第四章 どんな鳥だって、想像力よりは高く飛べない。
2010年9月30日
「マーケティングは、長いあいだ、人々の物質的福祉の向上をそのねらいとしてきました。しかし、今日では、人々の社会的・文化的福祉の改善という責任も果たさなければならないのです。大変皮肉なことには、物質的進歩の増大がかえって、様々な社会問題を生み出し、かつ悪化させてきたようです」
(フィリップ・コトラー『ソーシャル・マーケティング 行動変革のための戦略』日本語版序文)
「芸術機関は活動それ自体に着目する以上に、活動の結果、何が起こったのかに注意を向けるべきである」
(ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ教授ジェラルド・リドストーン)
芸術は社会との関わりなしには成立しない
どのような「芸術」であろうとも、社会から超然たるものとしては存在しえない。当然である。同様に、劇場・ホールをはじめとする芸術機関も、芸術団体も、社会から超然として存在しえない。この当然の理は、理解されているようで、時に何とも心許ない発言に出会うことがある。芸術それ自体が先験的に公共性を持っているかの如くの発言や、何者にも侵犯されない聖域がごとくの振る舞いとか、「専門はアーツマーケティングです」の私の発言に、「私たちがやっているのは芸術ですから」という理解に苦しむ反応が返ってくることがある。このようなアーチストの発言は確かに間違いではないのだが、「マーケティング」をアーツに導入しなければならないという今日的な課題と意図を正しく汲んでいないという点で、はなはだ誤解に満ちており、不十分なものと言わなければならない。このような態度に遭遇すると、私は古色蒼然たる「化石」を見ているような気分になる。
いかなる芸術であっても、「価値の交換」という経済原理からは逃れることはできない。これもまた、当然の理である。また、芸術とマーケティングを対立する概念と考える前世紀的思考で創造活動をしているのでは、何を、どのように聴衆や観客に届けようとしているのか、私にはとうてい理解できない。「彼ら」にとって観客や聴衆はどのような存在として捉えられているのか、はなはだ訝しい。芸術を「聖域」とする考えは「メルヘン」ではあるが、ほとんど「漫画的」でさえある。たとえ芸術の創造的行為であっても、社会との関わりなしには成立しようもないのだから。
「芸術性の高さ」の前にやるべきこと
可児市で今年立て続けに「いじめ」が表面化した。警察沙汰にもなった。警察沙汰になったから、マスコミがこぞって取り上げていた。全国ニュースにもなっていた。私は、いじめられた子ばかりではなく、いじめた子にも、思いをはせた。双方に深い心の傷を残してしまったことをやり切れない、と思った。この不幸な出来事は、教育現場の問題と言うよりも、社会全体の「歪み」が背景にあると考える。同時に、可児の子どもたちの、すれ違いざまの大きな声での挨拶や明るい笑顔に好感を持っていただけに、軽い失望を感じた。
「アーラが出来ることは何か」と、いささか深刻に考えた。しばらくは忸怩たる思いの中にいた。アーツマネジメントやアーツマーケティングは、人間に関わる、なかんずくその「生活」に関わる仕事である。「人間」と、その「生活」に向かい合う、そして関わり合う仕事である。したがって、子どもたちの「いじめ」が私たちの仕事と無関係であるはずがない。とりわけ公共的な地域劇場・ホールは、地域住民の生活や生き方に深く関わることを重要なミッションとしている。私が大学に入学した頃、『飢えた子どもの前で文学は可能か』という単行本があったことを思い出した。J・P・サルトルがフランスの文学者にそう問いかけ、それに応じて寄稿された小論をまとめたものだった。そして私は、「きしむ社会の前で劇場は可能か」と、自身を問い詰めることを繰り返した。
「何処にだっていじめはあるものだ」と遣り過ごすことが「大人の対応」かもしれないが、劇場で働く人間にとっては真摯な態度ではない。私たちと市民とのあいだの強い信頼関係を形成するのは、必ずしも事業の「芸術性の高さ」ではない。その前にやるべきことがある。顧客である市民や地域社会の抱えているさまざまな問題・課題を解決することと、そのような社会貢献活動によって機関が評価される時代に私たちの社会が至っていることを、私たちは知らなければならない。社会的責任経営(CSR)である。私たちの仕事の「事業定義」を、その経営思想に沿って変化させることが社会から求められていることに、私たちは気付かなければならない。社会は大きく変化したのである。年に数回、福祉配給的に自主事業を実施して存在証明としているような「おおらかな」時代ではないのである。舞台芸術の水準だけで公共的な劇場・ホールの社会的価値を測る時代では「もはや」ない。
文化芸術への公的資金投入=社会的諸問題の解決に関わる必要がある
