第8回 コロナ禍の終息が、元に戻れることを約束はしない(下)-脆弱性を逆転する、「強み」を活かした大胆なマネジメントとマーケティングを。

2022年1月27日

可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生

サプライサイド(創造側)に偏ったアーツマネジメントを見直す。

前回で私は「90年代初めに『アーツマネジメント』という概念が移入されて以来、21世紀を迎えて時代環境の激変の中で刻刻の変化に対して検証されることなく、化石化していた文化芸術と劇場音楽堂等の経営概念」と書いて、既に30年を経ても社会環境・経済環境・時代環境の激変の中で何ら検証されることなく化石のように存在して陳腐化しいることへの疑義を述べました。むろん、コロナ禍の只中で、それが信じるに足りる考え方なのかという捉え直しもありますが、従来からの「アートマネジメント」(90年代はそう表記されていた)は、舞台創造側・サービス提供側のサプライサイドの「集客による利潤確保」にスタンスを置いた経営概念ではなかったのか、と自省をとともに考えています。そこでは、観客・聴衆は単なる「集客の対象」としてしかとらえていなかったのではと、コロナ禍を経過する中で「これはおかしいのでは」と疑問を感じたのです。なぜそのような気付きと疑問が出たのかは、コロナ禍にあって劇場音楽堂等という特定の場を顧客ととも共有することでしか成立しない「生産と消費の同時性」というサービス特性から、観客と聴衆がどのような構造で舞台で繰り広げられるライブパフォーマンスを受け取っているか、そこでどのような構造で「価値」が生まれているのかの洞察抜きには、アーツマネジメントは経営概念として正当性がないのではないか、と昨年のまさしく有事化した第5波の最中に自身が信じているマネジメントとマーケティングの概念を、その根底から疑ってみないとwith coronaが常態化する先が見えないと思うようになりました。

私自身の「常識」を打ち毀して再構築しなければ、やがて来るだろうコロナが日常化したのちのwith coronaでの舞台芸術は成立しない。その成立条件を探らないかぎり、舞台芸術には「明日」はないと次第に確信を深めていくことになりました。それには、劇場音楽堂等と文化芸術の比類ない「強み」を前面に押し出した、「観客・聴衆は単なる『集客の対象』とするアーツマネジメントの大胆な理論の再構築をする改革をしなければ、おそらく延々と続くであろうwith coronaでの「未来」はないと思えたからです。これは、劇場音楽堂等と芸術団体の公演において前提とされるサプライサイドと観客・聴衆との「社会的契約関係」の、信じられてきた「常識」を大きく変えることでもあります。私たちが当たり前のように思い込んできたのは、実演芸術家のパフォーマンスは、サプライサイドが創り込んだ「価値の提供」であり、観客・聴衆は受動的に「その価値の受け手」という枠組みではなかったか。しかし、まず考慮しなければならないのは、コロナ禍にあっては、観客・聴衆も、まぎれもなく「プレイヤーの一人」として共有する場に否応なく存在するということです。仮にサプライサイドが感染対策を万全に施したとしても、この「プレーヤー」が持ち込むウイルスによって事態は一変します。とりわけ感染力が増していると言われているオミクロン株ではなおさらです。それは同時に、芸術団体と劇場音楽堂等の経営基盤であり、無形性の経営資源である「社会的信頼感指数」(社会的ブランド力)の瞬時の失墜を意味しますし、従来から保持してきた「顧客接点」はリセットされてしまいます。「共感性」と「共鳴性」をベースとしてきた芸術団体と劇場音楽堂等の「社会的契約関係」による経営基盤は、ひとたまりもなく零落の危機に瀕することが高い可能性と考えられます。オミクロン株は、感染しても自身が軽微軽度の症状で感染を自覚できないことが多々あると言われています。しかもきわめて感染力の高い、今日現在の「実効再生産数」が2.14と疫学的見地で示されたオミクロン株の蔓延は、その危機管理をきわめて困難にすると考えられます。アーラでは、予定を立てにくい忙しい今日的な状況を鑑みて、2週間前まではキャンセルを可能にするチケットシステムを構築していましたが、一昨年のアルファ株の蔓延時点で、体調が悪ければ「当日キャンセルも可能」としました。高熱や激しい倦怠感という自覚症状がほとんどなくて、鼻水、咳程度の軽度な症状のオミクロン株では、この「2週間前」のキャンセルシステムはまったく機能しなくなりました。

文化芸術の「強み」を活かしたプラットフォームを設ける。

この稿を書き進める拠り所として「顧客接点の強化」と「信頼感指数の高度化」による「損失回避性」の壁を超えてチケットの購入の意思決定をするという基本的な設計を打ち出しました。まずは、芸術的価値の本質を担保する「共感性」と「共鳴性」の前提である「安心と安全が保障される場」の提供こそが、with corona下にあっての最優先の経営手法だと考えていました。しかし、変異したオミクロン株の出現は、「損失回避性」の壁をより高く、厚くしたと認識せざるを得ません。これは、一般的な「リスクマネジメント」ではなく、ほとんど「クライシス・マネジメント」とでも言うべきものと、劇場経営の経験から肌感覚で受け取っています。考えてもみてください。長い時間をかけて苦労して積み上げた社会的な信頼感が瞬時に崩壊してしまう事態を。それは水準の高い「芸術的価値」の提供とは、まったく異なるフェイズにおける「社会的信頼感」という課題をどのような道筋で確立させて、維持するかにすべてはかかっています。それは、「固定顧客」、「潜在顧客」にもプレーヤーとしての当事者意識を持っていただくという、劇場ホール内で前提となる「社会的契約関係」そのものの変化に関わる考察となります。

