第209回 コロナ禍で焙り出された「不完全な社会」から「未来」を創造する ― 文化芸術と劇場音楽堂等の諸機能を「いのちのルネサンス」へ向かわせる。(下)
2020年7月28日
可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督 衛 紀生
私はたびたび「いまだけ、金だけ、自分だけ」と、世界中を覆って、人々に感染している「ウイルス」である新自由主義的な経済思想に侵された人間の利己的な価値観を表現します。この「ウイルス」は、金銭欲、名誉欲、利己的所有欲など「欲望」と分かちがたく結びついて、その「欲望」によって増殖するので、新型コロナウイルスよりも数段強い感染力のある「強毒性のウイルス」です。ミルトン・フリードマンがそう書いているわけではありませんが、しかし、市場こそ万能で、社会の利益に直結するから「自由放任」に経済的利益を追求すべきという彼の考えが、「強欲な資本主義」を生み、カネがカネを生む拝金主義と刹那主義、自分本位に利己的な利益追求を「社会善」とする時代の空気が生まれるのです。目的と使命を実現するための資金を得るというのが本来の資本主義であるのに、利益自体を目的とする「倒錯した資本主義」を蔓延させてしまっているのです。株主への「利益の偏り過ぎた配分」が、「従業員満足」も「地域社会への利益還元」も「利他的価値観」も「人間の安全保障たる保健医療」も「見えない社会保障たる互助的コミュニティ」も駆逐してしまったのです。かつて先進各国の社会を安定させていた「分厚い中間層」を極限まで萎縮させたのも、所得再配分政策を縮小させた「いまだけ、金だけ、自分だけ」の政治と経済の思想であり、コロナ禍で起こっている社会的安定の「揺らぎ」も、その強すぎる「副作用」と言えます。「欲望の制度化」が資本主義経済だと了解・理解したうえで、がしかし、資本主義の倫理的・道徳的・社会的・利他的な側面は、「拝金主義」という欲望の前で委縮したままなのです。
マサチューセッツ大学のウイリアム・ラゾニック名誉教授は「株主資本主義は資本主義を腐らせた」とまで述べています。およそ一世紀前に孤高の経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、「資本主義はその成功がゆえに土台である社会制度を揺さぶり自壊する」と看破しています。新自由主義経済思想は「資本主義の好循環」を棄損したばかりか、「社会そのものを劣化させ、腐らせた」と私は思っています。アダム・スミスの『国富論』は、「国民全体が豊かにならなければ、国は豊かにならない」という彼の信念が全編に貫かれており、『道徳感情論』では「共感」という「つながりの原理」を前面に提示して、そのような「ソーシャル・キャピタル」が社会にとっての潤滑油であり肝要であるとしています。一方、フリードマンにとって「つながり」とか「連帯」とか「共感」は、経済成長の阻害要因であって、結果的には唾棄すべきものとされています。私たち文化芸術に関わる者は、「つながり」と「連帯」と「共感」こそが拠り所であり、人間の尊厳を中心に据えた健全な社会を構築する重要なファクターと位置づけています。
それにしても、IMF(国際通貨基金)がコロナ禍にあってなぜあのような警告を出したのだろうか。「株主第一主義」が多額の他人資本(デッドファイナンス)を借り入れて「自社株買い」に走って株価を吊り上げ、株主への配当を積み上げることで自己資本率を低下させることのないように、つまり世界中の先進国の金融機関が、コロナ禍で多額の借り入れを強いられて、あるいは先を見通せない不透明な経済状況下で不良債権化する可能性の高い貸し出しが見込まれる現況で、「金融危機」になるような自己資本率の低下を絶対に招来させないようにと警告を発したに違いありません。これは何も金融機関に限ったことではありません。世界中の、むろん日本の一部上場企業も例外ではなく、金融緩和で貸出金利の低い金融機関からの借り入れや株主のファンドから資金を融通して「自社株買い」をせっせとしています。日本の大企業は国家予算4年半分超の内部留保があるだけに必ずしも喫緊の事態とは言えませんが、コロナ禍がいつまで続くはまったく予測不可能ですし、新自由主義経済下での「株主資本主義」の増長が「自己資本の脆弱性」を招いて、大型企業・基幹産業の倒産に結びつかないとは誰にも言えないことは間違いありません。
「品格ある社会」と「未来」を創造するために。
