第三章 経験価値マーケティングとブランディング(6)
2008年12月24日
劇場・ホール及び芸術団体が、文化芸術振興基本法第32条の「学校、文化施設、社会教育施設、福祉施設、医療機関等と協力して、地域の人々が文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会を提供する」という文言を担保するような活動をするのも、いわばCRMに区分できる。ただ、残念ながら、ここにはソーシャル・インクルージョンの理念が盛り込まれていない。「文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会を提供する」ことが芸術や文化に親しむためだとしたら、木を見て森を見ないたぐいの成果しか生まれないのではないか。「手段」としては述べられているが、「目的」が明確に規定されていない、と私には思えてならない。芸術文化のもつ社会的機能を過小評価してはいないか。
行動に変化をもたらすマーケティングと行財政改革の行方。
可児市文化創造センターのウェブサイト内に連載している「館長エッセイ」で私は次のように「文化的である」ことを書いている。
「文化的であること」とは、何も音楽や演劇や美術に造詣が深かったり、好きであることでは決してないと思っています。心が健やかで、人間が好きで、自然に心遣る気持ちがある、つまり豊かな人間性を備えていることこそが「文化的である」ことの基本的な姿であると私は思っています。そのような心をはぐくみ、コミュニティを健やかに生きる場所にするための拠点が地域劇場や美術館であり、施設の社会的な役割であり、公共が設置する根拠であると、私は地域に出て仕事をするようになって二十数年のあいだずっと思い続けてきました。
前述したMarketing through the artsである。ここでいうマーケティングは、コトラーの「人々の社会的・文化的福祉の改善という責任も果たさなければならない」意味でのソーシャル・マーケティングだ。繰り返しになるが、アーツはソーシャル・マーケティングを推し進めるための手段となる幅広い機能を内包している。90年代英国の労働党政権が着目したのはその点である。アーツという表現の基盤は他者への信頼に他ならない。他者への認知や信頼や関わりあおうとする意識がなくては、アーツは決して成立しない。あらゆる表現はそういう関係性を前提とした基盤によって成立している。
重ねて言うが、英国政府がソーシャル・インクルージョンに芸術文化を援用しようと考えた根拠はここにある。日本では「文化的」であることが、すなわち何らかのかたちで文化に関わることと狭義に解釈されてしまうが、「文化的」であることとは他者との関わり方の作法のあり様なのだ。したがって、「文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造する機会を提供する」ことを国の責務とし、それを「芸術家等及び文化芸術団体」の努力目標とするなら、そのことによって何を成果として期待すべきかを明示しなければならない。私が仮にそのゴールとするところ、あるいは目的とする成果を述べるとしたら、「すべての人々が障害の有無、世代の違い、失業や貧困による格差、国籍の違い、セクシャル・マイノリティであること等を超えて、それらを個性として認め合い、交流して他者への気遣いや思い遣りを育むことを目的とする」、と明記するだろう。
公共文化施設は、そのように人々の行動律に関わるマーケティングを芸術文化によって行う責務がある、と私は思っている。「公共」である根拠である。福祉政策・教育政策・コミュニティ政策、あるいは「創造都市」を視野に入れるならば、さらに経済政策、産業政策、雇用政策の拠点施設であるべきなのだ。地域社会の将来的な不安に対処する施策としての事業の設計、実施が、地域の公共文化施設の責務のひとつであり、それが地域の公共文化施設にとっての社会的責任経営(Corporate SocialResponsibility)であり、社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)だと考えるのだ。むろん、公共文化施設のみならず、芸術団体も社会的な機関としてその責務は負っているし、その社会的役割を果たすべきであろう。むろん、芸術創造を行うこともCSRとCRMという役割を果たすことである。ただし、良質であり、高品質であることが必定の条件とはなるが。
将来世代に負担を残さない施策としての文化政策の展開を。
