第68回 芸術と劇場の公共性の複雑さについて考えた ― 藤田直哉『前衛のゾンビたち』に触発されて
2016年5月13日
可児市文化創造センターala館長兼劇場総監督 衛 紀生
文化庁でのプレゼンテーションで東京に行ったついでに藤田直哉編著『地域アート・美学・制度・日本』の出版刊行記念連続シンポジウムに参加してきた。恵比寿駅から細い路地を歩いたところにあるギャラリーと美術系ブックショップのあるNADiffの、ギャラリーに椅子を並べて100人ほどがようやく入るスペースでの公開シンポジュウムで、非常に刺激的な議論が行われた。『共同体とアート』と『アートと公共性』の隔週連続シンポジウムであったが、私はその後者に参加できた。東京大学大学院総合文化研究科特任助教の星野太氏の進行で、他に筑波大学人文社会系准教授清水知子氏、京都市立芸術大学芸術資源研究センター准教授の加治屋健司氏という顔ぶれで、『地域アート・美学・制度・日本』の藤田氏も会場に参加していて、求められて発言していた。
この企画は、文芸誌「すばる」の2014年10月号に藤田直哉氏が発表した『前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題』が投げかけた地域振興のためのアートプロジェクトへの問題提起が起点となっているようだ。当日NADiffで買い求めた数冊の書籍の中の『地域アート・美学・制度・日本』に収録されている『前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題』を帰りの新幹線の中で読んだが、確かに現在全国で大小100はあるとされる地域のアートプロジェクトへの、痛烈な一撃になる内容の問題提起であり、これはあらかじめ行政の要請で経営することになっている公立の劇場ホールの人間にとっても真摯に受け止めなければならない一石であると感じた。
『前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題』は、2014年に起きた漫画家で美術家であるろくでなし子が女性器型カヌーをつくるためにクラウドファンディングで資金調達を行い、一定額以上の出資者には自分の女性器をスキャンした3Dプリンタ用のデータを頒布していたことにより逮捕されたことから書き起こされている。「社会に対してラジカルに異議申し立てを行い、法との軋轢を生みながらも、世の中の認識や感性を変えていくものとして芸術が期待されている」と芸術と社会のスタンスへの自己認識を藤田氏は述べたうえで「だが、ここで見落とされているのは『芸術性』の評価である。『美』の存在証明と言っても良い」と言葉の穂を継ぐ。そして「注意を喚起したいのは、現代美術の世界が、『問題提起』そのものが芸術性の証明であるかのような傾向を持ってきていることである」と自身の立場を明確にする。
このことは1月に京都市立芸術大ギャラリー@KCUA(アクア)で催されたイベントでの、若手アーチストによる「88の提案の実現に向けて」と銘打った企画の一つに「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目があったことで論議を呼んだ出来事と重なる。京都新聞の記事によると「表現の自由」として許されるのか。人権侵害として非難されるべき行為なのかとの議論がSNS上に起こったという。記事によると、「アーチストは人権侵害をするもの」「アートの名の下に個人の尊厳を傷つけるのは許せない」…。上京区で3月下旬に開かれたディスカッション「表現と倫理の現在」でもこの問題が取り上げられ、「アーチストは自由であるべき。表現を公共化する時に生じる問題はキュレーターの責任だ」「美術館やギャラリーに過大な責任を負わせると、あらゆるリスクを回避して安全な方に流れる危惧がある」といった意見が交わされた、という。そして、実際、萎縮の波は現代アートの空間を浸食している。昨年、東京都現代美術館の企画展で、現代美術家の会田誠が、家族と制作した文部科学省や学校への不満を記した「檄(げき)」や、日本の首相に扮(ふん)して国際会議で鎖国論を演説する映像作品を出展した。それに対し、都や美術館が作品の改変・撤去を要請し、その後撤回する騒動があった、と記事は展開している。
しかし私は、アーチストが既成の価値観に対して「ゆらぎ」を生じさせる作品を創り発表することだとしても、それと他者の存在(Being)を脅かし、幸福追求権を侵害することは別の問題。権力による検閲と同類に扱うこと自体、アーチストの傲慢さが臭う。どのような手段を使っても他者を不快な思いにさせるのがアートという考えは単なる冒険主義でしかない、と思う。この出来事が報告されていたSNSには「アーチストの小児病的特権意識は腐臭がして遣り切れない」と書き込んだ。「ゆらぎ」を生じさせるためには何をしても良いというアーチストの特権意識は鼻につく腐臭と選民性を感じる。「デリバリーヘルスの女性を会場に呼ぶ」ということの何処が芸術なのか。「彼女」にそこで何をさせようと企図しているのか。ただ「彼女」の現在を晒すことが芸術というのなら、芸術のダッチロールも甚だしい。これはアーチストが自分を「安全地帯」に置いて他者の生存権を脅かす人権侵害でしかない。