成熟化した社会にあって、社会全体で解決しなければならない全く未知の課題に、いま公共劇場・ホールは直面しているのである。したがって、私たちは、私たち自身を大きく変化させることを求められている。文化芸術は、社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)を実現するための梃子として、露わになってきている社会的諸問題に、ただちに関わることが求められているのではないか。文化芸術への公的資金の出動には、そういう要請も含まれていることを、私たちは承知しなければならない。そのような時代環境になっていると私は考えている。自己資金で芸術行為に勤しんでいた「のどかな時代」とは違うのである。1990年に芸術文化振興基金が設立されて、公的資金が文化芸術に投入されてから20年も経っているのである。芸術創造行為や劇場・ホールに公的資金が投入されれば、どのような時代でも、どのような国でも、新しい経営哲学(マネジメント・フィロソフィー)が登場するのは必定なのである。
たとえば米国において「アーツマネジメント」という学際的な新しい経営学分野が生まれた背景には、ボーモルとボウエンによる大著『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』の公的支援論が端緒となり、その後に設立された全米芸術基金(NEA)の存在があった。その経緯からいって「アーツマネジメント」には当初から、非営利組織や公共機関による社会公共志向のマーケティング(ソーシャル・マーケティング)を敷衍性として内包していたと言える。事業者の社会的責任経営(CSR)である。米国各州にある芸術支援担当部局(State Arts Agency)の連合体である全米芸術支援会議の業績評価指標に、「少年犯罪における芸術参加の効果」、「危険行動(薬物使用等)に関する芸術参加の影響」などが定性評価指標としてあるのをみても、それが了解できる。どうもそのあたりが日本では曖昧なままにされて論議されていない。「社会との出会いをアレンジ」して、チケットを売れるようにすると自分の都合のよいように解釈されているようである。私が93年前後から言い続けている「創客」も同様にいささか誤解されて伝播されているようである。アーツマネジメントも、アーツマーケティングも、チケットを売り捌くための技術ではない。社会に向かって芸術を開いていくための経営哲学である。百歩譲っても、「完売することを目指すための環境づくり」の作法である。
文化とは「相手の個性から相互に学びあう人間の関係(コミュニケーション)」のことである。演劇も、音楽も、美術も、あらゆるアーツは「相互に学び合うコミュニケーション」によって成立している。そして、それは相互に信頼することによって成り立っている。「想像力と創造力」によって、鑑賞者の裡に「物語」が立ちあがっていく、そのプロセスが「鑑賞という行為」なのであり、「観る」や「聴く」は行為をその自体を指す言葉でしかない。したがって、アーツに関わるということは、「想像力と創造力」を涵養することになる。「涵養する」とは辞書によれば「水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること」とある。英語で言えば「cultivation」である。「Cultivation」には「耕す」という意味があり、転じて「教養, 修養, 洗練, 上品」という別の意味もある。「文化」を意味するカルチャー(Culture)の語源であることは言うまでもない。つまり、「相互に学び合うコミュニケーション」によって涵養される精神的な洗練が、文化芸術の社会的効用と言えるだろう。「想像力と創造力」によって涵養される「洗練」とは、人間の生きるための知恵とでも言える生活上での「態度」であり、人間を社会的動物としている根拠でもある。
脳科学的に言えば、額の後ろにある前頭連合野の発達によって、社会性の洗練と人間的な豊かさが、つまり「想像力と創造力」によって「場の空気」や「相手の感情」を読み取る社会的能力が発達するのである。人間が「社会的動物」と言われるゆえんは、人類が地球上に現れてから400万年から600万年をかけて前頭連合野を発達させた結果であり、それによって他の動物と明確に峻別される。この部位は「社会脳」(social brain)とも言われている。その部位の未発達や損傷が、協調性の欠如や、独善的な振る舞いや、思い遣りのなさや、気遣いのなさを、そして終には他者に対するアパシー(無関心、感情鈍麻)に至ることは脳科学によって実証されている。この脳科学の実証的な根拠が、コミュニティの衰退と人間的な劣化という日本の今日的問題と関連することは想像に難くない。むろん、日常的に「他者」に関わり合うことでそれらの能力は充分に涵養されるのが本来なのであるが、文化芸術における「共感」や「共創」という相互性や交流によっても、人間的な成長とその社会性の根源である「想像力と創造力」は養われる。
