第5回 「親ガチャ」は哀しからずや-私たちは、若者や子どもたちの「未来」に何を遺せるか。
2021年10月18日
可児市文化創造センターala シニアアドバイザー兼まち元気そうだん室長 衛 紀生
「親ガチャ」が物語る未来は。
SNSで2年ほど前から「親ガチャ」という呟きが盛んに飛び交っているそうです。テレビのモーニングショーで、その「親ガチャ」を取り上げていたのですが、当初は何のことだかさっぱり分かりませんでした。スマホのゲーム内にあるくじ引きに「ガチャ」というのがあり、それが語源だとの解説を聞いて「なるほど」と腑に落ちたわけですが、あの硬貨を入れてレバーを回すとカプセル入りのおもちゃが出てくるゲーム機を指してもいる、とのコメントを聞いたら、唐突に切なさがこみあげてきました。人間は親を選んで生まれるわけではないから、親の貧富の格差を否応なく引き継いで、学歴や就職先や年収、家庭環境や希望や夢までにも運の悪さが引き継がれていることを指している、というのです。そう理解しながら、あのガチャガチャの遊具の、いかにも蓋然性に身をまかせなければならない、自分の意志ではどうにもならない様子が脳裏に浮かんできて、無性に切なくなってしまったのです。
この「親ガチャ」を取り上げて論争の火付け役となった社会学者の土井隆義筑波大学教授によれば、この言葉にまず反応したのは、ツイッターを使う中高年世代で、ほぼ初めて知った刺激的な言葉だったらしく、『自分の努力不足を親のせいにしてはいけない』といった反応だったそうです。それに対して、この言葉を使う若い世代は「分かっていない」と反発が出て話が大きくなったと書いています。一方で、この「親ガチャ」を使っている若者たちは、しかしそれほど深刻に会話に差し挟んでいるのではなく、大抵は軽やかにいささか卑下するような調子で話し相手とのコミュニケーションに使用することが多いとの報告があり、私の気持ちは少しだけ軽くなったのですが、たとえ「軽口」であったとしても、その背後には無視してはいけない若者世代を包み込んでいる「時代の空気」は必ず横たわっていると、私は感じます。「明るい諦観」のような空気が若者世代にあるのではないかと思えました。昨年、ある教育水準と学歴に関する調査結果を見て、「一概にそう言えるのか」と憤りを持ったことがあります。育った家庭に本が多くある家の子どもは高学歴となる傾向が強い、というのが、その調査の解説でした。
私の両親は、私の小中学校の入学時に学校に提出する略歴に「高等小学校卒業」と書いてありましたが、実際は尋常小学校しか出ていないのです。共に明治30年代の生まれで、それぞれ当時の農家の長男以外はただの労働力という旧い慣習と貧困で苦労した両親にとってはそれが普通であり、「高等小学校」は子どもに肩身の狭い思いをさせたくないとの精一杯の見栄だったに違いないと、いまの私には思えます。家の中には、父が購読していた『財界』という雑誌が枕もとに積み上げられていたくらいでしたし、母は現在の東京・青山にあった呉服縫製店に小学校もろくに終えていない頃から縫子奉公に入って、手洗いの時間は制限され、食事も立膝のままでとることを強要されていた、と後年私に話してくれていました。その時の粗末な箱膳はいまも我が家にとってあります。GHQの民間情報教育部 (CIE)の指導で、国立教育政策研究所の前身である当時の国立教育研修所が中心となって、全国の15歳~64歳の成人男女約17000人を対象にした1948年(昭和23年)の無作為抽出調査では、全国民の非識字率は2.1%と報告されています。母が時事問題や三面記事の事件に対する意見を言うようになったのは、我が家にテレビが来た皇太子御成婚の頃からで、新聞は父が朝食時に読むものとばかり、小学生の私は思っていました。しかし私は両親から大切な心の配り方を継承しました。相手の立場に立って物事を考えて、行動するという生き方です。社会包摂型の経営を進めるうえでの胆となっています。