前述したように、Marketing through the artsは、公共文化施設にとっての社会的責任経営(Corporate Social Responsibility)であり、社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)であり、ブレア政権が選択した社会政策でもある。コミュニティの崩壊やコミュニケーション能力の劣化が言われている今日、劇場・ホールや美術館などの文化施設に期待される役割は小さくない。なのに、である。基礎的財政収支の均衡化を企図する行財政改革や指定管理者制度の施行によって、それらの施設の外部環境は悪化の一途をたどっている。指定管理者制度も行財政改革の産物であるから、すべては「基礎的財政収支の均衡化」によると言っても良いだろう。
ただ、ここには解決しなければならない将来的な課題がある。基礎的財政収支の均衡がまったく意味がないとは思わないが、あまりにドラスティックにそこへ突き進むことには危惧を感じる。「後の世代に負担を残さない」とは、行財政改革を語るときの枕詞であるが、基礎的財政収支を均衡化することで「後の世代」への負担が本当になくなるのだろうか。大阪を例示するまでもないが、教育、福祉、文化、医療という21世紀にその重要さを増すだろうと前世紀末に予測されていた、人間の共感をベースとした公共サービスの予算に大鉈を振るうことが、果たして本当に後から来る世代の負担を軽減することになるのだろうか。
その結果、コミュニティが崩壊し、人心が荒廃したらどうするのか。道徳的・倫理的荒廃が社会に蔓延したら一体どのように手当てをするというのか。治安の悪化や教育の格差ばかりか、いのちの格差さえ当たり前になって生じる社会不安をどうするのか。財政収支は均衡したが、肝心の人々の心や社会が荒廃してしまったら、どのように手当てをするというのか。それをもう一度回復させるためには、膨大な予算と長大な時間が必要となる。結局は、後から来る世代に大きな負担と生命の危険を残すことになりやしないか。
教育、福祉、文化、医療という人間的な共感をベースとした公共的なサービスは、急進的に予算削減すべきではないし、そういう種類のものでもない。これらは社会の健全性を担保するのに不可欠なサービスなのである。 この分野をソフトランディングさせないと、削減した予算の何倍もの経費と長大な時間が浪費されることになる。むろん一方で、社会的機関とはなりえていない公共文化施設は、経営能力のある指定管理者に特命指定するか、廃館にすべきだろう。日本版ソーシャル・インクルージョンを視野に入れていない、あるいはその能力のない地域の文化施設や指定管理者は公共であることから「退場」しなければならない。憲法十三条の「幸福追求権」を担保できない施設は存続させる意味さえないのである。「幸福追求権」とは、まさしく21世紀の市民社会で等しく社会的価値をもつ「福祉権的文化権」であるからだ。
以下に、『Standing Room Only』に紹介されている、まったく正反対の芸術文化への見方を紹介しておく。
アートコンサルタントであり作家のブラッドレー・モリソンとジュリー・ダルグレシュは「アートは実用的な目的のために存在しているのではない。コミュニティの威信や経済的影響力、都市開発、企業イメージ、賢明な利己主義、生活の質を売る商工会議所などのために、支援を正当化しようとするのは見当違いだ。アートはアートとして、また、それ自体が目的であるものとして受け入れなければならないし、我々はアートがすべての人の生活に取り入れられるよう努力しなければならない。理由は単純で、アートこそが文明のエッセンスだからである」と述べている。
この論理を根拠とするならば、公共は芸術文化を一部の愛好者や富裕層の選択財として支援するしか道は残されていない。これは日本に特殊な問題ではない。そうであるならば、都市部は別として、地域の公共文化施設は、その存立根拠を喪失してしまう。芸術文化は、一部の愛好者や富裕層の独占物になってしまうだろう。果たしてそれで良いのだろうか、私たちはもっと豊かな果実を芸術文化に期待しているのではないか。「芸術の特権化」ではなく「芸術の民主化」こそが、今日の社会状況下で必要なのではないか。私たちは、あらためて自身に問う必要がある。
シカゴ・トリビューン紙の首席評論家リチャード・クリスチャンセンは、「(アートは)高潔にして重要な使命を持っている。しかし、それを政治的に正しく、社会的に価値のある目標に置き換えようとすると、使命を果たせなくなる危険がある。」と言う。しかし、私は、アーチストは敬意を表すべき存在ではあるが、特別なカテゴリーに入る人間ではないと思っている。芸術的な技術で社会に関わっている存在である。彼らを神聖視することは、アーチストにとって必ずしも幸せなことではない。彼らの作り出した崇高な作品と彼ら自身を同一視することは危険きわまりない。
企業との戦略的コラボレーションへ。
日本における企業の芸術文化支援は、2006年度の活動費合計を概観すると、421社256億8647万円となっている。1社当たりの平均は6101万円であり、これは決して少ない額ではない。経年で見ても、2000年以降、ほとんど大幅な変化はない。この統計は社団法人企業メセナ協議会のものであり、統計に表れていない地域での草の根的な支援活動も、それほど大きな額ではないだろうが着実に行われている。