その狭隘な「社会的契約関係」の設計のキーワードの一つは「共創性」です。言い方を換えれば、寺山修司さんがかつて仰っていた「半分は観客が創る」の名言と同義です。2011年の秋に全国公共文化施設協議会からの依頼を受けて、翌2012年2月に発刊された アートマネジメントの基礎と実践研究のアートマネジメントハンドブック『アートエクスプレス』にフリップ・コトラーとジョアン・シェフ・バーンスタインの共著『Standing Room Only』(日本未翻訳)の中の記述である「優れたサービスとは何かを定義するのは顧客である。そして、彼らの定義に重点を置くのが、マネジメントの責務である」の引用を起点として、さらに現明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授近藤隆雄の名著『サービス・マーケティング』でのサービスの特質として、「実際にプラットフォームに何を乗せ、どういう意味を持たせるかは、顧客の創作をゆだねるのだ。顧客の想像力を誘発し、顧客の個人的な生活シーンを描けるサービス商品の提供である」という優れた知見から、カスタマーバリュー・デリバリー・システム(顧客価値提供システム)こそが文化芸術の、そして劇場音楽堂等の提供するサービスであると提案しています。「価値は顧客のなかに生まれる」として「顧客価値=経験価値」という可児市文化創造センターalaの館長に着任して掲げた「経験価値経営=創客経営」の経営理念をこの冊子ではじめて出版物で提案しました。サービス産業の特性は「共創性」によって生まれる「価値」こそがすべてである、そしてその「共創」が醸成されるプラットフォームを提案する、それはフィリップ・コトラーの新著『Human-to-Human Marketing』では、原書にあたってはいないが「proposal」 というより「proposition」のニュアンスに近い「提案」ではないかと感じています。そして、舞台芸術の産業特性から、2つ目のキーワードである「ナラティブ」が導き出されると考察しています。

もう一つの「強み」はナラティブ・マネジメント。「消費行為ではない鑑賞」を。

ナラティブ(narrative)は「物語」と普通は訳されますが、Storyの物語とは大きく異なります。私がこのナラティブに着目したのは、英国出身の哲学者アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』での、人間は何かを、或いは誰かを理解しようとするとき、その人間の内面から湧き上がる物語(ナラティブ)を手掛かりにして理解する、という意味の一節でした。そのナラティブにあっては、常に「主人公は自分」であり、ストーリー(物語)には「起承転結」があって「終わり」があるが、ナラティブには終わりがなく、つねに現在進行形で、しかも時に未来へのパースペクティブをも包括する概念です。たとえば、他者を理解しようとする時に、現に目前にいる誰かを自己のあらゆる経験値(生活史)を動員して「理解をしている」のであり、同時にその誰かとの将来的な関わり合いまでも見通すことがあるのです。それが「起承転結」のない物語である「ナラティブの時間」の流れと言えます。2012年2月にアップした館長エッセイの「『新しい価値』を創りつづける― ナラティブ・マネジメントと劇場経営との関連性では、「ひとつの『物語』ともうひとつの『物語』が出会い、理解可能な関係ができると『新しい物語』(つながり)が新しい価値として生まれます。『変化』です。この『変化』は、観客数や稼働率や経済波及効果のように定数化は出来ません。そこに私たち公立劇場の経営に従事する人間のジレンマがあります」と書いています。

これを書いた10年前には思い至ってはなかったのですが、ナラティブとナラティブの出会いによる「価値交換関係」で生まれる「新しい価値」こそが、実は「つながり」であり、最小の社会の成立という価値なのであり、舞台芸術における観客・聴衆が何処までいっても、その成果を専ら消費する存在であるという「常識」をブレイクスルーする、劇場ホールにおける「社会的契約関係」のコペルニクス的な転換になるのでは、といま私は考えています。あるいはこれは、「地動説」から「天動説」への転換ほど、アーツマネジメントの基本ロジックを揺さぶることになるのではと、私自身、あまりの「常識の転覆」に、90年代に自著『芸術文化行政と地域社会』で文化芸術の社会的価値を打ち出した折の激しいハレーションとネグレクトを想起するほどです。つまり、演劇や音楽や舞踊等の舞台芸術の価値は、サプライサイド(創造側)が創り込み、パフォーマンスに埋め込まれるのではなく、それは飽くまでも創造側からの「提案」(proposition)であり、舞台芸術の「強み」である共感性と共鳴性によって両者が共創するという「社会契約関係」を、私たちの「鑑賞体験」に照らし合わせて、改めて確認するところからこの「変化」の建付けは始まります。さらにその先には、異なる複数の「ナラティブ」が出会い「価値交換」の機会を持つことで、新たな価値(つながり)が醸成される仕組みを構想・設計することで、舞台芸術の「社会的価値」の拡張性を獲得できるということです。「価値はつねに共創される」というテーゼをわきまえて、創造主体と複数の顧客のトライアングルが芸術団体の舞台と演奏や劇場音楽堂等への「価値」へと転化してブランディング(社会的信頼関係)の進化は実現するのです。

そのような認識をベースとした「共創のプラットフォームCo-creating Platform」を設けることで、観客や聴衆を「専ら消費する存在」から解き放って、文化芸術の「社会的価値」も高度化することになるのです。それは「信頼感指数の高度化」を意味します。演劇評論家として40年間、年間250~300本程度の舞台と向き合っていて、或いは趣味のひとつとしてオーケストラの演奏を、また美術館での鑑賞をしてきて、マッキンタイアの言う「ナラティブ」の存在は経験則として即座に理解できて、しかもすんなりと腑に落ちました。読者の皆さんも、ご自分の鑑賞体験を振り返ってみてください。観客聴衆であった自分は「情報の受け手」であったか、そこに「共創関係からのナラティブ」が働いていたのかを。人間関係をはじめとする社会的リレーションも、言われてみれば「ナラティブ」が働いていたことに気付きました。私が物書きを生業としていた頃、編集者には「記録としての劇評」ではなく「文学としての劇評」を書きたいと常々話して、それを貫いてきました。それが私の「ナラティブとしての劇評」であった訳ですが、それを舞台と観客・聴衆の関係に持ち込むことには、正直言っていささか抵抗感がありました。しかし、よく考えると私の観劇体験の経験則はそれを裏付けているわけで、私たちが思い込まされていた「常識」というものの根深さを、あらためて思い知らされることとなりました。文化芸術に限らず、私たちが囚われている「常識」が世界や社会をどれだけ歪めて誤解が大手を振って支配しているのかをあらためて実感して、その恐ろしさを学習することになりました。私たちは「常識の囚人」であるかぎり、イノベーションからはもっとも遠いところに存在するしかない、と実感しました。