私たち人間は、その前頭連合野の進化によって「健全な社会」を形成してきたのである。「どんな鳥だって、想像力よりは高く飛べない」は寺山修司の言葉だが、他者の心を推し量るという能力こそが、まさしく私たちを「人間」たらしめていると言えるのだ。私たちがいま直面し、体験しているのは、その「社会脳」の著しい委縮なのではないか。あるいは社会性の退行と言ってもよい。秋葉原殺傷事件の加藤智大被告の陳述を聞いていて、可児のいじめ事件と同じ根を持っていると感じた。「社会脳」の委縮、すなわち他者の立場に立って物事を考え、行動を選択するための、「想像力と創造力」の欠如を、彼の陳述内容から強く感じたのである。
一方、公衆衛生学に「相対的所得仮説」という学説がある。従来からの「絶対的所得仮説」は、貧困層に病気が多く死亡率が高いことを指す昔からよく知られていた考え方であり、貧困層では食物が充分に摂取できず、また偏りがあって、衛生状態も悪くて病気にかかりやすく、いったん病気に罹患すると医療利用の機会が充分ではないことで死亡率が高い、とする学説である。しかし、近年、ハーバート大学の日系研究者 Ichiro Kawachi博士は、公衆衛生学に「社会疫学」という学際的な分野を提起して「相対的所得仮説」を唱えている。それによると、「先進国においては、他の人と比べた相対的な所得レベルが低いことも、不健康をもたらす」のだという。つまり、所得水準の高い国においても、相対的な所得格差が不健康をもたらす、という学説である。
それにとどまらずに、全米各州を調査した結果、所得格差が殺人事件の発生率に相関性を持っていることも明らかになった。また、『健康格差社会―何が心と健康を蝕むのか』の著者近藤克則氏(日本福祉大学健康社会研究センター長)によれば、格差社会の進行によって社会的排除が急速に拡大して、自殺者の増大が起きるとされており、これは社会問題と考えるべき、と同書で説いている。12年連続して年間3万人を超える日本の自殺者の背景にも、所得格差や、それから派生する医療格差、教育格差などの社会の階級化現象、未就労などの「社会的排除」という社会病理があることは明々白々である。イラク戦争の開戦から終戦までの7年5ヶ月のあいだの米国将兵戦死者およそ4400人の7.5倍もの人間が、日本では1年間で自殺している。これは「戦争状態」である。社会的病理が深刻で、危機的な事態になっているという証しとは思わないだろうか。尋常な数字ではない。
近年、盛んにワークショップやアウトリーチが行われている背景には、それを必要とする社会が存在していると考えるべきである。その社会的ニーズを見逃してはいけない。むろん文化的欲求からのものもあろうが、一方ではそれを必要とする社会的欠損が存在するとも考えられる。そのことを明確に認識してアウトリーチ・プログラムを組み立てれば、(財)地域創造の『新・アウトリーチのすすめ』という報告書にあるような、「各地で取り組みが増えた一方で、単に〈アーチストを派遣する〉という手法のみが先行した形式的なアウトリーチに留まっているケースも少なくない」という「形骸化の危惧」は起こり得ないのではないか。派遣されるアーチストと、派遣先の教育機関・福祉施設・医療施設などの当該団体の抱える問題を共有するコーディネイトを派遣元の公共文化施設が行い、それに対応したプログラム設計を三者ですることこそが社会公共的なアウトリーチの根幹であることに、私たちは立ち帰らなければならない。アウトリーチの「原点」に立ち帰ることなしには、いたずらにアウトリーチという形式のみが蔓延してしまう。スタイルの模倣である。これは社会的コストにおける適正な効果のアウトプットがなされないという点で、厳しく反省しなければならない。閑話休題。
いまほど文化芸術が必要とされている時代はなかった
前述した「いじめ」問題に限らず、記憶に新しい「マツダ工場殺傷事件」や、衝撃がいまだに消えない「秋葉原殺傷事件」など、あきらかに「想像力と創造力」の欠如によるとしか思えない出来事は枚挙に暇がないほどになってきている。「コミュニティの崩壊」とか「教育の問題」言ってしまえばそうなのだが、それだけではどうにも説明しきれない。それだけで説明すると、大切なものが指のあいだから零れてしまう。もっと根源的な、社会を構成している「人間」や、それぞれの「人格」そのものの劣化や崩壊に限りなく近い社会的病理が進行しているのではないか、と私は感じている。したがって、「いまほど文化芸術が必要とされている時代はなかった」と言い切れるのである。供給側の収益や事情に立脚したマネジリアル・マーケティングから、顧客志向のマーケティングに取り組む時期に来ている。マーケティングは、「取引」から、協働して新しい価値を生み出し、共生する、「取り組み」へと転換しなければならない。21世紀型のマーケティングの考え方に大きくシフトしなければならない。「取り組み」とは、互いに違った利害を持つ人間同士が協働し、「変革された人間」という新しい価値の創出を目指すものである。