そのような環境で育ったので、先の調査の結果報告には憤りを感じましたが、私の少年青年期とは時代環境は著しく変化しており、「親ガチャ」という言葉が発せられる背景は社会の劣化として充分に理解できます。それがたとえ「明るい諦観」によるものであっても、しかし、その背後には、諦めていることさえ自覚できないでいる数百倍数千倍の若者たちがいることを、私たちは認識しておかなければなりません。そのような境遇を生きている者は、決して「本音」は吐かないものです。吐けないものです。そのような若者たちを捉えて離さないのは、自己の存在を肯定できない感情です。果てしない無力感です。自己肯定感からくる「生きる意欲」の欠如が、深い諦めにつながっているのです。その閉塞感に「自分は生きる価値があるのだろうか」と思い詰めている子どもたちも、私は知っています。関西の子ども食堂で、食事をして帰る子供の背に「生き延びるんだよ」と声をかける光景に、ただならぬ子どもたちの「いま」を思い知らされた経験があります。まるで戦地に送り出す母親の思いのようでした。コロナ禍で生徒児童の自死が急増している事実は良く知られています。彼らにとって自分の置かれてる場所が「出口なし」の絶望的な状況と思えたに違いありません。昨年度の児童生徒の自死者は415人と発表されました。1974年の調査開始以来、最多となりました。
この20年間よく語られたのは、プライマリーバランス、財政健全化の話題になると決まって「後の世代に借金を残してはいけない」という発言ですが、私たちはもっと重い負荷を、すでに充分彼らに負わせているのではないでしょうか。それが例外的な一部の貧困下の子どもたちではないことが、現下のコロナ禍で次々と露わになってきました。この2年弱のあいだに、既に壊れていた社会の諸相に失望する経験を嫌というほど見せつけられてきました。思い知らされてきました。多くの国民が「見て見ないふり」をしてきた「ただならぬ真実」を、ほんの2年ほど前から、私たちはその度に喉元に突き付けられてきました。私たち日本に生きる大人たちは、その「ただならぬ事態」、「不都合な真実」と誠実に向き合っているでしょうか。私たちはコロナに人間としての在り方を、人間としての誠実さを厳しく試されているのです。包摂的な社会こそが人間が生きていくうえでの健全な在り方である、という私自身の信念も、また日々の営為の中で試されていると考えています。
現場から立ち上がる政策を。
「親ガチャ」の言葉がSNSで盛んに使われていることを知った頃は、自民党総裁選の最中でした。各候補の政見を聞きながら、派閥の動向と党内実力者の暗躍を「合わせかるた」のように俯瞰していました。コロナ禍で困窮している人たちに何をするかの質問に、「デジタル社会になれば困窮している人がすぐに把握できる」と答えた河野候補は私の中でたちまち消えました。緊急手術が必要な傷口に絆創膏さえ貼らず、デジタル化の果実がもたらされるまで何年も待てとする発言には心底呆れてしまいました。また、日本を「美しい国に」と言いながら、格差を拡大させて、多くの人々の生きる意欲ばかりか、生きる価値さえ収奪して社会を劣化させてディストピアに導いたアベノミクスを継承すると公言する無神経さで、高市候補は端から私の中では脱落しており、岸田候補の新自由主義から離脱して「新しい資本主義」に向かうとする主張は、魅力的ではありましたが、小泉政権発足の施政方針演説での「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要」..から始まる新自由主義体制への急傾斜への反省と総括と、「トリクルダウン」という鄧小平の「先冨論」まがいの、そして英国のサッチャリズムでも米国のレーガノミックスでも所得格差が拡大して、国民のあいだに社会的分断が生じて失敗が実証されているにもかかわらず声高に政権内と政府機関で主張していた政商的学者の詐術的言辞への糾弾がなされないままであり、その総括なしには当然のことながら、新自由主義を転換へ向かわせるとする「新しい資本主義」のロードマップは不透明なままであり、自民党への不信感から、私は留保するしかないと考えていました。
そう考えている折に、岸田首相は株式市場の8連続営業日の下げに怯えて「金融所得課税の見直し」の先送りを施政方針演説で公言しました。この調子では、「再分配」の財源となる所得税の累進性、租税特別措置の政策減税が特定の大企業に集中していて、資本金100億円超の大企業の租税負担率が、資本金1000万円以下の小規模企業の負担率30.07%よりはるかに低い17.2%にとどまっている「逆累進構造」に手を付けることなど到底できないのは明らかです。新自由主義からの転換を言うなら、今度は「今の痛みに耐えて明日を良くしよう」を、大企業と海外機関投資家たち、富裕層に言い放つべきです。「変化」というものは、徐々には進みません。サプライズなしに「変化」は起きないものです。