文化芸術の「価値」は顧客が創るという脱常識の発想。

その厚く高い障壁を突き抜けるための背中を押したのが、コトラーの新著『Human-to-Human Marketing 人間中心のマーケティング その理論と実践』での「企業は一方的にモノやサーヒスに価値を埋め込むのではなく、顧客が自ら価値を引き出す価値提案を提供する、とS-DL(サービス・ドミナント・ロジック)は仮定する」の一節でした。そして、H2Hマーケティング(コトラーは本書の中でHuman-to-Human Marketingをそのように表記している)は、「サービスの共創的交換を新たなマイルストーンとする」とその「社会的契約関係」の転換を、ほとんど宣言と受け取れる書きっぷりをしています。 「サービスの共創的交換」の脚注をそのまま記せば、「サービスの価値は交換価値ではなく受け手が感じる価値であるため、受け手の参加なしには実現しえない」とあって、コトラーは「Thinking in Co-Creative Service Exchange」と表記しているという。これは、舞台芸術間関係者が常々思っている、観客や聴衆がいないと舞台も演奏も成立しない、という当たり前のことを指しています。そして、消費者としての「彼ら」が「価値の共創者」となることは、確信にみちた「強固なリレーションシップ(つながり)」を、顧客と芸術団体や劇場音楽堂等とのあいだに切り結ぶという「新たな社会的契約関係」の成立を意味しています。

さらに、「ナラティブ」を梃子にしたマネジメント及びマーケティングは、顧客の多様化に企業組織が苦慮して80年代に登場した「物語消費」にも触れなければならないと思います。一時注目され、分野横断的に各企業が力を入れた「物語消費」と「ナラティブ消費」とは、まったく異なることも念のため記しておきたいと思います。「物語消費」とは、企業や組織によって埋め込まれた付加価値に依存する消費姿勢であり、たとえば「恵方巻」やディズニーをはじめとする「キャラクター商品」や「バレンタインデイのチョコレート」など、商品やサービスに組み込まれた「価値」を受動的に購入の判断材料にする消費のことです。商品サービスだけではなく、NHKの「プロジェトX」や「プロフェッショナル」に見るように、製品やサービスや工業製品に込められた企業理念や開発者の世界観への共鳴によって、ガルブレイスが指摘した「欲望の喚起、操作、模倣」による購入を促すマーケティング手法です。共感と共鳴をベースにして組み立てられたマーケティングではありますが、ここでの消費者はあくまでも「情報の受け手」としてしか企業には認知されていません。その意味では、「ナラティブ」に依拠する消費者は、「自立する消費者」とも言えるのではないでしょうか。近年、経営で重視されているのが、「有形資産重視から無形資産重視へのシフトチェンジ」です。「無形資産」或いは「簿外資産」とは、流動性資産である現金や固定資産である不動産よりも、組織、知識、顧客という会計帳簿には記入されない社会的信頼感を重視する考え方です。共創価値をベースとするマイケル・ポーターの提唱するCSV経営も、この「共創価値」という無形資産を非常に重視する経営手法と言えるでしょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

CSV経営とマーケティングこそが、「顧客接点の強化」とコロナ禍での「損失回避性」の障壁を越えて、文化芸術の「社会的財産化」を進捗させる。

Creating Shard Value(共創価値の共有)は、競争優位の企業戦略研究者のハーバード大学マイケル・ポーター教授と、企業組織の社会貢献活動のコンサルティング企業のCEOマーク・クラマーの共著で2011年発表されたの論文『共通価値の戦略』(Creating Shred Value)で提唱された経営戦略です。両者は2006年にも『競争優位のCSR戦略』(Strategy and Society邦訳2008年「ハーバート・ビジネスレビュー」)を発表しており、従来からのCSR(企業組織の社会的責任経営Corporate Social Responsibility)が、寄付やボランティア派遣等、企業市民としての道徳的義務、未来社会のニーズを損なわない程度の地球環境の持続継続性、社員の士気の鼓舞と企業価値評価による株価の引き上げとを維持による株主への配慮、といった必ずしも企業組織の成長発展を阻害する社会課題の改革改善に直結する活動ではなく、言葉は悪いが、過去と現在の事業継続への「贖罪」とか「代償」のような経営手法としてあることへの、いわば批判的論考として発表しています。一言で言い表せば、「企業は本業で社会貢献をしながら、利益も出せるし、出すべきだ」と競争優位の経営戦略研究者の面目躍如の書きっぷりで、余剰資金があれば実施して、なくなれば即座に撤退するCSRの在り方に反駁を加えているのです。これは、社会包摂的なコミュニティ・プログラムを「副業」とし、芸術創造活動を「本業」と二分化している、日本における社会包摂活動への位置づけへの誤解・曲解を一刀両断で糺す見識と言えます。

その5年後に発表された『共通価値の戦略』では、従来からの受動的なCSRからテイクオフして、課題解決による「社会的価値」の創造が、結果として「経済的価値」を生むような攻めの、「能動的・積極的CSR」を、ポーターとクラマーの言葉で表せば「Creating Shard Value」(CSVにシフトすべきと説いているのです。この際のキーワードは、「共創による共有」です。「共創のプロセス」を共に歩むということは、「価値の共有」という、強いきずな、リレーションシップが両者の間に結ばれることになります。当然の帰結です。自明の理です。それまでは、製品サービスの「価値」は、供給側である企業や組織や機関が製造過程と創造過程で創り込み、埋め込んで提供していましたが、最新の経営戦略では、その「価値」を供給側と受益側が共創することで「強いつながり」と「揺るがないロイヤルティ(帰属意識)」を醸成して、コトラーの言葉では「Great Journey」、井関先生が強く主張していた「顧客進化」へと昇華することを企図するのです。2012年2月に可児市文化創造センターのウェブにアップした館長エッセイ『エッセンシャルワーカーとしての文化芸術「社会的処方箋活動」の実践― 戦略的アーツマーケティング(CSV)で文化芸術の社会包摂機能を解き放つ』で、私は「CSVは、社会的責任でもなく、慈善活動でもなく、サスティナビリティでさえなく、経済的な成功を達成するための新たな道である」というポーターの言葉を引用して、彼のCSVに託したすべてを語り尽くしていると評価して、いささか乱暴な言い方ですが、「『いい子ぶらないで損して得とれ』、『下心を持ったいい子になれ』ということです」と噛み砕いています。