とりわけ、公共的な劇場・ホールにおいては、上記した理由により、社会公共志向のマーケティング(ソーシャル・マーケティング)を内包したアーツマーケティングの展開が、地域社会からの要請として必要となっている。先の可児市における「いじめ問題」には、市内小中学校16校の小学6年、中学1年のおよそ53学級にアウトリーチして舞台づくりを中心とした『共創と共感のワークショップ』を計画して、教育委員会に提案する方向にある。そのため文部科学省の「児童生徒のコミュニケーション能力の育成に資する芸術表現体験事業」への申請を検討している。また、さらには県の教育委員会とも協議して、将来的には、文化機関と教育機関の協働を成立させる「文化・教育特区」の申請をすることも視野に入れている。教育機関、福祉機関、医療機関などへのアウトリーチとは、ソーシャル・マーケティングの実践的活動の一類型であることを承知すべきである。
あわせて、地元企業が子どもたちにパッケージチケット(ウエルカム・ホーム・パッケージ 地域拠点契約の文学座・新日本フィルとアーラコレクション・シリーズ、シリーズ恋文の5枚セット)をプレゼントする『私のあしながおじさんチケットプロジェクト』を強化することで意志決定をしている。アーラにおけるソーシャル・マーケティングの柱である『アーラまち元気プロジェクト』は、来年度には、27事業区分267回から、30事業区分400回前後に膨らむことが予想されている。職員の負担は大きくなるが、「組織の存在理由は外の世界への貢献にある」(ドラッカー)のである。これらの事業を推し進めることが、アーラの存在理由を証し立てることになる。私たちは「興行師」では決してない。公共劇場・ホールで働く劇場人は、「人間」に関わるミッションを遂行することを求められている存在なのだ。
冒頭にあげたフィリップ・コトラーの『ソーシャル・マーケティング 行動変革のための戦略』の日本語版序文は、公共的な劇場・ホールや美術館の今日的な役割を見事に言い当てている。提唱者であるコトラーは、ソーシャル・マーケティングを自身が提唱した71年当時には、芸術機関のソーシャル・マーケティングをあるいは想定していなかったかもしれない。しかし、97年に成立した英国のブレア政権においては、「ソーシャル・インクルージョン」(社会的包摂)という政策方針の下、英国芸術評議会を通して、大きな公的資金が文化機関に投入された。これは「文化支援」ではなく、ソーシャル・インクルージョンという「社会哲学」に依拠した地域政策の一環として実施されたことを見逃してはいけない。地域社会とコミットすることによって執行された公的資金が、結果として劇場・ホールや美術館を下支えしたのである。英国の地域芸術評議会(当時)の評価指標には「当該団体の差別や不利な立場に対する認識及びそれらを取り除くために積極的な姿勢をとっているか否かを審査する」という項目がある。「ソーシャル・エクスクルージョン」(社会的排除)を社会から根絶して行こうとするこのブレア政権の政治姿勢は、紛れもなくコトラーのソーシャル・マーケティングの現代社会における必要性に呼応している。「ソーシャル・インクルージョン」とは、様々な違いを包摂して「いのちの価値」を社会全体として認め合うという社会哲学である。
「文化芸術予算=不要不急」はまったく根拠をもたない
今日の社会の動向を冷静に俯瞰すれば、文化芸術予算を不要不急のものとして削減しようとする勢力のイデオロギーはまったく根拠をもたない、はなはだ疑わしいものとなる。成熟社会に必要な政策哲学とはおよそ懸け離れている。彼らはまだまだ成長社会の「幻想」から抜け出せないでいるのだ。経済的価値の拡大だけが唯一無二の尺度なのである。しかし、心がザラザラして、人間関係がギシギシと軋んでいる今こそ、社会の隅々にまで人間的な信頼と共感をベースとした文化芸術の果実を届けなければならない、と私は長いあいだ強く主張してきた。さらに声を大にして主張したい。社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)に、文化芸術やその機関を緊急動員すべき危機的な事態が、いまの日本では進行しているのである。これは喫緊の社会的・政治的課題ではないか。イラク戦争の開戦から先月の終戦宣言までの7年5ヶ月のあいだの米国将兵の戦死者およそ4400人。その7.5倍もの人間が1年間で自殺している日本という国は、どんな理屈をつけようとも尋常ではない。言い逃れのできない事態である。コトラーが言うように、「社会的・文化的福祉の改善という責任」を果たさなければならない時代を生きていることを、私たち劇場人も強く自覚しなければならない。