金融機関や企業倒産だけが危機的なのではなく、私たちの社会はおよそ40年間にわたって、本来は公共サービスであるべき教育、福祉、保健医療、文化芸術へのかかわりを縮小させる「小さな政府」と、あるはずもない「終わりなき、永遠の経済成長」に邁進した結果、「人間の安全保障」(Human security)と「見えない社会保障」(Informal security)を置き去りにしてきたのではないかと、私は1997年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』から、2008年に始まる可児市文化創造センターでの劇場経営改革の中で、一貫して主張しつつ政策提案と経営実践してきました。英国・リーズ市での共同制作事業『野兎たち』の新型コロナ感染拡大による公演中止によって急遽帰国してからの、日本の、とりわけ東京での日々刻々と変化する情況を目前にした東京の自宅での在宅勤務の中で、冷静に、そして幾分は冷徹に何が起きているのかをつぶさに観察してきました。いま起こっている社会の機能不全が何を起因としているのか、何よりも感染拡大防止政策の中で「民主主義」がどのように機能しているのか、あるいは機能不全を起こしているのかを、まさにコロナ禍の真只中に身を置きながらあれこれと思索してきました。
そして、With Coronaの下で、あるいはAfter Coronaの社会で劇場音楽堂等と文化芸術が求められる、果たさなければならない機能とはどういったものだろうか、同時に、社会の至る箇所と急転するフェイズで機能していない政府や公的機関と行政制度の根本的な原因はどこから来ているのだろうか、コロナ禍で剥き出しになった差別・偏見・中傷・排除という人権侵害が「正義」の名のもとに平然と日常で横行している今日の人々の価値観は何処からきているのだろうか等を反芻洞察する良い機会を得ました。「文明は感染症の揺りかご」という警句があります。私たちは「熟れ過ぎて、もはや腐り始めている文明」の真っ只中で、いま「警告としてのコロナ禍」を体験しているのではないかと思いました。私は無神論者ではありますが、「神の啓示」が新型コロナウイルスなのではないかという非科学的な妄想までが過ぎ去りました。
新型コロナウイルスとは異なり、人間の心を、そして価値観に感染して、誰もが宿痾のように持っている「欲望」を餌として増殖する「新自由主義思想というウイルス」が、約40数年間、短く見積もっても小泉政権から安倍政権までの30年間、さらには国民の政治的選択肢を狭隘化するように与野党を問わずに、そして広範な国民までもが感染してしまった結果として、「いままで日常の中で見過ごしていた、やり過ごしていた」様々な社会の歪みがいたるところで噴出し、暴き出されているのではないか。私が「コロナ以前」の社会には戻りたくない、絶対に戻ってはいけないと思うのは、前段で述べてきたように、それほど以前が健全な社会だったのだろうかという思いが私には確かなかたちであるからです。可児に限らず、丸亀に2年間毎月4泊5日で通い続けてやっていた「車座集会」でも、この人たちすべてに「前を向く理由」が必要なのだ、と思わされることが繰り返しありました。そのような人たちがいる限りは、社会は決して健全とは言えません。誰かと誰かとのあいだに起きる化学反応の触媒となる「文化芸術の社会包摂機能」を持った文化芸術の仕事には、だから終わりはない、とも強かに思い知らされました。
そして、可児や丸亀での人々との出会いの中でそれは、この人の抱えている課題なら演劇の、あるいは音楽の、ダンスの、その機能を活用すれば「前を向く理由」を醸成する「安心できる誰か」に遭遇できるのではないか、と考える学習の機会にもなりました。私には大上段に振りかぶって「芸術で人間の心を癒す」とか「豊かな心を育む」とかを教え諭すことは出来ないし、やりたいとも思いません。それよりも、この業界で55年生きてきたからこそ、文化芸術の、自分を肯定できる「安心できる他者」との出会いと、そういう化学反応の起こる場所を形成できる機能を誰よりも体験して、誰よりも生活の中に生かす方法を知っているという自負があります。その社会形成機能を十分に発揮して「誰かのために生きる」という選択をしたいと熱望するのです。「生きにくさ」や「生きづらさ」を感じて孤立しがちな人々に、文化芸術の果実とでも言うべき、 孤独からのレジリエンスに向かうための「杖」を手渡し、贈りたいのです。それは、私自身が多くの皆さんとの出会いで、さらに「前へ」の使命を自覚する「杖」を授かったからです。