ここまで来て、お気づきの読者の方もいらっしゃると思いますが、コトラーの最新刊『『Human-to-Human Marketing 人間中心のマーケティング その理論と実践』の巻頭言の末尾の謝辞部分に、「素晴らしい経営学者」としてマイケル・ポーターの名を出して「出会い、協業してきた」人物の一人として挙げています。「Human-to-Human Marketing」と「Creating Shred Value」の通底が明らかになり、その双生児性は読み進めるほどに強いインパクトを私に与えました。これは本当に偶然なのですが、宮城大学・大学院の教員時代には「競争優位戦略」の権威であり、いわば新自由主義経済体制内の経営学者としてほとんど読まなかったマイケル・ポーターと、『資本主義に希望はある』を著わして自身のマーケティング理論への悔悟なく、自分はシカゴ大学でミルトン・フリードマンに指導された経済学者であると臆面もなく書いているフィリップ・コトラーには失望していました。かつては熱心な読者として、新著のタイトルに惹かれて手に取った著作で「マーケティングのイメージは近年悪化の一途をたどっている」と書いて、それは「利益至上主義のマーケッターの行き過ぎた非倫理的な行動」によっており、「この傾向をもたらした一番の理由は、株主価値志向だ、とする研究者は多い」と書き継いでいて、「信用なくして、『人間である』顧客との有意義な関係を構築することは、ほぼ不可能なのだ」と、この著作の意味を語るコトラーとポーターが、迂回してつながったとの感想が私にはあります。閑話休題。

文化芸術と社会とを乖離をさせる認識(不要不急)を経営理念の変革が、行政の文化芸術への意識をも変える。

ポーターとクラマーは、前掲の2つの論文の前の2003年にも『競争優位のフィランソロピー』(The Competitive Advantage of Corporate Philanthropy)を発表しており、そこで企業組織の社会貢献活動の在り方を説いています。それによれば、社会貢献においても企業組織の競争的背景を重視すべきと主張します。そこでは、真の社会貢献活動とは、社会的価値という目標と経営的戦略目標に同時に取り組んで、自らの経営資源と人材と専門的能力を動員して、企業組織と社会の両者がWin-Winの関係になることを目指すべきと主張しています。寄付やボランティア派遣は、経営的戦略目標ではないことから、2003年段階ですでにCSRは排除されているのです。このフレームワークの延長上でCSVは提案されているのです。経済成長と社会の健全化と進展は等価であるべき、というフレームワークです。ならば、文化芸術と劇場音楽堂等において、このフレームワークはどのように演繹されるのだろうか。繰り返し述べているように、文化芸術サービスは、岡田正大慶応義塾大学ビジネススクール教授のポーター研究を演繹すれば、文化芸術は「社会経済収束力(機能)を先験的に保有する「包括的ビジネス」と考えられます。「社会経済的収束機能」とは、社会的価値の実現が、同時に経済的価値の獲得ともなる、いわば両刀づかいの特性を持っているサービスと言えます。岡田教授が事例として挙げているように、たとえばヤマハ発動機は、世界の最貧地域である西アフリカの沿岸漁業の人々の漁の困難さや危険性、収益性を解決する技術として自社の船外機を位置づけて、現地での大きな市場シェアを獲得したように、自社の製品やサービスを社会課題解決のツールとしてどのように社会経済収束力を持たせて定立させるかが経営者には問われるのです。一般企業では、自社の技術集積や人材や投資的資金と社会課題をマッチングさせる設計が、その効率的・合理的な実現を担保するわけで、その作業の適切性が強く求められます。CSVを経営の中に組み入れようとする企業組織は、この段階での中長期的な展望が求められるのです。私は、岡田教授の吟味を待つまでもなく、文化芸術サービスは「社会経済収束性」をあらかじめ持っていると、私は劇場経営の経験則から考えています。それだからこそ、資金の豊富な大企業でなくても、経営基盤の脆弱な芸術団体でも、劇場音楽堂等でも、CSVによる経営とマーケティングに容易にシフトできると考えるのです。私が「館長エッセイ」で頻繁に触れてきた、そして可児市文化創造センターalaで行ってきた「社会包摂型劇場経営」の根拠はそこにあります。

だからこそ、「本業としての芸術活動」、「副業としての社会包摂」という、ともすれば二項対立に陥る考え方を、私は「誤解と曲解」と言い続けてきたのです。それは正しくは一体であり、一体であるからこそ「文化芸術」なのだと考えるべきであり、その循環と螺旋状の進化の実現という経営理念がどのように継続的に行われてきたかは、文化芸術には門外漢である社会活動家の湯浅誠氏のYahooでの報告を参照してください。社会福祉の専門家である第三者的な視角からの報告ですので、文化関係者のリポートより、その実態を良く伝えてくれています。

湯浅さんの報告にあるように、館長就任時の2008年から2014年で、観客動員数を368%、パッケージチケット数を875%増やしており、また多額の補助金・助成金を得られるようになっています。これは、社会的価値と芸術的価値の循環を企図した、就任当初のCSR経営から2010年前後でのCSVへのシフトチェンジの成果であり、私の経験則とはこの事実です。私は、「芸術活動」も「社会包摂活動」も、ともに本業であり、その循環とその螺旋状の進化を実現するアーツマネジメントとアーツマーケティングが芸術団体と劇場音楽堂等に強く求められている、と考えているのです。「不要不急」のレッテルを論理的に拒絶する方法は、これに尽きると確信しています。国民市民の刷り込まれた認識を上書きして、「公共財としての文化芸術」を社会的合意として結実するための長い時間の第一歩はここから始まる、と確信しています。その先に、行政の文化芸術への認識の誤謬の変化と、政策目的としての劇場音楽堂等の設置という誤謬を転換させて、社会包摂機関としての本来的な行政の在り方に依拠する「政策実現の手段としての劇場音楽堂等の設置」という存在意義の正当性の獲得に向かうのです。

