第7回 コロナ禍の終息が、元に戻れることを約束はしない(中)-「顧客進化」の実現と「社会経済収束力」の強みを活かした価値の強化を。
2022年1月16日
可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生
陳腐化した「アーツマネジメント」をリセットして向かう、WITH CORONAへの指針。
人間の「欲望」を試し、いまも翻弄しているパンデミックは、人間を経済成長の道具としか扱っていない新自由主義型資本主義によって著しく劣化し、歪められた社会の「いま」の、そのありったけの機能不全を私たちの前に暴いてみせました。経済成長は本来的には人間の幸福のための手段であったはずですが、それが逆転してしまって、人間が経済に振り回されて隷属するかたちを誰もが疑いを持たなくなっている現代社会。パンデミックは、その現代社会の「歪み」を万人の目が届くように白日の下に晒して、暴きました。日常の営みの中で、「不都合な真実」を覆っていた分厚い無関心の布をあっさりと剥ぎ取って見せました。あわせて劇場人としての私には、文化芸術の「社会的脆弱性」を喉元に突き付けられ続けた2年余であったと痛感しています。
このコロナ禍の経験を無駄にせず劇場と文化芸術の未来を創るために、いま何を為すべきなのか。一橋大学ビジネススクール客員教授の名和高司氏が提唱して、多くのビジネス関係者のあいだに共鳴が生じているパーパス経営(存在意義経営)、名和氏の命名では「志本主義」下で文化芸術は何を変化させることで健全化へ向かうのか。文化芸術は決して「不要不急」ではなく、逆にフィリップ・コトラーがマーケティング3.0を提唱した折に「marketing world better」と言い放った根拠を探って、文化芸術が社会にとって必要な「武器」となるためのマーケティングの組み立てをひたすら考える2年余だったと、心底思っています。その手掛かりは、「顧客接点の強化」と「社会的信頼感指数の高度化」による「つながりの強さ」の生成と、劇場音楽堂等及び芸術団体と顧客の「共創」(Co-creation)のプラットフォームを芸術経営の仕組みに組み込んで、「共創」による社会的価値の生成という新たなマーケティング作法が必要なのではないかと考え始めています。「不要不急」のレッテルを貼られた私たちの仕事と使命を、文化芸術のエリート意識ではなく、社会的必要を根拠とするものとして賦活させるには、それしかないと思っています。90年代から考え続けてきたことですが、あらためてパンデミックを経由している只中で、そのエビデンスロジックを強化しなければと思い至っています。
その「社会的脆弱性」から脱するためには、文化芸術と国民市民との接点を再考して、その強靭化を図るしかないと思っています。私たちは「好きな人間だけが来ればよい」「分かる奴に分かればよい」という選民意識を持った姿勢で自分たちの仕事をしてきたのではないか。それは文化芸術から一番遠くにいる人たちから見れば、いわば鼻持ちならないエリート意識であったのではないか。「選民意識」そのものなのではないだろうか。その意味で、いま私たちがやらなければならないのは、「文化芸術から一番遠くにいる人たち」に届くための文化芸術のマーケティングをゼロベースで再構築することが必須であると考えています。リスペクトし私淑する慶応大学名誉教授の井関利明先生のロジックにインスパイアを受けて、90年代後半からの「関係づくり」にスタンスを置いたリレーションシップ・マーケティングをアーラの劇場経営の軸としてきた、いわば私の揺るぎなかった「常識」をも疑うことで、もう一歩も二歩も踏み込んだリレーションシップ・マーケティングを構築して、文化芸術の「社会的脆弱性」に向かい合うしかないと思い始めています。
それは同時に、90年代初めに「アートマネジメント」という概念が移入されて以来、時代環境の激変の中で変化に対して検証されることなく、化石化していた文化芸術と劇場音楽堂等の経営概念を、経験値のみにすがってきた文化芸術と劇場経営の経営手法の「常識」すべてを根幹から棚卸して、洗いざらい見直して、新しい景色の見える地点まで、自分も囚われている「常識」を繰り返し疑うことになる、と考えています。まさに創造的な破壊から何が生まれるのかを、息を詰めて待っている感じです。いわば「常識破り」のマーケティングを編み出さなければ、with coronaでの持続継続性のある劇場経営と芸術経営は到底成立しないと考えています。私たちが囚われている「常識=経験値」を根底から疑うことからしか、コロナ禍で晒された文化芸術の社会的脆弱性を回復に向かわせる選択肢はないのではないか、と漠然と考えています。そのためには「顧客接点の強化」と「社会的信頼感指数の高度化」に、文化芸術があらかじめ持っている「共創性」と、コロナ禍で晒された「社会環境の変化」を突合させて「アーツマネジメント」と「アーツマーケティング」の概念を上書きすることになると考えています。いわば、信じ込まれていた概念の変質(Concept Transformation)、いわばCXこそが必要なのではないか。「変わってもらいたければ、まず自分から変わる」という2008年からの劇場経営の原点に、いま一度立ち帰ることが必要ではないか、と思っています。