マネジメントの現場原則です。OECDの先進国で最低の賃金水準にとどまっていて、最近では韓国の労働者所得にも劣ってしまっている事態に対して、岸田首相は賃上げをした企業に対する優遇税制の優先性を表明しています。またしても繰り返し行われてきた企業へのアメである「優遇税制」です。大企業の租税負担率を中小企業のそれ以下にしてしまった原因である税負担の優遇措置をまたしても、です。税の優遇をインセンティブにしないと企業が動かないのであるなら、安倍政権下での「官製春闘」の繰り返しから何も学んでいないことになります。しかも「再配分」のために税の優遇をするというのは「新しい資本主義」の看板からは逸脱する逆立ちの政策ではないか。厚労省の『国民生活基礎調査の概況』によれば、世帯所得は1993年と95年の550万円から2018年には437万円に低下しています。さらに実質所得としては、「ペンション・タックス」と言われる、実質的な増税である「社会保障負担」はその間に上昇し続けているのです。
愚直に子ども政策を繰り返す野田候補だと、野党が一番相手にしたくない、戦いにくいだろうなと感じながら、到底彼女が二番手三番手にはならないし、ご当人も「なれない」ことを覚悟して愚直に主張を繰り返しているように見えました。結局は、「親ガチャ」の背後にある社会の深刻な現実に対して、一筋の光さえ漏れてこない不毛な議論に終始していました。「成長と分配の好循環」は2017年に当時の安倍首相も言ってはいましたが、「官製春闘」で経団連に賃上げを依頼するという考えられない社会国家主義的な「禁じ手」を打っても所得再分配に目立った成果はなかったわけで、もはや「手遅れ」であり、あの「官製春闘」は「アベノミクス失政」の弥縫策に等しい「アリバイ証明」に過ぎなかったわけです。一方では企業の内部留保はおよそ当時の446兆円から、コロナ禍にあっても2020年は前年度比2・6%増の475兆161億円となり8年連続で過去最高を更新している有様です。
先述の政商学者竹中平蔵氏は「業界団体と官僚と政治家ががっちり組んだ『鉄の三角形』に楔を打ち込めるのは民間の有識者しかいない」と語っていて、それを額面通りに受け取れば正しくその通りなのだが、私は新自由主義が市民権を与えて大手を振って罷り通るようになった三悪は「良心なき欲望、倫理なきビジネス、道徳なき蓄財」であると思っています。その種の人間が「有識者」として政府委員になっている政治の不見識はただちに改めるべきと長年考えて来ました。直近でも、政府諮問機関「規制改革推進会議」の新議長に就任したばかりの夏野剛氏が、子供の発表会なども無観客で行われていることへの配慮が必要とした同席のコメンテーターに「そんなクソなピアノの発表会なんてどうでもいいでしょう、五輪と比べれば。それを一緒にするアホな国民感情」と言ってのけて炎上しました。彼は以前にもワイドショー等で数々の倫理観と社会公平性の欠如する人間性を疑う発言をしており、「税金払ってないくせに格差を問題視する若者、将来に希望なし」とツイートして、納税の有無と格差を問題視する権利を関連づける前近代的な社会観と価値観を露呈しています。何をもって「有識者」なのか、憲法13条にある国民の幸福追求権の遵守を付託された政府委員の資格があるのか。人間に等しく保障されている尊厳へのリスペクトが欠如している時点で、「有識者」としては欠格ですし、国民の大多数を経済的困窮に陥れた新自由主義の申し子としか言いようはありません。彼らに私たちの、そして国民の「幸福追求権」を付託すること自体、まさしく「政治の失敗」なのではないでしょうか。
新自由主義の国の反省と反転。
一方、2019年8月19日に米国・ビジネスラウンドテーブルが発表した『企業の目的に関する声明』と題された文書に私は驚愕しました。日本の経団連をはじめとする経済3団体とのあまりの径庭の感に驚き、そしてにわかには信じられないほどでした。企業経営の原則とされていたミルトン・フリードマンの論文にある「株主資本主義」を批判し、「ステークホルダー資本主義」への急転換を宣言したからです。ステークホルダーである従業員、取引先、地域社会への利潤の再分配こそが、企業の持続継続性を担保するとして、従来の「株主資本主義への訣別」を宣言したのです。むろん、直後からその実効性を疑問視する向きもありましたが、ほぼ半世紀にわたって続いてきた企業経営の従来からの「常識」を逸脱することを宣言したことに、私はこの「気付きによる反転」のいさぎよさに時代が緩やかであったとしても変化するきざしを感じました。