「社会課題」と「経営課題」を、ともに解決させるミッションに向かう。

この経営戦略を編み出すために、私は2007年に大学との兼務で非常勤館長として就任してからたった数か月で書き下ろした『集客から創客へー回復の時代のアーツマーケティング』の「第四章 戦略的アーツマーケティングと顧客志向経営の実践(alaを事例として)」の、劇場の周辺環境のSWOT分析の箇所を参照していただきたいのです。当時の篭橋事務局長(現館長)と渡辺総務課長に、開館以降のおよそ4年半分の決算書と事業収支報告を持参いただいてエクセルシートに落して分析して、あわせてこのSWOT分析から、アーラのすべてが始まっています。

この分析をしながら「弱み」を「強み」に、「脅威」を「機会」に転換させることを数日かかけて考えた結果が可児市文化創造センターalaの経営手法の根底を形成しました。名鉄名古屋から犬山で乗り換えて広見線を利用するかJR多治見駅で太多線に乗り換える、人口10万の、都市圏から言えばいわば「どん詰まり」にある可児市の劇場は、市場規模は商圏としても最大35万人程度で、主に活用できるメディアも「地域版」くらいであり、評価機能の集積している首都圏から見方によっては隔絶している小さな地方都市に立地しているのは、見方によっては大変な「弱み」です。ただ、私はこの立地条件を「強み」として経営を進めようと考えました。たとえば、まったく同じ経営を名古屋でやっても小さな成果としてしか受け取れないが、人口10万人の、「可児」の読み方も知られていない小都市でやればトピックとして大いに注目されると踏んだのです。「脅威」を「機会」に転換させるのも、文化芸術の愛好者である可児市民の多くが名古屋を向いており、近隣では貸館で実施されるコンサートに出掛けているという話を耳にして、足元で芸術的評価の高い事業をプログラミングすれば、気付いた時の驚きでロイヤルティの高い「ファン」は生まれると「機会の創出」を考えました。あわせて、この分析の中には、事業の組み立てそのものを変化させなければならない「弱み」と、月二回の「館長ゼミ」での職員との課題共有による意識改革で変えられる課題とが混在しています。また、SWOT分析は、「内部環境」と「外部環境」を俯瞰してニュートラルな価値判断で行われた企業組織の現在の立脚点をチェックする作業ですので、あらためて時間をおいて見ると、特に「外部環境」で解決しなければならない改革は、先般の芸文振運営委員会の「特別部会」で貫かれた「社会の中の文化芸術」と交わる事項が非常に多いことに気付きました。
さらに、当時の経営戦略の立案作業が、「弱み」を「強み」に、「脅威」を「機会」に転換させる、シンプルではあるが、劇場の外部環境である政治・経済・社会を俯瞰できる知見と能力と、膨大な時間を要する分析だけではなく、市民の生活環境に関わる「社会課題」と、劇場の事業環境に関わる「経営課題」を腑分けして、前者は社会包摂的思考での解決を企図して、後者は市民の価値観や生活習慣や生活信条に働きかけるソーシャル・マーケティング手法でのアプローチをして、「文化芸術への無理解」や「劇場へのハコモノ批判」や「文化芸術への無関心」等にどのように対処するかの「経営課題」の解決への設計図をざっくりと描きました。可児市民とどのように向かい合うかの複雑で、深耕を要する、堂々巡りの避けられない「準備作業」だったことを、あらためて思い出しました。前者の「社会課題」は職員の意識改革とあわせて組織改革がどうしても必須となり、後者の「経営課題」は、職員と組織に館長ゼミで培った「マーケティング志向」が絶対条件となります。スカンジナビア航空を1年で再建したヤン・カールソンの『真実の瞬間』にあるように、たとえ数時間から10数時間をフライトに費やしているとしても、彼は「顧客は当該企業を職員と接する15秒間で価値判断をする」の聡明な分析を援用するなら、顧客との接点を担う職員の意識が劇場の価値を決定するわけでして、ここでは管理職と中間管理職は、顧客接点をバックアップするというサービス業のセオリー通りで、館長ゼミによって変化した職員の意識が重要な役割を果たしてくれました。可児市文化創造センターalaというと「社会包摂」と「社会課題の解決」と即座に想起されますが、あらためて当時のSWOT分析をながめると、「外部環境」なので当然ではありますが、劇場の事業環境の解決改善を目指す「経営課題」も等価として重要視していたことに行き当たりました。いずれも、従来からの「劇場経営の常識」の殻を破るフレームワークを視野に入れてのものでした。その戦略は、中央から影響の受けにくい小さな地方都市だから出来たものであり、「芸術の殿堂より人間の家」と「社会機関としてのアーラ」の発想も、SWOT分析から導き出したキャッチフレーズでした。ともかくも、誇大妄想と言われても仕方のない、壮大なグランドデザインを描いての出発でした。

「社会的共通資本としての劇場音楽堂等」へ向かうための、ナラティブの交差するプラットフォームを。

館長就任から5年目に「地域の中核施設」から「総合支援施設」へとステータスが移行しました。7、8年目あたりから市民の生活環境に関わる「社会課題」は、予算を割いて社会的投資回収率(SROI)の数値を出して、その数値の背景を学際的な定性評価をすることになります。劇場の事業環境に関わる「経営課題」でも、あからさまな反対派の声は治まって、可児というまちに必要な施設として容認され始めていました。むろん、総合支援施設という外からの評価が大いに影響しました。その頃から、新たに劇場やホールを設置しようと計画している全国の自治体からの、施設を視察するものから、アーラの経営のレクチャーを受ける要望の地方議会からの会派及び委員会単位の視察が急増し始めました。これも外部からの評価であると私は受け止めていました。それらが相乗的に働いて「経営課題」の解決に向かわせたのだろうと考えています。