5月に入ってから、私の裡で徐々に輪郭が鮮明になって来ている「私が生きたい未来」と、ほとんど相似形と思えるフランスの歴史人口学者・家族人類学者であるエマニエル・トッドの『コロナに敗北した新自由主義』と題された寄稿文に偶然出会うことになりました。冒頭で彼はいきなり「確かに被害は甚大でも、『突然に引き起こされた驚くべきこと』ではない」と書き出します。「多くの国が直面している医療崩壊は、こうした警告を無視し、『切り詰め』を優先させた結果です。時間をかけて医療システムが損なわれたことを今回のウイルスが露呈させたと考えるべきでしょう」と、切っ先鋭く切り込みます。「何か新しいことが起きたのではなく、すでに起きていた変化がより劇的に表れていると考えるべきでしょう」と、コロナ禍によって既に感染していた新自由主義というウイルスによる歪みが腫物のように薄い皮膚を持ち上げて可視化できるようになった、との彼の見解は私のそれと相似形をなします。さすが『グローバリズムが世界を滅ぼす』の共同執筆者の面目躍如たる分析です。英国・リーズ市での国際共同制作『野兎たち』の、ボリス・ジョンソン首相のロックダウンによるプレスナイト90分前の突然の公演中止の時にはさほど感じていなかったのですが、帰国して「医療崩壊」が現在進行形の大きな社会問題となっていて、それを軸とせざるを得ないすでに減衰した医療環境をめぐっての感染拡大防止策の議論が最大の関心事であることを知りました。
それにしては、トランジットで3時間半ほど体感したパリ・シャルル・ドゴール空港の張りつめた空気に対して帰国した成田空港のそれとは径庭の感があり、感染拡大による医療崩壊の危機感が国民にはまったく浸透していないと肌感覚で分かりました。私は昨秋に大きな話題となった地域医療機関の統廃合と病床の20万床削減と在宅介護の40万件を達成目標とする「医療制度改革」を即座に思い起こしました。まさしくエマニエル・トッドの「何か新しいことが起きたのではなく、すでに起きていた変化がより劇的に表れている」のだと確信しました。私たちが僅か数か月で体験している「不完全な社会」は、90年代初頭のバブル崩壊後から急かれるように推し進めてきた、大多数の国民にとっては「不都合な社会」なのではないか。およそ40年かけて「経済成長と所得再配分によって社会課題を解決する」20世紀型の政治経済体制、そして健全に循環する資本主義体制から離脱したのではないか。その意味では、今日の新型コロナウイルスによるパンデミックは、その40年間の僅かずつの「変化」が、一時に束となって津波のように大多数の国民に襲いかかっているのだ、と私は思っています。エマニエル・トッドの「突然に引き起こされた驚くべきことではない」という思いきり引きのフォーカスで時間をとらえた認識は正鵠をとらえています。
「特に、今は」の意味するもの。「不要不急」の一般的認識をブレークスルーする。
同様に、社会包摂型劇場経営とその総合的社会政策としての「社会的処方箋」事業に向かう時に必要なのは、文化芸術の立場から政治と経済と社会の動向を俯瞰して、評価する視角と姿勢です。ドイツの文化大臣モニカ・グリュッタースは、3月11日、政府プレスリリースを通じて、「政府は、文化・芸術・メディア業界に従事する人々を決して見殺しはしない」として、「新型コロナウイルスの蔓延によって打撃を受けている文化事業者への大規模支援」を発表しました。そして、「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特に今は」という彼女の発言に、当時経済的逼迫と終息の見えないコロナ禍と感染拡大防止策としての「ソーシャル・ディスタンスと新しい生活様式」に絶望に近いものを感じていた日本の芸術関係者はため息をつく思いでの発言を受け止めました。文化芸術と芸術家への彼女の国のリスペクトと、それに見合った巨額の支援金への財政支出に、ほとんどの芸術関係者は喝采と羨望の入り混じった複雑な感情を持ったものです。そのことを否定するものではありませんが、私はグリュッタースの語尾にある「特に、今は」、を特別な思いで受け取りました。