メセナ活動の目的としては「社会貢献の一環として」が92.2%、次いで「地域社会の芸術文化振興のため」は66.9%、「芸術文化全般の振興のため」が53.5%となっており、メセナ活動と「企業の社会的責任経営(CSR)」をどのように関連づけているかについては、65.1%の企業がCSRとして位置づけていると答え、今後CSRの一環に含めていくと回答した企業と合わせる87.0%にも上る。明らかにメセナ活動における社会的責任経営(CSR)への意識の高まりを感じさせる。
成果に対しても、「地域との関係がより深まった」(64.8%)をトップに、「企業イメージやブランド価値が向上した」(55.8%)など概ね良い成果をアウトプットしている。「顧客との関係がより深まった」、「新たな人的ネットワークを得た」、「社員が自社に誇りを持つようになった」、「取引先からの評価が高まった」などの具体的成果があったという報告もある。報告を概観するかぎり、日本の企業メセナはおよそ20年を経て足場をしっかり固めて活動をしていることが窺える。
一方、公益法人制度改革三法が2007年6月に公布されて施行日が2008年12月1日に決定した。110年ぶりの民法の大改革であるが、その詳細を述べるのは別の機会にしたい。ただ、ここで重要視したいのは公益社団・財団法人に対する法人の寄附金については、現行の特定公益増進法人に対する取扱いと同様の取扱いになる見込みがあるという観測がある点だ。つまり、寄付金額が所得から控除されるということだ。寄付金のパブリックマネー化であり、もっと分かりやすく噛み砕けば、企業・個人は自分の必要と思うところに本来は税金となるはずの所得の一部を任意の団体に寄付できるということになる。このほかにも「みなし寄付制度」や「収益事業の公益事業化」など着目すべき改革であるが、この「寄付税制の改革」は画期的であり、今後、地域の文化施設に与える影響は少なくない。
現在、指定管理者制度が適用されている地方自治法上の公の施設のうち文化施設のみに限れば、およそ40.2%が指定管理者を選択しており、そのうち82.1%がこれまでも管理を委託されていた自治体出資の財団等の公共的団体が引き続き指定管理者として指定されている。
これらの公共的団体が新制度ですんなりと一般法人を選択するとは思えないので、この新制度になってからの公共文化施設の外部環境は大きく変化することが予測される。つまり、いままでは自治体からの、管理委託金や指定管理費に全面的に依拠していて、それに対する議会筋や行政内部から行財政改革にマッチしていないとの批判がないわけではなかった。そこからテイク・オフする資金源の多元化へのインセンティブが、この公益法人制度改革三法の施行によって形成される可能性はある。
地域の公共文化施設の建設は、都市部を除いて、「政策目的」の達成ではなく、「政策手段」の設置であるべき、というのが私の持論である。
ここでいう「政策」とは、言うまでもなく福祉政策・教育政策・コミュニティ政策であり、さらには経済政策、産業政策、雇用政策などの拠点施設としての劇場・ホールや美術館でなければならない。したがって、市民や地元企業も、その政策目的を達成するために協働すべきであると考えるのである。もっと強調して、北海道文化振興条例の「前文」にあるように「責務」と言っても良いだろう。地域社会の健全化は、ひとり行政のみが負うものではない。地域社会の健全化という、すべての市民、すべての地域企業に利得のある公共的な目的は、すべてのセクターの協働で行われるべき施策である。逆に言えば、「公共」は行政の独占物ではない。したがって、公益法人制度改革三法の「寄付税制改革」は、日本における「公共的意識」の重要なターニング・ポイントになる可能性を秘めている。前述の政策は、「市民的公共性」によって担保されなければ実効性は疑わしいものとなる。
その一方で、企業メセナも、社会的責任経営(Corporate Social Responsibility)としてのメセナから、社会貢献型マーケティング(Cause Related Marketing)としての公共的な劇場・ホールとの協働にシフトしていくことが必要となってくるだろう。「社会貢献の一環として」、「地域文化振興のため」ではあまりに抽象的に過ぎないか。企業側の戦略目標と乖離しすぎてはいないか。企業にとっては、社員の生活水準や生活安全性や福祉の向上のために地域社会に貢献する、というスキームが必要になってくる。可児市文化創造センターは地元企業に、自社の福利厚生施設として劇場を位置づけてもらえるように働きかけている。このスキームでは、自己利益をまず考えるべきで、そこからでないと支援は従来のままの「おつきあい」の範囲にとどまってしまう。コラボレートするセクター相互の経営戦略に、ともにコミットした取り組みとしての企業メセナが今後必要とされると私は思う。経営戦略と乖離した企業メセナでは、持続継続性が疑わしい。自社の広義のマーケティング戦略における長期的利得をしっかりと強調した企業メセナであるべきなのではないか。