おそらく良心を持っている誰もが、「いま」を尋常な事態ではないと受け止めているのです。資本主義というものは「欲望」によって推進力を得ている仕組みですし、自由放任に任せると、一部の資本家層の「欲望」のみが倫理観を顧みることなく機能して、産業革命後のような奴隷労働と植民地支配による、アダム・スミスの『国富論』と『道徳感情論』を著わすモチベーションとなった重商主義型の利益追求第一主義が跋扈することになります。したがって、あらゆるステークホルダーに配慮する資本主義は、長い時間をかけて、多くの失敗に学び、様々な人々の犠牲の上に立って、より民主的な利益の配分を実現させた、いわば「修正資本主義」とでも言うべき事業体と国民とのより「健全な契約関係」と言えます。ビジネスラウンドテーブルの『企業の目的に関する声明』は、ミルトン・フリードマンによって産業革命直後に「先祖がえり」して歪められた資本主義を取り戻そうというもの、と私は評価しています。
ならば、私たち劇場に関わり、文化芸術に関わる人間は、いま何を為すべきなのか。この時代環境の中で孤立に瀕して、未来に希望も夢も持てなくなっている若者や子どもたちに正対して、私たちは何を為すべきなのか。「親ガチャ」という言葉の前で感じたあの「切なさ」は、自分の力のなさへのそれでもあったことにも私は気付きました。事の大きさと根深さの前では、私一人の能力など芥子粒ほどのものなのは火を見るよりも明らかです。しかし、私は諦めの悪い団塊の世代であり、人口10万人の小さなまちの可児市文化創造センターalaで2008年から始めた、「現物給付による所得再配分志向」である「社会包摂型劇場経営」も、私の諦めの悪さによって為し得たことと現在でも思っています。「親ガチャ」で言われている「意欲の喪失」、「諦観からくるセルフリスペクト(自己肯定感)の喪失」に対して、きわめて有効な処方箋として、文化芸術の諸機能は驚くべき働きを発揮します。それが現場での実感であり、SROI調査からのエビデンスです。
そのうえ、プロジェクト当初に県立東濃高校の教頭をなさっていた、現在岐阜県教育長の堀貴雄氏の証言によれば、驚くほどの即効性を持つ「つながりの処方箋」としてです。セルフリスペクトが生まれるには、他者の存在が不可欠です。他者が介在して、はじめて自己肯定感は、それまでのネガティブな感情を押し退けて萌芽するのです。言うまでもなく人間は社会的な動物です。「誰かに必要とされ」、「誰かのためになっている」と実感することによって自身の生を健全に営める存在です。いわばメンタルヘルスケアの処方箋と言えます。自分一人で、自分自身をリスペクトするのは「自己万能感」という、もっとも非社会的で、対人関係で私がもっとも嫌う品性卑しい営為の原因になります。「誰か」という他者が介在して、「必要とされる自分」と「必要となっている自分」を実感して、新しい自分と出会う。そのプロセスで自己への確信の物語が紡がれます。ここでの物語と「誰か」(相手)の裡に立ち上がるのは、物語と言ってもストーリー(story)ではなく、それぞれの裡に湧き上がってくる、自己生活史に基づいたナラティブ(narrative)です。承認欲求を充たされて紡がれる自己肯定(セルフリスペクト)の物語(ナラティブ)なのです。自らの内側で紡がれるからこそ、揺らがない強さのある自己確信となるのです。
「人間の安全保障」とESG投資の時代。
ここで私は、十数年間持ち続けてきた核心を提起しようと思います。可児市文化創造センターalaが十数年間にわたって可児市民に供給し続けた、文化芸術による、孤立と孤独に瀕している状態からコミュニティの一員として包摂するための多様なコミュニティプログラムのアウトカムを根拠(エビデンス)として、劇場音楽堂等と文化芸術は娯楽とか享楽とか趣味にとどまっている「常識」を離れて、その「再定義」に踏み込むべきと考えます。たとえばコロナ禍での社会的孤立と孤独への即効性のある手当として「現金給付」は有効だと考えますが、中長期的にその存在自体をケアするためには、社会的な生き物である人間なら誰にでもある承認欲求を充たして、自己肯定感の萌芽を裡に生み出し、多様な関係資本形成によって、多様な「依存できる関係資本」」を創り出すことこそが、「生きる意欲」を醸成して、ふたたび社会的孤立と孤独に陥らないためのリスクヘッジとなるのではないか。軍事的安全保障と経済的安全保障はたびたび政策として語られ、時代の変化とともに更新されることが多いが、「依存できる関係資本」を創出する機会提供をロジック化して政策化することこそが、国民の幸福感に直結する、肝心かなめの「人間の安全保障」なのではないかと、私は『芸術文化行政と地域社会』を上梓した90年代から考え続けてきました。政治の使命は、まさしく其処にあると私は思い続けています。