昨年3月で私は館長職を退きましたが、後任の篭橋館長との話の中で、「社会包摂」と「社会的処方箋」と経てきて、次に目指すフェイズが話題となりました。篭橋館長は、宇沢弘文先生の「社会的共通資本」における「教育」についての考え方に強い関心と共感を寄せており、私も2017年の世界劇場会議国際フォーラムに宇沢先生の教えに導かれて財政学の権威となった神野直彦先生をお招きして、『経済成長優先の「豊かさ」の時代から、生活重視の「幸福」の時代へ』というタイトルでの基調講演をしていただいたことがあり、その頃は「社会的共通資本」として文化芸術や劇場音楽堂等をどのような筋道で位置づけられるかを模索していた時期でした。私は岩波新書の神野先生の著作『「分かち合い」の経済学』で紹介されていた「オムソーリ」という言葉の持つ意味の奥行きの深さに心を動かしていましたし、何よりも神野先生の「緑の織り成す木陰と、人間と人間とが織り成す木陰のもとで、子供達はすくすくと育ってきた」という講演の一節に強く惹かれての「社会的共通資本」への関心となっていました。館長エッセイ『社会的共通資本としての劇場音楽堂等と芸術文化を―成熟社会の綻びを回復に向かわせるために』を参照してください。

新館長が強い関心を持っている「社会的共通資本」(Social Common Capital) は、「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置」と定義されています。宇沢先生自身の手で作成されたと思われるPPでの定義です。また、そのPPには、「社会的共通資本の具体的形態」として、「 (1) 自然環境 : 山、森林、川、湖沼、湿地帯、海洋、水、土壌、大気 (2) 社会的インフラストラクチャー : 道路、橋、鉄道、上・下水道、電力・ガス (3) 制度資本 : 教育、医療、金融、司法、文化」が挙げられています。いわば、「自然資本」、「社会資本」、「制度資本」の三つの分類であり、それらを管理運営する主体は政府自治体や民間営利法人ではなく、「それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門家集団により、専門的知見と職業的倫理観にもとづき管理、運営」するものとしています。そして、可児市文化創造センターalaの掲げる新たな旗幟は、「社会的共通資本としての劇場」ということになると、ほとんど時間を要することなく篭橋館長と意見の一致をみました。そのために、月二回のゼミの輪読書は宇沢先生執筆の文章をまとめた『経済学は人びとを幸福にできるか』と決まりました。ファシリテーターは篭橋館長に務めていただき、私はサポートにまわろうと考えています。さらに、全国の劇場関係者、自治体関係者、芸術団体NPO関係者が集まって2016年から継続的に年3回開催してきている「あーとま塾」は、従来からの「文化政策」、「社会包摂」、「マーケティング」の流れは維持しつつも、「社会包摂・社会的処方箋」から「社会的共通資本としての劇場音楽堂等」へのシフトを視野に入れて担当者と協議してプログラミングします。それらの成果が束ねられて、来年度にファイナル開催となる世界劇場会議国際フォーラム2023で「社会的共通資本としての劇場音楽堂」を新たなマイルストーンとする方向に一挙に収斂するように舵を切ろうと考えています。

そして、一昨年、館長退任まで半年を切った11月に、事業制作課長に新しいフェイズを切り拓く「宿題」を出しました。それは、可児市文化創造センターalaは、現在の「総合支援」というステータスに決して満足せず、さらに劇場音楽堂等の、数次にわたる基本方針等で繰り返し記されてきた「国民一人ひとりの社会的財産」の実現を不断に追い求める私たちの意思表示です。それは、「社会課題」と「経営課題」の統合的かつ象徴的目標として、「鑑賞」を消費的行為から解き放ち、生産性と創造性のある「新しい価値=つながり創生」のためのコ・クリエイティブ・プラットフォームの設置です。洋の東西を問わず、「社会的孤立と孤独」が重大な、そして時代的な社会問題となっている昨今、個々のナラティブを交流交差する場を新規事業として劇場内に設けて、「つながり創生」に結実させることが、社会課題のみならず、経営環境をもより前進させると確信したからです。これは、フィリップ・コトラーとジョアン・シェフ・バーンスタインの共著『Standing Room Only』(日本未訳)の「優秀なサービスとは何かを定義するのは顧客である。そして、彼らの定義に重点を置くのは、マネジメントの責務である」という顧客へのエンパワーメントへの第一歩となります。いわば、私たちが体験的に知っている寺山修司さんの「半分は観客が創る」の名言の経営的な制度化です。コトラーは『芸術の売り方』の序文で「マーケティングは本当の顧客価値を生み出す技術なのだ。『顧客』がもっと豊かになるのを助ける技術なのだ」と書いて、セリング(Selling)を「刈り取り」、マーケティング(Marketing)は「種まき」に喩えています。したがって、このCo-creative Platformの設置は、まさしく「種まき」であり、お客様をより豊かにする私たちの責務、いわば劇場音楽堂等と文化芸術の創造主体の存在意義に関わるコミットメントの実体化を意味します。市民みずからが対話の中で「価値の交換」を繰り返して、「価値の創出」に当事者として直接的に関与する。この仕組みの創出は、たとえばアーラへの、井原哲夫慶応義塾大学名誉教授が『愛は経済社会を変える』の中で提唱している「身内意識」(sense of belonging)の醸成であり、市民とアーラが一層近くなり、親和的な関係となることを使命としたリレーションシップ・マーケティングの実践的試行となると考えています。