私はこの提案を平然と出してきた「若いアーチスト」の、アーチスト以前の人間としての価値を疑わざるを得ない。芸術に関わる資格がないばかりか、「芸術家」を名乗ること自体が不遜である。閑話休題。藤田直哉氏は『前衛のゾンビ―地域アートの諸問題』で、ろくでなし子の問題点である「芸術性の評価」への疑義に次いで、日本の地域アートにも大きな影響をもたらしたニコラ・ブリオーの『関係性の美学』を通底音としながら、日本政策投資銀行のレポートである『現代アートと地域活性化』を引いて「ここで重視されているのは、地元と『融け合う』ことや、産業を活性化させること、都市のアイデンティティを失わせないこと、観光客を呼び込むこと、である。その芸術の中身や『美』についてはほとんど触れられていない」と自身の危機感を有体に記述している。 そして、「現在の日本で行われているアートが、それらの過去の運動(著者が言う「68年的なもの」)を自身の正当化の根拠のようにしながら、結局は、国策の一環であるかのような『地域活性化』に奉仕してしまって、閉じていく現状である」、「前衛のゾンビたちが、身体を溶かしながら、田んぼの中に崩れかけている」と痛烈な一撃を、乱立する地域のアートプロジェクトに加えている。
『アートと公共性』のシンポジウムは、当日は確か『アートと公共性の複雑さ』となっていたように記憶しているが、まさに糸が絡まって解決不能とさえ思える「複雑さ」に満ちたテーマであり、それだけに知的スリルを存分に味わえる議論内容であった。会場のひどく窮屈な、しかも小さめな椅子に往生しながらも、演劇や劇場に関する議論がこのように論理展開の困難さを持って行われていたのは60年代後半から70年代初頭までではなかったかと感じて、一種の懐かしささえ覚えた。そして、いま目の前で展開されている「公共性」の議論が、演劇や音楽や劇場経営、とりわけ「公立」の劇場を経営する私とどのように繋がらなければならないのかを考えていた。
あらゆる芸術は藤田氏の書くように「ゆらぎ」を起こすものであるという考えには私も同意する。しかし、それが必ずしも「社会」に対する「ゆらぎ」であり、社会の既成の価値観を変化させるものでなければならないとは決して思っていない。観客や聴衆や観衆の一人である、社会の構成要素である「個」の価値観に「ゆらぎ」を起こしてその人間の生き方に変化をもたらすことも芸術の役割であると私は思っている。「ゆらぎ」を起こす対象が社会や国家や都市でなければならないというのは、芸術家の志としては理解するが、ある種の誇大妄想でしかないと考えている。ましてや「公立」の施設を経営する身としては、事業内容が必ずしも「前衛」である必要はないし、「前衛的」であることが絶対的な芸術的価値とも私は思っていない。「前衛」というタームに胡散臭さを感じるのは、その芸術家の誇大妄想的な野心に対する私の忌避感と嫌悪感があるからである。
ただ、「結局は、国策の一環であるかのような『地域活性化』に奉仕してしまって、閉じていく現状である」の藤田氏の一節には敏感にならなければいけないと思う。「公立」の劇場ホールは、1万円の価格設定で500人の市民がアクセスするなら、5000円で1000人、2500円で2000人に鑑賞の機会を提供する使命を持っているものでなければならせないと常に考えている。価格政策が「公立」の重要なイシューの一つなのである。ただ、その価格政策をも包括して、可児市文化創造センターalaのように「社会包摂型劇場経営」によってPublic Benefit の成立を公共的使命としてあらかじめ負っている施設にあっては、藤田氏の言う「地域活性化」と無縁であることはできない。
ここで私が、「公益」をPublic Benefitとあえて英語表記にするには理由がある。日本においては「公」は、明治以来行政が独占してきた経緯があり、95年の阪神淡路大震災の折に、国民が担うべき「公」があるとの論議がなされ、「NPO法」の制定につながった。そのプロセスでも行政による「公の独占」を自明とする横槍が入っていた。つまり、「公共性」、「公益性」というと、反射的に行政や公権力におもねるものと考える傾向と胡散臭さは、おそらく日本人に特有なメンタリティのではないか。これは「公立」施設に身をおく者の言い訳ととられても仕方ないのだが。
ただ、この「公立」施設経営における私どもが目指している「地域活性化」は、日本政策投資銀行のレポート『現代アートと地域活性化』から漂ってくる経済的波及効果への礼賛のみではなく、いわゆる社会的投資効果(Social Impact Investment)をも包含する意味での地域社会への貢献である。「地域活性化」というと、どうしても経済的波及効果という「成長優先社会」の枠内で語られるものになってしまうが、私はむしろ経済成長優先から転換した定常化した経済下での「生活重視」の地域社会の形成に、劇場と芸術が、従来は評価されていなかった潜在的な機能を発揮して貢献することが21世紀社会での変化をもたらす使命なのではないかと思っている。
だがしかし、藤田氏の「そんなに簡単に、有用なっていいのか」という問い掛けに用意する答えを、今のところ私は持ち合わせていないと正直に言わなければならない。「公立」の施設を経営する身にとって藤田氏のこの問いは、喉元に突き付けられた匕首である。