「経験値」は必然的に守旧的になります。現実の激変の中では、絶えず自身を脱皮させて甦生する作業が必要となることを、私たちは使命の一つと肝に銘じていなくてはならないのではないでしょうか。現下のパンデミックのサバイバルを生き抜くためには、芸術である限りは当然と考えられている「社会的脆弱性」をまとった現況を的確に把握して、そのための回復への処方箋を編み出すしかないのです。私たちと私たちの先輩たちは、その都度、その都度、知恵を働かせて文化芸術を生き長らえる術を編み出してきました。公的支援など考えられなかった時代ですから、本能的に、そして感情的にもサバイバルを生き抜いてきた側面がなかったとは言えませんが、それが、いわば「経験値」として芸術団体に蓄積してきた経営の実態なのではないでしょうか。劇場音楽堂等への国の支援が始まったのは2002年からの「芸術拠点形成事業」からでまだ20年にもなっておらず、しかも地域の劇場ホールは、その大半の時間は創造機関の集積地である東京からの買い取り公演という、「経営能力」をさほど必要とされない仕組みに依存していただけに、「経験値」さえも乏しい環境に置かれていたと言えます。あわせて、東京を中心とする都市圏の「公共劇場」「公共ホール」の経営手法をなんら検証せずに移入していただけに、地域での「ホール設置」は、地域行政での目的遂行のための「手段」であるべきなのに、ホールを建設すること自体を「政策目的」とした結果、「受益と投資の圧倒的なアンバランス」を生んで、税金の無駄遣い批判やハコモノ批判に晒されていたことは記憶に新しいのではないでしょうか。その結果が、劇場音楽堂等の補助金審査の人材の払底にまで及んでおり、ソフトウェアのみならずヒューマンウエアまでも「東京のコピー」に過ぎなかったことの傷はいまだに尾を引いています。いずれにしても、日本のアーツマネジメントとアーツマーケティングは、乱暴な言い方を許してもらえるならば、東京圏等の都市部でも地域でも、with corona下でサバイバルを生き抜くために、いささか大胆ではありますがリセットしてゼロベースから積み上げることが求められていると言っても過言ではありません。しかし、文化芸術に国の支援の始まった1990年からの30年という時間は決して無駄ではないと断言できます。その「30年」があったからこそ、with coronaに対応する経営を編み出すことで「新しい景色」へ向かっての舵が切れるのですから。
目指すのは、コロナ前への「回復」ではなく、新しいフェイズへの「転位」と「成長」である。
第一次文化芸術の振興に関する基本的な方針(2002年12月10日閣議決定)には次のような文言が記されています。「文化芸術は、芸術家や文化芸術団体、また、一部の愛好者だけのものではなく、すべての国民が真にゆとりと潤いの実感できる心豊かな生活を実現していく上で不可欠なものであり、この意味において、文化芸術は国民全体の社会的財産であると言える」 。これは、2001年の「文化芸術振興基本法」の制定を受けての、前述の公共文化施設(公共劇場・ホール)を対象とした補助制度「芸術拠点形成事業」と一体制定された基本方針ではないかと考えています。すなわち「芸術家や文化芸術団体、また、一部の愛好者だけのものではなく」、巨額の税金投入による投資政策である以上は、「国民全体の社会的財産」であるべきとの認識が基本方針にも補助制度にも、その行間にあると私は読んでいます。
今年度6月から9月にかけて合計8回開催された運営委員会の「特別部会」で、青年劇場の福島明夫委員とのあいだで、「国民全体の社会的財産」となっているか否かでの意見のずれがありました。私はいまだそうはなってはいないが「国民全体の社会的財産でありたい」との立場をとりましたが、同時にコロナ禍に見舞われて国・自治体の財政事情の逼迫を生じている環境が、むしろ「国民全体の社会的財産」でなければエンド・クライアントである納税者からの強いハレーションが起こるのは必定と考えています。「不要不急の陥穽」にさらに堕ち込むのではと危惧しています。現下のパンデミックを奇貨として、それを転換の「好機」と捉える環境に否応なく立たされてるに違いないとの確信があります。