前段の「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」は、ジャック・アタリがコロナ禍にあって、文化芸術と劇場ホールを「Life Industry(いのちの産業)」と規定したのと同様の認識で、グリュッタース文化相が約束したのは500億ユーロ(約5.92兆円)の支援でした。しかし、この「連邦政府の支援」は、機材リースの分割払い、材料購入費、仕事場の家賃などの経営に関するいくつかの支援対象が限定的であり、アーティストやフリーランサーの日常生活に必要な部分をカバーしていない、として特にフリーランスのアーティストからの反発が大きくありました。一方で、直接的な生活支援するために動いたのが、16ある州政府と基礎自治体で、なかでも対応が早く、他の州のモデルとなったのがベルリンです。芸術家や関係者に5000ユーロ(約60万円)の支援をするもので、家賃、食料、生活必需品など、対象費目は暮らしを維持するために使うことができるものでした。これには13億ユーロ(約1540億円)が充てられました。
緊急時の補正予算でも裏負担ありの創造費にする例のある日本の支援と比べて、このアーティスト支援の特筆すべき点は、連邦政府、州政府、自治体の支援が将来の活動への「期待投資」になっていることです。アーティストの経営基盤の維持と生活支援をすることで、With CoronaとAfter Coronaを問わずに、彼らの仕事が必要になることが見込まれるために、その経営基盤の棄損されることを防ぎ、あわせてコロナ禍での失職時の生活を支えようとしているのです。「特に、今は」のひとつの意味はそこにある、と私は感じました。ドイツでは文化芸術は一大産業であり、またナチスドイツにより第二次世界大戦中、国民の自由な文化生活を奪われ、多くの歴史、文学、芸術などに関する貴重な書物や棄損された歴史が「民主主義は自由な文化的生活に支えられている」という考えが、国民的合意となっていることとも無縁ではないでしょう。
ひるがえって日本ではどうなのでしょうか。自分が劇場関係者であり、50年間芸術関係者として仕事をしてきた経緯をひとまず横に置いてニュートラルな気持ちで考えると、口惜しいがこの有事下では「不要不急」と括られてしまいます。文化芸術や劇場音楽堂等の社会的・公共的役割に対する「国民的合意」はなく、「趣味・趣向」として受け止められているのが現状です。私を含めて大半の芸術関係者・劇場関係者が、グリュッタースやジャック・アタリの発言に「喝采と羨望の入り混じった複雑な感情を持った」のは事実と確信しますが、国民合意に基づいた支持はありませんし、行財政改革で真っ先に削減対象となるのは「文化予算」というのが相場です。2003年からの「指定管理者制度」導入後も「住民サービスの質の向上」よりも「指定管理者制度のコスト削減効果」のみが強調され、そのために職員の非正規化が絶望的な数値となっています。劇場音楽堂等は、地方自治法244条によれば公の施設とは「住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」と定義されていますが、「住民の福祉」は放置されて「行政コストの効率化」のみが追求されているのが現状です。指定管理者制度の目的の民間事業者の活力とノウハウを活用した住民サービスの向上、いわゆる「民活」、「官から民へ」という前掲の新自由主義による政治的企図は、文化芸術への国民合意の背景が欠落した現実では、「コスト削減」のみが優先されて、住民のための施設であることは置き去りにされています。
私がグリュッタースの「特に、今は」に強く反応したのは、「国民的合意」があるからこその「期待投資」、「社会的投資」としてのアーティスト支援が早い時期から連邦政府、州政府、自治体の緊急施策の視野に入っていたという事実です。しかも、機関相互に補完的な支援というすみわけが出来ていることにも感心しました。私が90年代から文化芸術による教育・福祉・保健医療等を対象にした地域社会へのサービスを主張してきたのは、この「国民的合意」がまったくなく、経営が愛好者のみの支持だけに依存しており、したがって国自治体からの財政的支援も文字通りの「恩恵的補助」だったことに危機感を持っていたことが契機でした。当時は「ホール建設ラッシュ」の時代で、全国で1週間に3.5館が杮落としが行われた年もあったくらいで、有識者から決まって言われていたのは「ハードウエアはあってもソフトウエアがない」でした。そして、杮落としには多額の予算を配分して東京から有名カンパニーやタレントを招聘して盛大に開催しても、そのあとは閑散としてしまい、必ず投げかけられるのは「ハコモノ主義」と「税金の無駄遣い」でした。「国民的合意」など夢のまた夢という状況でした。
厚労省の「社会的処方」の政策化と、コロナ後の可児市文化創造センターの経営は。