2016年から本格運用が始まった「アーツカウンシルの機能強化」を企図した日本芸術文化振興基金運営委員会の「特別部会」が6月から開催されています。9月末までに、この種の委員会では考えられない月2回都合8回というタフなスケジュールで、2018年に閣議決定された『文化芸術推進基本計画-文化芸術の「多様な価値」を活かして,未来をつくる』に続く、次の5年間の推進基本計画に書き込む文言の構想を協議しています。同時に、1990年に設けられた芸術文化振興基金の果実が、金融政策のあおりを受けて長期にわたる低金利によって払底している現況によって「アーツカウンシルの機能強化」のために必要な資金の不足という現実をどのように解決に向かわせるかをも協議しています。文化庁からの運営交付金に依存しないで、自主財源を獲得するための戦略的マーケティング&ファンドレイジングを所掌するセクション設置と、その専門人員を配する改革案も考えています。そのためにも資金調達によって新しいパイを創り出すことが必須となっています。
そのためには、第一段階として先の「再定義」を普遍化することと、次のステップとしては「人間の安全保障」としての文化芸術の包摂機能をマーケティングするプロセスを国民的な合意形成に結び付けて、ここ数年のESG投資の風潮のグローバル化を強い追い風として、アーツカウンシル改革改新への投資を呼び込む戦略戦術を展開しなければならないと考えています。ESG投資とは、この10年ほどで企業投資のスタンダードとなってきた、温暖化を含めての地球環境(Environment)と社会及び地域社会(Social)・企業統治(Governance)を重視する投資姿勢のことです。ESG評価の高い企業は、事業の社会的意義、成長の持続継続性など優れた企業特性を持つわけで、中長期的に成長の約束された投資行為であるとされています。
たとえば先般、文化芸術復興創造基金に東京海上HDが4000万円の資金提供がありましたが、これを「文化に理解ある企業」とだけ捉えているしまう姿勢は、前世紀的な発想でしかないと思います。東京海上HDは、「To Be a Good Company」を旗標にして、SDGsに沿って多くの社会課題解決に向けたプロジェクトに取り組んでいます。社内に一人親で子育てする社員、外国籍の社員、海外勤務等々の女性職員からなる「ダイバーシティ・カウンシル」を設置している優良ガバナンスの企業風土があり、加えて事業活動における環境負荷を可能な限り低減するために石炭産業への保険提供を廃止するという意思決定をつい最近しています。このような企業風土が、作品創造への事業支援ではなく、コロナ禍で傷んでいる団体運営に対する支援という制限を設けての資金提供に踏み込んだと理解評価することが、その資金提供への適切なリスペクトです。「文化に理解がある」という評価は、企業の社会的責任経営(CSR)という企業メセナの狭い範疇に、その行為を圧し込めてしまうことになります。SDGsに依拠するということは、経営戦略研究の大家であるマイケル・ポーターが提唱する。共創価値マーケティング(Creating Sheard Value)によるものと理解したうえで、東京海上HDもESG投資の対象となる企業活動の一環を意味すると考えるべきです。私たちは、文化芸術の価値創造のための支援を受けたと同時に、東京海上HDもまた企業価値の高度化、社会的信用の強度化に結び付く拠出であったと理解すべきです。
「社会的共通資本」(Social Common Capital)と産業化へ。
