第113回 【提言】「第五世代の劇場」を  顧客の受取価値がすべてという考え方。

2011年8月15日

可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生

「世代」という区切りで劇場・ホールの進化を語る考え方があります。講演会などの集会を専らとする戦前からの「公会堂時代」が第一世代、昭和30年代から40年代に建設された貸館・貸室を専らとする「市民会館時代」の第二世代、昭和50年代から60年代に「建設ラッシュ」といわれて設置された、自主文化事業も行う鑑賞型の「多目的文化会館時代」が第三世代、そして創造型の専用劇場・ホールの第四世代の劇場・ホール、というのがあらあらの進化であり、時代と施設の変遷です。第三世代の文化会館から第四世代の専用劇場・ホールへと進化するに従って、中心に据えられていくのはアーチストや専門家です。多目的なホールを「無目的」と批判して創造型が最重視されるにしたがって、アーチストの専門性が事業の中央の座を占めるようになってきます。カンパニーが付属する専用劇場・ホールもこの時点から現れるようになってきます。しかし、それで果たして市民にとって、劇場・ホールが「個的欲求の充足」ではなく「社会的必要の充足」にたりうる施設となるのでしようか。

先端技術を提供する産業では、エンジニアや技術者が重要視されています。彼らの高度な技術と知見による製品が競合他社との差別化を生む源泉であるので、経営陣は特に彼らを優遇し、重視しています。そのために顧客とのマーケティングが副次的な仕事とされて隅に追いやられてしまいます。顧客のニーズを満足させることよりも、精緻な製品を製造することが先端技術産業の使命だと考えてしまいます。これと同様の構造がアーチストの専門性と市民ニーズの間にあるのではないか、と私は考えています。確かにアーチストは、人並み外れた感性を持ち、卓越なる表現技術を持ち、先見性に優れています。リスペクトすべき存在であるのは間違いありません。芸術的使命を軸に結集している劇団やオーケストラで、第一義的にアーチストの芸術的成果を打ち出していくことが求められるのは当然です。

しかし、公立の劇場・ホールでは、アーチストは第一義的な存在とはなりません。「納税者主権」の施設だからです。したがって、公立の劇場・ホールは、芸術的使命のほかに社会的使命も併せ持っている存在なのです。設置成立経緯から言えば、むしろ社会的使命が第一義的な目的となります。ここでいう社会的使命とは、設置し運営していくための原資である税の拠出者とその係累者、つまり市民とのリレーションシップをマネジメントすること、すなわちソーシャルマーケティングが第一義的な組織課題となります。健全な社会、健全な地域社会とコミュニティの形成が第一義的な組織の使命となります。アーチストの人並み外れた感性と卓越な表現技術と先見性を梃子にして地域社会に「変化」をもたらすマーケティングを行うのが、公立の劇場・ホールの本来的な目的であり、存在価値です。「まちづくり」、「ひとづくり」は、この「変化」の所産なのです。市民へ、新しい「生活価値」を提供することが公共文化施設の存在価値です。かつて森啓氏の『文化ホールがまちをつくる』という著作がもてはやされましたが、文化ホールを設置すればまちが文化的に変容するというのは「幻想」に過ぎません。きちんとマーケティングできる技術があるか否かです。すなわち、市民とのリレーションシップをマネジメントできるか否かが問われるのです。文化芸術の所産としての市民の「生活価値」をみずからの事業定義として持っているか、です。