その頃に私が考えていたのが、90年代初頭に地域に出てから繰り返し体験した、文化芸術の人と人を「つなげる機能」でした。現に教育現場や福祉現場、そして災害現場で、のちには保健医療の現場で、対象となっている当事者の表情の変化には驚嘆するものがありました。当時書いたものに、「東京では蜷川さんの一夜の舞台の芸術的価値を評価する仕事をしてきたが、この子たち(今の用語では発達障がい児)の15分程度の芝居には高い社会的価値がある」と記しました。93年のことです。そして、「ハコモノ」と唾棄されている劇場ホールに命を吹き込むには、少なくとも「地域住民の合意」が必須であり、そのためには、今でいうところの「社会包摂事業」の出来る人材と、その地域の社会的ニーズを探り当て、掘り起こす「ヒューマンウエア」の人材育成、英国芸術評議会とナショナル・ヘルスサービス(NHS)の連携で行われている「社会的処方箋活動」(Social Prescription)での「リンクワーカー」と「コミュニティ・アーツワーカー」の育成と充実が必要と考えました。97年に上梓した『芸術文化行政と地域社会』はその考え方をまとめたものですが、その直後に出会うことになる英国の地域劇場の「年間1000のコミュニティ・プログラムに20万人がアクセス」している在り様を見て、その考えが間違っていないことを確信して、北海道劇場計画に関わった大学教員時代に深掘りした成果が、社会包摂型劇場経営の可児市文化創造センターalaなのです。したがって、私たちの劇場は、可児市民の「住民合意」をゴールとしていますし、決して愛好者だけの場所であってはいけないという職員の総意に裏打ちされて「芸術の殿堂」ではなく「人間の家」として経営されています。
文化芸術と劇場音楽堂等の抱える「国民的合意」が背景にないという超課題を解決に向かわせるには、そしてアーティストを大切な社会的資源と位置づけるには、前掲した「不完全な社会」、「歪んでしまった社会」から来る様々な社会課題を解決することに着目すべきと考えています。従来からの文化芸術の「心を癒す機能」という「常識」ばかりではなく、「存在を癒す機能」にも着目すべきであるし、その技術保有者としてアーティストはリスペクトされる存在でなければならない、と私は思っています。アーティストと劇場音楽堂等の職員は、すぐれて利他的な仕事と使命を持つ存在となることなしに「期待投資」に値する職業とはなりえない。国民市民の、前を向いて生きる力を奮い立たせる有事下でのエッセンシャルワーカーとして、まちを元気にする仕事を委ねられる存在となるべきだと思います。ドイツをはじめとするヨーロッパでのアーティストへの「期待投資」には、それに見合うだけの社会的・公共的役割の担い手であるという「認知と合意」があるのです。「喝采と羨望」だけでは何も成し遂げられないし、文化芸術の「新しい価値」へは一歩も踏み出せないのは言うまでもありません。
6月21日の午前5時台のNHKニュースを半分は覚醒しない状態で見ていた時に、厚労省が「社会処方」事業に乗り出す決定をした、という報が飛び込んできました。思わず布団をはねのけてベッドに座わり、その詳細をもらさず聞き逃すまいとしていました。昨年、「新たな医療の在り方を踏まえた医師・看護師等の働き方ビジョン検討会」を組成して、その「報告書」の冒頭に「医療が医療従事者だけで完結する時代は終わりを告げ、患者や住民との協働が不可欠な時代に入った」という文言があり、私がリタイアした後の5、6年先には「社会的処方箋」活動の扉があかれるかな、との程度で希望は持っていたのですが、まさにいきなり虚を突かれた感じでした。「孤立高齢者」を対象にして、地域包括支援センターにつなぐことで行政機関や地域サークルを紹介して、生活習慣病等の長期化を防ぎ、医療費の抑制につなげたい、というものでした。私の目指している「社会的処方箋」という総合的社会政策への扉が、まだ限定的ではあるものの、開けられたと思いました。ただ、地域包括支援センターがどれだけ対象者に寄り添えるサービスを提供できるのか、いささか疑問を呈したい気持ちはあります。従来の行政の福祉機関同様に、「相談業務」と「紹介業務」をするだけで「孤立高齢者」の課題解決に筋道が出来ると考えているのなら、屋上屋を重ねるような見当違いであると言わざるを得ません。