それは、before coronaへの回復を目指すのではなく、コロナ禍を経験することで以前とはまったく位相の違った「もうひとつのマーケット」を獲得するための転位と、それによる成長軌道に至るデザインを描き切れるかにかかっているのです。位相の違った「もうひとつのマーケット」とは、その後の数次にわたる基本方針で繰り返し記された、まさしく国民一人ひとりの「社会的財産」としての「価値」です。その高度な「社会的価値」をもって、劇場音楽堂等と文化芸術は公共的な必需財としてのポジショニングに転位するのです。それが不要不急とされたコロナ禍での現在から未来を創造することだと考えています。その「価値」を社会的に認知されるための新たなマーケティング思考を獲得しなければなりません。そうでないと、国や自治体の支援策にも、民間営利法人からの支援にも、それらにエントリーするチケットさえもらえなくなるほどの社会的価値の転換期を、いま私たちはまさに生きていると感じています。やがて来る「未知なるアーチストたち」と、文化芸術をウェルビーイングのために必要とする国民に何を遺せるかが、図らずも転換期を生きることになった私たちに仮託されているのだ、と私は思い続けています。その強い思いを、どれだけ形に出来るかが、この激変の時代を生きることになった私たちの使命であり、未来への責任なのではないでしょうか。
感染への恐怖という「新しい変数」にいかに向き合うのかの戦略を。
従来からも「無形性サービス」から来る品質保証の難しさ、「生産と消費の同時性」から来る厳しい制約、それをリカバリーするために必要な情報が公演主体と顧客では圧倒的に隔たりがある「情報の非対称性」等によって、私たちは、実は顧客と潜在顧客に対して、良い舞台を、素晴らしい演奏を提供しますという「誓約を購入」してもらっている過ぎません。「損失回避性」の桎梏から逃れられない宿命とでも言うべき障壁と、絶えず向かい合うことを余儀なくされてきました。充分と感じられるほどの大量のチラシを印刷して配布したり、マスメディアを活用して期待値を高めたり、有名タレントや俳優をキャスティングしたり、話題性の高いマエストロや演奏家を起用したりと、叶うかぎりの努力を、そのために費やしてきました。それは、実演芸術である舞台芸術があらかじめ持っている「無形性サービス」、「生産と消費の同時性」、「情報の非対称性」等の桎梏から少しでも解放されたいという私たちの側の企業努力でした。ネット配信でコロナ禍を潜り抜けようという戦略もあるにはありましたが、それが緊急避難的な一時的な対策に過ぎないことは、多くの舞台芸術関係者と愛好者の知るところです。ましてや、パンデミック当初に文化庁が「収支構造を変化させる」との政策で打ち出したネット配信は、「生」でこそ価値の生まれる舞台芸術ならではの「強み」の放棄を意味することであり、「軒先貸して母屋とられる」の類の愚策としか思えません。例えば、テレビでの舞台芸術中継はあくまでも「情報」であって、生の舞台芸術への「共感と共鳴」で触発されて生まれる「自分だけの物語」である内発的なナラティブがわいてこないことは経験的に多くの読者には了解できると確信します。「ネット配信」は、地理的障害、経済的・社会的障害、身体的障害で実演現場に立ち会うことが困難な方々に対処する手段としてはきわめて有効な手段ではあるものの、実演芸術だけが持つ「強み」を放棄するにはあまりに代償が大き過ぎます。
また、情報の受け手という受動的姿勢ではなく、能動的に舞台に関わることで、そこで紡がれる「ナラティブ=自分だけの物語」の主人公は、何処まで行っても現在を生きている「私」であり、それは言うまでもなく「現在進行形の物語」です。近年「ナラティブ・マーケティング」が言われるようになった背景には、企業が顧客の志向に合致する商品やサービスをカスタマイズ化する限界を感じるようになっていることに加えて、顧客自身が自分の想像力と創造力で商品やサービスをカスタマイズ化することに委ねようとする心理学的発見があったからです。また、その方が、自己決定の強みで、「反復購入」と「継続顧客」、いわゆるリピート購入を生むことが実証されているのです。消費者の姿勢が21世紀に入って大きく変化したのです。後述しますが、この「ナラティブ消費」と、道徳的・倫理的消費姿勢である「エシカル消費」のあいだには、主体的・能動的に行動する、節約志向ではあるが賢い消費をしようとする新しい時代の「自立する消費者像」の姿が浮かび上がってきます。舞台芸術の観客もまた、客席に深く身を沈めて、「情報としての芸術的成果」を受け止めるだけの存在ではないのです。
