第二章 ウィリー・ローマンは、なぜ息子に非難されたのか。

2010年7月30日

「マーケティングとは、最終結果、つまり顧客の立場から見たビジネス全体のことである。」

(ピーター・F・ドラッカー)

「優秀なサービスとは何かを定義するのは顧客である。そして、彼らの定義に重点を置くのは、マネジメントの責務である」

フィリップ・コトラー&ジョアン・シェフ・バーンスタイン 『Standing Room Only』

アーツマーケティングを担う人間は、ゴッホのようには生きられない。

私たちは、「芸術」を考えるとき、芸術家を第一義的な地位におくことを信じて疑わないのではないだろうか。芸術家も、自身を中心に据えることを要求するだろう。そのことに疑いをはさむ余地がないかのようである。私たちはそういう社会的慣性を生きている。だが、果たして本当にそうなのだろうか、と疑ってみることも必要ではないか。芸術家は生涯にわたって、誰にも顧みられなくとも「芸術家」である。たとえば、あのヴィンセント・ヴァン・ゴッホのように、である。だが、ひとたびその成果物に経済的対価を求めようとすると、いかなる「価値」を提供できるのかを厳しく問われることになる。さらに社会化に向けてマネジメントを行うとなれば、ゴッホとは異なりきわめて短期間にその経営的成果を出すことを求められる。私たち劇場経営に携わる人間に求められるのは、限られた、しかも短い時間で成果を出すことだからだ。アーツマネジメントやアーツマーケティングを担う人間は、ゴッホのようには生きられないことをあらかじめ宿命づけられていると言ってもよい。それがアーツマネジメントやアーツマーケティングの「ミッション」(使命)だからである。

「経験価値」の決定権は供給者にはない。

ここでいう「価値」とは、まさしく「経験価値」のことである。それは芸術的成果物と享受者のあいだの相互関係性において成立する「経済概念」であり、したがって、その多寡は享受者たる顧客が「受取価値」において決めるものである。価値の決定権はいかにも芸術の側にありそうに思えるが、「経験価値」の決定権は供給者の側にはない。アーツマネジメントやアーツマーケティングにおいては、表現者主権ではなく顧客主権なのである。この考えは、芸術的高潔さを妥協しなければならないという意味ではない。「経験価値」という経済概念に依拠したかたちで芸術を社会化するとなると、芸術もまた、経済社会における価値交換の構造にさらされるのである。芸術の構造を吟味すれば、当然と言えば当然であるのだが、その構造が、これまでほとんど顧みられなかったのである。それほど我々は「芸術の経営」には無頓着だったということである。「アーツマネジメント(芸術経営)が必要」と20年前から声高に言いながら、「経験価値」を生む芸術の経済環境には目を瞑ってきたのである。「芸術」を、どこかで「特別な商品」かのように私たちは思い込まされてきたのではないか。「経験価値」はそれを受け取る鑑賞者の側に、しかも百人百様に存在する。「経験価値」は、決して一様に鑑賞者側に生まれるのではない。

文化芸術とは、相手の個性から相互に学びあう関係性や交流(コミュニケーション)のことである。従来からの考え方に従えば、芸術家の成果物には固有の価値があり、したがって鑑賞者の受取価値は、その固有の価値を軸にした同心円状に発生すると考えられていた。そして、現在もそのように信じられている。そのことのおおよそには間違いはない。しかし、「経験価値」という顧客に発生する経済概念は、交流(コミュニケーション)という相互性によってはじめて成立するのであり、したがって対価を生む「経験価値」は、顧客に固有価値であることに私たちは改めて気付かなければならない。顧客の個人史と上演作品や演奏との接点の集積が、パフォーマンスというコアプロダクトが生む「経験価値」の軸であり、付随する多様な付加的価値サービスとのそれとの相乗効果によって受取価値が決定し、それが劇場・ホールの提供できる「経験価値」の総体となる。いま一度繰り返すが、芸術家の創造する成果物によって生み出される「経験価値」は、まぎれもなく顧客が決定権を持っている。「経験価値」が、作品と顧客の個人的な生活史のあいだに成立するコミュニケーションによるという「相互性の原則」に従えば、この考え方は至極当然である。劇場・ホールや美術館で起きる「個人的な出来事」である「経験価値」は、マーケティング(=コミュニケーション)の相互性によって発生する「経済概念」であることを、まずもって私たちはわきまえなければならない。