化粧品会社のレブロンの最高経営責任者のチャールズ・レブソンは、「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「工場では化粧品をつくっていますが、小売店では<希望>を売っています」と答えています。「製品」で事業定義をしているのではなく、「顧客の受取価値」で自分の企業の事業を定義しています。この伝でいえば、コダックはフィルムや印画紙を売っているのではなく、<色鮮やかな思い出>を売っているのです。ならば、私たちの劇場・ホールは何を売っているのでしようか。これが公立劇場・ホールの「事業定義」です。優れた芸術的評価をもつ舞台芸術を売っている、とも定義もできますが、これでは「製品」による定義です。これでは対価を支払ってくださる「顧客」が不在となってしまいます。顧客の受取価値がすべてであると考えれば、その定義は明らかに間違っています。古い時代の劇場の事業定義です。民間劇場の事業定義と言っても良いでしょう。公立劇場やホールでは、卓越したアーチストやコミュニティ・アーツワーカーの技術が目的なのではなく、それが「何を生み」、それで「何をなそうとするのか」が大切なのです。市民や顧客が感じることがすべて、という考え方が大切なのです。

「経営」とは、「新しい価値」を生み続ける連続的、継続的な組織の営為です。芸術的成果もむろん「新しい価値」ですが、これだけ満足してよいのは芸術的使命を第一義とする芸術団体だけです。公立劇場・ホールが、それで事足れりと考えると「傲慢さ」と「自己満足」にみちた経営となってしまいます。成果は組織の外部に出るものです。すなわち社会に成果が出て初めて、内向きではない社会機関としての役割を果たせるのです。

可児市文化創造センターalaは、私たちの事業の定義を以下のように定め、全職員と共有しています。

■私たちは「経験価値」と、そこから派生するかけがえのない「思い出」と、さらに新しい価値による行動の「変化」とその「生き方」を提供する。 

■私たちは地域社会にコミットして、すべての 市民を視野に入れたサービスを提供し続ける「社会機関」である。

私たちが提供しているのは、「新しい価値」であり、その「経験価値」によって起きる「変化」です。社会の「変化」、地域の「変化」、価値観の「変化」、人々の「変化」、ライフスタイルの「変化」、すなわちアーラの事業の成果は「変化」です。ドラッカーではないですが、アーラの成果は「変革された人間」なのです。それがすなわち「社会機関」の意味であり、まちづくりや人づくり、人と人の関係づくりの拠点施設としての経営を指すのです。可児市文化創造センターalaの成果は、したがって「変化する地域社会」であり、「変化した市民のライフスタイル」、「新しい価値観」です。そして「変革された市民」こそが最終的な成果であると言えます。

これが「第五世代の劇場」です。職員と共有する「芸術の殿堂より人間の家」というコピーは、それを意味しています。これまでの公会堂、市民会館、鑑賞型文化会館、創造型専用劇場・ホールが、仕様と機能で区分されてきたのに対して、「第五世代の劇場」は、それらとは明確に一線を画したマネジメントとマーケティングによる市民との関係づくりにスタンスを移しています。外部へとベクトルが向かっています。その点がこれまでと大きく異なります。舞台成果という「製品志向」ではなく、関係づくりという「顧客志向」である点がまったく違っています。公立劇場・ホールの価値をいままでとまったく異なった位相で捉えることで、劇場・ホールの存在価値と意義と、事業定義を根底から覆す考え方です。来年度あたりには成立が予想される「劇場法」(仮称)の基軸をここに置くことで、公立劇場・ホールは国民生活に近い存在と定義づけられると思っています。

この考え方に従えば、従来は都市部でしか成立しなかった先進的な劇場・ホールの環境が、地域の中小館でも実現可能となります。時代を切り開くような先進事例と先駆事例が地域で成立可能になります。アーチスト・イン・レジデンスでまちに専門家がいる状態も実現できます。都市部に偏在しているアーチストや芸術団体を滞在型や、私どもが締結している地域拠点契約で一時的に平準化することができます。私たちの劇場では、可児市に滞在したアーチストと専門家の泊数は毎年およそ1600泊に上ります。これは、「弱み」とされていた、可児市が東京から遠距離にあることを逆に「強み」にしています。「小さなまち」であることを「強み」としています。可児市文化創造センターalaは、その「第五世代の劇場」の先頭ランナーたる矜持を持って今後の経営にあたっていきたいと決意を固めています。