それに関連しますが、人間の誰もが持っている「損失回避性」という心理的障壁をいかに最小化するかがwith corona下でのアーツマネジメントの、パンデミック体験を経由した私たちに突き付けられた新しい課題と言えます。「損失回避性」とは前回で説明したように「利得を求めるよりも損失を過大に評価する」人間の心理傾向で、支払った金額の3倍から5倍に損失を感じてしまうと言われています。『買おうかな、でも止めておいた方が安全かな』という消費行動においての揺らぎと、それによって購入を思い止まってしまう可能性のことを指します。仮に5000円のチケットを購入してその舞台や演奏が芳しくなかった場合に、15000円~25000円の遺失価値を感じて消費動機を押しとどめるう『リスク回避』の心理的障壁」です。この障壁を出来るかぎり低いものとするために、前述したように様々な手立てを施しているのですが、感染力の強いと言われる「オミクロン株」という新しい「変数」の登場で、劇場ホールを利用する装置型産業である舞台芸術産業は、新たな顧客心理的な障壁と向かい合わなければならなくなります。「感染への恐怖」というコロナ以前は予想することさえなかった「新しい変数」です。「オミクロン株」は強い感染力を持っているが、重症化しにくいという特徴があるように言われていますが、今日現在、その実証性には確答は出ていません。したがって、感染への恐怖は「損失回避性」の障壁を高くこそすれコロナ以前と同様な鑑賞環境に戻ることは想定しにくいと考えています。ましてや、長い時間にわたってコロナ感染後遺症に苛まれることを考えると、この「変数」は高いだけではなく厚い壁になると想像できます。コロナ感染への恐怖心が、「損失回避性」に大きな影響を及ぼすだろうことは想像に難くありません。
「未来」を創造するマーケティングにシフトする。
感染対策を万全に施すことは至極当然のことですが、その対処を施す主体に対する揺るぎない社会的信頼性もまた絶対に不可欠です。一ヶ所にスタッフを含めて多くの人間が集まらないと成立しない「労働集約型産業特性」を考えると、劇場音楽堂等と芸術団体の社会的信頼性と信用度の高さは当然厳しく問われることになります。繰り返し述べている「社会的信頼感指数の高度化」です。これは「芸術的価値の高さ」とは全く別物と言えます。それが前述の「社会的脆弱性」の基底をなしていると、私は考えています。その「新しい変数」は、「価格弾力性」と「所得弾力性」にも強い影響を与えるだろうとも考えます。「感染恐怖」はチケット価格への下方圧力を生みやすいですが、本来的には文化芸術は日用品とは異なり、その「芸術的価値」から価格を少々上げても下げても「弾力性」はあまり影響を受けにくいサービスと考えられています。ただ、「損失回避性」が新しい変数によって大きく変化したと勘違いするとチケット料金の値下げに走る危険はあります。現に、コロナ禍で観客動員総数は著しく減少しています。それは、顧客当人の判断だけでチケット購入が決められていない理由が、新しい変数にはあるからです。それは、フィリップ・コトラーのHuman-to-Human Marketingの 新著『「人間中心のマーケティング」の理論と実践』で触れられている、個人の購入決定における「f-ファクタ―」(家族family・友人friend・ファンfan・フォロアーfollower)の存在が市場にも大きな影響を与えて、「企業団体が及ぼす直接的な影響が薄れ」て、マーケティング理論の刷新が余儀なくされているという(コトラーの)現状認識」は、コロナ禍によってさらに加速加重したと私は考えています。中高年層の会員比率が高い演劇鑑賞会の、コロナ禍での会員数の減少と歌舞伎座と国立劇場の歌舞伎観客の減少は、家族の影響が如実にあらわれた現象と考えています。
「新しい変数」は当人の命に関わるばかりでなく、きわめて直接的に「家族の安全」にも関わる重大事です。私が「芸術的価値」の高さと文化芸術の脆弱性は別物であると繰り返し述べている理由はここにあります。文化芸術はかならずしも「不要不急」であるばかりではないと思っています。しかし、別の視角からみれば、コロナ禍によって「信頼性を喪失した時代」の新しい信頼性構築のマーケティング理論を獲得できる機会を得たとも言える、と私は考えています。比類ない芸術的価値のみならず、私たちは「f-ファクタ―」にも働きかける高度な「社会的価値」をも獲得する芸術経営(arts management & marketing)が、国民市民にとっての「社会的財産」になる契機を視野に入れる経営にシフトすべき時機にあると考えます。それは、国・自治体及び民間企業からの支援をえるためのパスポートを手に入れて、すべての国民を対象とする市場を手に入れる「公共財」化の未来を創造することになるのです。ジャック・アタリがコロナ禍の中で文化芸術を「vital industry」(生命維持のための産業)といった意味で、まさしく健全な、社会的必要を存立根拠とする産業となる機会を逃してはならない、と私は信じています。