観客・聴衆・観覧者に「価値の決定権」を委譲するエンパワーメントによる「社会的契約関係」の転換は、私にとっても、コロナ禍に見舞われる前まではあり得なかった「常識のリセット」です。しかし、文化芸術の「不要不急」が喧伝される中で、その社会の価値観を大きく転換させるには、当事者自身が信じて疑わなかった「常識」をも解体するほどの創造的破壊をする勇気を持たなければならないのではないでしょうか。「相手に変わってもらいたかったら、まず自分から変わる」の、就任当時から「社会包摂型劇場経営」を段階的に進めるたびに自分に言い聞かせ、職員にも幾度となく求めてきたことの、私にとっては最後の仕事かも知れないとの予感はあります。この原稿を書き進めている時に、1月20日の国会中継の代表質問を視聴していました。公明党の石井啓一幹事長がコロナ禍での文化芸術関係者の窮状に対して岸田総理の見解を求めるという情報をFacebookで見たからです。石井啓一幹事長の質問に対して岸田総理は、「国難と呼ぶべき現状において人々の心を癒し、勇気づける文化や芸術の力が必要であり、その灯火は絶対に絶やしてはならないと考えています」と述べられて、2021年度のホールのキャンセル費用への支援や子ども達への無料の鑑賞機会の提供等の手当てを来年度も継続していく、と決意を表明していました。コロナ禍での文化芸術団体の窮状に対して「その灯火は絶対に絶やしてはならない」との認識で手を差し伸べてくれるという決意はとても有難いのですが、前段の「人々の心を癒し、勇気づける文化や芸術の力」には、いささか不十分との感は否めず不満が残りました。

2001年の文化芸術振興基本法以来、数次の基本方針、劇場法と大臣指針、改正文化芸術基本法、それを受けた基本計画と、およそ10年間で9回発出された文化に関わる公的文書では、第三次基本方針と第四次基本方針で「文化芸術は、子供・若者や、高齢者、障害者、在留外国人等にも社会参加の機会をひらく社会包摂の機能を有している」、「このような認識の下、従来、社会的費用として捉える向きもあった文化芸術への公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要性に基づく戦略的な投資と捉え直す」との文化芸術の結果成果のみが問われる創造鑑賞に比べるとパフォーマンス性に低く、そのプロセスが評価される共生社会実現への社会包摂機能を文言として記したという意味で特筆すべきターニング・ポイントと考えますが、実は、第一次基本方針(2002年閣議決定)での「(2)共に生きる社会の基盤の形成  文化は、他者に共感する心を通じて、人と人とを結び付け、相互に理解し、尊重し合う土壌を提供するものであり、人間が協働し、共生する社会の基盤となるものである」以来、文化芸術に関わる公的文書には、それを意味する「文化芸術の社会性」の水脈は一貫して伏流水のように流れています。そして、その社会的機能への支援を含めて「公的支援に関する考え方を転換し、社会的必要性に基づく戦略的な投資と捉え直す」とした認識を、私は非常に高く評価しています。この文言は、文化芸術への「保護政策」を転換させて、文化芸術の諸機能を社会の健全化のための「投資政策」と考えるという意思表示だからです。

したがって、コロナ禍により忘れられて生きづらさを感じている一人親のご家族をはじめ、女性や子どもや障がい者、さらに踏み込めば、社会の健全性と民主主義のコストである分断化を矯正し、予防するための「投資政策」としても、文化政策は失われた30年を回復に向かわせる重要施策と位置づけられると、私は考えます。「経済成長」を最優先とする社会にあって、取り残されてしまっている人々のレジリエンス(困難に立ち向かう回復力)を取り戻すために他者との関わり合う環境を取り戻し、整える「文化芸術の力」が、いまこそ必要であり、まさしく「社会的必要性に基づく戦略的な投資」として「ワンアーツ・ワンジャパン」として出動すべき時機なのではないか、と私はこの2年間思い続けてきました。私が何度となく口にして、書いてきた「文化的社会政策」、予防的な「積極的社会政策」とは、そういうロジックなのです。岸田総理の答弁への不満とはそのような意味です。

そのような活動の社会的機能が芸術的価値の機能との循環に結び付いてこそ、繰り返し基本方針に記されてきた「人々の社会的財産」を実現する明日への軌道に、はじめて乗ると言えるのではないでしょうか。公共財としての文化芸術、劇場音楽堂等へ向かう「共創」のプロセスが明らかになるのではないでしょうか。それが「不要不急」からの脱離の一歩となると確信しています。そのような「価値」は、まさしくラスト・クライアントである納税者たる国民相互のあいだに「共創の価値交換」で生まれるものと思っています。私たちは劇場関係者と文化芸術関係者は、サービス・オファリング機関(共創的価値の提案『Human-to-Human Marketing』)として、その機能をまっとうすることが、文化芸術の側からの国民市民へのコミットメントとなり、そのコミットメントを誠実に遂行することが現下の「国難と呼ぶべき現状」でもっとも必要とされているのではないでしょうか。

アーラの社会包摂プログラムとして当初年間267回で始まった「まち元気プロジェクト」は、コロナ禍に見舞われることになる2019年には年間520回を数えるほどに成長して、いくつかのプログラムをサンプリングして将来的なEBPM(エビデンスに基づいた政策立案)を企図して、決して多くはない予算の中から「調査研究費」をひねり出して専門機関へ「社会的投資回収率」(SROI)のアウトカム算出を依頼しました。この取り組みには、のちに可児市役所も参画することになります。参加者の短期的な「変化」のみならず、中長期的な事業継続の展望を視野に入れてのこの取り組みは、予算の制約のある現状では、何処でも出来ることとは考えていません。しかし、来年度予算案で劇場音楽堂等へ財務省から当初提示された削減幅が5億円だったのが、2億円弱に圧縮された背景には、未来への投資として独自の投資経費を投入した結果としての「社会的投資回収率」(SROI)のアウトカム算出が少しは貢献したと思っています。文化庁から芸術文化振興基金への社会的評価のエビデンス等の提出依頼があって、関係資料を提出してほしいというオファーを受けました。私は2014年に仄聞した、財務省の担当者から「国民の支持がないではないか」と言われて文化庁の職員が立ち往生したというエピソードが即座に脳裏に浮かびました。私はこれまでの調査で得た「社会的投資回収率」(SROI)の数値と直近数年の「アーラまち元気プロジェクト」の報告書等、一抱えほどの書類をキャリーバックで芸文振の担当課長のもとに運び込みました。ただ、残念なことに、他の総合支援館からは何も出てこなかったと仄聞します。私は2019年9月に、当時の基金部長にこの「調査費」を補助金と別枠で設けることを提案しています。現行の「バリアフリー・多言語対応」と同様に、当時は総合支援館の牽引車としての義務的役割として「エビデンスの抽出」を担うべきと考えていましたが、これには組織ばかりではなく、当該館職員個々の未来に向かう使命感が必須であり、職員の業務負担も決して小さくないことから、劇場音楽堂等機能強化事業の「総合支援館」と「地域の中核施設」の中小規模館と、舞台芸術創造活動活性化事業の「複数年計画支援団体」から希望する施設・団体に別枠で裏負担なしに交付することで、文化芸術の存立根拠と基盤を圧し固める社会的役割を果たしてもらう方がより成果が見込めるのではないか、と今は考えています。財政的及び職員の業務負担を考慮すると、このフレームワークがより適正なのではと思っています。