その丁度1か月前に私は、芸術文化振興基金へ「第二次補正予算」に向けた政策提案を、芸文振運営委員副委員長の職務責任においてしています。そこでは、5年後、10年後、20年後を視野に入れた投資的予算執行として、アーティストを、約100館ある「劇場・音楽堂等機能強化推進事業」採択館に、音楽・演劇・ダンス・大衆芸能・伝統芸能等のアーティストと技術保有者を3か月間の業務委託契約で派遣して、地域が抱える社会課題やまちづくり等の活性化の取り組みの詳細に触れてもらい、あるいは行政機関や民間NPO団体と協働して、コミュニティ・アーツワーカ―としての様々な社会課題の捉え方と解決策への思考回路を育んで、社会と芸術のマッチングの知見を獲得とてもらう契機にする、という提案をしました。年間およそ400人のアーティストが、芸術家或いは技術保有者としての業務と仕事の対価として、月に35万から40万円の報酬を得られるというスキームでした。「労働の対価」としての報酬というところと、「未来への投資」というヨーロッパ的な精神が、この政策提案の肝でした。私は休業補償・生活支援というかたちで1回だけの給付金をばらまくよりも、アーティストとしての「対価としての報酬」を劇場音楽堂等という「装置」を通して支払われる選択をする方が、自身のスキルへの気付きと矜持に結実すると確信していたのです。
私が講演などで必ず引用しているのが、英国の社会学者アンソニー・ギデンスの「積極的福祉」(Positive Welfare)の概念です。「ウェルフェアとは、もともと経済的な概念ではなく、満足すべき生活状態を表す心理的な概念である。したがって、経済的給付や優遇措置だけではウェルフェアは達成できない」というもので、「福祉のための諸制度は、経済的ベネフィットだけでなく、心理的なベネフィットを増進することも心がけなければならない」と私が言うところのWellbeing(幸福と健康)を社会で実現するためには、現金の給付や優遇措置だけではなく、「心理的なベネフィットを増進」させて「孤立しがちな人々の生きる意欲を醸成して、そのポテンシャルを社会の発展に反映させる仕組み」を稼働させなければならない、というギデンスの指摘です。「社会包摂」による誰も排除しない全員参加の寛容的な共生社会を実現して、見えない社会保障・つながりの回復(informal security)を企図するという政策です。余談になりますが、これはノーベル賞の本庶佑先生の至言である 「幸福とは何かが充たされている状態ではなく、不満や不安がない状態」と同工の発想だと思っています。私は日本で「ウェルフェア」という言辞を使用すると「狭義の福祉」と理解されてしまうことに抵抗感があり、最近では「ウェルビーイング」(Wellbeing)を同じ意味で使うようにしています。「不完全な社会」を克服して未来社会を構築するプレーヤーへの「投資的支援行為」として、全省庁横断的な「社会的処方箋を軸とした総合的社会政策」に関連する予算措置は、国自治体の予算リソースの先細りが予想されるだけに現下のコロナ禍を諸予算抑制のための導入好機としてなされるべきと思うし、同時にEvidence-based Policy Making(実証根拠に基づいた政策立案)へ向かわない一過性の緊急政策と予算執行はなされるべきではない、との私の考えは財政の逼迫した現況において当然至極なのではと思い続けています。
コロナ禍での劇場経営とAfter Coronaを視野に入れて。
ひるがえって、最後に、現下のコロナ禍での劇場経営と芸術経営はどうすべきなのかという「処方箋」を記しておかなければならないだろう。私が英国から帰国してすぐに職員に指示したのは「顧客維持とそのリレーションの強化」です。可児市文化創造センターalaは大規模改修のために、3月16日からもともと休館であり、パンデミックがなかったとしても、劇場部分以外のロフト等の部分は開館が10月から、劇場部分は年明けの1月から再オープンとなっていたために、市民の生活時間の中から「アーラ」は消滅はしないという自負はあるものの、薄らぐことへの「リスクマネジメント」は施さなければならないと考えていて、20%の顧客が80%の利益をもたらすとの「パレートの法則」に従って、チケット購入者のみならずワークショップ参加者に、職員の自筆メッセージの書かれた「お元気ですかポストカード」を作成して、郵送しました。あわせて職員のアイディアで、いままで長年にわたって市民との関係を持ってきたコミュニティ・アーツワーカーたちによる数種類のDVDをワークショップ参加者たちに送付しています。それらヘビーユーザーに向けて集中的にリレーションシップ・マーケティングを施し、強化して顧客維持施策を行っています。現在のような有事下のマーケティング手法としては、これは基本中の基本です。