劇場音楽堂等と芸術団体は、宇沢弘文先生が提唱なされた「社会的共通資本」(Social Common Capital)だと考え続けています。それらは、宇沢先生の定義するように「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持することを可能にする社会的装置」としての三分類の資本のうちの「制度資本」にほかなりません。まさしく「人間の安全保障」の装置です。自民党参議院幹事長の世耕弘成議員が「親ガチャ」について、参議院の代表質問で岸田首相に問いかけていました。首相答弁は、「人間の安全保障」政策への明確なロードマップを指し示すものではありませんでした。一方、コロナ禍を経て補助事業となった文化庁の「文化芸術収益力強化事業」等の委託を受けて、社会包摂型プロジェクトが産業化する方向が垣間見えてきました。「人間の安全保障」が広範な拡がりとなるためには、どうしても産業化は必然であると考えます。「アーツカウンシルの機能強化」もまた、その要素は不可欠と考えます。第三次基本方針に書き込まれて転換点となった「文化芸術の社会包摂機能」を芸術至上主義者たちが何故ネガティブに捉えるのか。なぜ「人間の安全保障」の一角を文化芸術が担う社会的な使命を拒否するのか、私には到底理解できません。文化芸術がウイングを広げて一人でも多くの人に、その果実を享受してもらうことは、それほど文化芸術を辱めることでしょうか。文化芸術の愛好者市場規模(バスツアー等の団体鑑賞を除く)は、概ね2%から3%、大甘には5%と推定されます。2%ならその市場規模は251万6000、3%なら378万、たとえ5%としても628万と狭隘さは否めない。英米仏のように海外からの観光客を含められる環境にあるならまだしも、日本の市場環境にそれは望めないし、望めたとしても10年単位で先のことになります。「人間の安全保障」という視座に立てば、一躍1億2600万という「文化芸術市場」が射程に入ります。それに加えてアーチストのスキルに付加価値が生まれて、それがパブリックなスキルとして社会的認知を受けるグランドデザインを持てることとなります。そして、その「産業化」が視野に入ってくるでしょう。
5年ほど前に東海地区を代表する公立劇場3館の幹部クラスの人間たちが「そろそろ社会包摂が補助金の対象になりそうだから」と話していたと仄聞して憤り、そして情けなさを感じた私でしたが、「社会包摂の産業化」については異を唱えるつもりはありません。「新型コロナウイルスで外出困難となった人たち,そして障害や疾患,育児や介護などを理由に劇場や展示鑑賞が困難な人たちに対しても開かれた,誰もが好きなときに好きな場所から芸術に親しめる場の実現を目指しています」とする株式会社precogの包摂型サービスは、「人間の安全保障」という則をわきまえているかぎりとの条件は付きますが、大いに産業として社会化すべきと考えます。それこそ「文化立国」への、私とは違った道の選択肢ではないかと思います。その際にどうしても譲ってはいけない立ち位置として、100年前に草稿された「水平社宣言」に貫かれている「同情」や「ほどこし」によってではなく、自律によって解き放たれ、宣言の結語である「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という世界を現前させようとする倫理的・道徳的熱意を失念しないことです。英国の社会学者で社会政策学の確立者リチャード・ティトマスは、市場の論理に身を委ねて金銭的報酬への期待を持つようになると価値観に大きな変化が訪れる、と米英の献血の比較を通して証し立てています。日本では、「ふるさと納税」が中央と自治体との格差是正という本質的な所得再配分の意義を失って、返礼品目的に変質してしまったようにです。「人間の安全保障」は、資本主義の「先祖返り」的な変質によって人間の尊厳がいたるところで損なわれています。コロナ禍によってそれらの見て見ぬふりをしてきた現況が露わになり、短期間に浮き彫りとなりました。そのことに気付いた以上、劇場音楽堂等と芸術団体は、人間の豊かな生命の営みにとって必要な「社会的共通資本」の担い手としての自覚をもって、その包摂的な機能をフルスロットルにすることが求められています。私たちが若者たちに遺せるのは、あるいは遺さなければいけないのは、人々が幸福感をもって生きる社会の仕組みです。そのためにも、「人間の安全保障」の政策化と、その産業化は急がなければなりません。岐阜医療科学大学での地域医療・介護のための人財育成の演習も10月半ば過ぎから始まります。年明けに後期高齢者となる私にとっては、「文化芸術の公共財化」、「人間の安全保障政策」、「社会的共通資本としての劇場音楽堂等」の実現は、いわばチキンレースのようなものなのです。