先般開催された連続シンポジウム 「劇場法10年、日本の実演芸術の振興への貢献とこれからの20年」の中での石川県立音楽堂の大海文さんの劇場法をにらみながらの事業の組み立てと報告は瞠目するものがありました。また、福岡県筑後市のサザンクス筑後を牽引する久保田力さんの活動は、中小規模館の予算規模の制約で、大型事業の招聘や製作という目につきやすい華美な劇場経営ではないものの、彼の地域にしっかりと根差すベクトルを揺らぎなく長期間継続していて、彼の学習と研鑽の量的な凄さとあわせて、実に敬意に値する地域劇場のひとつと認識しています。先年、石川県立音楽堂は「総合支援」の枠から外れてしまいましたが、報告にあるような建付けで事業を進めていれば、近い将来には再評価されて返り咲くに違いないと、私は感じました。また、サザンクス筑後の久保田さんのような人物をしっかりと評価するシステムを構築しないと、日本の文化芸術の人材はいずれ払底してしまうとのはでとい危惧を、私は持っています。規模の大小にかかわらず目配りを怠らず、社会及び地域社会に向けての適正で健全な活動に対して「社会的投資回収率」の調査及びその数値に対する学際的な定性評価を定立することが、補助金額と調査費を含めて「未来への投資」になることは明々白々です。「(文化芸術は)その継承と変化の中で新たな価値が見い出されていくものであり、短期的な視点のみでその価値を計ることは困難である。こうした文化芸術の特質を踏まえ、文化芸術活動に短期的な経済的効率性を一律に求めるのではなく、長期的かつ継続的な視点に立った施策を展開する必要がある」(第2次基本方針2007年)の吟味を待つまでもなく、中長期的視点に立って文化芸術の未来と社会の健全化を展望しつつ、自分たちの「いま」にしっかりと根を下ろして活動してほしいと願うばかりです。

私たちが目指すべきは、劇場や社会のユニバーサルデザインであり、性で差別しない、肌の色で差別しない、職業で差別しない、障害の有無で差別しない、そして忘れてはならないのが所得の多寡で差別しないという原則を貫くことで、ウェルビーイング(健康と幸福感)の社会ビジョンの実現の一端を担い、資する文化芸術の芸術的機能と社会的機能の十全な発揮であり、文化芸術振興のための基本方針に幾度も書き記されてきた「国民の社会的財産」という存在意義に至ることです。地域医療と在宅医療のスタッフを育成するために、文化芸術ワークショップで岐阜医療科学大学での医療スタッフ育成のお手伝いをする際に、私は「健康の社会的決定要因=SDH(Social Determinants of Health)」に着目しました。それは、看護・介護・投薬の医療スタッフが、疾患を有する患者さんや機能回復に挑戦する被介護者の、家族を含めた諸環境に関わって、レジリエンスの獲得をサポートする存在として、学生たちが社会に巣立ってほしいとの思いがあったからです。「単に病気をしないというだけでなく、身体的・精神的・社会的に良好な状態にある」というWHOの「健康の定義」、すなわちウェルビーイング(Well-being 健康と幸福感)の象徴的拠点施設として、医療機関も福祉施設もそして、「社会的共通資本としての劇場音楽堂等」が私にはあります。そしてHuman-to-Human Marketingでコトラーが主張するFirms of Endearmentに、すなわち「愛される劇場/アーラ」の実現と、岐阜医療科学大学での医療のユニバーサルデザインは等価であるとの認識が揺るぎなくあります。「Co-creating Platform」の計画も、顧客である、あるいは潜在的顧客である可児市民の皆さんの、生きる意欲を整える環境づくりの一助として構想していることです。私が久しく求めているのは、社会の諸事情を超越して存在するとする芸術至上主義と一線を画して、エンドクライアントである「納税者主権」に立脚する「社会の中の文化芸術と劇場音楽堂等」です。

最後に、私が運営していたNPO法人舞台芸術環境フォーラムのマーケティングセッションにゲストスピーカーとして2002年に招いたウォーリック大学の教員で、アーツマーケティング・コンサルタントでもあるヘザー・メイトランドが、セッションの発言の冒頭に述べた言葉を記します。

「マーケティンングとは観客、参観者、参加者の観点から物事を見つめることです。私たちは人々に関わってもらうための「理由」を提供しなければなりません」。

 ヘザー・メイトランド『成功したマーケティング、失敗するマーケティング』

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この稿は、42500Wを超えるの長尺となりました。国際共同製作の『野兎たち~MISSING PEOPLE~』のロックダウンによる公演中止で英国から帰国してコロナ禍で考えてきたことのほとんどすべてを吐き出しました。一昨年の第1波時には、いささかの混乱はありましたが、デルタ株の第2波のパンデミックの折には、かなり冷静に劇場音楽堂等と文化芸術を待ち受ける未来に考えを馳せることが出来ました。自分でもかなり大胆な提案となりましたが、「いま」という時間に立脚して、過去と未来を俯瞰することが出来たと思っています。様々な考え方があり、いろいろなハレーションがあるだろうと思いますが、それ自体の乱反射の様相が、文化芸術の諸機能が、本当に「不要不急」なのかの議論となることを願っています。しばらくは半年程度は大きなトピックがないかぎりは、筆を置きます。充電に専心します。最後までお読みいただき、感謝いたしております。