割引率が高くなるのでDan-Danチケットと呼んでいます。
舞台芸術の座席は開演した時点で経済的には絶対的な損失になります。その損失を回避して、すこしでも売り上げを上積みしようという経済的な側面もありますが、可児市文化創造センターは「鑑賞環境」を良くしようというマーケティング的な発想によるものです。買い控えなどの不透明な部分もあるにはあるのですが、すべては一年間実施してデータを分析してからのことと思っています。このシステムは中長期的にチケットが売れるための環境づくりだと思っています。良い鑑賞環境で、高い経験価値を体感していただき、次につながることを期待しているのです。来年度から動かすさまざまなチケッティング・システムのなかで、このDan-Danチケットが一番リスキーですが、リスクをとらずに鑑賞環境を良くすることは難しいとの判断でGO することにしました。
顧客価値を高めるもうひとつの事例としては、Big Communicationチケットがあります。これはいわばブロック買いのチケットで、一人のお客さまのうしろには少なくとも数人の潜在客が隠れている、という私の考えに基づいてつくったチケット・システムです。フランスの文化コミュニケーション省が実施したコメディ・フランセーズの観客分析では、一人で観劇する人は12%で、二人が50%、三、四人が22%、五人以上は16%という結果が出ています。日本ではフジテレビ営業局のデータがあり、一人が28.8%、二人が47.1%、三人以上は24.1%となっています。私のプロデュースした『おーい幾多郎』の米子公演でのデータによれば、一人は24%、複数が69%(内訳 夫婦23%、家族15%、恋人1%、友人26%、同僚4%)でした。
つまり、このBig Communicationチケットは、バイラル・マーケティングを企図したものなのです。バイラルとはビールスのことで、感染するように広がるマーケティングを意味します。ビフォー・ディナー・パーティを開演前に設定した今年のニューイヤー・コンサートでのアンケート調査では、事前や事後に同伴した人とお茶や食事を楽しむと回答した人の割合が70強という数字を示しました。Big Communicationチケットは、同じ体験をした人たちがお茶や食事をして話や交流を楽しむための提案なのです。これも経験価値の質の向上を企図しています。
マーケティングとはこのように、より良い劇場体験を実現するための仕組み幾重にもつくり、顧客価値を高度化して固定客を創造する仕事です。セリングとマーケティングは経営の両輪ですが、セリングだけに傾注すると中長期的に顧客を失うことになります。どの程度のバランスで予算を配分するか、そのあたりが未来を創造する経営感覚と言えそうです。