まさに今がその時機であるという私の認識の背景には、感染性の強いオミクロン株という「変数」もありますが、同時に「エシカル」という価値観が時代の潮流となっているという「変化」があります。「エシカル」とは、倫理的・道徳的を意味する語彙で、「エシカル投資」とか「エシカル消費」という使い方がされています。転じて、「応援したい」「勧奨したい」という能動的な投資行為や主体的な消費姿勢を意味します。投資することで或いは消費することで、社会に貢献する、社会に関わる、いわば利他的なビジネスや個の生き方を選択することを意味します。芸文振運営委員会の「特別部会」の開催期間中に、文化芸術復興創造基金への東京海上HDからの4000万円の寄付が報告されましたが、私はその朗報を「文化に理解がある企業だから」とは受け取りませんでした。東京海上HDは、社内にダイバーシティ&インクルージョン推進チームを設置して、その目的達成のためのカウンシルを設けているほどの組織風土を持ったESG経営の代表的トップランナーです。ESGは、「Environmental(環境)」「Social(社会)」「Governance(企業統治)」の頭文字からとられており、自社のみならず社会の持続継続性をビジョンとする企業理念です。私はその組織風土が文化芸術復興創造基金への多額の寄付を生んだと思いました。その直後に、東京海上HDが、石炭産業への保険販売を停止するというニュースが流れました。事故発生率が低くはない産業への保険販売の停止はESG経営に沿ったものと思われました。その直後の株式市場では、東京海上HDの株価は一時21.4%も上昇しました。この一事をとっても、「エシカル」が世界的な空気となっていることが理解できるのではないでしょうか。
言うまでもないことですが、文化芸術に携わる私たちも、そのような社会の空気を超越して活動しているわけではありません。私たちは3つの「市場」からの要請を受けていると、一橋ビジネススクール客員教授の名和高司教授は、「30年後の視点から現在を捉える」と副題の付された『パーパス経営』の中で書いています。そのひとつは顧客市場です。B to C では「エシカル消費」が注目されていることに着目しています。自分の欲望や流行にとらわれず、環境や社会にとってよいビジネスを行っている企業を、その商品の購入という形でサポートする消費者が増えている「変化」を重要なファクターと捉えています。教授は、特にミレニアル世代以降の若い消費者に、その傾向が強いと分析しています。次いで、B to Bにおいてはさらに厳しく、環境や社会に悪影響を及ぼしている企業はサプライヤーリストから外されてしまうケースもあることを指摘しています。これは、地球環境や社会課題にきちんと対応しない企業組織は、とりわけ欧州ではビジネスチャンスさえ与えられない、いやもっと厳しく排除される現実があります。名和教授の指摘はミレニアル世代以降の人たちが、就職や転職活動においても、企業が環境や社会によいビジネスをしているかどうかを重視していると「人財市場」からの要請にも触れています。そして3つ目が金融市場で、投資先を選ぶ際に環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の観点を重視したESG投資が世界的に広まっており、株価に大きな影響を与えて無形資産のシュリンクだけではなく、流動資金の減少にもつながるとの指摘があります。これは、社会的価値の高度化が比類なき芸術的価値とともに、国・自治体と民間からの資金調達に大きな影響を与える時代環境の到来を意味しています。
「エシカル」とともに、with coronaでキーワードとなる「ナラティブ」と顧客接点の強化につながる「共創価値」(Co-creation)のプラットフォームについては(下)で詳しく触れたいと考えています。舞台芸術の「鑑賞行為」が、信じられてきた消費的行為から創造的な行動原理となる逆転についても、また文化芸術の、社会課題に対応することが経済的収益ともなる「文化芸術の強み」である社会経済収束力についても、言葉を尽くして提案したいと考えています。
最後に、社会包摂型劇場経営に着手した時に座右の銘としていたドラッカーの「未来を予測する最良の方法は、未来を創り出すこと」「(The best way to predict the future is to create it.)という『マネジメント』の一節に私自身を立ち帰らせようと思っていることを付け加えたいと考えています。