お客さまが受け取る経験価値=受取価値がすべて

マーケティングの摂理に従えば、とりわけ対面型の劇場サービスのマーケティングであることを加味すれば、私たちが行うアーツマネジメントは、常に「経験価値」を中心軸にして「顧客志向」でなければならない。すなわち、お客さまが受け取る経験価値=受取価値がすべてであるという考えに貫かれていなければならない。文化芸術、とりわけ舞台芸術の種々の特性を考えれば、アーツマネジメントは「作品志向」ではありえない。むろん、ほとんどの劇場・ホールや芸術団体の制作者は、「作品志向」のマネジメントをしているのが現状ではあるが、私たちの使命は、「劇場のあるライフスタイル」を顧客に提案して、「生活の変化」を顧客にもたらすことである。「変革された人間」を生みだすことである。必ずしもチケットを完売することではない。敢えて言えば「完売する環境」を整えることがアーツマーケティングの最終ミッションである。

アーサー・ミラーの名作『セールスマンの死』の主人公ウィリー・ローマンが、次男のハッピーから投げかけられた「父さんの仕事のまずい所は、だれも喜ばせようとしてこなかったことだ」という非難は、製品(作品)志向のセリング(≠マーケティング)を生きてきたウィリー・ローマンのセールス姿勢の欠陥をずばりと言い当てている。セールスマンであった彼の「死」は、彼の生き方や考え方がみずから招いたものなのだ。マーケティングとセリングとは対立する概念である。ドラッカーは「マーケティングは、その究極においてはセリングを不要にする」と看破している。ここで言っている「マーケティング」とは、20世紀に大量生産・大量消費を促す意味で米国において使われ始める普通名詞としてのそれではなく、産業革命以前に使われていた動名詞としての「マーケティング」であり、コミュニケーションと同義のそれである。

「偉大なる父・ウィリー」へのハッピーの非難は、そのまま芸術聖域主義者・芸術至上主義者にも当てはまる。自己都合だけが優先されて、しかも自己完結している芸術家は少なくない。観客や聴衆や鑑賞者が介在してはじめて「芸術」の固有価値が社会化されるのに、である。同様に、「自己都合と自己完結」という姿勢で事業を決めて行っている公共文化施設も非常に多く見受けられる。そこに共通するのは、「顧客の不在」である。公共文化施設にあっては「市民の不在」である。公共文化施設にとって顧客とは納税者である。強制的に徴収した税金で設置し、運営しているという原理原則にいま一度立ち帰って、みずからの存立基盤を確認すべきである。地域住民を主権者としない公共劇場・ホールは、地域の社会的ニーズを無視し、あわせて主権者をも無視した独善的な「孤独なダンサー」と言わなければならない。どんなに華やいでも、どんなに飾っていても、 哀しくて、哀れで、誰一人にも顧みられないまま、陶酔的に舞台上で踊り続ける無為な存在である。

私たち劇場経営や芸術経営に携わる者は、お客さまの「受取価値」がすべてという姿勢に貫かれたマネジメントをしなければならないことは既に述べた。このことがあまりに顧みられなかったこともあわせて述べた。実は、そのことに起因して「芸術の障壁」は天を突くほどに高く築かれてしまったのではないか。芸術や劇場を人々の生活から遠ざけてしまったのではないか。そういう疑念を私は感じている。芸術の前で「不在」とされた観客・聴衆にとって、芸術や劇場が意味を失っていくことは想像に難くない。「顧客不在」や「マーケティングの不在」は、人々の生活と文化芸術の乖離という不幸を生み、固定化させてしまったのではないか。とりわけ日本における芸術は、その障壁を乗り越えられる一部の者の、すなわち富裕者や時間的余裕のある階層、知的エリートという少数者の独占物になってしまったのではないか。そのように私はいま考えている。