可児市文化創造センターでは、地元企業が、子ども達の教育的・文化的環境整備やコミュニティ(地域社会のみならず家族や職場も含めて)の健全化のために劇場を活用する「アーラビジネス倶楽部」を組織しようとしている。鑑賞チケットを劇場が仲立ちして企業から子供たちへプレゼントし、子供たちはアーラの絵葉書で企業の担当者にサンキューメールを送る「私のあしながおじさんチケット」や、教育機関、福祉施設、医療施設にアウトリーチする地域拠点契約の活動を支援してもらう計画である。可児市文化創造センターという劇場は、いわば提供される資金を公共的なコミュニティ・サービスに変換する「装置」であると考えている。
企業メセナとブランド創造。
フィリップ・コトラーは1996年に発表した『How the Arts Can Prosper Through Strategic Collaborations』で次のように述べている。「創造都市」にも関連する考え方である。
企業は支援と引き換えに、自社の戦略目標に有利な見返りを得られると心得ている。芸術を支援する企業はよき市民であることを対外的に示せると同時に、イメージ・アップにつながる。地元の生活の質的な向上に貢献し、顧客や社員に善意の輪を広げる効果もある。しかも文化的なコミュニティが育まれれば、雇用や採用にも好影響が生じるばかりか、教育水準が高く優秀な人材の定着にも有利だ。(略)芸術の後援にはこのような多面的な効果が期待できるため、芸術団体とのコラボレーションをフィランソロピーではなく、マーケティング予算に組み込む企業も少なくない。
企業メセナの成果としての「社会貢献の一環として」、「地域社会の芸術文化振興のため」は確かに企業サイドのブランディングに一定程度は寄与していると思われる。ならば、もう一歩踏み込んで、戦略的コラボレーションと互恵的マーケティングの一環としてメセナ活動を設計できないだろうか、と思うのだ。
あわせて、劇場・ホール、芸術団体も、企業との連携を、資金や人材の提供をしてもらうという捉え方から、企業のブランド力(社会的信頼)を活用して、お互いの戦略目標を達成するようにゴールを設定し、協働するかたちにシフトすべきだと思う。そのような横型のパートナーシップを形成できないだろうか。協働する企業とのコラボレーションによって「新しい価値=ブランド」をつくる設計が企業メセナにおける今後の課題ではないかと思う。
その点でルツェルン国際音楽祭における音楽監督ミヒャエル・ヘフリガーの仕事は注目に値する。スイスの中央部にある小都市であるルツェルンはウイリアム・テル伝説の史跡のある観光都市で、1938年に反ナチスの音楽家たちによって創設された伝統のある音楽祭が開催されている。この音楽祭が大きく舵を切ったのが、音楽監督にジュリアード音楽院を卒業したヴァイオリニストで、その後ハーバード・ビジネススクールを修了してMBAを持っているミヒャエル・ヘフリガーが就任した1997年のことである。
就任してすぐに彼のやった仕事は、音楽祭自体のビジョンとアイデンティティを創ることであり、そのために音楽祭のプログラムでの現代音楽の比重を一気に高めることだった。それとあわせてスイスを代表する世界的企業にコラボレーションを申し入れた。それも実に戦略的な支援要請である。「スポンサーすべてが現代音楽をサポートしてくれるわけではありませんが、たとえばロシュの場合、革新的な新薬を開発する製薬会社であり、その考え方が、われわれの革新的な試みとマッチした」という具合である。
ほかにクラウディオ・アバドを中心に再興されたルツェルン祝祭管弦楽団には世界的食品産業ネスレが支援をし、若手音楽家の顕彰と事業の後援にはクレディ・スイス銀行がメセナしている。この見事なマッチングには驚かされる。企業の経営戦略とプログラムが鮮やかにコミットしているのである。「単なる資金の提供者ではなく、企業の戦略とどう共振させていくかが重要なのです」。ミヒャエル・ヘフリガーの言葉である。あわせて「(熱狂的な聴衆の)期待に応えなければならない。同時にスポンサーの企業イメージの向上にも役立たなければならない。そのためには、やはり芸術的なレベルを最高なものにしなければなりません」と話の穂を継いだ。
当たり前のことを当たり前に言っているのだが、見事な捌き方である。ルツェルン音楽祭は、世界的企業と提携することとプログラムのおもしろさと革新性が相まって、世界的な音楽祭としてのブランディングに成功した。まさに企業とフェスティバル側(芸術団体)が相互にコミットすることでWIN-WINの成果をアウトプットした好事例である。