だがしかし、現在、日本の社会には様々な社会的矛盾が噴き出している。日本の社会は経済的格差をあらわにして人々を苛んでいる。階級社会化の進行である。それらの社会的矛盾は、教育、福祉、医療、雇用などいたるところで露わになっている。いわば社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)が物凄い勢いで進行している。それも取り返しがつかなくなるのではないかと思えるほどの速さで、である。「危機」である。私たちを取り囲む社会環境のその激しい変化は、「芸術の特権化」から「芸術の民主化」へのシフトを喫緊に必要としているのではないか。軋んだ社会がそれを必要としているのではないか。「芸術の民主化」とは、すべての人々が様々な局面で文化芸術の恩恵に浴せる、多くの人々にとって劇場が羽根を休める「止まり木」のように利用できる、そういう芸術環境や生活環境に向かうことである。私が事あるごとに口にしている、そしてアーラが目指している「芸術の殿堂から人間の家へ」の転換もそのひとつである。

可児市文化創造センター(ala)は、私が就任して二年間、徹底してお客さまや市民の受け取る「経験価値創造」を重視して経営に専念してきた。「創客経営」である。昨年度、その成果をニッセイ基礎研究所に委託して調査をしてもらった。『可児市文化創造センター 事業・運営の実績及び経済波及効果に関する調査研究』の詳細は近日中にウェブサイトにアップするが、概要としては下記のようなものであった。人口10万1000人の小さな町としては健闘していると、私は勝手に考えている。

年間来館者数 331,000人(市民一人が年3.3回来館 前年比115%)
集客率 84.8%(前年比171%)
     地域拠点契約団体(新日本フィル、劇団文学座)に限定 92.4%
総観客数 32,188人(前年比125% 市民3.14人に1人が劇場鑑賞)
パッケージチケット販売数 
796セット(2008年度)⇒1426セット(2009年度)前年比179%
パッケージチケット購入者数 
350人(2008年度)⇒746人(2009年度)前年比213%
経年観客男女比率の変化 
23.8対76.(2005年)⇒42.7対57.(2009年)
経済波及効果12億2200万円(指定管理料ベースでの誘発効果2.57)
管理・主催事業に限定した誘発効果 1.57
       例示・公共事業    1.31
顧客満足度 86.6ポイント
東京ディズニーランド 83.2ポイント
      
スシロ―       78.8ポイント
               (サービス産業生産性協議会調べ)
アーラに対する推奨者の正味比率(net promoter score) 30.2ポイント

詳細を吟味して研究材料にしていただければ、アーラの経営姿勢が、市民のライフスタイルに、劇場サービスの最終成果である「変化」をもたらしていることが明らかになるだろう。また、公共劇場・ホールを一様に「ハコモノ」として批判することが、みずからの仕事の意味を事業定義をしたのちに、それに沿ってミッションを明確に打ち出し、成果をアウトプットしているところをも「為にする」ものであることも理解されよう。多くの公共文化施設のコペルニクス的転回を促すのなら、アーラの経営のすべては、隅々まで公開する。アーラに訪れていただければ、懇切丁寧に説明もさせていただく。私がアーラの館長兼劇場総監督に就任した究極のミッションである「地域劇場を変える」は、疑う余地なく微動だにしていないのだから。成果は、そのプロセスを含めてより多くの人々と共有すべきである。

何がこの2年間でアーラのブランディングを推し進め、顧客ロイヤルティを高めたのか。私の実感としては、バースディ・サプライズやイルミネーション・カード(サイト内『集客から創客へ☆回復の時代のアーツマーケティング』参照)などの「人間的な共感をベースとした顧客サービス」の通年実施や、学校、フリースクール、高齢者福祉施設、障害者福祉施設、医療施設、多文化施設、地域集会施設へのアウトリーチやワークショップをまとめた『アーラまち元気プロジェクト』(09度実績 27事業区分267回、10年度からは14施設ある地域の公民館へのアウトリーチを加え、コンテンポラリー・ダンスによる「高齢者の健康保持・体力維持のための事業」も視野に入れているので、およそ280回を超える予定、詳細はウェブサイトの『alaまち元気プロジェクト2009レポート』参照・ダウンロード可)の通年での実施、自主事業選定における「市民感度の重視」などがある。

この「市民感度の重視」は、当然、3200万人のマーケットのある首都圏とはまったく異なる尺度である。ではあっても、何処に出しても高い芸術的評価を受けられる事業をしていることは自負している。アーラのプログラムをウェブサイトか、年間事業をまとめたブロッシャ―を見ていただければ分かっていただけるだろう。しかし、この「市民感度」は数値化できるものではなく、どのように言葉を尽くせば理解いただけるか心許ないが、私自身が可児市で生活する中で獲得できる感覚であり、いつかは何とか理解いただけるように説明しなければならないと思っている。いずれにせよ、「顧客志向」を隅々にまで徹底させて、「経験価値創造」に軸足を置いたアーツマネジメントを徹底して、さらには市民やお客さまをはじめとする多様なステークホルダー(利害関係者)へのマーケティングに専念してきた2年間の成果が上記の数値である。私たちは、「未踏の劇場経営」に向かっていると自負している。3月に市民参加型事業『オーケストラで踊ろう!』のスーパーバイザーとしてアーラを訪れた英国北部リーズ市・ウエストヨークシャー・プレイハウス(WYP)の演出家ゲイル・マッキンタイアと芸術開発部長サム・パーキンスが、アーラの劇場のにぎわいや劇場経営の考え方、仕組みの設計に驚嘆して、即座に劇場間での日英協働プロジェクトの計画着手を申し入れてきたことがそれを如実に物語っている。

ミッションは、顧客の生活スタイルに影響・変化をもたらし、生きる力とすること

「顧客志向」を徹底させ、「経験価値」の高度化を図り、「市民感度の重視」にはっきりとシフトすれば、結果はおのずとついてくるという確信はある。それが劇的な変化であるか、あるいは穏やかな変化であるかは、地域の事情によって異なるだろうが、ミッションに沿った経営企画を設計して、粛々と業務を遂行できる組織をつくりだせれば成果はかならず出る。しかも、その結果が、最終的には芸術家の創造環境の改善に寄与するのである。さらにはその「芸術家の創造環境の改善」が、さらにスパイラル状に高度化して顧客の「経験価値」に反映されてくる。アーツマネジャーやマーケッターは、そのスパイラル状の循環に気付くべきなのだ。アーツマネジメントやアーツマーケティングとは、そういう「哲学」であり、「科学」なのである。私たちアーツマネジメントに関わる者は、自由奔放な創作活動を「芸術家」に保障するために存在しているのでもなければ、そのために仕事をしているのでもない。「芸術家」も様々な制約の中で創作活動をすることを余儀なくされる。結果として、その制約を軽減させることができるのが、アーツマネジャーの仕事なのである。あくまでも「結果として」である。前述した「スパイラル状の循環」によってである。私たちのミッション(使命)は、顧客の生活スタイルに「影響」をもたらし、「変化」をもたらし、それを人々の「生きる力」とすることである。「変革された人間」を生みだすことである。決して、「芸術家の自由奔放な創作活動」を保障することではない。

生産者主権のマーケティングの死

「芸術家」とその成果物の固有価値を最優先する社会的慣性を私たちは生きてしまっている。そのために、私たちは観客や聴衆を、「成果物という情報」の受け手に押し込めてしまってはいないか。それが「芸術の障壁」を高いものとしてしまっていることは既に述べた。「情報(インフォメーション)」と「交流(コミュニケーション)」はまったく違う構造を持っている。私たちが携わっている文化芸術は、相互の交流(コミュニケーション)によって「芸術」たりえているのだという原点に、私たちはあらためて立ち帰る必要がある。観客や聴衆を劇場・ホールの座席に押し込めてしまってはいけない。私たちは、観客や聴衆が自由奔放な想像力と創造力でセルフストーリーを紡げるような環境を整えるべきである。自由奔放であるべきは顧客の方なのである。そのような経営に立脚することで、私たちは「刈り取り」のマーケティングではなく、「種まき」のマーケティングをすることができるようになる。ウィリー・ローマンは、「刈り取り」しかしていなかったことで仕事と生活の激しい徒労感にとりつかれ、ついには「死神」を近付けてしまったのではないか。アーサー・ミラーの代表作である『セールスマンの死』は、社会派だった彼の著作だけに、「アメリカの死」を暗喩し、アメリカ型の「生産者主権のマーケティングの死」を意味しているのかもしれない。

【次回】第三章 ベス・チャトーの「奇跡の庭」のように。